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なんでもある日

作者: towa






寝返りを打って仰向けになった瞬間、「はっ」と目を覚ました。

特徴的なタレ気味の目を見開いた先の視界は黒一色で、辺りはまだ夜が明けきらぬことを知らしめている。

呆然と自分の状況を整理しようとしてそれが上手くいかないことに気づくと、眠気など勝手に遠のいていった。

なにしろ心臓は不自然にどくどくと脈打ち、変に息が荒くなっているし、なぜかかーっと顔に熱が集中して鼻の付け根の奥がツンと痛んでいる。異変が起きたのは明らかだ。

起きあがろうとして、ふと股間に急に違和感を抱く。

下着が濡れている。

愕然とした。

それまで以上にかっと顔が熱くなって、鼻からぬるりとした液体が漏れ出てきた。鉄の匂いがする、おそらく血だろう。

壊れかけの扇風機からの微々たる送風が汗ばんだ体を撫でたが、冷めるはずもない熱が身体中を暴れ回っている。


「ウソやろ……」


それは、忘れられるはずもない衝動の目覚め。


秋良高馬、12才の始まりの季節。

初夏のことだった。







ーーーガコン!


自動販売機の取り出し口に落ちてきた缶ジュースを素早く回収し、その場でプルタブを開ける。

練習続きで干上がった喉はすぐさま水分を欲してゴクゴクと音を立てて胃の腑へと送った。

生き返った心地だ。


「お前さー、よく練習のすぐ後に炭酸飲めるな」


感心とも呆れともつかない声をかけてきたのは、クラブで秋良の右腕的存在の九山翔だ。自身は家から持参したスポーツ飲料で喉を潤し、道端の縁石に腰を下ろしている。

フン、とそれを横目で見て「人の勝手やろ」と取り合わない秋良は、自動販売機に背中からどっかと寄りかかった。

じりじりと肌を焼く6月の太陽は午後3時を経てもその威力を弱めることなく、あたりを熱気で埋め尽くす。さきほどまで汗だくになって体を動かしていた身にはきつく、たとえ1缶水分を補給したところで間に合いそうにはない。

だが少年たちは、今しがた終えたばかりの、悔しさの滲む結果となった練習試合の反省会をやめようとはしなかった。

やはり練習量が足りない、ポジションが合わない、意識改革すべきだ、などなど、時には喧嘩を交えながらも2人は心ゆくまで今後の傾向と対策を話し合った。


「そういや、今日、来てなかったな」


会話がやっと途切れた時、何気ない調子で翔が言った。

秋良は飲み終わった空き缶をゴミ箱に入れる所だった。


「誰がや」

「いや、ほら、七倉」


ぎくりと不自然に体が強張った秋良に気づく様子もなく翔が続ける。


「昨日、お前と七倉で試合の場所の話してたから、オレてっきり見に来るかと思っててさ」


秋良は、カラン、と乾いた音を立てて捨てられる空き缶を見ていた。


「まあでも、七倉って別にサッカー好きなわけでもないしな。見に来る頻度もマチマチだし……って、高馬?」


まったく反応しない秋良をさすがに不審に思ったのか、翔はその肩にポンと手を置いた。

ハッとして振り返ったその顔は珍しく動揺をあからさまに浮かべていて、翔にまでその動揺が伝播するほどだった。


「あ、あいつはどーせピアノ教室やろ」

「そ、そっか。ってーか、どうしたんだよ、なんか態度ヘンだぞ?」

「……」


いつも不機嫌そうではある秋良だが、それに輪をかけて今は顔が強張っている。飄々とした所のある友達の、これほど分かりやすく動揺する態度を見たのは翔にしてもはじめてのことで、戸惑いを隠せない。


「別に……お前かて、花守がおってもおらんくても気にせんやろ。なんで今あいつの話すんねん」

「な、なんでそこで陽子が出てくんだよ。オレはただ、……」


花守陽子は九山翔の幼馴染で、同じクラブに所属している仲間でもある。いつも秋良を目の敵にしており、実力が伴わないにも関わらず九山と秋良にライバル意識を燃やしている少女だった。普段なら2人と一緒に行動している花守だが、今日は家の用事との理由で試合後早々に帰っていた。


「あっついなー」


翔が言葉を詰まらせたのを見届けて秋良は大きな声で言った。

空を見上げるその顔に、もう動揺は見受けられない。


「なぁ、勝負せんか?」

「なんの?」


秋良がそんな吹っかけをするのが珍しく、翔は目を向いた。試合でも冷静に戦局を組み立てるタイプで、時には翔達に叱責することもままある秋良は、良くも悪くも常に一歩引いた所から自分達を見ていることが多かった。


「こっからお前んちまで走って、早く着いた方が勝ち。負けたらジュースおごれや」

「はあ!?ここから俺んちまでって、どんだけあると思ってんだよ」

「やかましい。日々これ特訓や。手加減せんぞ」


カカカ、と笑った秋良はもういつものいけ好かないやっかいなライバルに戻っている。

翔にしても、さきほど感じた些細な違和感などもう頭の隅にもなかった。こんな調子なので相棒として機能している2人と言える。


「ジュースって、何」

「ソーダ系で」

「またかよー」


呆れ返った翔の声が響いたのを皮切りに、2人は不毛な勝負に身を預けた。







すっかり服としての機能を失ったユニフォームの上着を脱ぐと、ヒタっと嫌な音をたてて畳に落ちた。下半身も言うに及ばず、全身汗みずくの不快さを拭い去ろうとタオルを濡らす。

