⑦ 甘美なお礼 ★
お互いに相手を疑っていた時と違い、一緒に一山乗り越えたことで彼女との関係性は変わっていた。
その最たるものは距離感である。
リヴァイポの森へ向かっていた時は馬車に同乗していてもそれなりに距離をとって警戒していたカエルムが、今では肩が触れ合うほどの位置に腰掛けるようになっていた。
二人であの危機的状況から脱出したという冒険が彼女からの信頼を得るきっかけになったのだろうと察することはできるが、その一部始終を知らない三人からすれば不思議な光景に映る。
おかげで、メアリーからは訝し気な目で見られ、サリーからも戸惑いの目を向けられる羽目になった。
もちろん、それに対する言及は少なくなかったが、のらりくらりと躱しながら離れようとしないカエルムによって彼女たちも渋々納得したといった感じだ。
また、彼女に触発されたのかサリーまで引っ付いてくることもあって、両手に花とはまさにこの事かと至福の時間を味わうことができた。
だが、そんな状況を快く思わなかった魔女はわざと悪路を走らせて邪魔しようとしてくることもあった。
そんな中、今回の一件も片が付いたことでカエルムを街まで送り届けることになり、俺たちは最寄りの街であるダブグレイに来ていた。
モーブまで引き返した方が良いのかとも思ったのだが、彼女も情報屋として一つの町に留まっているわけではないらしいので近場で良いという話にまとまった結果である。
「わー、おっきいねー」
街を覆う高い外壁の一角にある門をくぐると、外からは窺えなかったダブグレイの街並みが見えてくる。
思わず上を見上げたサリーの言うように、この街は他の町と比べても高い建造物が多い印象を受けた。
その中で白い外壁を使いながらも、そこから出っ張るようにベランダや窓を木材で造るという複合的な建築様式が数多く利用されている。
「ダブグレイはロッポンギー王国の都市の一つですからね。人も物もたくさん行き交いますから、自然と情報や技術も集まるのでしょう」
「へぇ、そうなんだ~」
「それはともかく、あなた情報屋なら馬車を泊められる宿で良いとこ知らない?」
「でしたら、値段もお手頃で質も良いと評判の宿はいかがでしょう? この先を右に曲がった通りにありますよ」
「良いじゃない、助かるわ」
「おいおい、随分簡単に教えてくれるじゃないか。俺が聞いた時はわりと出し渋ってなかったか?」
「それは…今とは状況が違いますし、結局この間の件では成果も得られなかったですからね。このくらいはサービスの内ですよ」
「…まぁ、そういうことなら良いか」
「んふふっ。ですから、そんなに邪険にしないで下さいね」
街へ入る際にまたフードを被ってしまったが、中身が美人だと分かっていれば対応も甘くなってしまう。
しかも、彼女の方から歩み寄ってこようとするので尚更だ。
「あ、そこですよ」
「じゃあ、ちょっと見てくるか」
「あっ、私も行くー」
メアリーが通りの端に馬車を停めると、名残惜しい温もりを振り切って宿へ向かう。
人気の宿であるほど満室になっていることが多いので、空振りであればまた別の宿を探さねばならない。
しかし、奇しくも空きがあったようで、もう日が沈みかけている街中を散策する必要は無くなった。
「すぐ見つかって良かったわ。やっぱり詳しい人がいると楽ね」
「いえ、お役に立てて良かったです」
泊まる場所も決まったことで、カエルムに続いてメアリーも馬車を降りて宿屋の主に手綱を渡していた。
「それで、私たちはここに泊まるけど、あなたはどうするの?」
「私は別の当てがありますから、お気になさらず。それに…」
「それに?」
彼女の視線は紛れもなく俺に注がれていた。
「この間助けて頂いたお礼もまだでしたから、二人で食事でもいかがですか?」
「あぁ…そういうことなら、是非」
大人の魅力溢れる彼女が口元に笑みを浮かべながら誘ってきたので、男としてあらぬ期待を抱いてしまう。
また、そんな淡い期待を孕みながらも、実際情報料として払った金貨1枚分がパーになっているので、その分を何かで埋め合わせでもしてもらわないと大損したままなのである。
あのリヴァイポの森の地下で彼女を助けたことも事実だが、さっきの言い分も考えると彼女自身罪悪感を感じている部分もあるのだろう。
ならば、その機会を設けた方がお互いの為になるというものだ。
しかし、それを理解してくれるのは当事者だけなようで、傍で見守る二人は呆れたり的外れな考えをしていた。
「…やだやだ。下心が見え透いてるわ」
「いいなー。私も美味しいご飯食べたい」
「あのねぇ、サリー…」
「え? なぁに?」
「はぁ…、まあ良いわ。私たちも美味しいもの食べに行きましょ」
「うん、行こ行こ。じゃあまたね、クロムくん」
「あぁ…。しかし、サリーはいつからあんな食いしん坊な感じになったんだ…?」
「んふふっ、何か太らない為の秘訣を探しておいた方が良さそうですね」
宿屋の前から立ち去る二人を見送っていると、別の声が頭に響いた。
〈あいつは最初からあんな感じじゃなかったか? わりと食い意地張ってたぜ〉
〈そういえば、そんな気もする…かも〉
〈さて、俺様としてはお前たちのお楽しみタイムも気になるが、クロはまだあの二人のこと気にしてるんだろう?〉
〈あぁ、まあな…〉
〈だったら、仕方ねえから俺様が監視しといてやるよ〉
〈悪いな〉
〈良いってことよ。それより、お前も上手くやれよ。にひひっ〉
カエルムの見ていないところでそっと荷物からプルを取り出すと、悪魔は暗がりの中へひっそりと消えて行った。
「そろそろ、私たちも行きましょうか。この先に良いお店があるんですよ」
「おっ、そうなのか?」
