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新選組のレシピ  作者: 市宮早記
五品目 永遠のきみへ、お別れを
24/29

 太物問屋『木次屋』は三条通りにひっそりと佇んでいた。中からは仄かに明かりがもれていて、人の気配がする。

 店の前に立った花は、大きく息を吸い込んだ。

「あの――すみません」

 のれんをくぐりつつ、声をかける。少し間を置いて、奥から髷を結った初老の男が現れた。

「おいでやす。お客はんどすか?」

「いえ、山崎さんに会いにきて……」

 花が言うと、男は警戒するように顔を強張らせた。

「山崎はんに……? あんたはん、どなたどすか?」

「壬生浪士組で料理人をしている、神崎花という者です」

「……なんや、浪士組の方どしたか」

 ほっとしたように男が表情を緩める。

「あては木次屋の辰五郎と申します。山崎はんどしたら二階にいてはりますさかい、どうぞ、ついて来はってください」

 そう言うと辰五郎は、花に背を向けて歩き出した。

「そやけど、浪士組にこない可愛いらしい娘はんがいてはるとは、知りまへんどしたわ。うっとこの娘と歳も変わらへんように見えますのに、大変どすなあ」

「娘さんがいらっしゃるんですね」

 辰五郎のあとに続いて階段を上りながら、首を傾げる。

「へえ。ずいぶん前に家内を亡くして、そっからは娘と二人暮らしで」

 辰五郎の言葉がそこで止まる。振り返ると、階段の突き当たりにある障子を指さした。

「こが山崎はんのいてはる部屋どす。もしかしたら寝てはるかも知れまへんので、静かにお願いします」

 声をひそめて言った辰五郎の言葉に、黙って頷く。辰五郎は微笑むと、花を残して階段を下りていった。

 一人残された花は、障子を前にしてしばし固まっていた。

 この障子を一枚隔てた向こう側に山崎がいるのかと思うと、急に心臓が忙しく鳴り始める。

 静かにと言われたが、黙って入っていいものだろうか。さすがに入るときくらいは声をかけた方がいいだろうか。

 しばらく悩んだ末に花は、

「山崎さん、神崎ですけど……」

 と声をかけてみた。少し待ってみたが、中から返事が返ってくることはない。

 ここでまた、しばらく逡巡する。

 しかしとうとう覚悟を決めると、できるだけ音を立てないよう静かに障子を開けた。

 広さは六畳ほどで、文机が一つと布団が一組敷かれているだけの、殺風景な部屋だ。花は足音を忍ばせて歩き、枕元に座った。

 布団には山崎が横になっていて、目を閉じて眠っている。

 まだ少し顔色が悪い。息も苦しそうだ。――けれど、それでも、生きている。

 目の奥が熱くなって、こらえる間もなく涙がこぼれた。慌てて部屋を出ようと立ち上がる。

「かん……ざき?」

 山崎に背を向けたそのとき、低く掠れた声が聞こえた。振り返ると、山崎が横になったままこちらを見上げていた。

 山崎は花の顔を認めるなり、布団から起き上がろうとする。

「駄目です、安静にしてないと!」

 慌てて膝をつき、身体を支えるが、

「大丈夫、大丈夫やから……」

 やんわりと制されて手を離した。山崎は自分の力で身体を起こすと、小さく息を吐いて微笑んだ。

「なんや俺、半日以上寝とったらしいな。そないたいした傷でもないのに」

「なっ、何言ってるんですか、あんなに血流して! 大したことないわけないじゃないですか!」

「俺がたいしたことない言うてんねやから、たいしたことないねん」

 山崎は言って、花の顔を見る。

「……せやから泣くなて、神崎」

 花は唇を噛んでうつむいた。

 泣くなと言うなら、そんなに優しい声で、顔で、そんなに優しい言葉をかけないで欲しい。

 許されているみたいで、涙が止まらなくなる。

「こ……っこわかった……山崎さんが、死んじゃったら……って……」

 花は嗚咽をもらしながら言葉を吐き出した。

「わたし……わたしの、せいで……っ!」

「……あほ。もし俺が死んどったかて、それは俺を斬ったやつのせいで、お前のせいやあらへんやろ」

 諭すように山崎が言う。その声はやはり優しくて、余計に涙があふれた。

「だっ、だって……だって……!」

「あぁ、もう。泣き虫やなあ」

 山崎は困ったように笑って花の頭を撫でた。まるで子ども扱いだったが、その手は心地よく、花は涙が止まるまでされるがままになっていた。


「……そろそろ落ち着いた?」

「……はい」

 涙を拭って、ゆっくりと顔を上げる。昨日から泣き過ぎて目が痛い。

「そうか。――ほな肩は大丈夫なん?」

「肩?」

「斬られたんやろ」

 その言葉にようやく合点がいく。

「大丈夫です。もうかさぶたになってますし」

 心配させまいと笑って答えるが、山崎の表情は晴れない。

「女やのに刀傷なんか負わしてもうたな」

「そんな、それこそ山崎さんのせいじゃないですよ。それに傷も浅かったですし、これくらい平気です」

「平気なわけないやろ」

 きつい口調で言って、ふと視線を落とす。

「……て、殴った俺が言えることやないけど」

 その言葉に、蔵に閉じ込められたあの日の話を、まだ山崎としていなかったことを思い出した。

 ……何を話せばいいだろう。

 花は少しの間うつむいて、考えた。自分が聞きたいことは――本当に知りたいことは、何だろう。

「……大坂で義右衛門さんに料理を作って、突き返されたときのこと、覚えてますか?」

