一
庄兵衞が芹沢に殺された日の翌日、花は久しぶりに八木邸を訪れていた。
芹沢がいないか、少し緊張しつつ玄関を上がる。
「おじゃまします……」
「お花はん、怪我はもうええんどすか?」
雅が中の間から出てきて尋ねた。
「はい、もうすっかり。――ところで、芹沢さんっていますか?」
「今日は昼から飲みに行ってはります」
「……そうですか」
いつもなら複雑な気持ちになるところだが、今日は安堵した。
昨夜の記憶はまだ鮮明に頭に残っていて、まともに芹沢の顔を見られる自信がなかった。
それに――芹沢が庄兵衛を殺したことについて、どう受け止めるべきなのかまだ分からないでいる。
視線を落として、唇を引き結ぶ。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分と佐々木は、ただ太兵衛から梅を助けたかっただけなのに。
いっそのこと、初めから太兵衛を殺していればよかったのだろうか。――それとも、人を守る力も覚悟もないくせに、梅を助けようと思ったこと自体が間違いだったのだろうか。
「……神崎はん?」
声をかけられてはっと顔を上げる。いつの間にか雅のうしろに梅が立っていた。
気まずさに、思わず視線をそらしてしまう。
「すみません、お梅さん。約束したのにしばらく来られなくて……」
軽く頭を下げて言うと、花は雅に向き直った。
「……それじゃあ、今日も台所お借りします」
*
二人で台所に立つと、花は取り繕うように笑みを浮かべた。
「一緒に料理するの久しぶりですよね! 何作りましょうか?」
尋ねられ、梅は考えるように目を伏せる。
「……神崎はんの好きなお料理はどうどす?」
「私……?」
首を傾げると、梅は頷いて花を見た。
「今日、元気ないように見えて」
「あ――すみません。気を遣わせてしまって」
「神崎はんが謝ることやないどす。……むしろ、うちが謝らな」
梅はうつむいて、ぎゅっと着物を握り締めた。
「佐々木はんが殺されたんは、うちのこと助けたんが原因やったて聞きました。神崎はんが斬られたんも。うちなんか助けへんかったら、こないなことならんかったのに……うち、なんてお詫びしたらええか」
「違います、お梅さんのせいじゃありません!」
とっさに梅の腕を掴んで否定する。
「そやけど――」
「佐々木さん、自分は正しいことをしたんだって言ってました。お梅さんのこと助けられてよかった、嬉しいって……」
言いながら、胸が締め付けられるような気持ちになった。
そうだ。佐々木は梅を助けられて、あんなに喜んでいた。佐々木は梅を助けたせいで自分が殺されたからといって、それで『助けなければよかった』なんて言う人ではなかったはずだ。
梅の目から涙がこぼれる。その目をまっすぐに見つめた。
「私も、お梅さんのこと助けられてよかった。……お梅さんが自由になって、嬉しい」
佐々木が殺された真相を知ってから、初めて心からそう思えた気がした。
いろんなものを失って、傷ついても、それでも梅を助けたことは間違いではなかった。
間違いだったかもしれないなんて、もう二度と思わない。
「神崎はん……」
顔を歪めて、梅が泣く。花はそっとその背中を撫でた。
「ほんで、神崎はんは何が好きなんどすか?」
しばらくして、梅が涙を拭いて聞いた。花は少しためらって、
「……だし巻き卵です」
と答えた。父親が失踪してから、人に教えたのは初めてだ。
「だし巻き卵……どすか?」
「はい。だしにこだわりがあって」
自分では作ったことがなかったが、作れるだろうか。
いつか料理長が言っていた、『子どもの頃に食べて育った味は、身体が覚えているものだ』という言葉を思い出す。
「……作ってみようかな」
呟くように言うと、梅は微笑んで頷いた。
「うちも食べてみたいどす。神崎はんの好きなもんやったら絶対おいしい思うし」
「ありがとうございます。――あ、でも、だし作りに時間がかかるので、また今度でもいいですか?」
「はい。もちろんです」
梅が答えたところで、玄関の方から誰かが帰ってきたような音がした。
「秀二郎さんかな」
何気なく言うと、梅は気まずそうにうつむく。その頬は少し赤く見えた。
「何かあったんですか?」