「はい。…でも、その前にお風呂へ寄っても良いですか? ここのところ、ずっと入れて無かったので…」
「あぁ、そうしようか」
旅の途中、河原で水浴びする程度のことはしていたが、男が一緒だったこともあってそれすらできない日々を送っていたのがメアリーとカエルムだ。
サリーは裸を見られることへの抵抗があまり無いらしく、俺がいても平気な顔をしていたがあれは例外なのだろう。
その証拠とばかりに、一度や二度裸を見られたくらいではメアリーがサリーと同じようになるわけではなかった。
それに、カエルムに至っては昨日今日出会った仲で旅に同行したので、そうそう迂闊に肌を晒すような真似ができなかったのも頷ける。
そもそも、素顔すら隠していたのだから、尚更である。
だから、彼女が数日ぶりにお風呂に入って身体をキレイにしたいと思うのは、女でなくとも至極当然だろう。
そこに下心を抱かなかったかといえば少し嘘になってしまうが、それも悲しい男の嵯峨といえよう。
「でしたら、まずはそちらに行きましょうか。クロムさんはこの街に来たのは初めてだと仰ってましたよね?」
「あぁ、その通りだ」
「では、私がご案内しますね」
「よろしく頼む」
「んふふっ、お任せください。仕事柄、記憶力は良い方ですから」
優しく微笑む頼もしい情報屋に連れられて通りを進み、徐々に宿から遠ざかっていく。
一々金を取られたら敵わないが、メアリーの言う通り彼女がいるだけでだいぶ効率良く街を歩けると実感する。
しばらく歩いて行くと、大きな風呂屋が聳え立っていて建物から湯気が立ち昇っているのも窺えた。
ただ、一緒に風呂屋へ来ても、中で男湯女湯と当然のように分けられているので、もちろん一緒に入浴できるわけではなかった。
いつものことながらそれが残念で仕方なかったと思う一方で、風呂屋へ立ち寄る度に全く同じことを口にしていた誰かさんの顔が脳裏を過ぎった。
久しぶりに風呂へ入るのは俺も同じだったこともあって普段よりも念入りに全身を洗ったが、別の淡い期待を孕んでいたのは言うまでもない。
気が急いていたこともあるのか、早くに出てきてしまった俺は完全に待ち惚けを食らっていた。
カエルムもサリーやメアリーと同じで入浴時間が長かったのだ。
もはや、これは男女の差と考えた方が良さそうである。
今か今かと待つ一方で、湯上り姿の彼女を想像すると焦らされる思いでいっぱいだった。
しかし、夜風に吹かれて風呂で温められた身体も徐々に冷えてくると、冷静になってその想像が間違いだったことに気づく。
彼女は街中にいる際あのローブで全身を覆いフードも深めに被っているので、偶然見てしまったあの美しい素顔を拝むことはできないだろう。
旅に出ている時は周りに誰もいなかったことから、一度見られてしまったことでフードは取っていたがこの人通りが多い場所ではそうもいかないというわけだ。
期待と落胆による温度差によって風邪でもひいてしまいそうな中、風呂屋の出入り口を眺めていたら艶やかな美女がゆったりと出てきた。
その女は容姿のみならずスタイルまで抜群で、自らの身体を誇示するように扇情的な服を着ている。
あまりの美しさから男女問わず周囲にいるものを釘付けにしていた彼女はキョロキョロと辺りを見回し、誰かを探しているようだった。
こんな良い女と待ち合わせしてるなんて、もしそれが男なら羨ましい上にけしからんと腹立たしい思いさえ募っていく。
そして、彼女はその待ち人を見つけたらしく、嬉しそうに駆け寄ってきた。
そう、真っ直ぐ俺の方に。
「お待たせしました、クロムさん」
「あ、え…カエルムだよな…?」
「はい、そうですよ。んふふっ、いつもと違う格好で見違えちゃいました?」
「いやいや、見違えるってもんじゃないだろ」
だんだん近づいてくる彼女の顔を見て確かに見覚えのある顔だと思いはしたが、予想外の姿で現れたのですっかり驚かされてしまった。
奇しくも先程思い描いていた考えを真っ向から否定するような格好で現れたカエルムは、全身をローブで覆い隠していた地味な姿と違い大胆に肌を晒して目立つ装いをしていたのだ。
「んふふっ、似合ってますか?」
「(谷間が…深いっ!)」
色気のある大人の女を体現するかのような黒いワンピースは、肩や胸元が大きく開いていて地肌の白さが際立っている。
一方、下のスカート部分は膝を隠すほど長いものの、脚の付け根近くまで切り込まれたスリットによって生足の白さを演出していた。
他にも、やらしくない程度にアクセサリーを身に着けて上品さを醸し出している。
総じて、ワンピースの黒と地肌の白のコントラストが眩しいセクシー且つエレガントな印象を受けた。
「…ごくり。すごく似合ってるよ。これ以上ないくらいに」
「んふふっ、そう言っていただけるとやはり着替えてきた甲斐がありましたね」
嬉しそうに微笑んだ彼女を改めて見ていると、しばらく待たされたことへの不満もどこかへ飛んで行ってしまうようだった。
「でも、良いのか…? そんな目立つ格好して…」
「あら、せっかくクロムさんとデートするというのに、あの格好では私としてもクロムさんとしても面白くないでしょう?」
「デートって…まぁそう言えなくも無いか」
「それに、この格好なら娼婦を買ったお客さんが同伴させているようにしか見えないでしょうから」
「ほぅ、なるほど」
確かに周りを行き交う人々の中には、時折そういった関係を思わせる男女が見られた。
「それとも、こんな派手で下品な格好をした女性とご一緒するのはお嫌でしたか? せっかく、クロムさんとお揃いの黒い衣装を選びましたのに…」
「い、いや…そんなこと無いって! 目の保養になるっていうか…なんていうか…ほら、あれだよ。鼻が高いってヤツ」