今日も今日とて父親は帰っていない。

どうせ深夜を過ぎるだろうとアタリをつけ、秋良は素っ裸になって汗を拭き始めた。

帰り道の突然な勝負はタッチの差で秋良が勝利を収めた。悔しがる翔を揶揄って別れを告げると、アパートまで戦利品を飲みながら歩いて帰ってきた。翔の家は酒屋なので訪れるといつも何かをお土産にくれる。それを分かっていて吹っかけた勝負だった。

あらかた体を拭いてしまうと、時刻は5時を過ぎようとしている。体の疲れ具合から夕飯の前に銭湯へ行った方が良いと判断をして、準備をしていた時だった。

玄関から、控えめなノックの後に「秋良?」と聞き慣れた声がして、秋良は無意識に体をこわばらせた。

確認せずとも、それは隣の家に住む同じクラスの少女に違いない。

秋良は素早くちっと舌打ちして、一瞬、居留守を使おうかどうか迷った。

けれど、「いないの?」と不安そうな声を耳にした時、はーっとため息をつきながら玄関に移動していた。


「なんの用や」


ガチャリと扉を開けると、はたしてそこには予想通りの人物、七倉みどりが、大きなタッパーを抱えて所在なげに立っていた。


「……なーんだ、いるんじゃない。返事くらいしてよ」


拗ねるような響きの声とは裏腹に、その顔には不安そうな表情がありありと浮かんでいる。

心当たりがないわけではない秋良は、それに気づかぬフリで「寝てた」と嘘をついた。


「入ってもいい?」

「俺今から銭湯やで。ほんで、何やねん」

「これ、お裾分け。お母さんから」


そんなやり取りは、ここ1年近く何度となく交わされてきたものだ。今更目新しくもない。


「肉じゃがか?」

「んーん、牛すじ煮込み」

「豪勢やん」

「前にウチに来た時、テレビ見て盛り上がってたの、覚えてたからって」


確かみどりの家で料理番組を見て、父がお土産に買ってきたことがあるという話題になったのを思い出した。

秋良はテレビを見ても普段ほとんど反応しないので、みどりの母も記憶に残していたのかもしれない。

何かと秋良家の食生活を気にしている節があるみどりの母は、自身も仕事で時間がないにも関わらずこうして頻繁にみどりを使いによこす。

最初は少しわずらわしかった秋良も、今では躊躇も見せずありがたく受け取ることにしている。

「育ち盛りなんだから、いっぱい食べなきゃダメよ!」七倉家を訪れるたびにそう言うみどりの母は、みどりそっくりの笑顔で強引に夕飯に誘うのだ。お裾分けを断るとそれがなお顕著になるので、たまったものではないと、秋良はいつしか必ずもらうようになった。


「移し替えちゃうね」


そう言うと、みどりは台所の食器棚から適当な器を見つけてタッパーの中身をあける。

これもまた見慣れた光景だ。

今日のみどりは、パステルカラーのTシャツにベージュのキュロットパンツという、比較的女の子らしい格好をしている。

アクティブなコーディネートを好むみどりには珍しく、秋良はなんとなく全身を確かめるように眺め回していた。


(そもそもコイツ、顔立ち的にはこういうのんが似合うしなぁ。まあ、気にしたことなさそうやけど)


自分だってそれほど服装など気にしたことはないのに、今日に限っては考えずにはいられない。

みどりを、あまり女の子として見ようとしてこなかったので、今日の明け方から今に至るまで、秋良は脳をフル稼働してガラにもないことを延々と悩んでいた。


(みどりやぞ?女っちゅうんは、もっとこう……せや、上の部屋のネエちゃんみたいなんがそうやんけ。こいつなんぞ……)


上の部屋のネエちゃんとは、秋良をたまにお茶に呼んでくれる大学生の住人だ。

見かけは冴えない方だが、気が効くし優しいし、話し上手だ。きょうだいのいない秋良に姉の憧れを抱かせる存在でもあった。

だが、秋良は彼女に対して憧れのようなものはあるものの、異性として意識するかと言われれば唸るしかない。年が離れていることもあるかもしれないが、それだけでない要因もない気がしないでもない。


「ねぇ、秋良。……今日のこと、怒ってる?」

「はあ?」


まじまじと見ていたら、しゅんとした顔が振り返ったので、秋良は急いで目を逸らした。


「ピアノ教室サボろうとしたこと」

「あぁ……」


みどりが今日の予定を急遽変更したことは、今朝方電話で聞かされていた。

わざわざ知らせるほどのことでもないのに、妙な所で義理堅いため「試合見に行けなくなった」と馬鹿正直に伝えてきた。

少々気落ちしたのは確かだが、秋良ののっぴきならない事情も手伝って助かったと安堵した気持ちの方が大きかった。そもそも、翔が言ったようにみどりは前から全ての試合を応援に来る方でもない。こんなに秋良の反応を気にしているのは、彼女が見に行けなくなった理由の方にあることは明らかだった。


