三
朝ご飯の食器を全て洗い終えたあと、花は人を探して屯所の廊下を歩いていた。
昨日からお風呂に入っていないので、今すぐにでも入りたい。
誰かに会ったらそう頼もうと思っていたのだが、廊下に人気は全くなかった。中庭の方から稽古をしているらしい声が聞こえてくるので、隊士たちはみなそこにいるのかもしれない。
稽古の邪魔をするかもしれないし、できればそちらには行きたくなかったのだが、こうなったら仕方がない。
声をかけられそうな雰囲気でなかったら、終わるまで待っていようと決めて、さっそく中庭に向かって歩き出す。
中庭ではやはり、稽古が行われていた。竹刀を手にした二十人ほどの隊士たちがみな、素振りや打ち合いをしている。
隊士たちの気迫や激しくぶつかり合う竹刀の音に圧倒されて、花はしばらく声も出せずにその様子を見つめていた。
「どうしたのですか、神崎くん」
そう声をかけられて、ようやく我に返る。顔を向けると、汗を拭いながら山南がこちらに歩いてくるところだった。
「あ……稽古中にすみません。その、お風呂に入らせてもらえないか聞きにきたんですが……」
言いながら、視線を隊士たちに戻す。
「いつもこんな稽古をしてるんですか?」
「はい。毎日朝食後、ここで一刻ほど」
「そうなんですね……」
隊士たちの中に永倉と原田の姿を見つけたが、朝広間で会ったときとは別人のように真剣な顔で指導をしている。
ふざけた人たちだと思っていたのに、こんな姿を見るとなんだか調子が狂ってしまう。
「……みなさん真剣ですね」
ついそう口にすると、山南は
「当然です。命がかかっているのですから」
と頷いた。
「命……?」
「はい。不審な者を見つけた場合、こちらは捕縛が基本ですが、対象が斬りかかってくることもあります。稽古はそうした『いざ』というときのためのものですから、手は抜けませんよ」
穏やかな口調で言われた言葉に、はっとする。
――そうか。稽古といっても、部活の稽古とはわけが違うんだ。
彼らはみな腰に刀を差して歩くが、あの刀は飾りではなく、実際に鞘から抜いて人を斬ったり斬られたりすることがあるのだ。
隣に立つ山南を、じっと見つめる。……彼も、人を斬ったことがあるのだろうか。
山南は優しくて、他人を傷つけるような人間には、とても見えないのだが――。
「うわああああ!」
突然辺りに響いた叫び声に、驚いて身体が跳ねる。
何事かと目を向けると、沖田が逃げようとする隊士に向かって竹刀を振り上げていた。とっさに目を閉じた瞬間、竹刀で強く叩く音が聞こえる。
「勝負の途中で相手に背を向けるとは、どういう了見ですか!」
おそるおそる目を開けると、地面に倒れた隊士に対し、沖田が烈火のごとく怒っていた。
「そ、それは、竹刀落してもうたさかい――」
「そんなことが言い訳になると思っているのですか!? 恥を知りなさい!」
沖田の剣幕に、隊士は怯んだ様子で口を閉じる。
「あなたは確か、佐々木愛次郎といいましたね。……いいですか、二度目はありませんよ」
そう言うと、沖田はすぐに別の隊士の相手を始める。佐々木と呼ばれた男は、悔しそうにしながらも竹刀を拾って立ち上がった。
「厳しいですね、沖田さん」
呟くように言った花に、山南は苦笑した。
「ところで、風呂のことを聞きにきたんでしたよね」
「あっ……はい。昨日沖田さんにこの屋敷の案内をしてもらったんですが、お風呂の場所を聞き忘れて」
「……神崎くんの家には風呂があったのですか?」
驚いたように、山南が尋ねる。
「え、ありましたけど……もしかして、普通はないんですか?」
「はい。この前川邸にはありますが、風呂のある家はまれで、湯屋で済ませるのが普通です」
湯屋とは銭湯のようなものなのだろうか。家にお風呂が無いなんて、不便な時代だ。
「ちなみに、風呂の沸かし方は分かりますか?」
「……あ」
そうだ。この時代の風呂がどんなものなのか、自分は全く知らない。
「すみません。分かりません……」
「そうですか……。それなら八木邸に、雅さんという八木家の御新造さんがいらっしゃるので、聞いてみるといいですよ。山南に言われたと伝えれば、きっと教えてくれます」
「分かりました。ありがとうございます」
頭を下げると山南は、「それじゃあ」と背を向けて稽古に戻っていった。
