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新選組のレシピ  作者: 市宮早記
五品目 永遠のきみへ、お別れを
23/29

「――神崎さん!!」

 翌朝、洗濯をするため着物を抱えて井戸へ向かっていると、山野が血相を変えて駆け寄ってきた。

 いつも落ち着いている山野がこんなに取り乱すのは珍しい。

「どうしたんですか?」

「……落ち着いて、聞いてくださいね」

 呼吸を整えながら、山野が言う。

「佐々木と恋人のあぐりさんが、何者かに殺されました」

「……え? 何言って――」

 冗談かと笑い飛ばそうとして、途中で口を閉じた。

 山野の目が、泣いたあとのように赤くなっているのに気づいたからだ。

「朱雀千本通りで遺体で見つかったんです。斬られた痕がいくつもあって、殺しでまず間違いないだろうと――」

 そこまで話すと、山野は込み上げてくるものを抑えるように唇を噛んだ。

 一度うつむいて、目を閉じてから花を見る。

「これから沖田先生と現場に戻りますが、どうしますか。正直、見るのはあまり勧められない状態ですが……」

 花は混乱して、洗濯物を強く胸に抱き締めた。

 ――佐々木が殺された? そんな、まさか。

 自分の目で確かめるまでは、到底信じられない。

「行きます。――行かせてください」


 千本通りへは、山野と沖田と他数名の隊士たちと向かった。

 通りを目指して走っているあいだ、花はまるで夢の中にでもいるような気分だった。

 地面を蹴る足にも、吸い込む生ぬるい空気にも、何もかもに現実感がない。――いっそ、本当に夢ならどれだけいいか。


 たどり着いた現場には、野次馬が集まっていた。それを数人の隊士たちが、近づけないよう押し止めている。

「あっ、沖田先生」

 隊士の一人がこちらに気づいて声を上げた。沖田は町の人たちを押しのけて隊士のもとへ歩いていき、花たちもそのあとに続く。

「遺体はどこに」

 沖田が問うと、隊士は沈痛な面持ちで振り返った。彼の視線をゆっくりとたどる。

 竹藪の中に、重なり合うようにして倒れた二つの身体があった。全身を滅多斬りにされていて、斬り裂かれた着物は血で赤黒く染まっている。

 花はその光景を、立ち尽くしたまま見つめた。

「さ、さき、さん……?」

 振り絞るようにして出した声は、掠れて上擦っていた。

 ――息がうまくできない。めまいがして、立っていることさえ難しい。

 花はおぼつかない足取りで佐々木の傍へ寄り、力なく座り込んだ。

 手を伸ばして、そっと身体に触れてみる。

 佐々木の身体には、生きている人間のぬくもりを感じなかった。血の気の失せた青白い腕は硬くなっていて、それは、明確な死を表していた。

「あ……嘘……」

 呟く声が、震える。

「起きて、起きてください。佐々木さん……あぐりさん……ねえ……」

 必死で身体を揺さぶるが、二人が目を開けることはない。

 どうして、二人が。昨日まであんなに元気で、幸せそうにしていて、それなのに――どうして。

「――自業自得やろ」

 不意に、誰かのささやく声が聞こえた。

「せや、肥後守様の笠着た人斬りが」

「女の方も、壬生浪の男なんかにほだされるのが悪いねん」

 あまりの言葉に、花はしばらく呆然となっていた。

 しかし次第に、身体の奥底から燃え上がるように怒りが込み上げてくる。

「……誰」

 花はゆっくりと立ち上がった。振り返ると、周囲の町の人たちを睨むように見回す。

「今、自業自得だって言ったのは誰」

 尋ねても、答える声はない。花は爪が肌に食い込むほど強く、こぶしを握りしめた。

「誰だって言ってるのが聞こえないの!?」

「――神崎さん」

 止めるように山野が名前を呼ぶ。花はそれを無視した。