 尋ねると、山崎は静かに頷く。

「……ああ」

「あのとき、私に言ってくれたこと……あれは、嘘でしたか?」

「違う。俺は――」

 何か言いかけて、山崎は言葉を止めた。そのまま口を閉じて、黙り込んでしまう。

「……それじゃあ、あと一つ」

 花は山崎の目をまっすぐに見つめた。

「山崎さん、今でも私のこと疑ってますか?」

 尋ねると、山崎はまたしばらく黙った。

 部屋の中がしんと静まり返る。

「――もう、疑ってへん。お前は、間者の相田に斬られたんやし……」

 やがていろいろなものをのみ込んだような声で、山崎が答えた。

 その言葉にほっと胸を撫で下ろす。

「なら、私はもういいです」

 そう言うと、山崎がようやくこちらを見る。花は笑って首を傾げた。

「監察として調べる対象じゃなくなっても、また仲良くしてくれますか?」

「神崎……」

 呟くように言って、山崎がため息をつく。

「お前って、やっぱしあほやな」

「なっ、どういう意味――」

 問いただそうとして、花は途中で言葉をのんだ。山崎の手が自分に伸ばされたかと思うと、頬に触れていたからだ。

「ほんま、かなわんわ」

 山崎が困ったように微笑む。それからそっと、花の頬を撫でた。

「これ、痛かったやんな。悪かった。……それと、ありがとう」

 花は束の間固まって、次の瞬間顔を真っ赤にした。

 心臓が破れそうなほど高鳴っている。

「いっ、いえ、そんな。ど、どういたしまして?」

 うろたえながら、山崎から視線をそらす。

「……もう痛ない?」

「はっ、はい、全然」

 だから早く手を離してほしい。そう思うのに、山崎はなかなか離そうとしない。

「もう腫れてはなさそうやな……」

「と、とっくの昔に引きました」

「そうか。……あざとかもできてへん?」

「で、できてません!」

「……ほんまやろか」

 山崎の硬い手のひらが、調べるようにゆっくりと頬をなぞる。

 花はとうとう我慢できなくなり、顔を背けた。

「そ、そんなことより! 土方さんに頼まれて、お見舞いの品を買ってきたんです! これ、食べてください!」

 言いながら途中で買った菓子折りを差し出す。――と、はかったようなタイミングで、ぐうとお腹が鳴った。

「……あー、堪忍。今のは俺の……」

 視線を泳がせて山崎が言う。

「二人しかいないのに、それは無理があります……」

 つっこむと、山崎は「……せやな」と言ってうつむいた。肩が微かに震えている。

「もういいですよ、こらえなくてっ! ひと思いに笑い飛ばしてください!」

「わ、悪い……おもろすぎ……っ」

 怪我に響くのか、山崎は脇腹の辺りを押さえながらくつくつと笑う。

 ……山崎がこんな風に笑うところは初めて見た。

 思わず、山崎を見つめる。

 不思議と嫌な気持ちはせず――むしろ少し、嬉しかった。

「久しぶりにこない笑うたわ……」

「……ちょっと笑いすぎじゃありません?」

 しばらくして笑いをおさめた山崎に、花は口を尖らせた。

 それを見て、山崎はふっと目を細めて微笑む。

「堪忍。飯も食わんと、急いで来てくれたんやんな? ……おおきに」

「……もうやだ、山崎さん嫌い……」

 なんでもお見通しで、こんな言葉一つで機嫌をとられてしまう自分が悔しくて、花は座ったまま山崎に背を向けた。そんな花の気持ちも丸分かりなのか、山崎はまた笑う。

 そのとき、部屋の外で小さな物音がした。……誰かいるのだろうか。

 そう思い障子を見るが、音の主は一向に部屋に入ろうとしない。花は首を傾げて、様子を見ようと腰を上げた。

 しかし山崎に腕を掴んで引き止められる。

「――誰や」

 山崎は障子の方を睨んだまま、傍に置いてあった刀に手を伸ばした。

 緊張していると、ゆっくり障子が開く。現れたのは、十四、五歳くらいの少女だった。

 少女の顔を見て、山崎は警戒を解く。

「なんや、お松か」

 松と呼ばれた少女は、不貞腐れたようにそっぽを向いた。

「なんや、てなんです? せっかく夕餉持ってきたのに」

 その言葉に目をやると、松の足元には小さな土鍋ののった膳が置いてあった。

「ああ、せやったん。おおきにな」

 山崎が笑みを浮かべる。とたんに松は顔をほころばせた。

「いいえっ」

 膳を手にこちらへ歩いてくると、花の隣に腰を下ろす。

「ところで山崎はん……こん人誰です?」

 じろりと花を見て聞く。

「辰五郎はんに聞いてへんの?」

「聞いてまへん」

 松が答えるのを聞いて、花は慌てて居住まいを正した。

「はじめまして。壬生浪士組の料理人をしてます。神崎花です」

「ふうん……」

 松は値踏みするような目で、花を上から下までじっくりと見る。

「あの、あなたは一体……」

「うち? うちは――山崎はんのお嫁はんどす」

「……え」

 花は目を見開いて松を見つめた。

 こんな年の離れた子が、嫁? ――というより、山崎は結婚していたのか。

 なぜだか目の前が真っ暗になった気がして、花は両手を握り締めた。

「――お松、なに嘘言うとんねん」

「……へ?」

 振り返ると、山崎はため息をついて花を見る。

「ここの旦那――辰五郎はんは浪士組に協力してくれはっとる方で、こいつは辰五郎はんの一人娘の松。俺は市中で情報探索することが多いさかい、そん間いつも泊めてもろうとるんや」

