三
「ここが台所や。食材はあるもんやったら、何使うてくれてもええで」
「うわあ……」
連れてこられた台所を前にして、一瞬心が折れそうになった。
屯所の台所は、土間の一角に備え付けられている。床上に竃、床下に水瓶とゆるやかな傾斜の板張りで作られた流し、というこの時代ではごく一般的な造りだ。
しかし花はげんなりした表情でそれらを見つめる。調理設備の整っている店で働いている分、自分の家で料理をすると、やり辛いと思うことがあったが、その比ではない。
竈など今までの人生で、見たこともなければもちろん使ったこともない。食材も山崎はなんでも使っていいなどと言うが、そもそも選べるほど種類がなかった。
「せめてあの段ボールも一緒にこっちに来てたら……!」
職場の先輩たちからもらった誕生日プレゼントを思い出し、頭を抱える。
「だん……何や?」
「……茶色のこれくらいの箱です。食材がいろいろ入ってるんですけど、その……なくしちゃったみたいで」
手で大きさを示しながら説明すると、山崎が「ああ」と思い出したように口を開いた。
「あれお前のやったんか。廊下に落ちとって誰のか分からんかったさかい、部屋に移しといたんやけど」
「本当ですか!?」
地獄に仏とはまさにこのことか。
山崎に連れられ段ボールを取ってくると、さっそく中身を確認する。野菜や缶詰、乾物などの食材にフードプロセッサー。痛んだり傷ついたりしている様子はなく、ほっと胸を撫で下ろした。
しかしいつも店で出しているようなコース料理は、台所にもともとあったものと、この段ボールの食材を合わせても作れそうにない。
「……そういえば、隊士全員の晩ご飯を作れって言ってましたけど、隊士の方って何人いらっしゃるんですか?」
肝心なことを聞き忘れていた。山崎は不思議そうに缶詰を見ながら答える。
「三十一人やな。せやけど料理は二十五人分でええわ」
「どうしてですか?」
「壬生浪士組には、近藤局長の他に局長がもう一人おんねん。その局長、芹沢先生の一派はこの屋敷の裏手にある八木邸におって、そこで賄いの面倒もみてもらっとるさかい」
「へえ……そうなんですか」
同じ集団の中にトップが二人もいるというのは、なんだか変な気がした。しかも離れて暮らしていて食事も別だなんて、もしかしてあまり仲がよくないのだろうか。
少し疑問に思ったが、自分には関係のないことだし、余計なことに首を突っ込みたくはない。
「あともう一つ質問なんですけど、今って何時ですか?」
代わりにずっと気になっていたことを聞くと、山崎は眉を寄せて花を見た。
「……なんじて何?」
そうか、時間の数え方も現代とは違うのか。
「ええっと……夜ご飯の時間まで、あとどれくらいですか?」
少し考えて聞きなおす。
「晩飯はいっつも五つくらいで、ちょい前に八つの鐘が鳴っとったさかい……大体二刻くらいとちゃう」
「い、五つ? 八つって……? 二刻ってどのくらいですか?」
「お前それ本気で言うとるん?」
山崎が信じられないという目で花を見る。
時間の数え方はさすがにこの時代でも常識のようだ。花はいたたまれなくなってうつむいた。
「その、私の住んでたところとは、ちょっと数え方が違うみたいで……」
「はあ……まあええわ。ほんなら説明したるさかい、ちょっとこっち来い」
手招きされ、二人で台所を出る。山崎は庭まで来ると落ちていた枝を拾って、地面に丸い円を描いた。
「まず一日は十二刻に分かれる。明け六つが日の出の四半刻前で、そっから五つ、四つ、九つ、八つ、七つ、ほんで暮れ六つや。暮れ六つは日の入りの四半刻前。そっから先はまた同じように五つ、四つて続く」
「なるほど……」
十二等分された円を見つめて呟く。
現代では一日を二十四時間で数えるが、この時代はその半分で数えているようだ。ということは、一刻は大体二時間ということになる。
「でも日の出とか日の入りの時間って、季節によって違いますよね……? この数え方だと、夏とか冬は昼と夜とで一刻の長さがかなり変わりませんか?」
「そうやけど……変わったら何か問題あるんか?」
「ありますよ。たとえば明け六つから暮れ六つまで働くとしたら、夏と冬で働く長さが全然違うじゃないですか」
「……お前変なとこ気にするんやな。そんなん普通やろ」
「ええ……?」
おかしいのは自分の方なのか。訝しげな目を向けられるが、いまいち釈然としない。
「じゃあ何で四つの次は三つじゃなくて九つなんですか?」
「そういうもんやからや」