 とても、黙っていることなんてできない。

 つい数日前、茶屋で佐々木と話したことを思い出す。

 佐々木は梅が太兵衛から解放されたことを、自分のことのように喜んでいた。自分でも誰かのことを助けられるのが嬉しいと、そう笑っていた。

 涙があふれそうになって、必死でこらえる。

 全身の血が沸騰しているみたいに熱くて、喉は焼けるように痛い。

「あなたたちに何が分かるの! 二人のこと知りもしないで、勝手なこと言わないで!!」

「神崎さん!」

 山野が腕を掴んで、強く引いてきた。

「言っても無駄です」

「でも……!」

 こんなのってない。二人は殺された被害者なのに――こんなのは、あんまりだ。

「……悔しいのは、俺も一緒です」

 うつむいて山野が言う。その手が小さく震えているのに気づき、花は唇を噛んだ。

「――あぐり!」

 不意に野次馬の中から声が聞こえてきて、四十代半ばくらいの男女が現れた。どうやらあぐりの両親らしい。

 二人がこの凄惨な光景を見たら、どう思うだろう。

 そう考えたところで、誰かが二人を止めた。見ると、それは山崎だった。

「あの人に任せておきましょう。きっと一番適任ですから」

 沖田が言って隊士たちに指示を出し始める。

 花は邪魔にならないよう、端に避けて山崎たちの様子をうかがった。

「お願いします! あぐりんとこ行かせてください!」

「あぐり……っ!」

 叫ぶ二人に、山崎は緩く首を横に振る。

「お二人とも、見ん方がええです」

「でも!」

「……最後にあぐりはんと会うたんは?」

 静かに山崎が問いかける。

「昨日の夕方、愛次郎はんとこ行く言うて、めかしこんで嬉しそうに『行ってきます』言うて……」

 答えるあぐりの父親の目から、ぼろぼろと涙が溢れる。

 山崎は彼の背にそっと、手を添えた。

「そんときのあぐりはんを、覚えとったげてください。あぐりはんもきっと、それを望むと思います」

 ――幸せな思い出は、そのままに。残酷な姿で塗り潰されてしまわないように。

 そんな山崎の気持ちが伝わってきて、花は胸が潰れるような想いがした。

 あぐりの母親は両手で顔を押さえて、その場に崩れ落ちる。

「何で……あぐりが……っ!」

 悲痛な声が響くなか、隊士たちは佐々木とあぐりの遺体を木板に載せて運び出していく。

 花はやるせない思いで、それを見つめていた。



 佐々木とあぐりが殺された事件の捜査は、遺体が見つかったその日から始められた。

 佐々木は浪士組の中では古参に当たり、隊内には仲のいい人間も多かったため、隊士たちの多くは休日も返上して捜査を進めていた。

 しかし手がかりになりそうな証拠も目撃者も見つからず、何の成果もないまま、時間だけが無為に過ぎていった。


――日が沈むのが早くなった。

 燃えるような夕日が西の空へ沈んでいくのを見つめて、花はぼんやりと思った。どこからか聞こえてくる、ひぐらしの鳴く声が哀愁を誘う。

 佐々木の遺体が見つかってから、もう七日がたつ。隊士たちは尊王攘夷派の人間のしわざではないかと噂しているが、確たる証拠はない。

 花は太兵衛との件が関係しているかもしれないと考え、芹沢に念書の件を打ち明けてみたが、ひとまずこの話は誰にもせず、一人で外へは出ないよう言われて、それきりだ。

 水を汲んで台所へと戻りながら、花はうつむいた。

 どんなに痛く、苦しかっただろう……。

 佐々木たちの最期を思うと、それだけで胸が詰まって苦しくなる。

たとえ犯人が見つかっても、佐々木にもあぐりにも、もう二度と会うことはできない。話をすることもなければ、一緒に笑いあうこともない。

その事実が、ただ悲しかった。

「……あ」

 水を甕に移したあと、夜ご飯の支度をしようとして、胡椒がなくなっているのに気づいた。

