四
ひとまず二人で話をするため、花は芹沢と離れへ移動した。
「何から話せばいいか……」
まだ混乱している様子で、額を押さえて芹沢が言う。
花はその姿を見つめておそるおそる口を開いた。
「本当に、お父さんなの……?」
「ああ。……忘れていて、すまなかった。これまで一人で大変だっただろう」
花は首を横に振った。
突然のことで、まだ信じられない気持ちが大きい。夢でも見ているのではないかという気がしてくる。
「今まで何があったのか、聞いてもいい?」
尋ねると、芹沢――父親は頷いて話し始めた。
「お前の十歳の誕生日の夜、車に轢かれそうになって――その直後のことは思い出せないが、目が覚めると記憶をなくしてこの時代にタイムスリップしていた」
やはり母親の言葉は本当で、あのときに父親もタイムスリップしていたのか。
花は両手を膝の上で握った。
「そのあとは山中をあてもなくさまよい、日が暮れ始めた頃になってようやく人を見つけた。お前も知っているだろう――浪士組で勘定方をしている、平間重助だ。平間はそのとき下村継次という男を殺したところだった。理由はささいなことで、かっとなってつい斬ってしまったらしい。下村は平間の主だったが、この時代では主殺しは最も重い罪とされ、鋸引きの上、磔にされて殺される。罪が露見することを恐れた平間は、俺に下村と成り代わることを提案した。平間は下村に付き添い、全国の道場を回っていたところらしく、行くあてのなかった俺はその提案を受け入れることにした。……それから数年は、ただこの時代のことを学び、剣の腕を磨く日々だった」
話しながら、父親が視線を落とす。
「その間、俺はずっと抜け殻のようだった。夢も希望もなく、ただ死にたくないという気持ちだけで生きていて――玉造組に入ったのは、そんなときだった」
「玉造組……?」
「今で言う天狗党の前身で、尊王攘夷思想の強い集団だ。水戸藩は天保学により尊王攘夷の思想を持つ者が多かったため、安政の大獄の直後、朝廷から対策を講じるよう勅書を賜った。だがそれを知った幕府はその勅書を返還するよう水戸藩に命じたんだ。藩の上層部はみな、幕府に睨まれることを恐れ、勅書の返還に応じようとした。しかし、朝廷を軽んじるような幕府の行為を承服することは到底できない――そう考えて勅書返還を阻止するため立ち上がったのが玉造組だ」
当時を思い出すように、父親は目を細めた。
「俺は根無し草のように生きるのが辛くなり、組入りしただけだったが、気づけば組内で幹部の一人となっていた。今思えば、記憶をなくしても身体に染み付いていた、現代の知識や考え方が役立っていたのだろう。人から頼られ、それに応えられることは嬉しく、特に幹部の大津彦五郎という男と親しくなってからは、この時代にきて初めて、生きるのが楽しいと思えるようになっていた。――結局それも長くは続かなかったが」
「……何があったの?」
「前藩主の徳川斉昭が急逝し、藩内の攘夷派が力を失い始めていた頃、俺は横浜での攘夷決行を目指し挙兵資金の調達に奔走していた。しかし、その頃より仲間内から暴挙を働く者が出始め、また玉造組と偽る者による金策も横行しだした。それらの評判が耳に入り、幕府は水戸藩に対し攘夷派の解散を求めたんだ」
「それで玉造組は解散に……?」
花が尋ねると、父親は苦々しい笑みを浮かべた。
「解散というより、弾圧といった方が正しいだろうな。俺は捕縛され、部下の助命嘆願のため自首した大津とともに、水戸の細谷獄へ入れられた」
「え……」
「大津や俺のような幹部以外の組員の牢獄での扱いは酷いもので、多くの仲間がそこで命を落とした。大津はそれを憂い食を断って訴えたが、とうとう聞き入れられることなく飢え死にしてしまった」
父親の顔が痛みをこらえるように、僅かに歪んだ。
「……その後、時勢が急変し、俺は斬首刑を間近に釈放されることになった。それからは江戸で将軍警護のために募集された浪士組に参加して、京に来て――今に至る」
話し終えた父親の顔を花は何も言わず見つめた。父親の過ごしてきた日々はあまりに壮絶で、言葉が出なかった。
「……お前がそんな顔をしなくていい」
花の顔を見て、父親が少し困ったように微笑む。花は頷いて、小さく息を吸った。
「でも――どうして、十年前に何をしていたのか教えてくれなかったの?」