昨夜沖田に屯所の案内をしてもらったとき、八木邸はこの屋敷の裏門から出て、通りを挟んだ向かい側にあると教わっていた。言われた通り裏門から外に出ると、立派な門構えの屋敷がある。恐らくここが八木邸だろう。
――今朝会った、あの芹沢という男は八木邸で暮らしていると聞いたが、今もいるのだろうか。
ふと考えて、慌てて首を振る。芹沢がいようがいまいが、自分には関係ない。
「すみません、八木雅さんはいらっしゃいますか?」
戸が開いていたので玄関から声をかけてみると、中から足音が聞こえてきて、四十歳くらいの女性が現れた。
「あてが雅どすけど……あんたはんどなたどすか?」
聞きながら、戸惑った様子でじっとこちらを見つめている。
「はじめまして。本日から前川邸で料理人をさせていただいてます、神崎花と申します」
「……料理人? あんたはんみたいな若い娘はんが、どないしてこんなところで?」
「えっと……それは少し事情がありまして。これからご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
笑って誤魔化しつつ、丁寧にお辞儀をする。雅はまだ少し困惑しているようだったが、静かに頭を下げ返してきた。
「八木雅どす。こちらこそ、よろしゅうお願いします」
雅に風呂に入りたい旨を伝えると、さっそく前川邸へ行き、教えてもらうことになった。
「こが前川邸の風呂どす」
案内された風呂場は台所の近くにあった。風呂は、風呂桶の下に竈がある五右衛門風呂だ。竈の火で湯を沸かし、風呂に入るときは足元が熱くなるので、風呂桶の蓋を沈めて踏んで入るらしい。
「ちなみに、お風呂の水って……」
「近くに井戸がありますやろ? あっから汲んでくるんどす」
「ですよね……」
風呂桶を満たすのに、一体何度往復することになるのだろう。つい肩を落としそうになるが、ぐっとこらえる。
「えっと、あとはシャンプー……じゃなくて、髪を洗うものとか身体を洗うものってどこにありますか?」
気を取り直して尋ねると、雅は目を丸くして花を見た。
「髪を洗わはるんどすか?」
「え? はい……」
頷きつつ、きっちりと結われた雅の髪を見る。……まさか。
「普通は毎日髪を洗わないものなんですか?」
「はい。髪を洗うんは、冬は月に一回、夏でも半月に一回くらいどす」
「そ、そうなんですか……」
郷に入っては郷に従えというが……髪を毎日洗わないというのは受け入れがたい。
「……お花はんはええところの娘はんなんどすなあ」
雅はまじまじと花を見て言った。口にはしなかったが、その言葉にはきっと『格好は変わっているが』という一言が隠されていたのだろう。
「あの……お花はんはどないして袴を着てはるんどすか?」
首を傾げて雅が尋ねた。
「実は着物を着たことがあまりなくて、慣れないので……。あと、着付けも自分でしたことがなくて」
「へえ、そうどすか……。そやけど袴の方も、その……」
「……もしかして、袴も着付けおかしいですか?」
見よう見まねのわりにはうまく着られたと思っていたのだが。
雅は小さく頷いて、それからうかがうように花を見た。
「よかったら、着付けお教えしまひょか?」
「いいんですか?」
思わず身を乗り出すようにして尋ねる。
「あてでよろしいんやったら」
雅は初めて笑みを見せて言った。
それから雅は水汲みを手伝い、花が風呂に入っている間は火の調節などもしてくれた。
この時代、身体はぬかで、髪は海藻のフノリというものとうどん粉をお湯で溶かしたものなどで洗うらしく、雅に用意してもらったそれらで花は快適に風呂に入ることができた。
「本当、何から何まですみません……」
風呂から上がったあと、袴の着付けを教わりながら、雅に頭を下げる。世話になりっぱなしで、さすがにいたたまれなかった。
雅は微笑んで首を横に振る。
「気にせんといてください。うっとこの家族は男ばっかりで、加えて浪士組の方が暮らしはるようになってからは、どこ見ても男しかおらんようなっとって。久しぶりに若い娘はんと話せて、あても嬉しいんどす」
「八木邸には雅さんと旦那さんの他にも、ご家族が住んでいらっしゃるんですか?」
「へえ、息子が三人。上から秀二郎、為三郎、勇之介いいます。挨拶させますさかい、また今度うっとこに来たときは声かけてください」
袴の着付けを終えると、雅は八木邸に戻っていった。