 もう時間も遅いが、買いに行かなければ。



「神崎さん、今からどこかへ出かけるんですか?」

 藤堂に外出の許可を取ったあと、廊下を歩いていると、近くの部屋から相田が顔を出して聞いた。

「話し声が聞こえてきたんですけど……もう日が暮れてしまいますし、何かあってはいけませんから、ついて行きますよ」

 ちょうど誰かに同行を頼もうと思っていたところだったので、花は頷いた。

「それじゃあお願いします。ありがとうございます」

「いいえ。では行きましょうか」

 傍に置いていた刀を持って立ち上がる。それを見て花は目を伏せた。

「……すみません。取ってくるものがあるので、少し待っていてください」

 相田に言うと、足早に自室へ戻る。

 部屋の隅に置いていたリュックを膝に置き、中から懐刀を取り出す。菱屋に乗り込むとき、相田にもらったものだ。

 花はじっと刀を見つめたあと、それを懐に仕舞った。


 もうほとんど日も暮れかけていたので、提灯を持って屋敷を出た。

薄暗闇に包まれた道を、ほとんど会話もないまま相田と歩く。市中に着く頃にはすっかり日が沈んでいた。

この時代の夜はとても暗い。明かりは蝋燭もあるが高価なため、油に浸けた灯芯に火をつける油火が主流だ。この油火の光は蝋燭の光よりもさらに小さい。

深夜でも電気の光で昼間のように明るい現代で育った花にとって、提灯の仄かな明かりは何とも心許なく思えた。

「佐々木さんが殺されたのは、この少し先でしたね」

 不意に呟くように相田が言った。

 足下を見つめて歩いていた花は、その言葉にゆっくり顔を上げた。

 朱雀千本通り――殺された時間も、これくらいだったのだろうか。

「――あの、佐々木さんたちが殺された場所を、少し調べてもいいですか? 何か手がかりがないか調べたくて……」

 浪士組の隊士たちがすでに調べ尽くしているだろうことは分かっているが、もどかしくて、何もせずにはいられない。

「……構いませんよ」

 相田は微笑んで頷いた。


 現場へ向かうと、花は相田と周辺を調べ始めた。

竹藪の中は月明かりさえ遮られ、一寸先も見えないほど暗い。提灯の明かりをかざして、何か手がかりはないかと目を凝らす。

「――あ……」

 ふと、足元にぼろぼろの黒い紐が落ちているのを見つけた。拾い上げて明かりに近づけてみる。

 紐にはところどころ色が濃くなっている部分があった。その部分を擦ってみると、指先に赤い粉のようなものがつく。――これは、血だろうか。

「何か見つかりましたか?」

「あの、ここに血みたいなものがついた紐が落ちていて……」

 近づいてきた相田に紐を手渡す。相田は紐を見て、「ああ」と声を上げた。

「これ、俺の下緒です」

「相田さんの……? お父さんの形見だって言っていた?」

 相田が刀の手入れをしていたとき、二人で話したことを思い出して尋ねる。

「はい、そうです。見つけてくれてありがとうございます」

「いえ……でも、どうしてこんなところに?」

 下緒とは刀の鞘に装着する紐のことだ。詳しいわけではないが、そんなに簡単に落としてしまうものではない気がする。

 ――それにどうして、下緒に血が付いていたのだろう。

 相田は微笑んで、下緒を脇差の鞘に括りつける。

「佐々木さんの恋人――あぐりさんでしたっけ? あの人に投げて捨てられてしまったんですよ」

 言われた言葉の意味が分からず、花は戸惑って相田を見た。

「それは、どういう……」

「死んだか確認しようと思って傍へしゃがみ込んだら、下緒の端を引いて解いてどこかへ投げ捨てられたんです。探したんですけど、暗くて見つからなくて」

 顔に笑みを貼り付けたまま、相田が話す。

 花はまるで冷水を浴びせられたような気がした。

「な……何、言ってるんですか。それじゃあ、まるで――」