「俺が怒らなあかん理由ないやろが。お前が決めたことやろ」

「うん……」


電話でちらっと聞いただけだが、どうやらみどりは秋良の練習試合を理由に挙げてピアノ教室をサボろうとしていたらしい。

それが母親にバレて、泣く泣く試合見物を断念せざるを得なかったようだ。


「呆れるよね。秋良も翔くんも陽子ちゃんも、みんな試合に向けて一生懸命なのに、私はそれをサボりの口実にしようとしてたなんて」


泣き笑いのような表情を浮かべて俯くみどりを見て、秋良は肩をすくめた。

みどりが前からピアノ教室が好きでないことは分かっていた。そして、それを彼女が後ろ暗く思っていることも。


「試合なんぞ、この先なんべんもあるわ。そもそもお前がサボろうとしたことなんぞ俺ぐらいしか知らんし、気にすることあらへんやろ」

「そういう問題じゃないよ、私が自分を許せないんだもん」

「ほんなら、なおさら俺に関係ないやんけ。うっとうしいから暗い顔すな」

「ひどーい」


恨みがましい視線を向けられて、秋良はちょっとほっとした。

本格的に落ち込んでいるわけでもなさそうだ。


「大体、翔も花守も、俺かて、ただ好きでやってるだけや。それとお前の習い事、同列にする必要ないやろ」

「うん。でも……」


好きでやっているのと、やらされているのは違う。

みどりがなぜあまり好きではないピアノをやめないのか分からないが、生真面目な彼女のことだ、それなりに理由はあるのだろう。

秋良にはそれを責めるつもりなど毛頭ない。


「試合、勝った?」


暗くなった雰囲気を払拭するような空元気の声が響いた。

みどりの中でその問題はまだ決着がついていないようだが、これ以上秋良と共有するつもりはないらしい。


「負けたわ」

「そっか。残念だったね」

「まあ、ただ負けて帰ってきたわけでもなし、次は絶対勝つ」

「うん、そんときは見に行くね」


そこで、みどりはここに来て初めて笑顔を見せた。

秋良は突然、見てはいけないものを見た気になってバっと顔を反らす。

床に放ってあった銭湯の道具を見つけると、「ほんなら俺銭湯行ってくるし」と言外にみどりの帰宅を促した。


「あ、ごめん、そうだった。じゃあこれ、あとで食べてね」

「おお、オフクロさんに礼言うといてくれ」

「うん。あ、秋良」

「なんや?」


玄関で靴を履き終わったみどりは、こともなげに振り返って言った。


「なんなら、ウチでお風呂使う?」







切りすぎたかなぁ、と、短くなった前髪を気にしている顔が眼前に映る。

細い指先でサラサラと梳いた髪が、陽の光にきらめいて揺れていた。

確かウチで、宿題を手伝ってもらっていた時のことだ。

柔らかで色素が薄いみどりの髪は、ボブのショートカットというボーイッシュな髪型にも関わらず、甘い顔立ちの彼女によく似合っていた。

気にしすぎだ、と伝えると、ほんとに変じゃない?と何度も確認してきたのがくすぐったかったのを覚えている。

色白で優しい顔立ちをしているみどりを見ていると、時々、はっとするほど造作が整っていることに気づくことがあった。

きまりが悪くなって忘れるフリ、知らないフリをするが、心の奥底で像を結ぶ時、その優しそうな可愛らしい顔立ちをいつも思い出していた。

誰にも知られたくない秘密だった。

みどりは、秋良には勝気な態度を取ることも多いが根本的に優しい人間性だ。

実際、秋良以外の友達に怒っているところなど見たことがないし、彼女をして勝気だとか男勝りだとかいうクラスメイトなど1人もいないだろう。

そういう性格なら、花守陽子の方がよほど合っている。

秋良にしても、普段は女らしくないとか可愛くないとか憎まれ口をきいているが、もちろん本心からそう思っているわけではない。

お節介で、お人好しで、秋良には少しだけ気が強くなるみどり。

本当はとても女の子らしくて、優しくて、可愛い。


気付かなかった。

いや、気づきたくなかった。


伸びてきたね、今度切ってあげようか。そう言って、てらいなくこちらの髪に触れてくる指先がほんの少し怖くなって、体が震えたーーー。




「オゥ、高坊、それ以上入ってると茹で上がんぞ!」


顔馴染みのオッサンが揶揄うように湯から上がったのを横目で睨んで、秋良はブクブクと顔を半分ほど湯船に沈ませた。通い慣れた銭湯の常連客は、いまやほとんど秋良の顔見知りだ。おまけに、秋良のように親が同伴しない子供は珍しいらしく、必要以上に構い倒されることが多い。ちゃっかりしたもので、そうした自分のアイドル性を利用すればおこぼれに預かれると知る秋良の外面はいい。自然と可愛がられる存在になった。


「高ちゃん、まーた親父さんどっかで呑んでんのかい?」

「知らんわ。帰ってけぇへんのやからそうちゃうか」

「かーっ、ドライだねぇ。おじさん、息子にそんなこと言われたら泣くぞ」

「いやいや、高ちゃんくらいしっかりした子が息子なら、お父さんも鼻が高いだろう」


自身も小学生の息子を持つ二人のおじさんは、何かと秋良を気にかけてくれる客だった。どちらも単身赴任中らしく、見かけたら必ず構われるのは息子を思い出しているのかもしれない。


