五
「――へ? 今、何て言いました?」
隊士たちが食事をしている間、別室で待機していた花は、土方が持ちかけてきた意外な提案にぽかんと口を開けた。
「だから……お前の料理を食した結果、お前が料理人だと認めることになった。その上で俺たちは、お前に記憶が戻るまでここで料理人として働かないかと提案しているんだ」
仏頂面で花に言いながら、土方はもちろんと付け足す。
「ここにいる間の身の安全、及び身辺の世話は、壬生浪士組が請け負う」
「ど、どうして突然そんなこと……」
花はうろたえていた。確かに今後の自分の身の振り方は決まっておらず、困っていたところではあったが、先ほどまで不審者かどうかの審査を行っていた相手を、どうしてこの人は突然雇うなどと言い始めているのだろうか。
「そんなのもちろん、純粋なる善意からに決まってるじゃないですか」
にこりと笑って答えたのは、土方の隣に座っている沖田だ。
「そういうことだ」
沖田の言葉に土方は、表情を変えることなく頷く。
その顔で純粋な善意とかない。絶対何か企んでる。
口にはしないものの、花は内心確信していた。
「まあそんなに警戒しないでくれ。正直今まで屯所の飯はまずすぎてなあ。神崎くんがいてくれるなら、とても助かるのだが」
近藤が頭を掻きつつ笑う。花は人のよさそうなその笑顔に、少し警戒を緩めた。
……冷静に考えると、これは自分にとってメリットしかないのではないだろうか。
素性の知れないこんな不審な女に、衣食住を保障してくれるところなどそうないだろう。それにこの屋敷は、現代からタイムスリップしてきたときに落ちてきた場所だ。ここにいれば現代に帰ることもできるかもしれない。
極め付けに、仕事は大好きな料理だという。
花に断る理由はなかった。たとえ土方たちが何か企んでいたとしても。
「分かりました。それでは、これからどうぞよろしくお願いします」
「おお、良かった! こちらこそ、これからよろしく頼んだよ」
嬉しそうに顔をほころばせて言うと、近藤はあとのことは土方たちに任せて部屋を出ていった。
「では、これから屯所の案内及び注意事項について話すが」
そこで一度言葉を切って、土方は眉をひそめた。
「その前にお前の格好を何とかしねえとな」
「……駄目ですか? これ」
「駄目だな。それでは目立ち過ぎる。八木さんに頼んで着物を借りてくるから、今後はそれを着るように」
八木とは誰のことだろう。首を傾げていると、沖田が顔を寄せて耳打ちしてくる。
「ここ前川邸の裏手にあるのは八木邸なんですが、そこの主人が今土方さんが言った八木源之丞さんですよ」
「ここが前川邸なら、どうして前川さんに頼まないんですか?」
わざわざ別の屋敷に頼みに行くのが不思議で、つい尋ねる。
「前川家のみなさんは、私たちと同居し始めてしばらくしたら、どうしてかみんな出ていってしまったんですよ。仲良くしていただこうと思ってたんですけど」
「…………それは残念ですね」
相槌を打ちつつ、花は心の中で前川家の方々に手を合わせた。きっといろいろと迷惑をかけられたり、酷い目に遭ったりしたのだろう。可哀想に……。
「それじゃあ、俺は借りに行ってくる」
「あ、待ってください」
腰を上げかけた土方を慌てて止める。
「私、着物は自分で着付けたことがないので着れません」
「は……?」
土方は中腰の姿勢のまま、驚いた様子で固まった。
そんな、厨房で油ひっくり返したときの迫田さんみたいな顔しなくても……。現代では着物を着る機会など、そうないのだから仕方がないだろう。
「なので、男物の袴とか貸して頂けますか? それなら見たところ自分で着付けられそうですし」
土方の袴を観察しつつ、頼んでみる。
着付けはもちろんだが、袴の方が着崩れを気にしなくてよさそうなところもポイントが高い。今年あった成人式に振袖を着たが、動きづらくて一時間とたたずに脱ぎたくなったことは記憶に新しい。
「神崎さんでしたら、平助の着物がちょうどよさそうですね」
「ああ、そういえば背の高さが同じくらいでしたっけ」
「着なくなったものがあるか聞きに行ってみますか? 付き合いますよ」
「えっ、本当ですか?」
「いやいや、お前ら勝手に話進めてんじゃねえよ。着物着れないってどういうことだ」
自分を置いて盛り上がる二人に、土方は頭を押さえる。
しかし沖田は、「まあ細かいことはいいじゃありませんか」とあっけらかんとした調子で答えた。
