四
昼過ぎ、昼ご飯の片づけをしていると、玄関の方から騒ぐような声が聞こえてきた。
何事だろうかと考えて、ふと原田たちの差していた刀が頭に浮かぶ。
足早に玄関へと歩き出すと、その途中で山崎と鉢合わせた。
「何かあったんか?」
「……分かりません」
答えながら、つい視線をそらしてしまう。山崎は「そうか」とだけ答えて、黙って歩き続けた。
「これは一体……」
玄関を出ると、門を入ったところに十数人の隊士たちがいた。巡察帰りと見られる浅葱の羽織りを羽織った男たちはみんな、しゃがんだり倒れたりしていて、彼らを他の隊士たちが介抱しているようだ。
周囲を見渡すと、地面に座り込んだ原田の姿があり、慌てて駆け寄って声をかけた。
「原田さん、大丈夫ですか?」
「う……花ちゃん……?」
原田がゆっくりと顔を上げる。怪我をしている様子はないが、ぐったりとしていて顔が青ざめている。
「花ちゃんが抱き締めてくれたら、治る気がする……」
「大丈夫そうですね」
心配して損をした。
ため息をついたところで、屋敷の中からこちらに向かって走ってくる複数の足音が聞こえてくる。振り返ると、ちょうど永倉が土方を連れて玄関を出てきたところだった。
「巡察中に急にばたばた倒れだして、とりあえず何ともないやつらで担いで連れて帰ったんだけど、どうしたらいい?」
「どうしたらっつても……俺は医者じゃねえんだぞ」
頭を掻きながら土方が周囲を見渡す。
「――おい神崎。お前が飯に何か変なもん入れたんじゃねえのか」
目が合うなり、土方が言った。言いがかりにもほどがある。
「失礼ですね、何も入れてませんよ。私の作ったご飯が問題なら、他のみなさんだって倒れてるはずでしょう」
睨みながら答えると、土方はふんと鼻を鳴らして顔をそらした。その目が傍に立っていた山崎を捉える。
「そういえばお前、父親が医者だったな。こいつら何で倒れたのか、分からねえか?」
山崎は黙ったまま、近くに倒れていた隊士の前にしゃがみ込んだ。少しの間、何か調べるように身体に触ったりして口を開く。
「中暑やと思います。原因はこの炎天下で長い間歩き回っとったせいでしょう。とりあえず、日陰の涼しい場所に運んでやってください」
「よし、聞いたかお前ら! こいつら全員中に運べ!」
土方の命令に隊士たちが動き出す。花も慌てて近くに倒れていた、より具合の悪そうな隊士に声をかけた。
「大丈夫ですか? 立てます?」
尋ねてみるが、男は小さく呻くだけで起き上がろうとしない。どうやら自力では歩けなさそうだ。
仕方がないので男の腕を肩に回し、支えながら立ち上がろうとする。しかし男の身体は想像以上に重く、上半身を持ち上げるだけで精いっぱいだった。
「すみません、誰か――」
助けを求めようと顔を上げたそのとき、「手伝いますよ」という声とともにふっと肩の重みが軽くなった。見ると、自分と同じくらいの年ごろの青年が、反対側から男の肩を支えている。
「あ、ありがとうございます」
「いえ。早く中へ運びましょう」
青年が言って、立ち上がろうとする。花は彼に合わせて立ち上がり、二人で男を屋敷の中へと運んだ。
「全員横にさしてから、うちわで扇いだり濡らした手拭い当てたりして、身体を冷やしてください。あとは水が飲めそうな人には水飲まして」
風通りのいい部屋に隊士たちを運び終えると、また山崎が指示を出す。
山崎の一連の発言を鑑みるに、中暑とは恐らく熱中症のことだろう。それなら水より、スポーツドリンクを飲ませた方がいいかもしれない。
「すみません、ちょっと外します」
一緒に男を運んだ青年に声をかけ、走り出す。
台所に着くと、まず鍋いっぱいに水を入れて火にかけた。それから沸騰するのを待っている間に、砂糖、塩、酢の準備をする。本当は酢ではなくレモン汁を使いたかったが、あいにくここにはない。そのため同じ酸味ということで、味は劣るが酢を代用することにした。
鍋が沸騰すると、材料を入れて溶けるまでかき混ぜる。味は二倍に薄めてちょうどいい程度に作っておき、半分水を張ったたらいに中身を移した。
「――うん。これでよし」