「それにしても、早湯の高ちゃんがこの時間までいるのは珍しいね。なんかあったか?」

「別に、なんもない」


烏の行水のごとく10分かそこらで上がることも多い秋良の風呂事情を知る者なら驚くほど、今日は長く湯に浸かっている。

健康的に焼けた茶色の肌の上にはいくつも汗が浮き、湯当たりを心配したオッサン達が上がるように促した。


「そういう気分のときもあるわ。放っといてんか」

「ほう……もしや、悩みでもあるのかい?」

「お、なんだなんだ?高坊もお年頃かー?」


図星を刺された秋良は、両手を組み合わせて中にお湯を含むと、空気で押し出すようにしてオッサンらに向けて放った。


「わっぷ!わ、分かった分かった!もう上がるからやめてくれ!」

「ははは、高ちゃん、好きな子でも出来たか」

「なんもないて言うてるやろ」


なおも水鉄砲で攻勢に出る秋良の剣幕に負けたオッサンらは、今度こそ上がっていった。

チッと舌打ちをした秋良は、赤い頬をまた湯船に沈め、我慢の限界に達したところでざばーっと勢いよく立ち上がった。まだ不自然に顔が赤い気がしたので、普段滅多に近付かない水風呂へ足を伸ばす。恐る恐る足を浸してあまりの冷たさに背中を震わせ、いくらもしないウチに退散した。こんなことでもし体調を崩したらそれこそ格好がつかない。

それでも落ち着かなくて、水に近い温度のお湯を桶に溜めては全身に浴びせかけると、ざわついていた心の内がいくらかマシになった気がした。

もうさすがに赤くないやろ、鏡の向こうにはいつも通りの仏頂面が映っている。

ようやくホッとして、脱衣所へ向かった。


顔見知りと話しながら着替え終わった秋良に、帰り際声をかける者があった。


「高ちゃん、オバチャンのおごりだ、そこのモン好きなの持っていきな」


番台のオバチャンだ。

気まぐれで、秋良はこうして時々透明の冷蔵庫に入っている飲料類の御相伴に預かることがある。

迷わずコーヒー牛乳を取るはずが、今日はなんだか気分じゃない。

さまよった手は、下段にあった茶色い瓶のビタミンドリンクを掴んでいた。


「オバチャン、おおきに」


瓶を掲げて礼を言うと、オバチャンは少し目を見張って言った。


「おや、今日はコーヒー牛乳じゃないのかい」


秋良は大体いつも同じものを選んでいたので意外に思ったらしい。


「飽きてきたところや。それに人気商品タダで飲んでもうたら、オバチャンもあがったりやろ」

「子どもはそんなこと気にしないでいいんだよ。好きなもの飲みな」

「今日の俺はこれでええねん。ほんなら、また」

「ああ、気をつけてね」

「今度掃除手伝いにくるわ」


おごってもらう代わりというのでもないが、秋良はそう申し出た。なんでも器用にこなせるので重宝がられ、時々頼まれていたからだ。少なくはない小遣いも貰えるため、割りのいいバイトに近い。


「高ちゃんはほんとにしっかりしてるねぇ。それじゃあ、人手がないときにでもお願いしようかね」

「任しとき」


先々世話になるのだから番台のオバチャンの心証が良くなることに越したことはない。

いつの間にかそうした世間での立ち回り方を身につけていた秋良は、大人相手なら多少渡り合える。


「けどそれも、アイツには通用せんのやな」


うまい立ち回り方など、少しも思いつかない。それどころか振り回されてばかりいる。思わずはぁっと溜息が出て、秋良は先ほど気軽に自宅の風呂をすすめてきた少女のあどけない顔を思い出していた。


(俺もいい加減気にし過ぎやろうけどな……半年前なら遠慮のうもろてたし)


とたんに、昨夜の所業を思い出しそうになった秋良は、顔を真っ赤にしながら走り出した。


(あああ〜〜!くそ!)


なんだか無性にムシャクシャした。

苛立ちでもなし、気持ち悪いのともちょっと違う。

何にも例えられないモヤモヤは、試合を終えて風呂に入ってサッパリした今も、まだ胸の奥に残っている。


(大人っちゅうんは、こういう時に酒飲むんか?酒で、この変な感じは、紛れるんやろうか……)


父親が四六時中酒浸りなのもそのせいだろうかと思い至った時、商店の軒先に貼ってあるポスターにふっと目がいった。

秋良は立ち止まった。

夏祭りを知らせる、花火の写真を背景にしたポスターだ。

ふ、と、いつかお隣の少女が口にした話題が浮かび上がってきた。


ーー夏になるとね、町の商工会でお祭りがあって、花火あげるんだ


あれはこれのことだったろうか、とマジマジポスターを見る。日付を確認したら、なんともう一週間もない。おそらくみどりも翔も、元からこの地に住んでいるので誰もが当然知っているものだと思い、話題に出さなかったのだろう。


ーー何年か前はね、私が喜ぶからってお父さんとお母さん、わざわざ仕事早く切り上げて連れてってくれたんだ


みどりは切なげな微笑をらしくもなく浮かべて、俯いていた。


ーー2人とも、今はもうそんなのとっくに忘れちゃってるけど


そこまで言って、はっとして顔を上げると、今度は申し訳程度の笑みすら忘れて、ごめん、と謝ってきた。

秋良は、何に対しての謝罪だったのか悟ってしまったから無言で居た。

少し腹が立ったが、それでも、その怒りをみどりの気遣いに向けるのは間違っているとなんとなく分かっていたからだ。

2人は時に、揃って子供らしさを忘れる子供だった。


(あいつが俺にムダな気ぃ使うんは、今に始まったことやないしな)


普通なら煩わしいはずが、みどりが相手だとその限りではない。いや、きっとこの街に来て、自分もどこかしら変わったのかも知れなかった。


(花火か……)