さて、着替えを洗わないと……。
一度部屋に戻り、昨日着ていた服を取ってきた花は、洗濯するため井戸へと向かっていた。
この時代は家事をしようと思うと、何をするにも井戸を使わなければいけないようだ。水を汲むのはなかなかの重労働で、正直もう井戸は見たくない気持ちでいっぱいなのだが。
「あれ、神崎さん。どこに行くんですか?」
声をかけられ振り向くと、廊下に沖田の姿があった。ちょうど朝稽古が終わったところらしく、中庭の方からぞろぞろと隊士たちがやってくる。
「洗濯物を洗いに行くところです」
「へえ、それはちょうどよかった。ついでに私の分も洗っておいてくださいよ」
「嫌です」
「今持ってきますから、ちょっと待っててくださいね」
耳が付いていないのだろうか、この人。
軽やかに駆けていく沖田のうしろ姿を、げんなりしつつ見送る。
そのとき、ふと隊士たちの中に山崎の姿を見つけた。山崎もこちらに気づいたようで一瞬目が合うが、花は弾かれたように顔をそらした。
朝の出来事が頭をちらついて、それを振り払うように井戸へと急ぐ。
「大丈夫ですか?」
井戸に着いて一息ついたところで、一人の隊士が話しかけてきた。確か朝稽古で沖田に竹刀で殴られていた――佐々木という名前だったか。
「えーっと、大丈夫とは……?」
「さっき、沖田はんに洗濯物頼まれてはったから」
佐々木が答え、ようやく合点がいく。
「ああ、はい。まあ大丈夫です」
持ってこられても、洗ってやる気は微塵もないので。
心の中で付け足しつつ笑って答えると、佐々木は深く息を吐いて腕を組んだ。
「まったく、あんな人が副長助勤やなんて浪士組は腐ってますよね。神崎はん、知ってますか? 今の幹部連中はみんなほとんど同郷で、もともと仲がよかった面子なんです。あいつら、新入りを昇格させる気なんて少しもないんですよ」
佐々木は苛立っている様子で、棘のある声で話す。どうやら彼は自分を心配してきてくれたわけではなく、愚痴を言いたかっただけのようだ。
意見を求めているわけでもなさそうなので、「そうなんですね」と適当に相槌を打っておく。隊内のいざこざに首を突っ込む気は毛頭ないし、聞き流しておけばいいだろう。
「沖田はんなんか、ちょっと人より剣が使えるだけで、他には何も取り得ないくせに。今日の稽古んときも酷かったんですよ。勝負の途中で手滑らして竹刀落としたくらいで、思い切りぶって、怒鳴ってきて」
井戸に桶を投げ入れたところで、佐々木が言った言葉に手が止まる。
「……私それ見てましたけど、沖田さんが怒ってたのって、竹刀を落したからじゃなくて、佐々木さんが逃げようとしたからじゃありませんでした?」
花が言うと、佐々木は目を見開いて組んでいた腕を下ろした。
――しまった。聞き流すつもりだったのに、つい口を挟んでしまった。
しかし、自分を正当化するために事実を曲げる人間は好きではないのだ。
「愚痴を言うなとはいいませんけど……嘘はよくないんじゃないですか?」
怒らせただろうかと思いつつ、佐々木をうかがい見る。
彼は顔を真っ赤にして、
「なんやねん、女のくせに生意気言いやがって」
と吐き捨てて去っていった。
男尊女卑の鏡みたいせりふだな、などと考えながら佐々木の背中を見ていると、ふと近くに沖田の姿があるのに気づいた。洗濯物を腕に抱えてじっとこちらを見ている。どうやら話を聞かれていたようだ。
佐々木の言葉に傷ついたりしているのだろうかと一瞬思ったが、そんな可愛らしい心は持ち合わせていないようで、沖田は平然とした顔で近づいてきた。
「私は洗いませんからね。自分で洗ってくださいよ」
先手を打って言うと、沖田は黙ったまま花の隣に立つ。……何なんだ。
訝しく思いながらも、井戸に落とした桶を引き上げていく。
「神崎さんは、私のこと嫌いなんじゃないんですか?」
唐突に沖田が尋ねてきた。
「……別に嫌いではないですよ」
答えると、沖田は意外そうな顔をする。
「そうなんですか?」
「はい。嫌いって言えるほど、沖田さんのこと知りませんから。……まあ、苦手ではありますけど」
小学生みたいな嫌がらせをしてくるし、すぐに殺すとか言うし。
正直に言って、沖田も怒っただろうかと思ったが、彼は不思議そうにするだけで怒った様子は少しもなかった。
「それならどうして、私のことを庇ったんです?」