「……山崎さん、だんだん面倒くさくなってません?」
疑うような視線を向けた花に、山崎は「なってへん、なってへん」と適当な調子で返した。
「あとは他に、十二支で数えたりもするな。夜九つが子で、そっから丑、虎、卯て続く。……さすがに干支は分かるやんな?」
常識の面で、相当信用をなくしてしまっているようだ。「分かります」と頷くと、心から安堵した様子で「そらよかった」と返された。
「一応説明しとくけど、四半刻は一刻の半分のさらに半分のことやからな」
一刻が約二時間だから、四半刻は大体三十分くらいということか……。
「他に質問は?」
「ありません」
「ん。ほな勉強は終わり」
山崎が言って、持っていた枝を放る。途中、少し面倒くさそうにしていたものの、こうして最後まで丁寧に教えてくれるあたり、山崎は面倒見のいい人なのかもしれない。
「教えてくれてありがとうございました」
「ええよ。それよりお前何作る気なん?」
「それが……何品か思いついてはいるんですけど、主菜になりそうなものがなくて」
困りきってため息を吐く。
すると山崎はあっさり「ほな買いにいくか」と歩き出した。慌ててそのあとを追いかける。
「いいんですか!?」
「そら食材がなかったら、いくら料理人やいうても何も作られへんやろし。お前が土方副長らを納得させられるんかは分からんけど、全力尽くせんで認められへんのは嫌やろ」
「山崎さん……!」
花は感動して山崎を見つめた。沖田や土方であったら、絶対にあるものだけで作れと言っただろう。
「ありがとうございます! 私、頑張ります!」
「……言うても、そない高いもんは買うたれへんからな。あんま期待はしすぎんように」
「はあい」
機嫌よく笑顔で答える。そんな花に「ちょっと待っとき」と言い残して、山崎は庭から廊下に上がった。近くの部屋に入ると、何か布のようなものを持って戻ってくる。
「そん格好やと目立ちすぎやし、とりあえずこれ羽織っとき」
そう言って渡されたのは、紺色の羽織りだった。言われた通り、カットソーの上から羽織ってみる。
「暑い……」
羽織りは薄い生地のものだったが、長袖のカットソー一枚でも暑いくらいだったので、正直なところ今すぐ脱いでしまいたい。
「着物に着替えるんでもええけど、時間もったいないやろ。我慢しい」
「はい……」
渋々頷いて歩き出す。
しかしふと足を止めると、花は弾かれたように山崎を見た。
「すみません。やっぱり買い物に行く前に、だしの下ごしらえをしたいんですけど、いいですか?」
「ああ、ええで」
山崎が快諾してくれたので、急いで台所に戻る。
段ボールの中から干し昆布を取り出し、包丁で切れ込みを入れると、水を張った鍋の中に入れた。
「昆布だしか」
作業を見ていた山崎が言う。それに対して花は首を横に振った。
「昆布だしもですけど、これで他にも白だしとか鰹だしとか作る予定です。……それじゃあ行きましょうか」
鍋に蓋をして振り向くと、山崎は意外そうな顔をする。
「下ごしらえて、そんだけなん?」
「はい。先に水に浸けておいて、それから火にかけるんです。ちょっとしたことですけど、大事なんですよ。料理って、手間をかけたらかけた分だけおいしくなるから」
「……こんくらいでそない変わるもんか?」
首を傾げる山崎は、半信半疑の様子だ。花は「まあ楽しみにしててください」と笑っておいた。
「お、山崎じゃねえか! 女連れてどこ行くんだ?」
今度こそ買い物へ行こうと台所を出ると、門の方から大きな声が聞こえてきた。
「永倉はん、原田はん。巡察ご苦労さまです」
こちらに向かってくる二人の男を見て、山崎が軽く頭を下げる。
どうやら彼らも壬生浪士組らしい。二人とも歳は、二十代半ばくらいだろうか。
にやにやと緩んだ顔で近づいてくる姿を見て、花はなんとなく嫌な予感がして山崎のうしろに隠れた。
「そんなことより紹介しろよ。どれどれ――っておい!」
花の顔を見た男の一人が、もう一人の男の脇を肘で突く。
「なになに――っておお!」
同じく花の顔を覗き込んだ男が感嘆の声を漏らす。そして二人顔を見合わせると、同時に頷いて、両側から山崎の肩を掴んだ。
「お前、こんな器量よしどこで見つけてきたんだよ! ……格好は珍妙だが」
「島原にもなかなかいないんじゃねえか!? お前も隅に置けない男だなあ! 確かに珍妙な格好だが……」
珍妙、珍妙と失礼な人たちだ。
「いえ、俺は別に――」
山崎はげんなりした顔で否定しようとする。