翔はまず参加すると見て間違いない。おそらく花守がそれについて来るだろうことも。

しかし、みどりは、どうだろうか。


秋良は握ったままだった空瓶を捨てると、しばらくその場に立ち尽くした。




***




「いらない、なんて、変なの」


正確には、いらんわ、そんなモン、と、かなり酷い雑言で突き返された。

前に雨に降られちゃった時はありがたそうにしてた癖に、と唇を尖らせる。


「ウチのお風呂、合わなかったのかな?」


お風呂上がり気持ち良さそうにしていたが、本当は不満だったのだろうか。秋良高馬というヤツは普段ぶっきらぼうなくせに妙なところでおべっか使いが上手かったりするから、本心がよく分からないときがある。かと思えば素直に思っていることを吐露したりもするし、七倉みどりにとっての秋良は、もっとも謎でもっとも身近になりつつある、特別な男の子だった。

そして、その特別の中に少しだけ甘酸っぱい感情が含まれていることも、みどりは無意識だが観念している。

だからこそ、今日のような失態続きの日は、今みたいにああでもない、こうでもないと、延々と巡る悩みの坩堝に陥ってしまう。


「誘い方がマズかったかな?でも、前だって普通に誘ったのに。……もしかしたら、やっぱりほんとは応援に行かなかったこと怒ってたとか」


そこまで考えて、秋良に限ってそれはない、と引き返す。気難しいところもままあるが、基本的にはサッパリした気性の持ち主だからだ。そう考えると、雑言を返されたといえ、果たして本当に怒っていたのだろうかと、根本的な疑問へ行き着いた。投げ捨てたセリフの割には、なんだか逃げ出したような素振りだったな、と思い返し、ますます不審がる。そう、どこかしら、戸惑っているかのようなーーー。


「秋良が私に戸惑う?……ナイナイ、そんなの。秋良らしくないし」


否定するも、どこか引っかかるみどり。

そもそも、今日の秋良、なんか全体的にオカシくなかった?

どこがどうとは詳しく言えないが、妙にソワソワしていたし、あれはただ早く銭湯へ行きたいからかと思っていたが、そうではなかったのだろうか。


悶々としていたら、階下から言い争うような声が聞こえてきて、みどりははっとした。

また始まった、とウンザリしてベッドへ潜り込む。


ーーー本当は出張だなんて嘘なんでしょ?前に家まで送ってきたあの若い女とどっか行く気なんでしょ。知ってるんだから

ーーーいい加減にしてくれよ。課長に昇進してから出張が多くなったことはお前もとっくに了承済みだろ、蒸し返すなよ

ーーー信用できないから蒸し返さずにいられないのよ。

ーーーじゃあ言わせてもらうけどな、そっちだって残業続きで泊りがけになるとか、俺から言わせれば怪しいもんだけどな

ーーー言い訳出来ないからってこっちへ矛先向けるとか、最低よ

ーーー俺ばっかり信用落ちてるわけじゃないって話だよ


しまった、算数のドリルの宿題がまだ終わってない、と気づいたみどりだが、階下のケンカは軽くあと1時間は続くだろう。布団の中で小型ライトを駆使して終わらせる方法もあるが、一度布団から抜け出した時にイヤな言葉が聞こえてきたらと思うと、動くのも億劫だった。


「明日の朝、遥ちゃんに見せてもらおうかな」


早起きがニガテなので、登校前に終わらせることは出来そうにない。それならばとクラスで1番の秀才である西田遥に見せてもらった方が良いかと考えたが、前にそうした時に見返りとして西田の嫌いな男子の情報を寄越せなどと言われ四苦八苦したことを思い出した。そうなるとみどりとしては、西田に見せてもらうよりは奥の手を使った方が良いと判断した。

(そろそろかな……)

みどりは被っていた布団からばっと抜け出して起き上がると、耳を塞いだまま階段を駆け降りる。

両親の罵り合いは束の間止んで、リビングに顔を出したみどりを、先ほどの喧嘩など無かったかのように2人は迎え入れた。

だいぶ見慣れてしまった光景だ。


「ああ、みどり、どうしたの、お菓子でも食べる?」

「い、今ちょうどみどりを呼ぼうと思ってたんだ、ほら、父さんが出張先から買ってきたお土産」


顔が強張って引きつっている2人を横目に「水を飲もうと思って」とそそくさとコップに水を注ぐ。愛用の、可愛い子鹿が描かれているそれは、以前秋良から譲り受けたものだった。

みどり、と呼びかけ引き留めようとする両親を無視して、階段を駆け上がった。

とりあえず戦いは一度小休止。

これで、宿題を終えるまでくらいの間は食い止められたことだろう。両親の喧嘩は、ここのところ毎日のようにみどりを苛んでいた。

本当は喧嘩の内容など聞きたくないのだが、みどりが止めない限り収まらないし眠れなくなってしまう。それだけは嫌だった。

(あーあ、秋良にはピアノ教室サボったのバレちゃうし、お父さんの出張帰りは今日だし……最悪の日)