「それじゃあ、今はどうして?」

「屯所まで歩くんは、まだしんどかったさかい。ひとまずこっちに移ったんや」

「なるほど……」

 花は頷いた。しかしどうしてか、心にはもやのようなものが残ったままだ。

「まあでも、こが山崎はんの帰ってきはる家なんやし、そん家で待つうちはお嫁はんみたいなもんやん」

 どこか表情に優越感を滲ませて、松が言う。花はなんとなくむっとして松を睨んだ。

「お前な……倍近う年離れた男の嫁て、辰五郎はん泣くで?」

「こんくらいの年の差やったら、そない珍しくないです。それに山崎はんかて年増は嫌やろ?」

 言って、松がちらりと花を見る。

 ……なぜだろう。異様に腹が立つ。

「……子どもよりはマシだと思うけど」

 つい、ぼそりと呟く。松は一瞬驚いたように目を見開いたが、次の瞬間には負けじと花を睨み返した。

「子どもやありまへん! ほんで、あんたはんいつまでいはるおつもりどすか? 山崎はん休めへんし、はよ帰らはったらどうです?」

 松の勢いに一瞬たじろぐが、本能的にここで引いてはいけない気がした。

「きょっ、今日は私帰りません! ここに泊まりますから!」

「はっ、はあ!?」

「ちょ……何言うてん、お前」

 唐突な花の宣言に、松だけでなく山崎までもが目を丸くした。

「どないしたんや、急に」

「私、土方さんにお見舞いの代理を頼まれてて、その分もしっかりお見舞いしないといけないんです! だから帰れないんです!」

 自分でもわけの分からない理屈だと思う。当然松は反対した。

「そないなこと急に言われたかて、泊められまへんよ!」

 松は「なあ?」と同意を求めるように山崎を見る。

「――や、今日は神崎も泊めてもらい」

「山崎さん……!」

「ちょっと、なんでどすか?」

 顔を輝かせた花とは対照的に、松は眉をひそめる。

「昨日あないなことあったばっかやし、一人で屯所まで帰らすん心配やろ。相田はまだ捕まってへんし、庄兵衛と太兵衛も証拠足らずで野放しや。それに、もう外も暗いし」

 言われて虫篭窓から外を見てみると、通りはすっかり暗闇に包まれていた。

「俺が送ったれたらええんやけど、さすがに今の状態やと何かあったときに守ってやれへんし……。せやから頼むわ、お松」

「そっ、そやかて部屋もないし!」

「隣の部屋が空いとるやん」

 山崎が壁を指さして言う。松はぐっと言葉を詰まらせ、

「勝手にしたらええんとちゃいます!」

 とそっぽを向いて部屋を出て行った。その背を見送って、花は縮こまる。

「あの……すみません、私……」

 冷静に考えてみると、いきなり他人の家に泊まらせてもらうなんて、かなりの迷惑だ。

 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。

「辰五郎はんには俺から言うとくさかい、大丈夫や。他に隊士が泊まったこともあるし」

「……はい」

申し訳ない気持ちを抱えつつも、頷く。山崎は「せや」と思い出したように、花が買ってきた菓子折りを開けた。

「これ、お前も食い。腹減ってんねやろ」

「えっ、いや、私は大丈夫です! これは山崎さんに買ってきたので!」

 慌てて首を横に振る。しかし並んだ饅頭を見ると、再びお腹が鳴った。

「ほら、我慢せんでええから」

 お腹を押さえてうなだれていると、山崎が笑って促す。花は渋々饅頭に手を伸ばした。

「……いただきます」

一口食べると、ほどよい甘さのあんこが口の中に広がる。

 その横で山崎は、松の持ってきた土鍋の蓋を開けた。ふわり、とだしのいい匂いが立ち上る。卵ときのこの入った雑炊のようだ。

「いただきます」

 手を合わせて、山崎は雑炊を食べ始める。じっと見ていると、視線に気づいたようで花を見て首を傾げた。

「甘いもんばっかやと腹膨れん? あれやったら、辰五郎はんに頼んでなんか買うて来てもらうけど」

「い、いえ、十分です!」

 これ以上迷惑はかけられない。――それに雑炊が食べたくて見ていたわけでもなかった。

ただ自分も、山崎に何か食べさせてあげたいと思っただけだ。

「……変なの」

 いつも屯所で食べてもらっているのに。

「何か言うた?」

尋ねる山崎に首を横に振って、花はもう一つ饅頭を口にした。



 金属のぶつかり合う、鈍く硬質な音が聞こえる。暗闇の中、時おり閃くあれは――刀だ。山崎と相田が、刀を手に斬り合っている。