 まるで、相田が二人を殺したみたいではないか。

 頭に浮かんだ考えに、冷や汗が滲むのを感じた。心臓が、耳元で鳴っているかのようにうるさい。

「相田さんが……二人を、殺したんですか?」

「はい、そうですよ」

 あっさりと肯定した相田に、思わず目を見張る。

「どうして――同じ浪士組の仲間なのに、どうして裏切ったんですか!?」

 相田は失笑した。

「俺は裏切ってなんていませんよ。浪士組の仲間だったことなんて、これまでただの一度もなかったんですから」

「何を、言って……」

「はっきり言わないと分かりませんか? ――俺は尊攘派の志士で、浪士組には間者として潜入していたんですよ」

 花は口を開けたまま、呆然と相田を見つめた。

「嘘……」

「ははっ、信じたくなければ、別に信じなくてもいいですけど」

 場違いなほど明るく笑って相田が言う。

 信じたくない。――だが、嘘だと思えるものが、何一つない。

「どうして、佐々木さんとあぐりさんを殺したんですか」

「菱屋太兵衛が罪人を放免していると知ったからです。太兵衛はある男と取り引きをして、捕らえられた罪人のうち、尊攘派の人間だけを放免していたんですよ。俺たちはその男の指示で、佐々木さんを殺しました」

 それでは、梅を助けたあの一件が原因だというのか。

 針をのんだような心地がして、花は着物の合わせを強く握り締めた。

「でも――それじゃあ、あぐりさんを殺す必要はなかったんじゃないですか?」

「そうですね。正直、彼女を殺すつもりはありませんでした。ですが刀を抜いても佐々木さんを置いて逃げようとせず、結果素性がばれてしまったので、斬らざるを得なかったのです」

 相田は少しも動揺を見せず、淡々と答えた。

「そんな……何を、平然と……」

 花はあえぐように息をした。込み上げる嫌悪に、吐き気がする。

「……神崎さんは海を挟んだ西の大陸に、清という国があるのを知っていますか?」

 唐突に相田が尋ねた。

 確か江戸時代の中国がそんな名前だったはずだが、それがなんだと言うのだろう。

 もう何も聞きたくなくて顔を覆うが、相田は構わず話し続ける。

「かの国は膨大な数の民と広大な国土を持ちながら、西欧列強の侵略を許し、食い物にされています。不平等な条約を結ばされ、国内では密輸入された阿片が流行している。風紀は乱れ、国力も見る影もないほど衰えてしまった。しかしそれは決して対岸の火事などではありません。このままでは間違いなく、この国も同じ道をたどります」

 花はゆっくりと顔を上げた。強い意志のこもった鋭い目が、花を見すえる。

「国が沈めば数千、数万の民が犠牲になる。それを防ぐためならば、一人や二人の犠牲は致し方ないことでしょう」

 花はしばらく何も言えなかった。

 相田言っていることが、一つも理解できない。

 佐々木はただ、太兵衛から暴力を受けている梅を助けただけだ。それなのに、そんな佐々木を殺すことがどうして国を救うことに繋がる。

「……相田さんは、間違ってます」

 花は緩く、首を横に振った。全身が鉛に変わってしまったように重たい。

「たとえそれでこの国が救われるとしても、何の罪もない人まで殺さないと手に入らない未来なら、私はそんなものいらない」

 言った瞬間、相田の顔色が変わる。

「――それを、お前らが言うのか」

 怒りを押し殺したような声に、花は身をこわばらせた。

「五年前、幕府が戊午の大獄によって攘夷派を弾圧したことを忘れたのか? 百余名の人間が連座することになった、あの地獄のような一年を……!」

 固くこぶしを握り締めて相田が問う。

「俺の父はただこの国の行く末を憂い、どうすれば列強諸国に対抗することができるか考えていただけだ。それを――誰よりこの国を想っていた父を罪人として捕らえ、殺したのは幕府側の人間だろう」