最後に味見をして頷く。冷たくはないが、水で割ってあるので沸騰したばかりのものよりは、ずっと飲みやすい。
あとは隊士たちが寝ている部屋まで運ぶだけだ。たらいを両手で掴み、持ち上げようとする。
「う……っ」
――重い。とにかくたくさん作らなければと思って、運ぶときのことを考えていなかった。
とはいえ持ち上がらないほどではない。花は心の中で気合いを入れると、腰を入れてたらいを持ち上げた。
「花ちゃん、水汲んできてくれたのか?」
部屋に着くと、永倉が尋ねてくる。
「いえ、これはスポーツドリンクっていって……」
「すぽ……何だそりゃ?」
「えーっと、水分補給するのにいい飲み物です。なので水よりこっちを飲ませてください」
「へえ、んなもんがあるのか! 作ってくれてありがとな」
永倉はそう言うと、部屋にいた隊士たちに呼びかけて、花の作ったスポーツドリンクを配り始めた。
しかし倒れた隊士の数が多いため、大量にあったはずのスポーツドリンクはあっという間になくなってしまった。
「悪い、花ちゃん! また作ってきてくれねえか?」
「はい! すぐに戻ります!」
永倉に答えて台所へと急ぐ。
そうして何度かスポーツドリンクを作るために台所と部屋を往復していると、隊士たちを看ていた山崎が声をかけてきた。
「神崎、お前顔色悪いで」
「だ、大丈夫です。スポーツドリンク、配らないといけませんし……」
そう言ってすぐに背を向けようとするが、腕を掴んで引き留められた。
「それはこっちでやるさかい、お前は休め」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
掴まれた腕をむきになって強く引く。その瞬間、ぐらりと目の前が揺れた。
ふらついた花の身体を山崎が受け止める。
「おい、神崎!」
山崎の声がやけに遠く感じる。
あれ、なんか――気持ち悪いかも。
だんだんと立っている床の感覚がなくなり、目の前が暗くなり……突然ぷつりと電池が切れたように意識が途切れた。
ふと額に冷たいものが触れた気がして目を開ける。
「気ぃついたか」
声がして顔を向けると、自分の寝ている枕元に、手拭いを持った山崎が座っていた。
「あほ。介抱しとる側が倒れたら世話ないやろ」
「私、倒れたんですか……?」
「せや。半刻近く寝とったで」
身体を起こして周囲を見回す。隊士たちを運んだ部屋とは別の部屋のようだ。
「すみません、すぐに手伝いに戻って――」
「あっちはもう落ち着いたさかい、まだ大人しくしとき」
立ち上がろうとすると、山崎に止められた。とっさに大丈夫だと言おうとして、倒れる前にもそう言っていたことを思い出す。
「……分かりました。迷惑かけてすみません」
「ええよ。それより、これ飲めるか?」
傍に置かれていた湯呑みを差し出され、頷いて受け取る。一口飲んでみると、水ではなくスポーツドリンクだった。まさか自分が飲むはめになるとは……。
「それ、お前が作ったんやろ。おおきにな」
「いえ……」
むしろ自分は何もしなかった方が、迷惑をかけずにすんでよかったのかもしれない。
「飲み終わったら横になって、もうちょい寝とき」
山崎に言われ、大人しく横になる。
障子は開け放たれていて、外から吹き込んでくる生ぬるい風が頬を撫でた。横になったまま庭へ顔を向けると、ゆらゆらと揺れる蜃気楼が見える。
……眠っている間、夢を見ていた。まだ父親がいた、幼い頃の夢を。
「山崎さん。……すみませんでした」
庭の方を向いたまま、立ち上がろうとした山崎に謝る。
「もう謝らんでええて」
「そうじゃなくて、朝『何の話ですか』って山崎さんに当たるみたいに言って……そのあとも私、感じ悪かったですよね」
朝からずっと、避けるみたいな態度を取り続けていた。山崎は上げかけていた腰を下ろして座り直した。
「……気にせんでええよ。余計なこと言うた俺も悪かったし」
静かな声で山崎が言う。
……タイムスリップする前、まかないを食べた料理長に、無意識に父親の味を求めていたのではないかと指摘された。