「それではさっそく着物を借りに行ってきますね。ついでに屯所の案内も私がしておきますから。――では、失敬!」
言うなり沖田は花を促して立ち上がる。
「おい、待ちやがれ総司!」
土方は沖田を引き留めるが、当の本人は全くの無視で花の背中を押して部屋を出た。
「よかったんですか、あの人――土方さんでしたっけ、怒ってましたけど」
「いいんですよ。土方さんは怒るのが趣味なんです」
そんなわけはないだろう。
あとから怒られたりしないか心配だが、沖田は慣れているのかさして気にした様子もなく、廊下を歩きながら屯所の案内を始めた。
「壬生浪士組が宿所として使っているのは、今私たちがいる前川邸と裏手にある八木邸の二つです。八木邸には、芹沢先生率いる水戸藩出身の一派がいらっしゃいます」
「芹沢さんって、確かもう一人の局長さんでしたっけ」
料理を作る前、山崎から聞いたことを思い出しつつ聞く。
「はい、そうです。とても腕の立つ方なんですよ」
沖田はにこにこと笑顔で答える。その横顔を花はじっと見つめた。
この男は本当に、自分を殺しかけた人と同一人物なのだろうか。
「どうかしましたか? 何か質問でも?」
ふと視線に気づいて沖田が尋ねる。
「あ、いえ」
そうではなくてと首を振って、花は改めて沖田を見た。
「……沖田さん、初めて会ったときと性格違いません?」
花の言葉に沖田は一瞬きょとんとした顔になったが、次の瞬間おかしそうに吹き出した。
「あははっ! あのときはあなたのことを不審な者として見ていましたからね。しかしまあ、それがどうして面白そうな人じゃありませんか」
「はあ……」
思わず気の抜けた声がもれる。こちらは死にそうな思いをしたというのに、沖田には少しも悪びれたところがない。
「まあ疑いが晴れたならいいですけど」
「ははっ、許してくれるんですか? それはありがたいですね。……ああ、でも」
何か思い出したように、沖田が足を止める。それから花に顔を寄せると、人差し指でぐっと花の喉元を押した。
「決してあなたを信用したわけではありませんから。もしも、あなたが私たちに害なす者であれば――斬りますからね」
間近にある端整な沖田の顔を見て、生唾をのむ。口は笑っているが、目は氷のように冷たかった。
この沖田総司という男は、冗談でも何でもなく、必要とあらば迷うことなく自分を斬り捨てるのだろう。
「……着きましたよ! ここが平助の部屋です」
花から顔を離し、沖田が障子に手を掛ける。その顔はすでに先ほどまでの笑みを取り戻していた。……何を考えているのか、よく分からない人だ。
「平助、入りますよ」
「総司――と、神崎さん? どうしたの?」
部屋の中には本を読んでいたらしい藤堂の姿があった。
「着てない袴ってありますか? 神崎さん、着物が着られないから袴が欲しいそうで」
「は? 袴ならそこの行李に入ってるけど……」
藤堂の指さした竹籠の傍まで歩いていくと、沖田はそれをひっくり返して中身を全て出した。
「あっ、ちょっとそんな雑に! というか、着物着られないってどういうこと?」
「うーん……。あ、これとかこれ、最近着てないですよね?」
「き、着てないけど……」
「じゃあ貰いますね。いいですか、神崎さん」
袴と長着を二枚ずつ広げて、沖田がこちらを振り返る。
「え、はあ、私はいいですけど……」
「なら行きましょうか」
袴と長着を花に押し付けると、沖田は呆気にとられている藤堂に背を向けて、部屋を出て行った。慌ててそのあとを追う。
「……沖田さんってマイペースな人ですね」
なんだかどっと疲れて、深いため息を吐いた。
「まい……? 何ですか?」
ああ、そっか。マイペースって言葉もないのか。
首を傾げる沖田を見て、一瞬「今は何年の何月何日なのか」と聞こうと口を開いた。しかし言葉が喉元で詰まって、声にならない。
今回だけではない。料理を作っている間にも何度か山崎に聞こうとしたが、聞けなかった。
年を聞けば、今自分の置かれているこの状況が、途端に確かな現実になるような気がして、恐ろしかったのだ。
「神崎さん? どうかしました?」
「……いえ」
うつむいて廊下の角を曲がろうとする。そのとき、角を曲がって現れた誰かと肩がぶつかった。
「すみません!」
慌てて距離を取りつつ頭を下げる。すると頭上から、もうすっかり聞き慣れた関西弁が聞こえてきた。
「神崎か。こないところで何しとるん?」