「んっふふっ…。クロムさんならきっとそう言ってくれると思ってました。気に入ってもらえて良かったです」
あざとい彼女の思惑通りに事が進んでいる気もするが、これがお蔵入りになってしまうよりはよっぽど良いだろう。
「でも、ちょっとサイズが小さかったかもしれません。ほら、見て下さい…ここ、パツパツでポロリしちゃいそうですよね?」
「え? うぁっ…、そ、そうかも知れないな……」
彼女が自ら胸元を見るように促してきたので、当然そこへ視線が向いた。
そして、そのまま煽るようにボインボインと揺らしてくるので、こぼれ落ちないか不安と期待が入り混じっていた。
「んふふっ、もしかしたらまた大きくなってきちゃったのかも…」
「…すごいな」
「ん? 何がですか?」
「あぁ、いや…そういう服も着こなせるのはすごいなって…」
「んっふふっ、そういうことにしておきましょうか」
ついつい胸元にばかり目が行ってしまう俺へ注意することもなく、彼女は楽しそうに声を躍らせながら寄り添って来た。
「さあ、そろそろ行きましょうか? お店まで少し歩きますから」
「そうだな…」
彼女と連れ立って風呂屋から離れようとした時も、たくさんの視線を向けられた。
俺としてはあまり目立つような行動は避けたいところだったが、今回ばかりは仕方ないと思う他ない。
「うわっ、すげえ良い女…」
「あんな上玉、どこの店にいけば会えるんだよ…」
「何だよあの男、羨ましいったらねーぜ!」
嫉妬や恨みの籠もった視線が集中して気が気ではないが、彼女は実に涼し気だ。
「んふふっ、皆さん羨ましいみたいですよ?」
「あぁ、そりゃそうだろう。俺だって同じ立場だったらきっとそう思うさ。それこそ、いくら積めば良いんだってな」
「まあ、嬉しい。でも、今の私はクロムさんしか眼中にありませんから、安心してくださいね」
「それは光栄なことだ。けど、おかげで明日から背後に気を付けないといけないかもな」
「きっと大丈夫ですよ。クロムさんお強いですし、そんな輩に負けたりしないって信じてますから」
「あぁ、もちろん。そう簡単に負けるつもりは無いさ」
「んふふっ、頼もしい限りですね」
彼女が人並外れた大きな胸を押し付けて擦り寄って来る度に、周りからの殺気は濃くなっていった。
とはいえ、それも大きい通りを歩いている時くらいで、徐々に裏通りや路地など込み入った道を進むようになってくると次第に薄らいで気にならなくなってくる。
「そういえば、ごめんなさいね。結構、待たせちゃいましたよね?」
「あぁ…いや、俺もゆっくり入ってたからそんなでも無いよ」
「そうですか? …でも、混浴ならご一緒できましたのに残念でしたね」
「おいおい…安易にそんなこと口にするもんじゃないぞ。男はすぐ本気にしちゃうからさ」
「あら、私は冗談で言ったつもりは無かったんですけど?」
「そうなのか…? だったら、次の機会には是非ご一緒させてもらおうかな」
「んふふっ、楽しみにしてますね」
彼女がどこまで本気で言っていたのかはわからなかったが、また旅の途中で温泉でも見つかれば良かったのにと思わずにはいられなかった。
「あっ、ここですよ」
娼婦と客であることをアピールする為とはいえ、人目も憚らずに恋人のような距離感でくっついてくる彼女としばらく歩いているうちに目的地へ到着したらしい。
表に『ビクリス』と書かれた看板を掲げた店に彼女と連れ立って入ってみると、中は落ち着いた雰囲気の酒場だった。
客の入りはそこそこといった感じで俺たちのように男女で入店している者もいるが、ほとんどは男性客だ。
おかげで、一瞬入店の際に視線を送る者もいたが、例に漏れずカエルムに視線を奪われていた。
「カウンターが空いてますね。そこ座りましょうか」
「あぁ、任せるよ」
不慣れな俺と違って迷わず歩く彼女に引っ張られる形でカウンター席の隅へ二人並んで腰かけた。
すると、すぐにカウンターの奥にいた女が話しかけてくる。
「おぅ、いらっしゃい。久しぶりだね、セリア」
「はい。お久しぶりです、ゼフラさん」
相手の女がゼフラだというのはすぐに分かったが、隣に座ったカエルムが親し気にセリアと呼ばれていたのが気に掛かった。
「いつ帰って来たの?」
「今日帰ってきたばかりなんですけど、早速来ちゃいました」
「そう、それは嬉しいね。しかも、帰って来たばかりでもう男まで連れて来るなんて、相変わらず人気者だね」
「いえいえ、ゼフラさんほどではないですよ」
カエルムは謙遜していたみたいだが、実際ゼフラという女もなかなかの美人だ。
おそらく、ここの男性客は彼女目当てに来ているのだろう。
ただ、俺としては少し見劣りしてしまった。
やや歳を重ねているようにも見えたことがその一つではあるが、身近にいる女の子たちのレベルが高いことも原因になっていそうだ。
「あ、クロムさん。ご紹介が遅れましたね。こちら、店主のゼフラさんです」
「あ、どうも」
「ふふっ、かわいい子だね」
かわいいというのは女に向けて使う言葉だと認識しているので、男の俺が言われると若干バカにされたようにも思えた。
ただ、悪戯っぽく微笑む彼女はそこまで嫌味を含んで言ったわけでは無さそうだった。
「ゼフラさんは元娼婦で、当時はとても人気があったそうですよ」
「へぇ…」
「はぁん…、セリアも言うようになったもんね。”当時は”じゃなくて、”当時から”でしょ?」
「あ、ごめんなさい。言い間違えました」
「ああ、良いの良いの。只今絶賛大人気中のセリアに言われたら、言い返せないもの」
「もう、ゼフラさんも人が悪いですよ」
「ふふっ、悪いね。女ってのはいつまでもキレイで可愛くいたいもんだから」
彼女の言動で、娼婦といえどプライドを持ってやっていたのが窺えた。