あの言葉も今朝の山崎の言葉も、図星だった。だから腹が立ったのだ。
もう気にしていない、忘れたと言って、本当は誰よりも自分が、父親との過去に囚われているのを知っている。思い出に蓋をして、見ないふりをし続けていたのは、そうしていれば傷つかないですむと思っていたからだ。
しかし、芹沢に「誰だ」と言われたとき、花はどうしようもなく、取り繕うこともできないほどに傷ついていた。
込み上げてくるものを抑えるように、唇を引き結ぶ。
――物心ついたときから、料理が好きだった。
自分で作るのはもちろん、人が作るのを見るのも好きで、小さい頃は父親が台所で料理をするのを何時間も飽きずに見ていた。
ありふれた食材たちが、父親の手にかかると見る間に美しい料理に変わっていく。その過程は幼い頃の自分にとってとても不思議で、心躍るものだったのだ。
大抵の場合、父親は花を放っておいたが、たまに「やってみるか」と包丁を貸してくれることがあった。子ども用の包丁と違って、父親の包丁は重くて切れ味が良い。それを使っているときだけは、まるで自分も一流の料理人になったような気がした。
父親は口下手で、家族といるときでもあまり話をしない人だった。一緒に料理をしているときも、もちろんそれは変わらない。
しかし、包丁の音や鍋の煮える音、油の跳ねる音が響く台所は賑やかで、その中で黙々と二人で料理を作るのは苦痛ではなかった。
いや、違う。苦痛でなかったのではなく、自分はその時間が――とても、好きだったのだ。
庭の蜃気楼が広がるように、目の前が滲んで、ぼやけていく。
――お父さんに会いたい。
本当はずっと、会いたくてたまらなかった。だけど、捨てられたのかもしれないと思うと、心臓をずたずたに引き裂かれたみたいに痛くて、必死で考えないようにしていたのだ。
「……お父さん……」
昔、両親とお化け屋敷に入ったときのことを思い出す。私は子どもの頃から少しも成長していない。臆病で情けない、泣き虫だ。
「……ん」
目の前に手拭いが差し出される。花はそれを両手で掴んで、顔に押し付けた。
たとえ自分が変わらなくても、子どもの頃と同じままではいられない。泣いても喚いても、自分をおぶって歩いてくれる人はもうどこにもいないのだから。
「落ち着いた?」
しばらくして、顔から手拭いを離すと山崎が聞いてきた。
――恥ずかしくて山崎の顔が見られない。はたちにもなって、人前で泣いてしまうなんて。
「はい……。ありがとうございました」
視線をそらしたまま手拭いを返す。花は山崎が手拭いを畳むのを横目に見つつ、ためらいがちに口を開いた。
「あの……山崎さん。今って何年の何月何日ですか?」
ずっと気になっていて……しかし、怖くて聞けないでいた。
緊張して山崎の答えを待つ。
「そんなことも知らんのか?」
今は現代ではない。現代ではなく――。
「文久三年五月十五日やで」
「……ぶんきゅう?」
元号だろうか。初めて聞いた。
「今って江戸時代じゃないんですか? ええっと、それじゃあ西暦だと何年です?」
「はあ? 何言うてん?」
山崎が異物でも見るような目で花を見る。江戸時代という呼び方はまだしていないのか。どうやら西暦もまだ日本に伝わっていないか、広く一般に浸透していないようだ。思わず頭を抱えて呻く。
「うう、日本史の授業ちゃんと聞いてればよかった……」
授業中いつも寝てばかりいた自分を叱っていた社会科の先生に、心の中で土下座した。
「どないしたんや、急に」
「いえ……」
なんでもないと首を振りつつ、ため息を吐く。いまいち締まらないが……まあ自分らしい気もする。
「俺は他の人らの様子見てくるけど、お前はもうちょいそのまま寝ときや」
訝しそうにしながらも山崎が言って、部屋を出ていく。花は仰向けになり、じっと天井を見つめた。
なんにせよ、やはり今自分がいるのは現代ではなかった。
どうしてこの時代にタイムスリップしてしまったのか、どうやったら元の時代に帰れるのか、何も分からない。だが――いつか絶対、現代に帰ってみせる。
そう胸に誓うと、花は袴に括り付けたストラップを握りこんだ。