 相田は言葉をうしなっている花を睨んだ。

「俺は、お前みたいな人間が一番嫌いだ。口では高尚なことを言って、結局いつも何もしないで見ているだけじゃないか。お前たちが安穏と暮らしている影で、一体どれだけの血が流されていると思っているんだ? 殺しが悪だと言うのなら、俺の父が拷問を受け、弱り死んでゆくのをどうして止めなかった!」

 叫ぶように相田が問う。

「そ、れは……」

 どうしても何も、そもそもそんなことがあったなんて、自分は知らなかった。

 ――そう、知らなかったのだ。平和な現代の日本に生きてきて、そこに至るまでにどれだけの犠牲があったのか、知ろうともしなかった。

 そんな自分に、相田を責める資格はあるのだろうか。

 頭の中が混乱して――もう、何もかもが分からない。

 一体誰が正しくて、誰が間違っているのか。何が正義で、何が悪なのだろう。

 相田はうつむいて、ため息をついた。

「もうやめましょう。……どうせあなたはここで死ぬんですし」

 言って、腰の刀をすらりと抜く。花ははっと息をのんだ。

「佐々木さんと菱屋に乗り込んだのは神崎さんでしょう。実はずっと、こうして連れ出せる機会をうかがっていたんです」

 相田がゆっくりと刀を構える。

 脳裏に無残に斬り殺された、佐々木とあぐりの死体が浮かんだ。

 ――殺されるのか。

自分もあんな風に斬り刻まれて、もの言わぬただの肉塊になるのだろうか。

「……やめて……」

 震える声で言って、後ずさる。手から力が抜けて、提灯が落ちた。

 辺りが一瞬で闇に包まれる。まばたきもせずにいると、木の葉の間からもれた月の光に、相田の振り上げた刀が照らされるのが見えた。

「――い、やあああぁ!」

 悲鳴が喉からあふれ出た。反射的に踵を返すと、無我夢中で走り出す。

 早く――早く、逃げなければ。

すぐうしろで、追いかけてくる相田の足音が聞こえる。気持ちばかりが急いて、足がもつれた。

勢いよくうつぶせに倒れ込むそのうしろで、ひゅんと刀を振る音が聞こえた。

 今、転ばなければ斬られていた。――相田は本当に、自分を殺す気なのだ。

 もはや叫ぶ余裕もなく、花は立ち上がろうともがくように地面に手をついた。

「い……っ」

 その瞬間、肩に焼けるような痛みが走る。

 斬られたのだろうか。分からない。

 ただ死ぬのが怖くて、死にたくなくて、歯を食いしばって身体を起こした。そのはずみに懐から何かが落ちる。

「あ……」

 佐々木に貰った懐刀だ。

 花はとっさに懐刀を掴んで立ち上がり、相田を振り返った。

「……なんだ、殺しを否定しておいて、しっかり刀を持っているんじゃないですか」

 あざけるように相田が笑う。花は震える両手で懐刀を握り締めた。

 痛みと恐怖で、涙があふれて止まらない。

「さっさと抜いたらどうですか? 何もしなければ殺されるだけですよ。……それに、俺は佐々木さんを殺しているんです。仇を討ちたくはないんですか?」

 ――そうだ。相田は佐々木とあぐりを殺した、憎むべき仇なのだ。

 花は肩で息をしながら、相田を睨んだ。

 この刀で、相田を斬ればいい。相田は佐々木とあぐりを殺して、自分のことまで殺そうとしている。それなのに、何をためらう必要がある。

 ――相田が佐々木とあぐりにしたように、斬って、斬り刻んで、殺してやればいい。

 唇を噛んで、ゆっくりと鞘を掴む。

その手を誰かの手が押さえた。

「抜くな。――抜かんでええ」

 弾かれたように振り向くと、そこには山崎が立っていた。もうそれほど暑くもない季節だというのに、髪から滴るほど汗をかいて、息を弾ませている。

 山崎は呼吸を整えながら、腰の刀を抜いた。

「刀捨てろ、相田。大和屋庄兵衛の命で佐伯とともに佐々木を殺した件、及び浪士組の金を盗んだ件について、聞かせてもらうで」

「……なんだ、全部ばれていたんですか」

 相田が肩をすくめて笑う。

「全然気づかなかったな。――いつから俺のことを疑ってたんですか?」

「入隊してすぐん頃、平間先生捜しとる言うて勘定方の部屋から出てきたやろ。あんときからや。朝稽古前の人がおらん時間にわざわざ訪ねて、ほんで誰もおらんて分かっとるのに部屋ん中まで入っとったら、そら怪しい思うやろ」