以前聞いたとき、十年前に記憶をなくしたと教えてくれていれば、父親かもしれないと分かっただろうに。
「俺の記憶があるのは、七年前からだったからだ」
「七年……?」
「おそらくタイムスリップ時に飛ぶ時間は、秩序的でない。お前は俺がここで七年過ごした時代にたまたま落ちてきただけなのではないか」
つまりはこの時代で一か月過ごしたからといって、現代に戻ったとき同じように一か月たっているとは限らないということか。
花は考えて――うつむいた。
「私、ずっとお父さんに捨てられたんだと思ってたの。お母さんはお父さんが突然消えたんだって言ってたけど、そんなことあり得ないって信じてあげられなかった。私はお母さんの子どもなのに……」
自分はなんて酷い娘なのだろう。
娘にも信じられず、母親がこれまでどんな想いで生きてきたか、考えると胸が苦しくなった。
「自分の目で見たのでなければ、信じられなくとも仕方がないだろう。母さんもきっとお前を恨んだりはしていない」
「……うん」
「それにしても、お前はどうやってこの時代にタイムスリップしたんだ?」
尋ねられ、花はこれまでの経緯を簡単に話して聞かせた。
「これがそのストラップなんだけど……」
最後にそう言って、袴の紐に括り付けていたストラップを差し出す。父親はストラップを受け取って、次の瞬間頭を押さえて蹲った。
「う……ぐっ」
「お父さん!?」
慌てて背中に手を当てて、顔を覗き込む。
「大丈夫? どうしたの?」
尋ねるが、父親は答える余裕もない様子だ。汗を掻いていて、酷く苦しそうにしている。
誰か呼んできた方がいいだろうかと、花は立ち上がった。部屋を出ようと背を向けた、その背後でどさりと倒れる音がする。
振り返ると、父親が畳に倒れ込んでいた。
「お父さん! お父さん!」
身体を揺さぶって何度も呼びかけるが、答えない。息はしていて、どうやら気を失っている様子だった。
花は急いで沖田たちのいる母屋へ戻った。
その後医者を呼んで看てもらったが、気を失っているだけで特に悪いところはないと言われた。
花は安堵しつつ、その日は夜ご飯を作りに一度前川邸に戻った以外は、ずっと父親の看病をしていた。
しかし結局目が覚めないまま夜が更けてしまい、花は一度前川邸に戻ることになった。
*
自室に戻った花は布団に横になろうとして、ふとリュックの中からスマートフォンを取り出した。
メールフォルダには未読のメールが一件ある。母親からのメールだ。
花は少しためらってから、メールを開いた。
『花へ。二十歳の誕生日おめでとう。花もとうとう大人の仲間入りだね。ついこの間まで小さな子どもだった気がするのに、時間の流れは早いものだなとしみじみ思います。
仕事の方はどう? 夢だった料理人になって、もうすぐ一年がたつよね。
花は料理に熱中すると無理をしがちだから、体を壊したりしていないか心配です。何かあったらいつでも頼っていいからね。
寒い日が続いてるけど、風邪とかひかないように。忙しいだろうから、返信は返せるときに返してね。
それじゃあ、いい誕生日を。お母さんより』
メールを読み終えた花は、スマートフォンを胸に抱きしめた。
「お母さん……」
会いたい。会って、顔を見て謝りたい。
自分はこんなに酷い娘なのに、母親はそれでも大切にしてくれていた。
目の奥が熱くなって、涙がこぼれる。しばらく涙は止まらなかった。
*
翌日花は朝ご飯の片づけを終えると、また八木邸に向かった。聞くと父親は今朝意識を取り戻したようで、すぐに離れの父親の部屋を訪ねた。
「昨日は心配をかけて悪かった」
「身体はもう大丈夫なの……?」
布団から上体を起こした父親を、うかがうように見る。
「それよりも、タイムスリップしたときのことを思い出したんだ」
「本当に?」
目を丸くする花に頷くと、ゆっくりと話し始める。
「事故にあって強く頭を打ったとき目に見える景色が、何と言うか――三次元以上の何かと言うのが一番近いか、ともかく今までと全く違って見えた。周りの音が遠くなって、俺は何かに縋ろうとしてお前に貰ったそのストラップを握り締めた。その瞬間、電流のようなものが身の内を走って……そのあとは、記憶をなくしたこと以外はお前と同じだ」
「それじゃあ、このストラップが普通じゃなくなったのは、お父さんが何かしたからなの……?」
