三
「――ったく、長州の腰抜けどものせいで、結局なんの手柄もたてれずじまいじゃねえか!」
土方が苛立った様子で、乱暴に畳に杯を置く。
酒のつまみを持って部屋に入ったところだった花は、障子を閉めながら横目にその様子を見た。
部屋の中には土方と沖田がいて、珍しく昼間から酒をのんでいる。
壬生浪士組の隊士たちは一刻ほど前に屯所に帰ってきたばかりだ。しかしみな無事な様子で安堵したのも束の間、土方は風呂から上がるなり花の部屋の戸を、やくざが借金を取り立てに来たような勢いで叩き、酒とつまみの用意をするよう命じたのだ。
花は八木邸へ行こうと支度をしていたところだったが、土方には逆らえないため渋々命じられるまま酒を用意して、今に至る。
「もう、土方さんったら。見かけによらずお酒弱いんですし、そろそろ飲むのやめときましょうよ」
「うるせえ! これが飲まずにいられるか」
手酌しながら沖田に言って、土方は花を見た。
「おい、神崎! もっと酒持って来い!」
「ええ……」
つまみを出して、さっさと退散しようと思っていたのだが。花は二人の前につまみを置き、ちらりと徳利の中身を確認した。
「持ってこいって、今あるぶんの半分も飲みきってないじゃないですか」
「口答えすんじゃねえ!」
土方が赤かった顔をさらに赤くして怒鳴る。花は腰を上げながら、小さく息を吐いた。
「どうせ飲めないのに、見栄張っちゃって……」
「おい、今何つった」
小声で呟いた花に、土方は耳ざとく反応した。慌てて口を押さえるが、もう遅い。
人でも殺せそうな目で睨まれて、花は視線を泳がせた。
「まあまあ、土方さん。――そうだ、こんなときは句作でもして気持ちを落ち着けたらどうですか?」
「クサク?」
首を傾げると、沖田はこっそりと花に耳打ちする。
「土方さん、実は俳句を詠むのが趣味なんです。そっか、神崎さんは『豊玉発句集』を知らないのかあ」
「ホウギョクホックシュウ……?」
「土方さんの句集ですよ。豊玉は土方さんの雅号なんです。……仕方ないですね、ここは私のお気に入りをいくつか詠んで差し上げましょうか」
そう言うなり沖田は、一つ咳払いをし、喉の調子を整えてから真剣な面持ちで口を開く。
「梅の花、一輪咲いても梅はうめ」
「それは……まあ、そうですよね」
当たり前すぎて、なぜ俳句にしたのかよく分からない。花は思わず首を傾げた。
しかし自分は俳句には詳しくないので、もしかすると深い意味の隠された、素晴らしい句なのかもしれない。
「春の草、五色までは覚えけり」
「……なるほど」
おそらく春の七草のことを言っているのだろうが、先ほどの句といい特に深い意味などないような気がしてきた。
「それでは最後に……うぐいすや、はたきの音もついやめる」
うぐいすの鳴く声が聞こえてきて、つい掃除をしていた手を止めたという句だろう。
この句をただ聞いただけでは特に何も思わなかっただろうが、普段鬼のように怖い土方が詠んだのだと思うと、おかしくてつい顔がにやけてしまった。
花は慌ててうつむいて、誤魔化すように咳をした。
「どうです? おもし――素晴らしい句でしょう?」
今、面白いと言いかけた気がする。内心思いながらも花は笑顔で顔を上げた。
「はい、親しみやすくてすごく素敵だと思います。今度から初対面の人にはその句集を贈るようにしたらいいんじゃないですかね?」
きっと土方の恐ろしさが半減するはずだ。
「あっはっは! それは名案ですね!」
沖田は腹を抱えて笑った。
「……おいお前ら、ずいぶん楽しそうだな?」
頬をひきつらせて土方がこちらを向く。そういえば、いつの間にか声のボリュームを落とすのを忘れていた。
「もういい、二人ともさっさと出てけ!」
結局、怒った土方に部屋を追い出されてしまった。
「あーあ、神崎さんのせいで怒られた」
一緒に部屋を出た沖田が肩をすくめる。
「そもそも沖田さんが土方さんの俳句なんて詠むからいけないんですよ」
「でも面白かったでしょう?」
笑顔で言って、沖田が歩き出す。やはり面白いと思っていたのか。
