二
時は少し戻り、浪士組が壬生村をたつ前。隊士たちが坊城通に集まり始めた頃、山崎も廊下から庭に下りて屯所を出ようとしていた。
しかしふと、塀のそばにぽつんと立っている人影を見つけて足を止める。
「神崎……どないしたん?」
声をかけて近づくと、花は視線を上げて山崎を見た。不安そうなその顔を見て、思わず苦笑する。
「そない顔するなて」
「だって山崎さん、ここに帰ってきたのだってほんの三日前なのに……」
花は口をへの字に曲げてうつむいた。安心させてやりたいと思う反面、心配そうにする姿がなんだか可愛く思えて、このままにしておこうかなどと性根の曲がったことを考えてしまう。
「これから、戦になるんですか? どれくらいで帰ってこられますか……?」
「……大丈夫やて。そない心配せんでも、ちゃんと帰ってくるさかい」
結局、安心させるための言葉を口にした。その声は自分でも驚くほどに優しい。
しかし花はそれでもうつむいたままで、山崎は顔を覗き込むように首を傾げた。
「なあ。帰ってきたら、どっか出かけよか」
「え……」
思わずといった風に顔を上げて、花が目を瞬く。
「ここで暮らすようなってから、ろくに出かけてへんやろ? 行きたいとこあるんやったら連れてったるし」
花は目を見開いたまま山崎を見つめて、やがてこくりと頷いた。
「はい。……約束ですよ?」
花の言葉に小さく笑って、立てた小指を差し出す。
「約束、な」
同じように差し出してきた小指を自分の小指と絡めると、花は応えるように力を込めてきた。
「……ほな、行ってくる」
そう言って、小指を解く。目の前の小さな頭をくしゃりと撫でると、山崎は隊士たちの集まる坊城通へ向かった。
*
「――壬生浪士組だと? そのような者が来るなど、我々は聞いておらぬ」
御所外周蛤門前に着くと、詰めていた会津藩兵がなぜか浪士組を止めにかかった。
浪士組は正式に要請を受けて御所に参じているが、急のことであったため、情報が下の者にまで行き渡っていなかったようだった。
藩兵たちはみな、警戒心を露わに浪士組に向かって槍を向けている。
「そのようなはずは! 拙者らは会津候より伝令を承り、こうして――」
「戯言を申すでない! 即刻この場を立ち去られよ!」
必死で近藤が食い下がるが藩兵は聞く耳を持たない。それどころか、浪士組を追い払おうと槍を振って威嚇を強めてくる。
ここまで来て、何もできぬまま終わるのか。そんな空気が漂いはじめた、そのとき。
「――退け」
波が引くように割れた隊列から、一人の男――芹沢が現れる。
「おっ、お主は何者だ!」
迫力に押されたように、数歩後ずさりながら藩兵が叫ぶ。
芹沢は帯に挿した鉄扇を引き抜くと、藩兵の持つ槍を叩き落とした。
「会津候御預かり壬生浪士組だ。無礼して後悔するな」
「な……!」
藩兵は怒りで顔を赤くしながら睨んだが、芹沢は構うことなく門の前まで歩いていく。
藩兵は落とした槍を拾い上げ、芹沢に向かって襲いかかった。
「この、浪人風情が……っ!」
「芹沢局長!」
槍が芹沢に届こうとしたその瞬間、近藤がはっとした様子で藩兵の持つ槍を掴んだ。
「何だお主は! 邪魔立てするのであれば、お主もただではすまぬぞ!」
「どうかお納めくだされ。拙者らは敵ではござらん」
「近藤さん!」
敵意のこもった目が近藤に向いたとたん、慌てたように土方が駆け寄る。
すると騒ぎを聞きつけたのか、門の中から男が一人駆けつけてきた。
「この非常時に、一体何の騒ぎだ」
「野村殿!」
男の顔を認めると、近藤の顔に安堵の色が浮かんだ。男は浪士組に伝令を送った会津藩の公用方で、近藤と二、三言葉を交わすと、慌てた様子で藩兵に命じて道を開けさせた。
*
やがて浪士組は建礼門そばの御花畑を固めることとなった。
「まさか自分が天子様をお守りできる日が来るとは、思ってもみなかったぜ」
「ああ。たとえ死んでも後悔はないわ」
御花畑へ向かいながら、隊士たちは高揚を隠せない様子で口々にささやき合う。
それもそのはず、浪士組の隊士のほとんどは、浪人やその他武士以下の身分の者だ。本来であれば、禁裏に近づくことさえ許されない、そんな彼らが天皇を守る役目に付けることは、奇跡に等しいことであった。
「せっかくの晴れ舞台だというのに、なにやら物憂げな顔だね」
ふと声をかけられ、山崎は顔を上げた。
「山南副長……」
山南は微笑んで山崎の隣に並ぶ。
「そんな風に見えましたか? ……存外、俺も緊張しとるんかもしれません」
山崎が言うと、山南は一瞬何か言いたげに口を開いた。しかしそれを口にすることはなく、代わりに悪戯っぽい視線を向けた。
「山崎くんでも緊張することがあるんだね」
「なんですか、それは」
山南の言葉にくすりと笑う。しかしその間も、山崎の頭には先ほどの光景が焼き付いて離れなかった。
――避けようともしなかった。
近藤が止めたため大事には至らなかったが、藩兵にうしろから槍を向けられたとき、芹沢自身には全く避ける気が見られなかった。
近藤局長が助けに出ると踏んでいたのだろうか。――しかしそんな危険な賭けをする必要があるか。
「山崎くん」
いつの間にか考え込んでいたらしい。
顔を向けると、山南はまっすぐに前を見つめていた。
「着いたね……」
感慨深そうに、御花畑――またの名を凝華洞と呼ばれる屋敷を眺めて、それから背後の禁裏を見る。
「……敵の数はどれくらいだろうか」
「さあ、どうでしょう。三万やとか三千やとか、いろんな噂が飛びかっとりますさかい」
苦笑して、山崎は小さく息を吐いた。
一方そのころ長州藩は堺町御門の警固を解任され、代わりに警固に当たることとなった薩摩藩と睨み合いの膠着状態に陥っていた。
しかし、後に出た退却を促す勅命により、長州藩は撤退を余儀なくされる。
長州藩と三条実美ら七人の尊王攘夷派公卿は長州へ落ちて行き、結局武力による衝突のないまま、京から尊皇攘夷派が一掃されるかたちで事態は終結することとなった。