花は少し離れた場所からそれを見つめていた。

どうして仲間であるはずの二人が戦っているのか。

佐々木、金、間者、人殺し――……。

いくつもの単語が頭に浮かび、胸を焼くような吐き気が込み上げてくる。

――何も見たくない。聞きたくない。

花は固く目を閉じて耳を塞ぐと、その場にうずくまった。

どうしてこうなったのだろう。自分はどこで、何を間違えたのだろう。

瞼の裏に佐々木とあぐりの笑顔と、斬り刻まれて動かなくなった死体が浮かぶ。

もしも自分がこの時代に来ていなかったら……佐々木とあぐりは、死なずにすんだだろうか。

花はゆっくりと耳を塞いでいた手を離した。

いつの間にか、耳鳴りのように響いていた刀の音が消えている。

おそるおそる目を開けると、前に誰かが立っていた。

「あ……」

 顔を上げた先には、自分に向かって今まさに刀を振り下ろそうとする、相田の姿があった。



 はっと息を吸い込み、飛び起きる。荒い息を繰り返しながら、花は口を押さえた。

「夢……」

 確かめるように声に出して、小刻みに震える肩を抱き締める。しばらくの間そうしていて、落ち着く頃に喉が渇いているのに気づいた。

 すぐにまた眠る気にもなれず、花は部屋を出て台所へ向かうことにした。


 台所で水を飲むと、そのまま流しの前でぼんやりとする。恐ろしい夢を見た、あの部屋に帰るのが怖かった。

「――神崎?」

 不意に声をかけられて、びくりと肩が震えた。振り返ると、秉燭を持った山崎の姿がある。

「山崎さ――」

 名前を呼びかけて、声が震えていることに気づき、口を閉じた。

「……どないしたん?」

 心配するような声色で、山崎が尋ねる。花は小さく深呼吸して、笑みを浮かべた。

「変な夢を見て起きただけなので、気にしないでください。それより山崎さん、歩いて平気なんですか?」

 精一杯元気を出して言ったつもりだったが、山崎は黙ったまま歩いてきて花の隣に並んだ。

「佐々木のことも相田のことも、まだそないたってへんねやから、気持ちの整理つかんでも当たり前や。……無理せんでええ」

 優しく言い聞かせるように山崎が言う。花は身体の前で強く両手を握った。

「相田さんのこと……聞いてもいいですか?」

 尋ねると、山崎はちらりと花を見て頷いた。

「浪士組が屯所にしとる前川邸の持ち主の荘司はんと、太兵衛が従兄弟同士なんは知っとる?」

「はい……。前に佐々木さんから聞いて」

「相田は荘司はんの紹介で浪士組に入隊したんや。荘司はんに紹介するよう言ったんは太兵衛、ほんで太兵衛に指示したんが大和屋の庄兵衛。……荘司はんはそない事情知らんかったみたいやけど」

 山崎は壁にもたれて、手の中の小さな明かりを見つめる。

「相田と佐伯は浪士組から大金盗んどったんやけど、そん金は庄兵衛に流しとったんや。庄兵衛は相田らから受け取った金で生糸を買い占めて、儲けを独占した。ほんで相田らのために、太兵衛に生糸を安く売って、尊攘派志士を放免させたんとったんや」

「……その悪事がばれたから、庄兵衛さんが相田さんと佐伯さんに、佐々木さんを殺させたんですか?」

「せや。けど相田らも間者やてばれたなかったやろうし、言われんでもやっとったと思う」

 山崎の言葉に花はうつむいた。

「山崎さん、戊午の大獄って知ってますか?」

「知っとるけど、なんで?」

「……相田さんが、お父さんを殺されたって言ってて」

 花が答えると、山崎は「そうか」と呟くように言った。

「発端はときの大老、井伊直弼が勅許も得んと異国との条約を結んだことにある。そん条約がこん国にとって不利益なもんばっかしやったさかい、攘夷派の連中は憤って大老に反発したんや。ほんで井伊大老は、それを武力でもって弾圧した。弾圧は日を追うごとに厳しゅうなって、みんな怯えて幕府に対する不満は口にせんようなって――それでもぎょうさん人が捕まって、罰せられた。……これが戊午の大獄や」

「それって、どうやって終わったんですか?」

「井伊大老が暗殺されたんや。桜田門外の変て知らん?」

「あ……聞いたことは、あります」

 歴史の授業や、大河ドラマで何度か耳にしていた。――それがどんなものなのかは、知りもしなかったが。

 花は目を伏せて、着物の合わせをぎゅっと握り締めた。

「私、佐々木さんとあぐりさんを殺した相田さんが憎いです。あんな、人とも思っていないような殺し方……今思い出しただけでも、胸の中がぐちゃぐちゃになって、息が苦しくなる」