「なるほど、確かに。でも山崎さん、少しも俺のこと疑ってなさそうだったじゃないですか」

 首を傾げて相田が言う。

「そら疑っとるて気づかれたら調べにくいさかい。――騙しとるんは自分らだけや思うとるから騙されんねん」

「……壬生浪士組なんてただの烏合の衆だと思っていましたが、意外と勉強になりますね」

 相田は笑って、「ああ、そうだ」と思い出したように横を向いた。

「もう一つ、浪士組にいて学んだことがありました。……又三郎さん」

 相田の呼びかけに、藪の中から黒い影が現れる。刀を手に相田の隣に並んだのは、佐伯だった。

「作戦行動は一人で行わないこと。これは確かに、作戦の成功率も実行者の生存率も上がりますね」

山崎の背に僅かに緊張が走ったのが分かった。

「山崎さん……」

「……神崎、今すぐ二条通りに向かって走れ」

 刀を構えたまま、山崎が小声で言う。

「そこまで行ったら他の通り捜しとる隊士の誰かに会うやろから、二人以上でこっちに来させ」

「二人以上……?」

 どうしてかと尋ねようとして、気づいた。山崎は自分が斬られたときのことを想定して言っているのだ。

「嫌です」

 花は必死で首を横に振った。

 殺されるかもしれないのに、山崎一人を置いて逃げるなんてできない。

「山崎さんも一緒に逃げてください」

 死ぬのは怖い。――だが、自分のせいで山崎が死ぬのはもっと怖い。

「俺は大丈夫やから、はよ行け」

 相田と佐伯が刀を構え、こちらに向かってくる。山崎は片手で強く、花を後ろに押しのけた。

「走れ!」

 怒鳴るような声に、びくりと身体が跳ねる。花は震える足を叱咤して走り出した。

 背後からは激しい剣戟の音が聞こえてくる。

 暗闇の中を走りながら、花は懸命に祈っていた。

 ――どうか、お願いだから死なないで。

 山崎が斬られることを思うと、勝手に涙があふれて止まらなくなる。花は泣きながら懐刀を胸に抱きしめた。

 抜けばよかった。懐刀を抜いて、山崎と相田たちに立ち向かえばよかったのに、どうして一人で逃げてしまったのだろう。

 後悔に押し潰されそうになりながら、それでも振り返ることなく二条通りを目指して走り続ける。


 しばらくして、遠くに提灯の明かりがいくつか見えた。

浪士組の隊士たちだ。中心には芹沢の姿もある。

「芹沢さん、こっちです! 山崎さんが……!」

 ありったけの力を振り絞って叫ぶ。芹沢たちはすぐに走り出した。

「――場所は」

「佐々木さんたちが殺されたところです」

 追いついた芹沢たちと一緒に走りながら答える。芹沢は頷いて、隣を走っていた隊士に顔を向けた。

「尾関、お前は神崎を」

「はい!」

 芹沢の命を受けて、尾関が花を押しとどめる。

「神崎さん、怪我は――肩を斬られましたか。他は?」

 頭の先からつま先まで、さっと見て尋ねる。

「それより、山崎さんが」

「それは芹沢局長たちに任せましょう。神崎はんは傷の手当てせな」

 引き返そうとする尾関に、花は首を横に振った。

「お願いです、山崎さんのところに行かせてください。山崎さんに何かあったら、私――」

 嗚咽がもれそうになり、唇を噛む。尾関は困った顔で芹沢たちの去った方と花とを見比べた。

「……斬り合いが終わってへんかったら、近づかんて約束してくれますか?」