「山崎さん!」
途端に顔を輝かせた花に、山崎も唇の端を少し上げて微笑む。
「何やもう近藤局長らとの話は済んだん?」
「はい! それで私、今日からここに暮らして料理人をすることになったんです。これからよろしくお願いしますね」
「へえ、不審者から大出世やな」
「もう、やめてくださいよ。そんな言い方」
花が拗ねた顔をしてみせると、山崎はくすりと笑った。それから思い出したように握っていた右手を差し出す。
「そういえば、お前の荷物が落ちとったところの近くで、さっき隊士が見つけたらしいねんけど、もしかしてこれもお前の?」
開いた山崎の手にあったのは、青い石の付いたストラップだった。花が昔、父親の誕生日に贈り、タイムスリップする直前に道で見つけたものだ。
「そ、それ……! 触って大丈夫なんですか? こう、静電気みたいにばちっとかびりってしないです?」
「せいでんき……? 相変わらずよう分からん言葉使うな。触っとったらなんや変な感じはするけど、そない強い感じではないで」
「そうですか……?」
半信半疑でストラップに手を伸ばし、指先で突いてみる。しかし何も起こらない。
花は青い石を摘まみ、山崎の手からストラップを受け取った。石は帯電しているような感触で違和感はあったが、山崎の言った通りそれは強いものではなかった。
「……えっと、これ、私のものです。ありがとうございました」
ストラップを握り締め、軽く頭を下げる。山崎は「いや」と答えて、ふと花の背後へ目を向けた。
「沖田はん」
振り返ると、沖田はこっそり立ち去るつもりだったのか、足音を立てぬよう爪先立ちで足を踏み出していた。
「夕餉の際はお元気そうでしたけど、腹の調子はようなったんですか?」
笑みを浮かべ、山崎が問いかける。振り返った沖田は、まるで何事もなかったかのように明るい笑い声を上げた。
「いやあ、ほんの半刻ほど前までは三途の川が見えるような痛みだったのですがね。山崎さんには迷惑を掛けてしまったようで、誠にかたじけない」
「いえいえ、滅相もないです。自分の仕事、他人に押し付け――失礼、任せてまうくらいですから、よっぽど具合が悪いんやと思うてましたけど、沖田はんに大事なかったみたいで安心しました」
「いやあ、山崎さんは本当にできた人ですね。嫌味もお上手――ではなく、頭もよく回る方で。新入隊士たちの中でも飛び抜けて優秀だとよく耳にしていましたが、全くもって噂通りの方ですねえ」
……なんだろう。この二人が怖いのは、自分だけだろうか。
穏やかに微笑みあう二人は、一見良好な関係の上司と部下に見える。しかし、よく見ると二人とも目が笑っていない。
「それでは、私は神崎さんに屯所の案内をしていた途中ですので、失礼しますね。さ、行きますよ」
沖田は花と山崎の間をすり抜け、先に行ってしまう。
「あっ、待ってください! 山崎さん、また今度」
軽く頭を下げて、沖田のあとを追う。
「……あの、山崎さんってそんなに優秀なんですか?」
少し気になって、山崎の姿が見えなくなってから尋ねてみた。沖田はううん、と顎に手を当てて口を開く。
「そうですねえ。山崎さんは頭の回転が早いし、要領もいいですから。加えて出は大坂で、こちらの地理にも明るいので、近藤先生や土方さんは頼りにしているみたいですね」
「へえ……」
言われてみると、料理を手伝ってもらったときの山崎の手際はとてもよく、あの短時間でも器用な人なのだと分かった。
「半月前に土方さんが出先で知り合って、勧められて入隊したらしいんですけど、あの人に認められるなんて、そうないことですからね。大した人だと思いますよ」
沖田の表情から読み取れるのは、純粋な尊敬の念だけだった。彼も山崎のことは認めているということなのだろう。
それから他愛のない話を交えつつ、花は沖田に屯所の案内をしてもらった。前川邸は部屋が十二間もあり、学校の体育館が余裕で入りそうなほど広い。花は迷うことがないよう、屋敷の間取りを想像しながら歩いた。
「――最後はこの部屋ですね」
沖田が言って、屋敷の最奥にある部屋の戸を開ける。広さは二畳半ほどで、物置のように見える。
「あっ、私の荷物!」
部屋の片隅に置かれたリュックとコートを見て、花は声を上げた。
「ここは何の部屋なんですか?」
「あなたの部屋ですよ」
「へえ、ここが私の――って、ええええ!?」
「嫌ですねえ、大声出して。そんなに一人部屋が嬉しいんですか?」