「神崎……」

「――でも、相田さんも私と同じような思いをしたんだとしたら、私……私のこの気持ちは、正しいのか分からなくなって」

 吐き出すように言って、顔を上げる。

「山崎さんはどうして、私が懐刀を抜こうとしたとき止めたんですか?」

 尋ねると、山崎は視線を落としたまま口を開いた。

「どないな理由があっても、人を殺したら必ず誰かの恨みを買うことになる。恨まれたやつが殺されて、殺したやつが恨まれて、また殺されて――そういう連鎖に終わりはない」

 山崎が視線を上げて花を見る。

「……俺はお前に、こない世界に嵌ってほしくない」

 目の前がじわりと滲んだと思うと、次の瞬間には頬を熱いものが伝っていた。

 もういい加減、枯れたと思っていたのに。

 こぼれる涙を拭っていると、山崎の手が頭にのって軽く引き寄せられた。

「もう忘れ。……全部、なかったことにしたらええねん」

「――でも」

 もしも佐々木と自分の立場が逆だったなら、佐々木はきっとそんな薄情なことはしなかった。

 ――そもそもあのときだって、自分の手を汚すことを怖がって逃げたりなんてしなかったはずだ。

「……自分のこと責めるな。お前は何も悪うない」

 山崎の手が宥めるように頭を撫でる。どうしようもなく涙があふれて、花は山崎の着物を握り締めた。

「大丈夫。大丈夫やから……」

 山崎が優しく、何度も繰り返す。それを聞きながら、花は声を殺して泣いた。



 翌日の朝になって、花は前川邸に戻った。無断の外泊だったが、土方が昨夜から不在だったのと、山崎が事情を文にしたためて持たせてくれたおかげで、特に咎められることはなかった。