「さっきのは庇ったわけじゃないですよ。ただ、自分の思ったことをそのまま伝えただけです」
「ふうん……」
沖田は呟くように言って、花が水を汲み上げるのをじっと見つめる。見てるくらいなら、手伝ってくれればいいのに。
「やっぱり洗濯物、自分で洗います」
不意に沖田が言って、傍に積まれていたたらいに自分の洗濯物を入れた。
どういう風の吹き回しだろう。沖田の考えていることはさっぱり分からない。分からないが……。
「やっぱりも何も、私はやるなんて一言も言ってませんでしたけどね」
「そうでしたっけ?」
とぼけたように沖田が答える。花はため息を吐いて、自分の洗濯物を洗うのに専念した。
この時代、洗濯機も洗剤ももちろん存在しない。雅に聞いたところ、たらいに水を張り、灰汁や石灰、米のとぎ汁などを使って、手でもみ洗いするのが一般的なようだ。
「せめて洗濯板があればなあ……」
「せんたくいた? 何ですそれは」
隣で洗濯物を洗いながら、沖田が尋ねる。花は洗濯を一度中断し、地面に絵を描いて洗濯板がどういうものなのか説明した。
「へえ、これは確かに便利そうですね。町の職人に頼んで作ってもらいましょうか」
「え、いいんですか?」
「はい。神崎さんに作るんじゃなくて、自分で使うためですけどね」
笑みを浮かべて答える沖田を、じっとりと睨む。こんなやつに教えるんじゃなかった。
「……ですがまあ、どうしてもと言うなら、貸して――」
「おっ、花ちゃんに総司! 仲良さそうに何話してんだ?」
「俺たちも混ぜてくれよ」
何か言いかけた沖田の言葉を遮って、永倉と原田が現れた。
「……二人とも、今から巡察なんでしょう。早く行ってきたらどうですか」
「何だ、総司。ご機嫌斜めか?」
「水くらい飲ませてくれよ。これから巡察終わるまで、飲めねえんだから」
二人は笑いながら、拗ねたように頬を膨らませる沖田の背中を叩く。その腰に目を向けると、刀が二本差してあった。つい、じっと見つめてしまう。
「えっ、花ちゃんどうしたんだ? そんな熱い目で見つめてきて、もしかして俺に惚れて――」
「天地がひっくり返っても、それだけはあり得ないので安心してください」
頬を染める原田に真顔できっぱりと答える。
しかし原田はなぜかますます嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「くぅー、つれねえなあ! 江戸の女を思い出すぜ!」
「はあ……」
すっかり引いてしまっていると、永倉が水を汲みながら苦笑した。
「悪いな、花ちゃん。こいつ最近イケると思ってた女に振られたばっかりで、花ちゃんみたいなはっきりした江戸女が恋しいんだ」
「……こっちの女は分かりにくくて難しいんだよ。あんなの俺に惚れてると思うだろ……」
途端に肩を落とした原田に、永倉が酒でも勧めるように「まあ飲め飲め」と水を飲ませる。
そういえば、さっき佐々木が幹部はほとんど同郷だと言っていたが、話からして江戸の出なのだろうか。
「みなさん、出身は江戸なんですか?」
聞いてみると、原田は「いや」と首を振った。
「ぱっつぁんと総司はそうだが、俺は伊予国松山藩の出だ。江戸には二年ほどいて、近藤さんとこの試衛館で世話になってたんだ」
「……試衛館?」
「近藤先生が宗家を務める天然理心流の道場ですよ。道場には私たちの他に、土方さんや山南さん、平助、源さん、斉藤さんがいました」
洗濯物を洗いながら、沖田が答える。
なるほど……。彼らは同郷というよりは、同じ道場で一緒に過ごした仲間といったところなのだろうか。
「ところで、源さんと斉藤さんって誰ですか?」
「ん? 花ちゃん知らねえのか。源さんは井上源三郎っつって試衛館からこっちに来た中での最年長、平助と同い年で最年少なのが斉藤一だよ。二人とも副長助勤だ」
「同じ屋根の下で暮らしてるんだし、まあそのうちどこかで知り合うだろ。そろそろ行くぞ、左之」
永倉が原田を促し、二人は連れ立って玄関の方へと向かった。
しばらくして洗濯を終えてたらいを戻すと、沖田も終わった様子で立ち上がる。
「今日は暑くなりそうですねえ」
沖田の言葉に頭上を見上げてみる。青色の絵の具を薄めず広げたような、雲一つない初夏の空が広がっている。
「そうですね……。洗濯物がよく乾きそうです」