「そして、こちらが…あの……その……」
「クロムってお兄さんでしょ?」
なぜか急に口籠り始めたカエルムに代わってゼフラが答えていた。
先程からチラチラ名前で呼んでいたので、それくらいは分かると言いたげな顔をしている。
「でも、まだ若そうなのにこの子を連れてるなんて、お兄さんも相当だね」
「あっ、いえ…クロムさんとはちょっとご縁がありまして」
誤解を解こうとした彼女は、その途中でスッと右手の薬指に目を落とした。
「あれ? あんたいつもそんな指輪してたっけ?」
「これはその…先日、クロムさんから頂きまして」
「ほほう…そういうことね」
言っていることは間違いではないのだが、女同士で何かを分かり合っているように見えた。
しかし、男の俺にはその辺りがさっぱりわからず、娼婦へ貢いだ男のように映っているのだろうと思うくらいだった。
「それで、今日はどうするの?」
「あ、そうでした。夕食がまだなので、お酒と一緒にお任せできますか?」
「うん。クロムの旦那も同じで良いかな?」
「だ、旦那って…」
酒を飲む前から一人顔を赤らめていた彼女に気づかぬまま、慌てて注文を訂正する。
「あ、俺…酒はまだ飲めないんで…飲み物は別のにしてもらえれば」
「え? そうだったんですか…?」
「おやおや、セリアともあろう女が珍しいミスだね」
「ごめんなさい。クロムさん大人っぽいとこがあるから、私てっきり…」
「いや、俺も先に言えば良かったんだよな。すまない」
「…でしたら、私も今日はお酒は控えますね」
「いやいや、俺に付き合って遠慮することは無いさ。好きに飲むと良い」
今日は彼女の奢りだという前提だったので、尚更遠慮させる必要性を感じなかった。
「でも…」
「だったら、クロムの旦那も飲めばいいよ。うちにはお酒が弱い人でも飲めるようなウィネもあるからね」
ウィネと言われて頭の片隅にあった酒の知識を思い返し、確か葡萄から作られた酒の総称だったはずだと改めて認識する。
「じゃあ、そうしようかな。それなら、カエルムも気を遣わなくても済むだろ?」
「ああ…そっちの客だったのね」
ゼフラと呼ばれていた女は何かに気づき、一人で納得していた。
「んふふっ。じゃあ、クロムさんのご厚意に甘えまして…それでお願いします」
「はいはい、ちょっと待っててね」
注文を受けるとゼフラは一旦奥へ消えてしまった。
「なぁ、セリアってのはファーストネームか何かか?」
一応、情報屋という立場もあるので、念の為ゼフラを含めて周りに聞こえないよう配慮しながら彼女に尋ねた。
「そういえば、クロムさんにはその辺りの説明もまだでしたね。セリアは娼婦としての名前なんです」
「なるほど…」
てっきり、セリア・カエルムという名前なのかと思っていたが、こっそり教えてくれたおかげでその誤解が払拭された。
というか、娼婦としても働いていたのだと改めて気づかされる。
しかし、こんな扇情的な服を持っていてここまで来るまでの道のりでも慣れた様子で付き添っていたので、それもそうかとある意味納得させられてしまう。
「はい、先にお酒からね。クロムの旦那には度数の低いノワール。セリアにはラシャプトね」
「ありがとうございます」
一見似たような深い赤紫色をしているので、俺には二つの区別はつかなかった。
ウィネには大きく分けて二種類あり、これらのような赤紫色をした赤いウィネ=通称アカネとほとんど無色で透明な白いウィネ=シロネと呼ばれているものがある。
その二種類のように一目で分かるような違いがあればまだしも、素人目では良さも違いも分からない。
グラスを渡されて匂いを嗅いでみても、ほとんど酒臭さは感じられず葡萄の香りが広がるばかりだった。
その光景を微笑ましい様子で見ている彼女に気づき、少し気恥ずかしい思いをさせられてしまったが、彼女は特に何を言うわけでも無く静かにグラスを掲げた。
「乾杯」
軽く当たった二人のグラスが小気味良い音を奏でて祝福をもたらすようだった。
慣れた様子でウィネを口に含む彼女に倣い、俺も一口飲んでみる。
「あ、美味い…」
「んふふっ、お口に合ったようで良かったです」
ウィネグラスを片手に微笑む彼女は実に優雅で絵になっていた。
この絵が見られて良かったと思うと同時に、まだ両親が生きていた頃にこっそり酒を飲んでみた経験があって助かった。
おかげで、酒への抵抗はほとんど無かったからこそ、こうして楽しめるくらいには落ち着いている。
「はい、次は料理ね。一応こんなところだけど、酒も肴もまだ足りないようなら言ってくれれば追加するから気軽に言ってちょうだい」
「お気遣いどうも」
他にもカウンター席で座っている男たちの相手で忙しそうな店主は、料理を並べると早々に去って行った。
「それで、さっきの話の続きなんですけど…食べながらで良いので聞いてもらえますか?」
「あぁ、聞かせてくれ」
二人して手元に運ばれてきた料理に手を付けながら、ひっそりと会話を続ける。
「クロムさんたちに名乗ったカエルムという名は情報屋としてのもので、二つを使い分けているんです」
「あぁ、それで…。合点がいったよ」
彼女が情報屋として活動しているのであれば、情報を売ることに加えて買うあるいは知る術があるはず。
安く買って高く売るというのは商売の基本なのだろうが、情報というものに関しては必ずしも買う必要があるとは限らない。
そこで、情報を得る為に彼女が行っている方法というのが、娼婦としての一面というわけだ。
図らずしも彼女の類稀なる美貌や肉感的な体付きを知ってしまったことにより、その答えには薄々気づいていた。
つまり、彼女は自らの色気を利用し、客としてやってきた男たちから金だけでなく情報までも奪って利益に繋げていたと考えられる。