「あれ、もう肩の怪我は治ったんですか?」

 夕方、夜ご飯を作っていると、沖田が台所を訪ねてきた。

 花の料理中、沖田は時おり台所につまみ食いをしに来るのだが、久しぶりに顔を見た気がする。

おそらく佐々木が殺されて、相田と佐伯が間者だったと分かり、副長助勤という立場の沖田は仕事に追われていたのだろう。

「はい、もう平気です」

「へえ……」

 沖田がじっと花の肩を見つめる。どうしたのかと訝しく思っていると、沖田はおもむろに花の肩に手を置いてなかなかの力で握った。

「いっ……何するんですか!」

「なんだ、やっぱり治ってないじゃないですか」

「確かめるならもっと別の方法にしてください!」

 痛む肩を押さえつつ沖田を睨む。沖田はそっぽを向いた。

「嘘をつくあなたが悪いんでしょう。治りきってないなら、まだ休んでいるべきです。……土方さんに何か言われたりしたんだとしたら、私が話をつけてもいいですし」

 少し怒ったような口調で言う。その横顔を花は目を瞬いて見た。

 一応沖田なりに心配してくれていたのだろうか。

「ありがとうございます。でも普通に生活するぶんにはもう大丈夫なので」

「……ならいいですけど」

 ぼそりと言って、沖田は花が作っていた料理に目を向けた。

「あっ、つまみ食いは駄目ですからね」

 先手を打って言う。しかし沖田はそれには答えず、近くの棚から紐を取ってたすきがけした。

「何してるんですか?」

「今日は私も手伝ってあげますよ」

「え」

 思わず顔を引きつらせる。

 沖田の料理を食べたことはないが、性格が雑で適当なため、正直なところ悪い予感しかしない。

「どうかしましたか?」

「い、いえ、その……お気遣いはありがたいんですけど、料理は私の仕事なのでお気持ちだけで結構です」

 丁重に辞退すると、沖田はにこりと笑った。

「そんなに警戒しなくても大丈夫ですって。こう見えて私、料理は得意なんですよ?」

「……本当ですか?」

「はい! 昔風邪をひいた近藤先生におかゆを作ったとき、これまで生きてきて出会ったことのない、凄まじい味だって褒めてもらいましたから」

 それはおそらく褒め言葉ではない気がする。

 花は『絶対に沖田に自分の料理を触らせない』と固く心に決めた。

「あのですね、沖田さん。料理というのはとても繊細で――」

「沖田先生、大変です!」

 突然台所に隊士が飛び込んできた。

「そんなに急いで、何事ですか?」

「芹沢局長が隊士を十人ばかり連れて、大和屋に乗り込んだんです」

「え……!?」

 驚いて、思わず声がもれた。

 庄兵衛と太兵衛については、まだ確たる証拠が掴めておらず、捕まえられないと聞いていた。それなのに、なぜ――。

「分かりました。すぐに行きます」

 沖田が表情を引き締め、たすきを解く。

「――あの、私も連れていってください!」

 隊士とともに台所を出ようとした沖田に、とっさに頼む。沖田は少しためらったのち、頷いた。

「勝手な行動はしないでくださいよ」



 大和屋のある、葭屋町一条通りは騒然となっていた。火見櫓の鐘の鳴る音、集まった大勢の野次馬。――そして、暮れ始めた景色の中ごうごうと音を立てて燃える、赤い炎。

 十分離れた場所にいるにも関わらず、炎の熱が伝わってきて、頬が熱い。

「これは……」

 さすがの沖田も驚いたようで、呆然と大和屋の敷地に上がった炎を見上げている。

「沖田先生!」

 そこへ野次馬の中から山野が現れた。

「どうしたんです、これは」