「はい」

 尾関の顔をまっすぐ見つめて頷く。

「分かりました。俺も山崎はんのことは心配やし、行きましょう」


 山崎と別れた場所に着くと、そこには隊士が一人だけいて地面に膝をついていた。

「川島はん、芹沢先生らはどないしましたか」

「佐伯はんを斬ったあとで相田が逃げたさかい、追っとる。俺は山崎はんについとって――」

 川島がふと視線を落とす。そこでようやく、川島の前に人が横たわっているのに気づいた。

「山崎さん!」

「大丈夫ですか!?」

 尾関と二人で駆け寄る。

「騒ぐな。……ちょっと脇腹かすっただけやから」

 苦笑して山崎が答える。しかしその顔はひどく青ざめて見えた。

「はよ医者に運ばな……! 川島はん、近くの家で木板を借りてきましょう! 神崎はんはここにおってください!」

 尾関が言って、川島とともにどこかへ走り出す。花は山崎の傍に座り込んだ。

「……お前は、怪我してへん?」

 山崎が視線だけ寄越して尋ねる。――人のことなど、心配している場合ではないのに。

 花は固くこぶしを握り締めた。

「山崎さんの馬鹿……っ」

 言った瞬間、また涙がこぼれ落ちた。

「なんで私だけ逃がして――自分の身を危険にさらしてまで、誰かのこと助けようとするなって言ったのは山崎さんじゃないですか。なのに、なんで……!」

「……ほんまにな。ずっと、そうやって生きてきたのに、今さら何してんねやろな……」

 小さく笑って、傷に響いたのか顔をしかめる。

「山崎さん!」

「……泣くなて」

 山崎が重そうに腕を持ち上げる。血の付いた指先が、花の頬をそっと拭った。

「俺、お前に泣かれるん……弱いみたいやわ」

 言って、少し困ったような笑みを浮かべる。花は山崎の手を両手で握り締めた。

 胸が痛くて、苦しい。泣くまいと思えば思うほど、瞳から涙があふれた。

「山崎さん……」

「……悪い」

 山崎の手から、ふっと力が抜ける。

「ちょっと、眠い――」

 言いながらゆっくりと瞼を閉じていく。花は握った手に強く力を込めた。

「やだ、山崎さん! しっかりしてください!」

 身を乗り出して呼びかけるが、山崎が目を開けることはない。

「山崎さん……っ!!」



 尾関たちは木板を持ってくると、気を失ったままの山崎を乗せて、近くの医者の家へ運んだ。

「あんたはんはこっち」

 医者の助手らしき男に引っ張られ、花は山崎とは別の部屋で治療を受けた。

緊迫した声で何か言い合いながら、人が目の前を慌ただしく行き交う。その光景を、花は半ば放心して見つめていた。

 肩の傷はそれほど深くなかったようで、軟膏のようなものを塗ってさらしを巻かれると、すぐに解放された。

 そのあとは尾関たちに事の詳細を聞かれたが、自分でも何を話したのかあまり覚えていない。

 やがて芹沢たちが現れて、相田に逃げられたと話した。佐伯は芹沢が斬り殺したらしい。

花はそれらの話を他人事のように聞いていた。人が一人死んだにも関わらず、心が麻痺しているように何も感じなかった。

山崎の治療は半刻ほどで終わったが、依然意識は戻らないままで、予断を許さない状態だという。

傍にいたからといって何ができるわけでもないため、結局、護衛の隊士を一人残して花たちは屯所へ戻ることになった。