「違います!」
沖田の言葉を全力で否定する。
「いくらなんでも狭すぎません? これじゃあ寝られませんよ」
「そんなこと言ったって、空いてる部屋が他にないんだから仕方ないでしょう。それとも、他の隊士たちと一緒に広間で雑魚寝の方がよかったですか?」
尋ねられ、ぐっと言葉をのむ。さすがに知らない男たちとの雑魚寝は遠慮したい。
「大丈夫ですよ。ほら、住めば都って言うじゃないですか。布団も数日中には手配するそうですし、何とかなります」
他人事だと思って能天気に笑う沖田をじっとりと睨むが、返す言葉は見つからない。
仕方ない。屋根のあるところで寝られるだけ幸せと思おう、と自分に言い聞かせた。
しかしそんな花に、沖田はさらに追い打ちをかける。
「ちなみにここで女子は神崎さんだけですからね。そういう訳で、何かあっては大変ですし、寝るときなんかはこれで戸につっかえ棒をするように」
「ちょっと待ってください。何かって何ですか?」
若干青ざめながら問いかけると、沖田は笑顔で花の腕を叩いた。
「嫌ですねえ。遠回しに言ってるんですから、わざわざ言わせないでくださいよ。この壬生浪士組はまだ結成して間もない集団ですし、素行の良い連中ばかりとは限りませんからね。――あ、それと、神崎さんは無断で屯所を出るのは禁止ですから。もしも脱走なんてしたら、頭と胴体がお別れする事態になるかもしれないので、そのときは覚悟してどうぞ」
「な……っ、そういう話は先にしてくださいよ!」
料理人として雇うなどと言っておいて、これではていのいい監禁ではないか。
ますます青ざめる花とは対照的に、沖田は愉快そうに笑い声を上げる。
……もしかして、自分はとんでもなく間違った選択をしてしまったのではないだろうか。
早くも後悔に襲われるが、こうなってしまえばもうあとの祭りだ。花はため息をついて、沖田からつっかえ棒を受け取った。
「では神崎さんは今日はこのまま休んでください。朝餉は明け六つまでに用意してくださいね」
明け六つ――午前六時くらいのことだったか。山崎から教えてもらった、時間の数え方を思い出しつつ頷く。
「分かりました」
「では、私はこれで失礼します」
沖田が背を向けて立ち去ろうとする。その背中に花は慌てて声を掛けた。
「あの、案内ありがとうございました」
「……つい数刻前まで自分のことを斬ろうとしていた人間に、よくお礼なんて言えますね」
少し面食らったような顔で、沖田が振り返った。
確かに。つい忘れかけていたが、自分はこの男に斬り捨てられそうになったのだった。
今気づいたという顔をした花に、沖田は苦笑する。
「神崎さんって騙されやすそうですね」
「そんなことないと思いますけど……」
ただ、どうにも危機感を保ちきれないところは自覚していた。それが生まれ持った自分の気質なのか、平和な現代で育ったせいなのかは分からないが。
花の言葉に沖田は軽く肩をすくめる。
「ただの暇つぶしですので、礼には及びませんよ。――では」
沖田はひらりと手を振って、踵を返した。一人残された花は、充てがわれた部屋に入ってみる。
「うわ……」
実際に入って戸を閉めてみると、想像以上に狭く感じた。
しかしここに来てからずっと息つく暇もなかったのが、ようやく落ち着くことができた。戸につっかえ棒をして、ずるずると床に横になる。
タイムスリップと、このストラップって何か関係あるのかな……。
袴と長着を脇に置くと、ストラップを顔の前で揺らしてみる。月明かりに照らされた青い石は、現代で見たときより色が薄くなっているように見えた。
石を摘まみ、くるりと回してみる。何も起こらないものの、指先が痺れるような感覚がした。
買ったときには何の変哲もないストラップだったはずなのに。
ストラップを置くと、目を閉じて記憶をたどる。九歳のとき、お小遣いを貯めて父親の誕生日プレゼントにと買った。あげたとき、無口であまり感情を表に出さない父親が、ほんの少し笑ってくれたのを覚えている。
もしかして、父親も十年前のあの夜、自分と同じようにタイムスリップしたのだろうか。
おぼろげな父親の顔を、頭に思い浮かべる。
もしもお父さんがタイムスリップしていたのだとしたら、私は――。
花は寝返りを打って、ぎゅっと身体を丸めた。
これからのこと、この時代のこと……父親のこと。考えていると、そのうち抗いがたい眠気に襲われ、ゆっくりと意識を手放した。