どこまでも金欲に塗れた考えがこのお淑やかな彼女からは想像できないものの、そうであれば辻褄が合う。
普段から色目を使うような仕草や言動が身に染みている点も、情報を得る為にしてきた癖とも捉えることができるだろう。
ただ、その考えを前提にしても、先日のリヴァイポの森で地下に閉じ込められた時の怯えようは嘘や演技とは思えなかった。
「娼婦だなんて知って、幻滅しちゃいました?」
「…確かにちょっとショックはあったけど、おかげで今は役得にあり付けてるからな。悪いことばかりじゃないかも」
「んふふっ、役得だなんて…。でも、ご理解いただけて幸いです」
こうして彼女の方へ目を向ける度に深い谷間へ視線が吸い込まれてしまっても、未だに彼女は何も言わずに微笑んでいるのだ。
これを役得と言わず何と言おうか。
「それで、今はどっちで呼んだ方が良いんだ?」
「そうですね、今はセリアと呼んでいただいた方がありがたいんですけど…クロムさんにはもう一つ知っておいて欲しいんです」
「もう一つ?」
「はい。実はそのどちらも偽名なんですけど、クロムさんにだけは特別に本名を教えておきたくて…」
「良いのか? そんな大事なこと…」
「はい。クロムさんには偽名ではなくて、本名で呼んで欲しいですから」
「…そう言われると悪い気はしないな」
光栄な一方で恐れ多いと思えてしまう重圧を感じていたが、彼女が手を重ねてきたことによってそれもすぐに吹き飛んでしまった。
「私の本名はレーナといいます。良かったら、今後二人きりの時はそちらの名前で呼んで下さると嬉しいです」
「あぁ、分かった」
他の人の目が無ければ、そのまま唇を奪ってしまいたくなる衝動に駆られるほど魅惑的な表情に魅入られた。
「んふふっ。あ、まだお食事の途中でしたね。…もしよろしければ、私が食べさせてあげましょうか?」
「いやぁ、嬉しいけど…さすがにちょっと恥ずかしくないか?」
「大丈夫ですよ。ほら、皆さんゼフラさんに夢中で私たちのことなんて気にしてませんから…はい、あーん」
「…あむっ」
やや強引ながらも彼女をそのままにしておく方が悪目立ちしそうな気がしたこともあり、彼女の手引きで口の中に放り込まれた。
「いかがですか?」
「あぁ、美味しいよ」
「んふふっ。私が作った物ではないのが残念ですけど、それでも嬉しいですね」
ただでさえ周囲の目が気になって仕方なかったのに、彼女が身体を預けるようにもたれかかって来たので、もはや味など分かるはずもなかった。
しかし、それ以上に満足感のある感触が得られたので、何事も悪いばかりではない。
「クロムさんも試してみてはいかがですか?」
「え? 俺もか…?」
「はい。私、クロムさんのソーセージ欲しいです…」
娼婦としての経験もあるらしいのが窺えるような一言によって、不意打ち気味にドキリとさせられてしまった。
「そう言われたら、断るわけにはいかないな。…ほら、咥えてみろよ」
お返しだとばかりにちょっと悪ノリを含んでフォークに刺したソーセージを口元へ差し出すと、彼女はゆっくりと口を開いた。
「れろれろ…、いただきまぁす…はむっ。…んっ、んぅっ…美味しいです…んふふっ」
「ごくり…」
まずは舌を使って軽く舐め回してから、しっぽりと口に咥えて悩ましい息を漏らしながら食べ進めるという所業は予想以上だった。
どうやったらそんなエロい食べ方ができるのかと呆れそうになっていると、彼女は更なる追撃を仕掛けてくる。
「でもぉ…こっちのソーセージは、もっとおっきいんじゃないですか?」
不意に伝わってきた手の感触が太ももの辺りを撫でてくると、そのまま内腿の方へと徐々に動いていく。
彼女の言動によってナニかを連想させられてしまい、思わず身体も反応してしまう。
「っ…セリア、もう酔ってるのか?」
「んふふっ、さてどうでしょう? クロムさんにはどう見えますか?」
「…すごく、エッチだ」
「んふふっ、何ですかそれ。でも、不思議と悪い気はしませんね」
彼女の手元に視線を移せば、グラスはすっかり空になっていた。
「どこ見てるんですか? 私はここですよ」
目ざとく視線に気づいた彼女から、頭ごと動かされて真っ直ぐに彼女を見つめさせられる。
俺の気のせいでなければ瞼がやや下がり始めており、目が座ってきているように見えた。
「おい、やっぱり酔ってるんじゃないか?」
「何言ってるんですか、まだまだこれからですよ。ゼフラさーん、お代わりくださーい」
もしや、普段お淑やかな分、酒を飲むと暴走してしまうタイプなのではないかと不安に駆られる。
とはいえ、なかなか離れようとしない甘えたがる酒癖であれば、男としては嬉しい限りだ。
「そういえば、クロムさん。名前の件じゃないですけど、クロムさんもちょっと言葉遣いや雰囲気が違う時ありますよね?」
「あぁ、まあ一緒に旅してたら気づくよな」
彼女のグラスにお代わりを注いだゼフラが意外と静かに戻っていったと思えば、彼女からそんなことを指摘された。
きっと、以前から疑問に思っていたのだろうが、酒の力を借りて口に出すことができたというところだろう。
「初めて会った時は気が強そうな態度でしたし、サリーさんたちといる時はもっと優しく接してるようでした。まあ、強気で勝気なところも格好良いですし、優しく気遣ってくれるところも素敵なんですけど…」
相変わらず、彼女は男を持ち上げることに関しては天才的だ。
そんな彼女の娼婦スキルが炸裂すれば、俺でなくとも男なら簡単に情報を漏らしてしまうだろう。
「…お世辞はともかく、あれは虚勢を張ってるだけさ。アングラなんて裏社会に出入りするなら、ナメられないようにした方が良いだろ?」
「確かにその通りですね。ただ、お世辞で言ったつもりは無かったんですけど…」