「……いえ、何もないんどす。毎日お茶淹れて、何や困ったことはないか、足りひんもんはないかて心配して聞いてくれはって……そうやって、うちはぎょうさん親切にしてもろうとるのに、秀二郎はん、うちに何も求めてこおへんのどす。うち、男の人にこない優しゅうされたことなくて、何や胸の辺りがむずむずして……」
梅が胸元をそっと押さえる。それを見て、花は笑顔になった。
「秀二郎さんと仲良くしてるんですね。なんか、私も嬉しいです!」
花の言葉に、梅はさらに顔を赤くする。そこへ、こちらに歩いてくる音が聞こえてきた。
「あの、お二人とも、ちょっとお話ええどすか?」
「あ、噂をすれば、秀二郎さん」
「ち、ちょっと神崎はん」
慌てたように梅が花の袖を引く。秀二郎はきょとんとして首を傾げた。
「俺の話してはったんどすか……?」
「い、いえ、なんでもありまへん。それより話ってなんどすか?」
梅が尋ねると、秀二郎は笑みを浮かべる。
「実は俺、駿府へ行くことなって」
「え……」
梅の目が驚いたように見開かれた。
「前からお茶の勉強しに行きたい思うとったんどす。そしたら向こうの茶問屋の人紹介してもらえることなって」
「そ、そうどすか……。駿府にはどれくらいの間いはるんどすか?」
「二、三年はいるつもりどす」
秀二郎が答えると、梅の表情が曇った。
「あ、今後のことやったら大丈夫どす。今、信頼できる人に何店か、お梅はんが働くのによさそうなところ紹介してもらっとって……。そやから今度、一緒に見に行ってみましょう。お梅はんが働きたい思えるところ見つかるまでは、俺もここにおりますさかい、安心してください」
「……分かりました。おおきに、ありがとうございます……」
梅が頭を下げる。しかしその表情は暗いままだった。
「お梅さん、秀二郎さんと離れるの寂しいんじゃないですか?」
秀二郎が去ったあと気になって聞いてみると、梅は困ったように笑った。
「神崎はんて、鈍いんか鋭いんかよう分かりまへんね」
そう言うと、そっと目を伏せる。
「秀二郎はんにはほんまにお世話になってもうて……そやから、これ以上迷惑はかけられまへん」
「迷惑かどうかなんて、言ってみないと分からないじゃないですか」
「ええんどす。うちみたいな身分のもんに、いつまでも構っとったらあかん思うとったし」
梅が笑ってみせる。
八木家は代々苗字帯刀を許されている、由緒ある家柄だという。対して梅は貧しい農民の家の子で、そのために引け目を感じているようだった。
正直なところ、現代で育った花は身分などその存在自体が間違っていると思っている。生まれた家で人の価値が決まるなど馬鹿げているし、梅がそんなことで自分を卑下するのも嫌だ。
しかしこの時代では身分というものが、それ一つで生き方がある程度決まってしまうほど重要なものなのだと、理解はしている。
「お梅さんが本当にそれでいいなら、いいですけど……」
無責任なことは言えないため、そう言うにとどめておく。梅は黙ったまま何も答えなかった。
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文久三年八月十八日早朝。会津藩公用方野村佐兵衛から壬生浪士組へ急達があった。それは浪士組に御所への出動を求めるものだった。
というのもこの夜、浪士組のあずかり知らぬところで、朝令による大和行幸の延期、及び三条実美ら尊攘派公卿の参内禁止が決定されていたのだ。
大和行幸の詔はこの五日前、長州藩と尊攘派公卿に押し切られるかたちで出されていた。しかしこの裏には、大和行幸ののち京に火を放ち、天皇を擁して乱を起こそうとする長州らの思惑がある。
このことに気づいた伏見宮第四皇子である中川宮が、会津と薩摩に働きかけて連盟させ、また天皇に長州らの思惑を伝えた。
そうして今夜朝令が施行され、八月十八日の政変が勃発することとなった。
壬生浪士組総勢五十余名。彼らは達しがあってから、ものの半刻ほどで御所に乗り込んだ。
隊列は二列とし、先頭に近藤、中部には芹沢鴨の姿がある。赤地に白く『誠』の文字を染め抜いた六尺四面の大旗は高く掲げられ、昇り始めた朝日に明るく照らされている。
今回の出動は浪士組結成以来、初めての大舞台であり、壬生浪士組は今まさに、組にとっての大きな一歩を踏み出そうとしていた。