暗い部屋のドアを開け、布団に再度逃げ込もうとした時だった。

コンッと、窓に何か当たる音が聞こえた。

あっと思ったみどりは、音がした出窓の方へ駆け寄り、急いでカーテンを開ける。

果たして下方には、月明かりに照らされた秋良高馬が立ってこちらを見上げていた。

みどりの心は瞬時に上方修正する。

我ながら現金なものだと呆れ返ったが、夕方の態度が帳消しになると思うとどうでも気持ちは上向くのだった。

ガラガラと窓を開けて、


「秋良!」


弾んだ声をかける。

秋良は若干不機嫌そうにポケットに片手を突っ込むと、右手で地面を2度指した。降りてこいという合図だった。

みどりは一も二もなく部屋を出、抜き足差し足でリビングを通り過ぎる。

シンと静まり返った部屋の想像をかき消し、秋良の元へと急いで向かった。







秋良は、綻んだ顔でこちらを見たみどりがそうっと寄ってくるのが、まるでスローモーションの様に見えていた。

嬉しそうな様子は、キラキラと近くの街灯に照らされた瞳の光で杳として知れたこと。

夕方の別れ際、照れ隠しのように荒げた態度を思わず後悔してしまうほどの喜びようだ。何がそんなに嬉しいのか、パジャマを着たみどりは近くに来ると弾んだ足取りで秋良に走り寄った。

夜目にも分かるほど、意外なほどファンシーな柄のパジャマを着ているみどりは新鮮で、それでいてこちらが戸惑うほど機嫌が良さそうなので、思わず秋良は顔を逸らしてしまう。


「珍しいね、こんな夜中に!どうしたの?」

「そっちこそ、どんだけ元気やねん。寝る前ちゃうんか」

「ヤなことあったけど、秋良がいいタイミングで来てくれたから吹っ飛んじゃったの!ありがと!」

「なんやそれは……」


どうやら良い塩梅に彼女のご希望に沿っていたらしい。だが、これで切り出しやすくなるというもの、秋良はポケットに突っ込んで掴んでいたものを今だとばかりにみどりに差し出した。


「なにこの紙?……花火、大会?あっ!商店街の!」


街灯の頼りない明かりでも花火の文字はデカデカと見て取れる。

わざわざ翔の家に行ってもらってきたチラシを差し出したまま、秋良は告げた。


「七倉、花火見んで!特等席でな!」

「いいけど、どしたの、急に?」


突然の宣言に、みどりは少し訝しんでいる。そんな戸惑いを気にせず秋良はさらに誘いをかけた。


「翔や花守にも言うてきた。あいつら誘えば行きやすいやろ」

「うん、楽しそう!でも、意外だね、秋良がお祭り好きだと思わなかった」


案外すんなりと乗ってくれてしめしめと思いながら、みどりの好奇心を煽る。


「お前ん中の俺はどないなっとんねん。あんな、夏やで?花火見んでおられるかい!ちゅうわけで、一番ええ席見つけんで。お前も付き合えや」

「それなら私、いい場所知ってる!」

「混むようなとこはあかんで。ほんまに一等ええ席やろな?」

「うん、自信ある。へへー、秋良より情報網少ないけど、地元民の土地勘にかけては勝ちだもんね」


ブイ、とピースサインをするみどりは、来たときよりさらに弾んだ声で嬉しそうに笑った。秋良はそれを見てちょっとほっとしながら、自身もみどりの提案と態度に沸き立つ喜びを抑えられそうにない。サッカー以外でのそんな感覚は久方ぶりだった。


「そしたら、明日の放課後、お前の知っとるエエ席集合な。翔と花守にも言うとくわ」

「うん、分かった。……ふふ、みんなで花火かぁ、楽しそうだなー!」


秋良は、あらかじめ用意してきたボールペンでみどりに簡単な地図をチラシの裏に書いてもらい、「オヤスミ」と七倉家を引き上げた。思った以上に成果は上々だ。

これで当日、本当にいい席でみどりや翔達と花火を見られたら、秋良にとっても忘れられない夏になりそうだった。

12才、最後の夏。

ふと、秋良はさっきスローモーションの様に映ったみどりの姿を思い浮かべようとして……

やめた。

もし、昨日の夜明けを付随して思い出してしまったら、今感じているこの高揚が台無しになりそうな予感がしたからだ。


(今考えても、昨夜のアレは12年生きてきて1番の汚点や。忘れろ、忘れろや、俺の脳みそ!)


顔をかーっと熱くさせながら、秋良はアパートの自室へと駆け込む。そろそろ親父を酒場から引き摺り出す時間かと、熱くなった顔を冷ますように水で顔を洗って、また外へと駆け出していく。

濡れた顔を吹き抜けて行く生ぬるい風が、今夜も熱帯夜になりそうなことを告げていた。







秋良たちの住む時沢町には、地元民にとっては庭の如く知り尽くされている小高い山がある。みどりが教えてくれたのはその山の中腹にある見晴らし台のような場所だった。時沢町を一望できる上、子供でもすんなり登れるくらいの小さな山なのでちょうどいいといえばちょうどいい。しかし、これでいて慎重な性格の秋良は、子供達だけで暗い山道を登ることに少しだけ懸念を抱いた。そんな秋良を「地元の子供達なら皆赤ん坊の時から登っているような分かりやすい山だ」と、みどりと翔達は説き伏せた。実際、下調べに秋良とみどりと翔と花守で登ってみたら、呆れるほど簡単に登れる場所だった。これでは穴場にはならないのでは、とまたも別の心配事を浮かべた秋良に、みどりも翔も花守も、商店街で行う川べりとは逆方向だから、来る人は少ないだろうと地元民ならではの推理をしてみせた。それならと、花火当日の7月5日、この見晴らし台で、と約束して、一行は下見から帰路に着いた。