 遠く、鐘の鳴る音が聞こえる。花は目を開けて、ゆっくりと顔を上げた。膝を抱えて座ったまま、少し眠ってしまっていたようだ。

 格子窓の外は薄暗い。いつもなら夜ご飯の支度をしている時間だが、肩の怪我のこともあり、二、三日は大人しくしているよう言われていた。

 昨夜の事件から、何もする気になれず、ただこうしてぼんやりと時を過ごしている。

 ――もしもあのとき、佐々木と菱屋に乗り込まなければ。もしも懐刀を抜いて、相田たちを斬っていれば。

 こんなこと、今さら考えたって遅い。そう分かっているのに、気がつくとすぐにそこへ思考が戻っている。

「――神崎、いるか。開けるぞ」

 不意に部屋の外から、聞きなれない声が聞こえてきた。

「……はい」

 つっかえ棒を取って答えると、戸が開く。そこにいたのは、副長助勤の斉藤一だった。藤堂と同年で幹部の中では最年少だと聞いているが、物静かな青年で、直接話をしたことはほとんどない。

「土方さんが呼んでいる。ついてこい」

 それだけ言うと、斉藤は返事も待たずに歩き出してしまう。花はのろのろと立ち上がり、斉藤のあとを追った。


「土方さん、斉藤です。神崎を連れてきました」

「……ああ、入っていいぞ」

中から声がして、斉藤が障子を開ける。部屋に入り座ったところで、文机に向かって書き物をしていた土方が顔を上げた。

一目花を見るなり、「ひでえ顔だな」と眉をひそめる。

いつもなら何か言い返したかもしれないが、今はとてもそんな気にならずうつむいた。

土方は小さくため息をつく。

「……昼過ぎに山崎の護衛についてた隊士が帰ってきた。無事に意識が戻ったそうだ。傷も、しばらく安静にしてりゃあちゃんと治るとよ」

花は驚いて、弾かれたように顔を上げた。言葉もなく土方を見つめる。

「おい、聞いてんのか?」

黙ったままの花に、土方が怪訝そうに眉を寄せる。

と、次の瞬間、花の目から涙がこぼれ落ちた。それを見て土方はぎょっとしたような顔をする。

「おっ、おい、治るっつってんだろうが! 縁起が悪い! 泣くな!」

そう言われてなんとか泣き止もうとするが、花の努力とは裏腹に、涙はぼろぼろと頬を伝い落ちた。

土方は居心地悪そうに頭を掻きながら、明後日の方を向く。

「――太物問屋の三条木次屋」

「え?」

「そこに山崎がいる。俺は忙しくて顔出せねえから、お前が代わりに見舞いに行ってこい」

 ぶっきらぼうに言う土方を、花は目を瞬いて見た。

「いいんですか……?」

「……勘違いすんなよ、お前はただの代理だ。別にお前のために言ってるわけじゃねえ」

 念を押すように言うと、傍に置いていた巾着から銀貨を一枚出して花に投げた。

「それで何か精のつきそうなもん買っていってやれ」

「はっ、はい……!」

銀貨を受け止めて、すぐさま立ち上がる。

「ありがとうございます、土方さん!」

「だからてめえのためじゃねえ――って、おい! 聞いてんのか!?」

土方の怒鳴り声を背中に聞きながら、花は部屋を出て廊下を走り出した。

――ずっと、暗い海の底に沈んでいるようだった。怖くて、息が詰まって、苦しかった。

だが、山崎は生きていた。ただそれだけで、胸がいっぱいで、救われたような気持ちになった。


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