絡ませた腕をギュッと握られて、ますます彼女の柔らかな温もりが伝わってくる。
「まぁ、お互い様っていうか…時と場に合わせてるだけだ。情けない話だろ?」
「そんなこと無いですよ。この間もそれに助けられたわけですし…私は好きですよ」
「す、好きってお前…」
「んふふっ、クロムさんの言う通りちょっと酔っちゃったのかも…」
そう告白した彼女はより身体を預けてきて、もたれかかっていた。
「おいおい、大丈夫か?」
「うぅん…どうでしょう? ちょっとフラフラしてるかも知れません」
飲みの場に行くこともそれほど無かったので、当然酔っぱらいの扱いにも慣れていない。
こういう時、男としてしっかり介抱してやれないのは情けないと痛感する。
だが、今するべきは後悔ではなく、彼女の為に動くことだ。
何をすべきかも分からない中、ただ彼女を支えるように腰へ手を回して抱き寄せた。
「んふっ…。クロムさん、申し訳ないんですけど…近くの宿までお願いできますか?」
「あぁ、仕方ないな」
「ご迷惑を掛けてしまってすみません。…でも、やっぱりクロムさんは頼りになりますね」
「…ほっとけ。そんなこと言う前に、自己管理がちゃんとできないと仕事にも差し支えるんじゃないのか?」
「んふふっ、ご心配ありがとうございます」
褒められても素直に受け入れらない心が悪態を吐いてしまったが、彼女はそれでも微笑んでくれていた。
「ゼフラさん、今日の分はツケでも良いですか? 明日にでも払いに来ますから」
「え? あぁ、そういうこと。分かったよ、セリアなら踏み倒すことも無いだろうしね」
「ありがとうございます」
前もって言っていた通り本当に奢ってくれるつもりだったらしく、流れで払わされそうになっていた心配は杞憂に終わった。
「じゃあ、行きましょうか」
「あぁ、立てるか?」
「はい、っとと…」
彼女は迷惑を掛けないようにと思って自分で立とうとしたのだろうが、すぐに倒れ掛かってきた様子を見る限りその遠慮は余計な迷惑を招くだけだ。
「まだフラついてるじゃないか。ほら、俺に掴まれ」
「はい。んふふっ、良い気分です」
「そりゃあ、酔っぱらってるからそうだろうな」
俺も良い気分だったのだが、それは美人に頼られたことや彼女の温もりを存分に感じられたからだということは言うまでもない。
「全く、見せつけてくれちゃって…。でも、セリアのあんな幸せそうな顔は初めて見たかも」
二人を見送る店主の独り言は誰にも届かぬまま消えてしまった。
幸いにも呑んでいた店が娼館街に近かったこともあり、宿屋はすぐに見つかった。
彼女の為に一部屋借りると、そのまま部屋まで連れて行く。
しかし、その部屋は明かりをつけてもベッドの四隅に置いてあるトーチライトがピンク色に輝くばかりで、薄暗いムーディな雰囲気を漂わせていた。
「なんだ、この部屋は…足元すらよく見えないぞ」
「場所が場所ですから女性を連れてこられるお客さんが多いでしょうし、こういう方が好まれるのかもしれませんね」
「あぁ、そういう…」
彼女の説明を聞いて、自分の中の予感が確信に変わった。
そのおかげで、彼女をそのままベッドへ寝かせようとしていたのに、良からぬ妄想が捗って頭から離れなくなってしまう。
大人二人が寝ても窮屈に感じないほど大きなベッドがいやらしい色でライトアップされているのを目の当たりにしてしまえば尚更である。
だが、その妄想のままに酔っぱらった彼女を襲うのはさすがにマズいだろうと思い止まり、紳士的に振舞うよう努めた。
何しろ相手は情報屋なのだ。
ここで一時の欲に駆られてしまったばかりに、強姦魔だとか送り狼だとか悪評をバラまかれては堪らない。
「…ほら、今日はもうゆっくり休め」
「ありがとうございます、クロムさん。…でも、一つだけ謝らなければいけないことがあります」
「え? 何が…っ!?」
彼女をベッドへ寝かせようとして腰を落とした際に引っ張られて、そのまま彼女と一緒に倒れ込んでしまう。
煩悩を振り払おうと気を静めていたとはいえ、完全に油断してしまった所為でもある。
けれども、その衝撃は再び謎のクッションによって和らげられることになった。
「っ、これは…?」
「あんっ、くすぐったい…」
身体を起こしてみれば、俺が彼女を押し倒すような格好になってしまっていた。
「あ、悪い…って、レーナが自分から引き込んだのか」
「んふふっ、正解です」
デジャヴを感じたのと同時につい反射的に謝ってしまったが、確信犯の微笑みに気づいた。
どうやら、俺はキレイな花に誘い込まれてしまったらしい。
「…さては、酔っぱらってるってのも嘘だったんだな」
「はい、そういうことになりますね」
「でも、なんでこんなことを…?」
「だって、この間のお礼…まだちゃんとしてませんから」
「それはさっきので済んだんじゃないのか?」
「んふふっ、違います。あれはおまけみたいなもので…本命は、私です。ですから、欲望の赴くままに…私のこと好きにしていいですよ?」
ベッドに横たわった彼女の蕩けた表情を見れば、嘘や冗談で言っているわけではないのは伝わってくる。
しかし、それはあまりにも甘美な誘いで、俺の中の雄が痛いくらいに彼女という雌を求めてしまう。
「好きにって…。そんなこと言われたら、止まれないぞ」
「んふふっ、我慢しなくていいですよ。自信過剰かもしれないですけど、男の人はこういうお礼の方が嬉しいんでしょう?」
最後の警告を鳴らしても彼女は怖じ気づくこともなく、自分から首に手を回して俺を離そうとしなかった。
「あぁ…そりゃそうさ。レーナみたいな美人とできるなら、尚更な」
「んふふっ、嬉しい…」
酒や照明の影響もあるのか、頬を上気させて微笑む彼女はより色気が増して見えた。