しかし二人の男は耳も貸さず、今度は花を取り囲んだ。
「俺は永倉新八で、こいつは原田左之助。二人とも壬生浪士組の副長助勤だ。よろしくな」
副長助勤といえば、確か沖田と藤堂と同じ役職だったはず。あの二人とはまた違って……なんというか、軽そうな男たちだ。
花は原田と永倉から少し距離を取って、頭を下げた。
「はじめまして。神崎花です」
「花ちゃんかあー。顔だけでなく、名前まで可愛らしいんだなあ」
「本当、花のように美しいきみにぴったりの名だな」
「は、はあ……どうも」
苦笑いしつつ、顔をそらす。引いているのが一目で分かる態度だが、二人は気にした様子もなく、ぐいぐいと迫ってくる。
「歳はいくつ? どこに暮らしてんだ?」
「なまりからして、出は江戸の方か? だとしたらどうして京に来たんだ?」
「ええっと……」
どうしよう、面倒くさい。できれば無視したいところだが、彼らは浪士組の幹部のようだし、あまり印象を悪くしない方がいい気もする。
対応に迷っていると、不意に庭の方から足音が聞こえてきた。
「こらこら、彼女が困っているじゃあないか」
「山南さん!」
現れた男を見て、永倉と原田が花から離れる。
「二人とも、土方くんがお怒りだったよ。まだ報告が終わってないんじゃないか?」
「げっ、すっかり忘れてたぜ」
「鬼に見つかる前に、さっさと戻らねえとな」
二人は慌てた様子で山南にお礼を言って、
「じゃあな! 花ちゃん、山崎!」
「花ちゃん、山崎に飽きたら俺たちが相手してやるから、いつでも来いよ!」
と手を振りながら去っていった。残された三人はしばらく黙っていたが、ふと山南が感心した様子で口を開く。
「この短い間で女性を落とすとは、いやはや天晴れだね」
「山南副長までそない冗談、勘弁願います……」
疲れた顔で言った山崎に、山南は声を上げて笑った。
「すまなかった。ところで二人ともどこへ行くんだい?」
「食材を買いに市内に出るところでした」
「監視は総司の役目だったはずだが……もしかして逃げたのか?」
山崎はにこりと微笑んで否定しなかった。やれやれといった風に、山南が息を吐く。
「山崎くんには迷惑をかけてしまって悪いね」
「いえ、副長に謝っていただくようなことやないです」
山崎の言葉に苦笑して、山南が花の方を向く。
「神崎くんでしたね。きみも、先ほどは土方くんが恐がらせてしまったようで、失礼しました。土方くんは悪い人ではないのですが、少々荒っぽいところがありまして……」
花は内心「少々か?」と首を傾げつつも、両手を顔の前で振った。
「大丈夫です。それに、私が怪しく見えるのは仕方ないと思いますし……」
ここが本当に江戸時代なのだとしたら、自分の格好や言動におかしなところは山ほどあるだろう。
……私、本当にタイムスリップしたのかな。
悪い夢であって欲しいと願うものの、もし本当にそうだとすれば、自分はこれから一体どうなるのか。考えただけで不安で、胸が潰れそうになる。
さっきまで、疑いを晴らすことや料理を作ることに必死で、これから先自分がどうしたらいいのかなんて考えもしていなかった。しかし、もしも疑いが晴れて解放されたら、自分はその先どうするつもりなのだろう。働こうにも、こんな素性の知れない不審な女を雇ってくれる店なんてあるのか。
それに詳しいことは分からないが、現代と比べて江戸時代の治安は決していいとは言えないだろう。
脳裏に浮かんだのは、町での沖田とのやり取り。一歩間違えば、あのとき命を落としていたかもしれないのだ。
今さらながら、花はぶるっと身体を震わせた。
「顔色が悪いようですが、どうかしましたか?」
山南が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「その、これからのことを思って、少し不安になって……」
うつむきがちに答えると、山南は憐れむように花を見た。
「そうか……記憶を無くして、自分の家がどこにあるのかも分からないのでしたね。さぞや不安でしょう。何かあったら遠慮なく言ってください。できる範囲で力になります」
「……ありがとうございます」
謀らずも騙す形になってしまったことに気まずさを感じつつ、花は頭を下げた。山南は見るからに人がよさそうで、そんな人を騙すのはさすがに罪悪感があった。
「いえ。それでは、夕餉を楽しみにしていますね」
微笑んで言って、山南が去っていく。花と山崎はそれを見送ったのち、京の町へと向かった。