帰り際、みどりが少しだけ浮かない顔をしていたことに気づいた秋良だったが、知らないふりで別れた。

なぜなら、秋良は、花火をみどりに見せればすべて解決するはずだという妙な確信を抱いていたからだ。それは、花火を一緒に見ようと誘いかけた時のみどりの嬉しそうな表情に繋がっていて、あの時のように、自分や翔や花守と楽しく花火を見上げれば、彼女の中のモヤモヤもすぐに吹っ飛ぶだろうと思っていたからだった。


そうして訪れた、7月5日の花火大会当日。

約束の時間の18時30分に、秋良は憤慨しながら小山の麓に1人で立っていた。


「なんっで誰も来ぉへんねん!」


律儀な秋良は15分前から立っていたものの、眼前に人っ子一人見当たらない。

どうしたことかと、イライラしながら待つこと3分。

みどりが、ようやく小走りで丘を登ってくるのを見つける。

ほっとする傍ら、つい声が荒っぽくなった。


「遅いわ!5分前行動やろが!」

「ごめん、出てくる時に少し色々あって……」


近寄ってきたみどりは、また、あの別れ際のような浮かない顔を見せていて、気勢が削がれる秋良。

ごまかすように「翔と花守は何をしとんねん」と別の方向に怒りを向けた。

そろそろ山際から明かりが少なくなってくる。完全に日が落ちる前に見晴らし台まで登ってしまいたいのに、翔と花守の姿は10分経っても見当たらないままだ。どうしたことかと気を揉む秋良に、みどりがもしかしたら、と心当たりがあることを告げた。


「翔くんと陽子ちゃん、そういえば屋台も見に行きたいって言ってたような……」

「はあ?山やのうて会場の方に行ったんか?アイツら」

「来る前に少し見てこっちに来る予定が、何かあって遅くなってるとか……」

「アホらし。付き合いきれへんわ。ほんならみどり、もう行くで」

「え、でも翔くんと陽子ちゃんは?」

「アイツら、この辺は庭みたいなもんなんやろ?2人で登って来れるやろ」

「待たなくて大丈夫かな?」

「暗なる前に登るってこっちは言うてんねんで。約束守らんヤツらは置いてくわ」

「けど……」


まだ不安そうにしているみどりの手首を握って、秋良は「ほら、案内頼むで」と山へ促した。

こうして、予定外に、秋良とみどりは2人っきりで山へ入ることになってしまったのだった。







「ねぇ、やっぱり戻ろうよ」

「なんや、行きたないんか?花火の特等席」

「そうじゃなくて、陽子ちゃんと翔くん、待ってるかもしれないじゃん」

「あいつらかてガキやあらへんし、そのうち来るやろ」

「まだガキだって!」


戻ろうとするみどりと、足を進めようとする秋良。2人の攻防は歩きながらも続いた。やがて痺れを切らした秋良が、振り返ってみどりの様子を窺う。

そして、顔を見た瞬間、聞くまい聞くまいとしていた浮かない表情の理由を、とうとう聞いてしまった。


「……なんや、まだなんかあるんか。べっこの理由?」

「え?」

「お前ほんまは、なんやかんや理由つけて、行きたなくなっただけやないか?」

「ち、違うよ!」


即座にみどりは否定した、しかし、その表情は、やはり曇ったままだった。


「なら、そのぶすくれた顔なんやねん。ほんまはなんかあるんやろ?」


すると、みどりは、はっと驚いて、その次に泣き笑いの顔になった。


「秋良って、なんでそんなに色々お見通しなの?」

「……知らんわ、そんなん」


本当は、いつもみどりの様子を注意深く見ているからなどとは、口が裂けても言えない。


「……実は今ね、お父さんが出張から帰ってきてて、お母さんと、絶賛喧嘩中なの。さっきも、無駄な言い争いしててね、面倒だから放っておいてそのままこっち来ちゃった」

「やから少し遅れたんか」


こくりとみどりは頷いた。

その瞬間、頬に涙が筋を描いたのを、秋良は見逃さなかった。


「気になってるんやろ、ほんまは?親御さんらのこと」

「….…うん」


これ以上秋良に嘘をつくのは無理だと悟ったのか、みどりは、今度は素直に言った。

秋良はそれを見送ると、前を向いた。

そしてまた、みどりの手首を掴んで、


「行くで、みどり」

「秋良……」

「花火や、花火。ほれ、さっさと歩き」

「ちょ、秋良……!」


急ぐように促すと、みどりを山の中へと導いていく。土地勘は確実にみどりの方にあるのに、その足取りに迷いはなかった。


やがて、木立が切り開かれた場所が見えてくる。着いたか、と思ったら、暗くなり始めた夜空に、突然「ドン」と音がして、一瞬遅れて光が目に飛び込んできた。薄青に翳った夜空を彩ったのは、赤い花火だった。


「花火だ!」

「花火や!」


2人は同時に叫んだ。

そして、一歩前へ踏み出すと、「ドン!ドン!」と次々鳴る音に励まされるように、開かれた場所へ駆けて行く。

黄色、緑、ピンク、色鮮やかに夜空が彩られ始めると、2人は顔を見合わせ、笑顔になった。高揚した気分が、そのまま表情に出たのが2人して分かって、自然と笑いが込み上げてきた。


「はは!」

「ふふふ!」


派手な花火の空は、曇り空だったみどりの顔をも晴れやかに染め上げた。秋良はそれを見て、やはりこの顔には変えられないと、改めて思った。

だから、いつかの夜明け、見てしまったあの悪夢のようなみどりを、忘れてしまおうと、強く願う。

あんな、まるで普段のみどりとは別人のような顔のみどりをどうして思い浮かべてしまったのだろうと、首をぶんぶんと振って忘れようとするも、


(なんで忘れられへんのや)