「芹沢局長が大和屋の蔵に火をつけたんです。火消しが来ても、脅して近づけようとしなくて」

 その言葉に周囲を見回すと、確かに火消しと思しき男たちが立っている。

 しかし大和屋の前には平間や平山など浪士組の人間がいて、刀を振り回しているため近づけない様子だ。

「芹沢さんはどこに……?」

 姿が見当たらず困惑していると、燃える蔵の方から誰かが歩いてくるのが見えた。――芹沢だ。

「芹沢鴨……! あてにこないことして、ただで済む思うとるんか!」

 庄兵衛が怒りに震えながら、芹沢に掴みかからん勢いで怒鳴った。

「お前が庄兵衛か」

「そや! あての儲け全部燃やしおって、あんたのことはどないしてでも追いつめたる……!」

「……そうか」

 静かに言うと、芹沢は刀を抜いた。庄兵衛の目が大きく見開かれる。

「な、何を――あんた、正気か!?」

 叫ぶように問うが、芹沢は黙ったまま刀を構えた。

「や、やめ……っ、誰か、助け――」

 庄兵衛が踵を返したその瞬間、芹沢が刀を振り上げる。

「神崎さん」

 沖田の背で視界が覆われた。その背中越しに、ドサリと重たい荷物を下ろしたような音が聞こえる。

 花は今しがた起きたことがのみ込めず、ただ沖田の背を見つめた。

「し、庄兵衛はん……」

 ふと聞こえた声に顔を向けると、そこには菱屋太兵衛の姿があった。

 少し動いて、沖田の背の向こう側を見る。

 太兵衛の前には芹沢だけが立っていて、その傍には黒い塊が転がっている。芹沢は表情一つ変えず、その塊――庄兵衛に刀を刺した。

 思わず息をのんで、両手を握り締める。

 庄兵衛は悲鳴一つ上げなかった。

「……覚えておけ。お前もこれ以上何かしようものなら、こいつと同じ運命をたどることになる」

 芹沢の言葉に、太兵衛は顔を真っ青にした。

「ひ、ひい……っ!」

 情けない悲鳴を上げて、芹沢の前から逃げ出す。

 芹沢はその背を蔑むような目で見て、庄兵衛から刀を引き抜いた。やはり、庄兵衛は何も言わない。

「芹沢先生」

 沖田が声をかけて、一歩前に踏み出した。芹沢はようやく気づいたようにこちらを向く。

「なぜこんなことをしたんです」

「どうやっても御番所では裁けないのだろう。それなら自ら手を下すほかない」

「それにしても、こんな大勢の人の前で殺すなんて。これでは芹沢先生の身が――」

「くだらん。……先のことなどどうでもいい」

 懐紙を取り出して刀を拭うと、腰の鞘に戻す。

「――平間。どれだけかかってもいい、蔵は燃やし尽くせ」

「はい」

 答えると、平間は振り返って声を上げた。

「おい、聞いたか! もっと燃えるものを持ってこい!」

 平間の言葉に周囲の隊士たちは、大和屋ののれんや戸板を外していく。

 その後ろでは、庄兵衛の家族らしき女の人と子どもたちが、手を握り合って泣きながら、庄兵衛の死体と燃え上がる蔵を見つめていた。

 あの人たちにとっては、きっと浪士組こそが悪なのだろう。

 そんな思いが胸に浮かび、息が詰まった。

――それでもどこかで、大和屋の火事と庄兵衛の死体を見て、仄昏い喜びを感じている自分がいる。

誰を傷つけ悲しませても、佐々木たちが味わった苦しみを庄兵衛に味あわせてやりたいという気持ちが、自分の中にもあったのだ。

 唇を引き結び、燃え盛る炎を見つめる。打ち鳴らされる鐘の音が、いつまでも耳の奥で響いていた。

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