「ところでこれから何か予定ってあります? 私、八木邸に遊びに行こうと思ってるんですけど、一緒に行きません?」
「いいですよ。私もちょうど行こうと思ってたので」
今日は以前梅と約束していた、だし巻卵を作る日だった。
朝作っただしを持っていくため、ひとまず台所へ向かっていると、廊下の向かい側から原田と永倉が現れる。
「おっ、総司と花ちゃん!」
二人はにやにや笑いながらこちらに近づいてくる。
「とうとう山崎から乗り換えたのか?」
「いやあ、おめでとう! 美男美女でお似合いじゃねえか!」
そもそも山崎と付き合ったことはないと説明したはずなのだが。
「この二人、何言ってるんです?」
訝しげな顔をして沖田が聞く。沖田から話してもらえば、今度こそこの二人の誤解をとけるだろうか。
「――っと、やべ!」
沖田に話をしようとしたところで、不意に原田と永倉がしまったという顔で花たちのうしろを見た。振り向いた先には山崎が立っている。
屯所へ帰還する途中、近藤に用を言いつけられたらしく、山崎は一刻前に帰還した隊士たちの中にはいなかった。格好から察するに、今帰ってきたところらしい。
「え、えーっと、俺らはそろそろ部屋に戻るから!」
「じゃあな!」
逃げるように二人がその場を去る。花はうろたえて山崎を見た。
この状況をどう説明したらいいのか。
「あ、あの、山崎さん。これはですね、その……」
しどろもどろになっていると、山崎が首を傾げた。
「……浮気?」
「へっ! な、何言ってるんですか!?」
大きく跳ねた心臓を両手で押さえる。じわじわと頬に熱が上ってくるのを感じた。
「冗談やて」
山崎はくすりと笑って、花の頭に手を置いた。
「ほな、俺はすぐ仕事やさかい」
「あ――待ってください!」
歩き出した山崎を、とっさに呼び止める。
「……その、おかえりなさい」
改まって言うことに気恥ずかしさを覚えつつも、軽く頭を下げた。
無事だと分かっていても、やはり顔を見るまでは安心できなかったので、ここで会えてよかった。
「ただいま」
微笑んで言って、山崎は今度こそ去ってく。そのうしろ姿を見ていると、ふと隣から視線を感じた。
見ると、沖田が顔をしかめて花を見ている。
「なんですか?」
「……なんか、気持ちが悪い」
言いながら、胸の辺りを押さえる。
「飲み過ぎたんじゃないですか? 吐きます?」
「そんな感じじゃないんですよね……。それに私、ほとんど飲んでないですし」
「じゃあ体調崩したんじゃないですか? 戦になるかもしれなくて、ずっと緊張してたでしょうし、疲れてるんですよ。八木邸に遊びに行くのはまた今度にしたらどうです?」
「うーん……あ、でも治ってきたかも」
「……本当ですか? 遊びたいからって嘘言ってません?」
疑うように沖田を見る。しかし沖田は本当に回復したらしく、もう大丈夫だと花を宥めて歩き出した。
*
「あっ、沖田はんや!」
八木邸に着くと、為三郎と勇之介が沖田を取り囲んだ。
「遊びにきたん? 何する?」
「そうですねえ、かくれんぼはどうですか?」
「……やる」
人見知りな勇之介まで、笑顔になって頷いている。壬生寺で会ったときにも思ったが、沖田は子どもに好かれやすいタイプのようだ。
「あ、沖田はん、神崎はん……こんにちは」
今日は外出していなかったのか、秀二郎が現れた。なんだか浮かない顔をしているように見える。
「何かあったんですか?」
さっそくかくれんぼを始めた沖田を尻目に、秀二郎に尋ねてみた。
「……実は駿府行きを話してから、お梅はんに避けられとる気がして」
「ああ。お梅さん、秀二郎さんと別れるの寂しそうにしてましたもんね」
言ってから、ふとこれは本人に伝えていいものだったのだろうかと首を傾げる。
梅本人の言葉ではなく、自分の感じたことだから大丈夫だろうか。
「まさか……俺みたいな男、お梅はんが気にしはるわけないどす」
秀二郎は苦笑いして首を横に振った。
「どうしてそんな風に思うんですか?」