「もう一度やれと言われても二度とできる気はしないが……おそらくそうなのだろう」
話しながら、父親の目は花が袴につけている石へと向けられる。
「お前は俺の娘で、タイムスリップしたときの状況も似ている。その石は俺がタイムスリップしたときと同じ状況だと認識して、花をこの時代に飛ばしたのではないだろうか」
花は袴の紐からストラップを外して、手のひらの上に置いた。相変わらず、静電気のようなものを感じる以外はごくごく普通の石だ。
父親の話は現代にいた頃なら、きっとあり得ないと信じなかっただろう。しかし自分たちは実際にタイムスリップしていて、そのときの状況を鑑みると、父親の仮説は成り立つような気もする。
「……花、そのストラップをしばらく貸してくれるか? すぐには無理だが、この石を使えば現代へ帰ることも可能かもしれない」
「本当に……!?」
驚いて、弾かれたように顔を上げる。
「ああ。だが昨日石に触れてみて、力がかなり弱まっているように感じた」
「あ……そういえばこの石、現代で見たときより色が薄くなってたの」
花は父親にストラップを渡した。父親は石をそっと握り締める。
また昨日のように倒れたりしないか心配だったが、特に何かが起きることもなく、しばらくすると手を開いた。
「この力では、おそらくあと一人しかタイムスリップできない」
「え……」
花は思わず目を見張った。
あと一人――父親か自分しか現代に帰れない?
言葉を失っていると、父親はまっすぐに花を見つめた。
「花。お前が現代に帰れ」
「そんな、お父さんを置いて帰れないよ!」
反射的に首を横に振る。父親はほんの少し、笑みを浮かべた。
「いいんだ。俺はこの時代で暮らし始めてからもうずいぶんたつし、慣れている。それにこれから先、人生が長いのは花の方だ。お前にここで苦労をさせたくない」
「でも……やっと会えたのに」
花は父親の腕を掴み、うつむいた。
「私、もうお父さんと離れたくない。一緒に帰れないなら、私もここに残る」
「……花。母さんに謝りたいんだろう?」
優しい声で、父親が聞く。花は唇を噛んだ。
「花が帰らなければ、母さんは一人になる。帰って、安心させてやってくれ」
そう言うと、花の頭に手を乗せてそっと撫でた。
でも――だけど、自分が母親を選べば、父親はずっとここで一人で生きていくことになる。
父親か母親か、どちらかなんて選べない。――選びたくない。
目の前が滲んで、涙が溢れないよう必死でこらえる。
「花……頼む」
花は唇を噛み、こぶしを強く握り締めた。
やがて小さく頷くと、父親はほっとしたように息を吐いた。
「長い間、寂しい想いをさせてすまなかった。……だがここで、こうしてお前に会えてよかった」
どこかすっきりしたような顔で微笑む。
そのあと少し話をすると、父親はまだ体調が優れないようで、今日は一日寝ているので、花は前川邸へ帰るよう言われた。
*
「あの、神崎はん。ちょっとええどすか?」
母屋へ戻ると、秀二郎が声をかけてきた。そのうしろには梅の姿もある。
「実は神崎はんに報告があって……」
「何ですか?」
どこか恥ずかしそうな二人の様子に首を傾げる。梅は少しためらってから、思い切ったように秀二郎の隣に並ぶと口を開いた。
「うちも秀二郎はんと駿府へ行くことになりました」
「――え、ええええ!?」
驚いてつい声を上げる。
「二人で行くってことですか? それって、その、もしかしてお二人は……」
梅と秀二郎が同時に小さく頷く。花は思わず笑顔になった。
「わあ、そうですか! お二人がいなくなるのは寂しいですけど……でも嬉しいです!」
そう言って、自分もこれからいなくなるのだったと思い出した。
「勉強終わったらこっち戻ってきますさかい、そんときまたお会いしましょう」
「次会うたときに神崎はんびっくりさせられるよう、お料理の練習頑張りますね」
笑顔で話す二人に、花は頷いて微笑んだ。
「……はい。楽しみにしてます」
*
前川邸に戻り、庭を歩いていると、廊下に山崎の姿を見つけた。声をかけようとして――ふと止める。
現代に帰ったら、山崎にももう会えない。そう思うと胸が締め付けられて、苦しい。あんなにも帰りたいと願っていたのに。
花は目を閉じて、山崎に蔵に閉じ込められたときのことを思い出した。
現代に帰ることを寂しいと思うようになんて、あのときは想像もしなかった。