そう簡単には消えてくれない。

隣のみどりはそんな秋良の心などつゆ知らず、花火に見入っている。

秋良はこの時、12才ながらに確信していた。

きっと、みどりなら、自分のような、あの悪夢の淫らな夢など見ないだろうと。


「秋良、私ね」


その時だった。


「多分一生結婚なんてしないと思う」


秋良の心を知らぬはずのみどりがそんなことを言ったのは、七色の花火が空を占拠した時だった。

美しい景色にはまるで似合わないそんな台詞がどうしていきなり出てきたのか、秋良は心臓をどくどくとさせながら次の言葉を待った。


「結婚なんてしなければ、私や秋良みたいに悲しい気持ちになる子が減るんじゃないかな?それに私、秋良とはずっと仲良しでいたいからさ」

「なんで別れる前提やねん」

「ふふ、だって秋良も私とは結婚したくないでしょ?」

「……」


秋良は答えなかった。

答えられるはずもない。

思った以上にショックを受けていたからだ。

だが、それはつぎの言葉で覆される。


「だって私、秋良のこと特別な男の子だって思ってるから」

「特別?」

「大好きだってことだよ」


秋良は、告白ではないと、ちゃんと分かっていた。

それでも照れずにはいられなくて、「ななな何を突然小っ恥ずかしいこと言うとんねん!」とツッコんでしまう。関西人の悲しい習性である。


「ごめん、でも言っておきたくて」

「七倉、それ、誰にでも言うたらあかんで。俺やなかったら勘違いしとったぞ」


今正に勘違いしそうになっているのを置いといて、秋良は熱くなった顔を逸らしながら言った。


「誰かに言う訳ないじゃん。秋良だけだよ。だって、今ここにこうして、秋良と2人で花火を見てるのが証拠だよ?私をちゃんと見ててくれたから、花火、誘ってくれたんでしょ?」

「さァな……」


すっとぼけたが、うまくいかない。

さっきのみどりの告白がまだドキドキと心臓を高鳴らせているからだ。みどりはそんな秋良をお見通しなのか、薄く笑ったまま、さらに告げる。


「本当なら今日ってなんでもない日だったのに、すごく特別な日になっちゃった。秋良のおかげだね」

「せや。感謝せぇ。なんかおごられてもエエで」

「イカ焼き?焼きそば?かき氷?」


はしゃぎ合いながらも、秋良はこの時、切ない気持ちにもなっていた。


(俺はな、みどり。毎日やで)


秋良の日常から、なんでもない日がなくなったのは、みどりと出会ってからだった。


(お前とおったら、俺には毎日、『なんでもある日』や)


言葉にしてしまったら、うまく伝わらない気がして、秋良はそれをみどりには言えなかった。

一生結婚しないと言ったみどりを裏切ることになるような気もしたせいだった。

サラサラとしたみどりの短い髪を揺らして、生温い風が吹く。一瞬目を細めたみどりの顔を、秋良は、きっと一生忘れないだろうと思った。


(きれいやな)


花火よりも見とれていた。

いつか、宿題を一緒にしていた時、前髪を気にしているみどりを見たときも本当はそう思っていたのだ。

誰にも言えなかったその気持ちは、この先一生日の目を見ないだろうと、確信する。


結婚しないと宣言したみどりに、言えるはずもなかった。



「あー、高馬!七倉!お前らなんで待っててくれなかったんだよ」

「ちょっと翔、みどりちゃんは絶対秋良くんの言いなりだっただけだって!」


その時、騒がしい声が2つ響いてきて、秋良とみどりは同時にそちらを向いた。

見ると暗い夜道を翔と、浴衣を着た花守が駆け上がってくるところだった。


「わー、陽子ちゃん、浴衣可愛い!」

「みどりちゃんこそ、今日はいつもより女の子っぽいカッコしてるね!可愛いよ!」

「花守は分かるけど、七倉、なんか違うか?高馬」

「分かるかい!いつもとおんなじやろ」

「男子ってほんっっとダメだねー。普通気づくよ?」

「陽子ちゃん、あの2人に期待しても無駄だって」


クスクス笑い合う花守とみどり。

完全に女子と男子に分かれてしまったが、それでも秋良は満足していた。

みどりの親御さんの問題も、それ以外の問題も、きっと秋良に解決できることはないだろう。

けれど今日のように、なんでもない日をなんでもある日にしてあげられることはできる。

それが分かったからだ。

一生結婚しない宣言には落ち込んだものの、その次の大好き宣言でプラマイゼロ。

秋良にとっての今日は、なんでもある日以上の、なんでもある日だ。


「秋良ーーー!露店行くよー!イカ焼き食べるんでしょー?」


気づけば、女性陣がもう食い気を見せて山を降りようとしている。美しい夜空を目にしていても、花より団子であるらしい。

秋良は、浮き沈みの激しい自分の気分を笑いながら、


「七倉、焼きそばとかき氷忘れとるで!」


と言い返す。


12才、最後の夏。


聞きたかった言葉と言えなかった言葉が、秋良を一つ大人にした。


(俺も、一生結婚できへんな)


そんな思いを抱えるのは、この何でもない日のなんでもある日のことからだった。











どうでもいい情報↓

秋良は秋生まれじゃありません。

みどりも春生まれじゃないです。

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