「俺は浪士組の人らみたいに強うないし、気も小さいし……。お梅はんが菱屋におったときも、自分一人やとなんもできひんで、結局神崎はんと佐々木はんが助けてくれはって。……自分でも、情けないて思います」
「でも秀二郎さんは秀二郎さんなりのやり方で、お梅さんのこと助けてるじゃないですか。お梅さんが働けそうなお店を探したり、毎日お茶を淹れて気遣ってあげたり……。そういうことって派手さはないですけど、本人にとってはすごく嬉しくて安心することだと思います」
梅の気持ちを誤解してほしくなくて、花は必死で話した。
「自信持ってください。それで、お別れする前にちゃんとお梅さんと話をしてください」
そう言って、固くこぶしを握る。秀二郎はためらいがちに頷いた。
*
台所へ行くとすでに梅がいたため、さっそくだし巻卵を作ることにした。
「これが時間かかる言うてはっただしどすか?」
花の持って来ただしをまじまじと見つめて、梅が聞く。
「はいそうです。火にかける温度とかも、いつもよりすごく気をつけて作って」
できれば温度計を使いたかったが、この時代にはまだ普及していないようで町でも売っていなかったため、ほぼ付っきりで泡の出方を見て細かく調節した。
「ちなみに何が入ってると思います?」
「……しいたけどすか?」
だしの匂いを嗅いで、梅が答える。
「正解です。あと、鰹だしも混ぜてあります」
「そうどすか。ええ香りどすな」
褒められて笑顔になりつつ、花はだしに薄口醤油、みりんを混ぜて、その中にといた卵を入れた。それから卵焼き器に油を敷いて熱し、混ぜた材料を流し入れる。
「綺麗どすな……」
くるくると巻かれていく卵を見て、梅はため息をもらした。
「焼き過ぎると卵が固くなっちゃうので、半熟の状態で巻くといいんですよ」
焼き終えると、まきすに包んで形を整えてから皿にのせる。そこへ梅に作ってもらった大根おろしを添えて、完成だ。
おやつ代わりにだし巻き卵を出そうと部屋へ戻ると、沖田と一緒になって為三郎と勇之介の相手をしている芹沢の姿があった。
「あ……こんにちは」
大和屋の一件以来まともに顔を合わせていなかったため、少し気まずく思いながら頭を下げる。
「ああ」
芹沢は答えて、花の手にあるお盆へ目を向けた。
「それは何だ?」
「これはだし巻き卵っていう料理です。芹沢さんもよかったら一緒にどうですか?」
「……いただこう」
「はーい、私も食べたいです」
頷いた芹沢の隣で、沖田が手を挙げる。為三郎と勇之介も食べると言うので、雅たちの分を残しつつ、切り分けて渡した。
「卵料理と言ったら今まで卵ふわふわだったんですけど、これはおいしいですね」
「卵ふわふわ?」
「知らないんですか? 近藤先生の大好物なんですけど、こう、薄黄色でふわふわしてて」
身振り手振りを加えて沖田が説明するが、さっぱり分からない。
「卵ふわふわの作り方やったら、こないだ読んだ料理本に書いてありました。お醤油とお酒とお塩、お砂糖をだしに入れて煮立たせて、卵を泡が出るくらい混ぜたら、だしの中に流し入れて蓋してちょっと待ったら完成どす」
「へえ、知らない料理だ……」
料理名だけが変わっているという可能性も考えたが、作り方も知らないものだった。
ただ、どんな料理なのかはなんとなく想像がつく。ふわふわしているのは、おそらくメレンゲだろう。
「お梅さん、すごく勉強してるんですね。私もこのじだ――じゃなくて、この辺りの有名な料理とか、勉強してみます」
ここ最近は悩むことばかりで、こんな気持ちは忘れてしまっていたが、料理について学ぶのはやはり楽しい。
「芹沢はん、どないしたん?」
ふと為三郎の声がして顔を向けると、芹沢が口を押さえてうつむいていた。
「――この味……」
「お口に合いませんでしたか?」
うろたえつつ、芹沢の顔を覗き込む。芹沢はしばらくの沈黙ののち、ゆっくり顔を上げた。
「花、なのか……」
「え……?」
目を見開いた花の顔を、芹沢は呆然としたように見つめる。
「思い出した。――俺の名は、神崎智弘だ」