俺はローブを脱ぎ去りベッドの横に荷物を置くと、これからすることを示すように彼女の身体へ手を伸ばす。
「じゃあ、この胸も好き放題触っても良いんだな…?」
「やだ…胸だなんて味気ない。ちゃんとおっぱいって言ってください。その代わり、私も…………」
彼女の口から聞いたことが無かった卑猥な言葉を聞いて、素直な感想が漏れてしまう。
「レーナ…、エロ過ぎるぜ…」
「あんっ、そんな言われ方…ちょっと不本意です。でも、あなたが喜んでくれるなら…どっちでもいいかも…んっ、ちゅぅっ、ちゅっ、ちゅぅぅ……」
抱き寄せられて自然と交わしたキスは少し酒臭かったが、そんなことが気にならなくなるくらい彼女を求めてしまう。
その後、身体に触れても怒るどころかキスを返してくれた彼女に乗せられて、満足いくまでお礼を貰うことになった。
翌朝、夜遅くまで彼女と求め合っていたこともあってゆっくりとした起床を迎え、優雅且つ淫靡な朝を過ごしていた。
添い寝するように肌を重ねた彼女は、生まれたままの姿でおっぱいが当たることも構わず擦り寄ってくる。
「気持ち良かった…、最高だよレーナ」
「んふふっ、それは私のセリフですよ。ありがとうございます、クロムさん…んちゅっ」
もう何度目か分からないキスをされてから、まったりと彼女のキレイな長い髪を撫でた。
「んっふふっ…、良いですね…こういうの……」
「あぁ…、昨夜はヤり疲れてすぐ寝ちゃったからな…」
「あれだけしていたら、そうなりますよ…んふふっ」
何をするわけでも無く、ただ静かに寄り添ってくれているこの時間は余韻と共に充実感をもたらしてくれるようだった。
「ふぅ…」
――女は、男の人生を豊かにしてくれる。あるいは、破滅をもたらす。
そう言ったのは、一体誰だっただろうか。
俺の覚えが正しければ、過去の偉人だった気がする。
そう、あれは確か…マンゴスチン・モッコリーというこの大陸の地図を書き上げた偉業者で、好色家であることでも有名な男だ。
今なら、彼が言い残した格言が身に染みて分かる気がした。
「ん…? ふふっ、疲れちゃいました?」
「まぁ、少しな…」
すぐ隣に寄り添っているレーナのような女がいれば、昼夜問わず充実した日々を送れるだろう。
反対に、彼女のような存在を知ってしまえば、彼女を求めて大枚を叩く気持ちも理解できる。
おそらく、今回は金貨1枚分の穴埋めと先日の一件での借りを返すという理由からここまでサービスしてくれたのだろうが、逆にいえばそれだけの額を彼女に払うことで再びこの極上のひと時を得られることになる。
それなら、どんな手を使ってでも金を用意してまた彼女を買ってやろうと思えてしまうのだ。
もしかしたら、その思いがさらに行き過ぎてしまうと、力づくで彼女を得ようとするかもしれない。
それだけのことをさせてしまう彼女は、まさに男の人生を狂わせる魔性の女というわけだ。
「……」
そう考えると、今こうしていられるのは奇跡のようなものだ。
それをありがたいと思う一方、終わってしまうのが寂しいという複雑な感情が渦巻いていた。
「んんぅ……んっ、んふふっ……」
すぐ近くにいるのにどこか遠く感じてしまうと、無性に恋しくなってそっと彼女を抱き寄せた。
すると、彼女はうっとりと微笑んでスリスリと甘えてくる。
「クロムさん…あっ、もう…またおっぱい触って…んふふっ、仕方ないですねぇ…」
「なんだか、名残惜しくてな…」
「じゃあ、もうちょっとだけですよ…? またあんまり触られると、我慢できなくなっちゃいそうですから…」
「あぁ、分かってるって…」
口ではそんな風に言っていたが、彼女もそう悪い気はしていないようだった。
「でも、クロムさんって意外と大胆ですよね?」
「そうか?」
「はい。先日の一件で私を同行させたこともそうですけど、あのダンジョンでのこともありますし…」
その言葉でリヴァイポの森やそこにあったダンジョンでの出来事を思い出していくと、彼女を落石から助けるためとはいえ偶然にもおっぱいを揉みしだいてしまったことが頭に過ぎった。
確かに、偶然を装ってやったのであれば大胆な行動とも言えるだろう。
「でも、強くて逞しい上に優しく気遣ってくれましたから、私もついその気になっちゃいました」
「レーナが喜んでくれたなら良かったよ。俺としても嬉しい限りだったからな」
さっきもそうだったが、昨夜の乱れっぷりは男の情欲をそそるものだったのでよく覚えている。
「んふふっ、あなたに出会えて良かった」
「それはお互い様だろ? こんな良い女を抱けたんだからさ」
「まあっ、嬉しい。あなたにそう言ってもらえると、感動も一入ですね」
またまたその気にさせるようなことを言って男の機嫌を取るのが上手い娼婦だと思いながら、満更でもない様子で改めて彼女を抱き寄せた。
「んふふっ…クロムさん、これからもいっぱい愛してくださいね」
「もちろんだ…って言いたいところだけど、身が持つかな…」
一晩買うのに金貨1枚だとすると、日頃からどれだけ頑張って稼がなければいけないのかと冷や汗が出る。
「きっと大丈夫ですよ。…それとも、期待してはいけませんか?」
「そう言われたら、頑張るしかないな。俺としても望むところだし」
「んっふふっ…約束ですよ?」
「あぁ…」
約束を誓ってやろうと思い、彼女のおでこにそっと唇を付けた。
「あっ…、こういうのも良いですね…」
「気に入ってくれたなら良かったよ」
彼女のように何をしても喜んで笑顔を見せてくれるなら、いくらでも大胆になれそうだ。
〈おい、クロ…聞いてるか?〉
〈プル…? どうしたんだ?〉
突如、そんな甘い雰囲気をぶち壊すような濁声が頭に響いて現実に引き戻される。