涼しくなった秋の風が、庭を吹き抜ける。
結局花は山崎に声をかけることなく、自室へ向かった。
**********
長月に入って数日がたったある日、八月十八日の政変での働きを評価され、壬生浪士組は武家伝奏より『新選組』の名を賜った。
武家伝奏とは朝廷の役職の一つであり、朝廷と幕府の取次ぎが仕事である。代々公卿が務めてきた、朝廷においても重要な役職で、武家伝奏より名を賜ることは大変名誉なことであった。
「新選組……。やはりよい名だな、歳、総司」
近藤が笑って振り返る。その隣――八木邸の右門柱には、真新しい『松平肥後守御領新撰組宿』という表札がある。
「そうですね」
沖田は笑顔で答えた。沖田自身は武家伝奏にも新しい名前にも、さほど興味はなかったが、近藤が喜んでいるのを見られるのが嬉しかったのだ。
しかし表札を眺めていた近藤の顔がふと曇る。
「……近藤先生、どうかしましたか?」
「ああ、いや。何でもない」
誤魔化すように近藤が微笑む。すると隣で黙り込んでいた土方が、沖田に向き直った。
「――総司。芹沢のことで話がある」
「歳」
咎めるように近藤が名前を呼ぶ。しかし土方は引き下がらなかった。
「こいつはもう子どもじゃねえんだ。――それに今回の計画にはこいつの力が必要だ」
「だが……」
近藤がためらう様子を見せる。
「大丈夫ですよ、近藤さん。私は近藤さんの役に立てるなら、なんだってしますから」
それは心からの言葉だった。
しかしなぜか近藤はますます複雑そうな顔をするだけだった。
それから、ほどなくして土方の部屋へ移動した。
近藤と土方が並んで座り、沖田はその正面に腰を下ろす。
「数日前、会津候より芹沢派を極秘裏に粛清するよう命が下った」
声をひそめて土方が言った。なんとなく予想していたことだったため、驚くことはなかった。
「大和屋の件が原因ですか?」
尋ねると、土方が頷く。
「それだけってわけじゃないだろうがな。それがとどめだったのは間違いねえ」
「……手筈は?」
「後日酒宴を開き、酒に酔わせた上で奇襲する。今のところ、俺と山南さんと原田がやることになっている」
「そうですか……」
沖田は小さく息を吐いて、目を閉じた。
「……分かりました。私も加わります」
「だが、お前は芹沢さんと親しくしていただろう」
「それで心配してくれてたんですか? やっぱり近藤先生は優しいなあ」
「総司。私は真剣に話しているんだ」
近藤は沖田に向かって身を乗り出した。
「無理をする必要はない。本当に嫌なときは嫌だと言っていいんだ」
諭すように近藤が言う。沖田は微笑んだ。
「私は自分がそうしたくてするんです。無理なんて少しもしていないですよ」
そう言うと、隣の土方へ顔を向ける。
「土方さんも私が加わった方がいいと思いますよね?」
「……ああ」
「ほら、二対一ですよ。諦めてください、近藤先生」
近藤はうつむいて、膝の上に置いていた手を握り締めた。
「……すまない」
土方の部屋を出て廊下を歩いていると、向かいから角を曲がって花が現れた。
「あ、沖田さん」
「これから八木邸ですか?」
花は梅が来てからよく八木邸に行っているようだった。特に最近は、用のないときはほとんど八木邸にいるほど入り浸っている。
「はい。あ、沖田さんも行きます?」
何気なく花が尋ねる。その言葉に、以前花と八木邸に行ったことを思い出した。
あのとき芹沢は思い出したと――自分の名は神崎智弘だと言っていた。その後芹沢は倒れ、それどころではなくなり聞けなかったが、あれは結局どういう意味だったのだろう。
考えかけて、途中でやめた。
芹沢が花にとって何だったとしても関係ない。どうせこれから斬って殺してしまうのだから。
「……すみません。今日はこれから用があるので、遠慮しておきます」
「そうですか。それじゃあまた」
去っていく小さな背中をぼんやりと見つめる。
芹沢を殺したと知れば、今度こそ花は自分を拒絶するかもしれない。
だがこれでいいはずだ。
初めて人を斬った日の夜、沖田は大切な人を守るために人を斬ることを躊躇しないと心に決めた。
もしも芹沢を斬ることを拒否して、土方や山南、原田が怪我をしたり殺されたりすれば、絶対に後悔することになる。
だからこの選択は間違いではないはずだ。
廊下を歩きながら、沖田は何度も自分にそう言い聞かせた。