「…? どうかされました?」
「あぁいや…、仲間から連絡が入って…」
「そういえば、そのようなことができると仰ってましたね」
彼女に現状を伝えた後も、いい気になって抱き締めながら悪魔と会話を続ける。
〈全く、どうしたんだ? じゃねーよ。もう昼近いのになかなか帰ってこねーからよぉ…〉
〈あぁ…そういえばそうだった…〉
〈あのなぁ…。どうせ、あの情報屋の女とよろしくやってんだろうとは思ってたから、俺様は別に構わねぇけどよ…。こっちの女二人はそう簡単に納得してくれそうも無いぜ?〉
〈まぁそうだよなぁ…。やっぱり、怒ってる?〉
〈あぁ、特にメアリーの方はもう目に見えてイライラしてるのが分かるぜ。絶対あの女と遊んでる…って鬼のような形相で睨んでたからな。戻ったら上級魔法の一発や二発、いやケルベロスの餌になることまで考えた方が良いかもしれねーぜ〉
〈そこまで言われると、もう戻りたくないぞ…〉
〈それをどうにかするのが男の甲斐性だろ? とにかく、これ以上怒らせないうちにさっさと来いよ。これ以上待てないって言って、もうギルドまで来ちまったから〉
〈分かった。今から向かうから、そこで合流しよう〉
〈へいへーい、伝えとくよ〉
目の前で裸の女を見ながら男の声が響くというのはなかなかシュールで、頭が混乱してしまいそうだった。
「ふぅ…」
「お話は終わりました?」
「あぁ、一応…」
現状は、まさに天国と地獄だ。
ただし、今ここは天国のようなものだが、それももう時間切れが近づいている。
つまるところ、どこへ行っても地獄へ辿り着く運命というわけだ。
「名残惜しいが、あいつらも戻って来いって言うし…俺はそろそろ行くよ」
「そうですか…仕方ありませんね」
寂しそうに見つめる彼女に後ろ髪を引かれる思いを抱き、そっと言葉を付け加える。
「この間のお礼はきっちりいただいたよ、十分過ぎるほどな」
「はい…喜んでもらえて良かったです」
最後にギュッと彼女を抱き締めると、その温もりから離れて着替えを始めた。
脱ぐ時は期待に満ち溢れていたというのに、着直す時のこの物悲しさは何だろうか。
後ろ手に聞こえる彼女の衣擦れの音も、欲情を誘うどころか虚しさを訴えかけてくる。
「……」
しかし、いつまでも引きずっているわけにもいかず、その考えを拭い捨てて無理矢理自分を奮い立たせた。
「クロムさん、外までご一緒させてください」
「あぁ…」
俺が着替え終わった頃には、彼女も見慣れた様相に戻っていた。
少しばかり胸の膨らみに目はいってしまうものの、ローブで全身を覆い隠した情報屋の姿はやはり昨夜見た娼婦の格好をした彼女とは程遠い。
外へ出る前に顔を洗ったりトイレへ寄ったりしてから、二人で宿の入口まで向かう。
宿代は彼女が持ってくれたので、そこまで含めてお礼であり奢りだったということだろう。
「んっ…、眩しいですね…」
昨夜来た時は既に暗い夜の街だったので、昼間改めてみるとその印象はだいぶ変わってくる。
普通、昼間は賑やかで起きているイメージがあるが、ここが娼館街であることによって真逆のイメージを持った。
宿屋の外に出たもののお互いになかなかその場を離れようとしない中、そっと口を開く。
「レーナ、またお前の力を頼っても良いか?」
「んふふっ、もちろんですよ。またいっぱいサービスしますね」
名前の呼び方が悪かったのか、彼女は口元を緩ませていたがおそらくそれは誤解している。
「あ…いや、そっちじゃなくて…情報のアテさ」
「あっ…。私ったら、とんだ勘違いを…」
「まぁ、レーナもその気だったなら、俺としても嬉しいから何も問題は無い」
「んもぅ…とはいえ、情報屋としても贔屓にしてくれるのは大歓迎ですよ。もちろん、タダでとはいきませんけど」
「あぁ、分かってる。相応の見返りは払うさ」
「んふふっ。それでは、これからもよろしくお願いしますね、クロムさん…ちゅっ」
以前不意打ちに失敗したことを気にしていたのに、今度は俺が不意打ちを食らってしまった。
とはいえ、頬に伝わってきた感触は悪いものではなかった。
「だったら、これを預けておこう」
「あっ、これは…」
口元を見るだけでも微笑んでいるのが分かる彼女へ身に着けていたブローチを託した。
「前に話したコレボンのブローチだ。これを触りながら同じものを身に着けた相手を思い浮かべれば、離れた場所からでも連絡が取り合える」
「良いんですか? こんな貴重な物…」
「あぁ。今はもう片方をサリーが持っているだろうから試すにしてもアレだが…、これならすぐに仕事の依頼もできるだろ?」
「確かに、そうですね」
「基本的に情報を買う時はまた会いに来てその時に金も払うつもりだけど、急ぎの用なら情報だけ先にもらって後で払うってこともできるしな。まぁ、後者はそっちも了承すればの話だが…」
「分かりました。そうしましょうか」
「じゃあ、確かに預けたからな」
「はい、大切にしますね。…んふふっ、でもこれで二つ目ですね。クロムさんからのプレゼントは」
「ん? あぁ…その指輪のことか」
そういえば、あれからずっと着けていて昨夜も一晩中していた気がする。
「はい。大切な贈り物ですから、一生大事にしますね」
要らないからと適当に渡しただけなのに随分大袈裟だなと思ったものの、フードの影に隠れた彼女の満面の笑みを見てしまうとそれ以上何も言えなかった。
「…さて、用も済んだからそろそろ行くかな」
「いってらっしゃい、クロムさん。また会いましょうね…ちゅっ」
見送りの言葉と共に今度は唇へキスされて、人通りのない娼館街に伸びる二人の影は一つに重なる。
彼女の右手に嵌められた白い指輪が日の光を反射して輝き、二人を祝福するように煌めいていた。




