三
「ほな俺はちょっと八木邸寄って帰るさかい」
「分かりました。お茶ごちそうさまでした」
頭を下げると、佐々木は軽く手を挙げて去っていく。花は前川邸へ戻る前に、壬生寺へ寄ろうと歩き出した。
今日は朝から気付かされることが多く、少し一人になって考えたかった。
もう少しで昼九つだが、隊士が増えてきたこともあり、昼ご飯については各自でとるように変わっていたので問題はない。
「なーなー、総司! 次は鬼ごっこしようや!」
南門を抜けて鐘楼に向かって歩いていると、子どもの声が聞こえてきた。見ると沖田らしきうしろ姿と、四、五人の子どもの姿がある。
「いいですね、それじゃあ誰が最初に鬼をやりますか?」
「ええー、そこは総司がしいや!」
「せやで、総司大人やろ!」
「嫌ですよお。ここは平等に、じゃんけんで決めましょうよ」
子どもたちのブーイングに沖田がごねる。……なんて大人げのない。
思わず脱力していると、沖田を囲んでいた子どもの一人がふとこちらを見た。
「あ、ほな今来たあの兄ちゃんにやってもらおうや!」
おもむろに花を指さして言う。沖田がゆっくりとこちらを振り返った。
「か、神崎さん……」
「……どうも」
驚いた様子で目を見開く沖田に会釈する。沖田は黙ったまま、微動だにしない。
「あの……沖田さん?」
一歩足を踏み出してみる。
沖田はびくりと身体を震わせると、素早く踵を返して走り出した。
「え、ちょっと!」
慌ててその背に声をかけるが、沖田は一目散に花から逃げていく。するとそれを見た子どもたちも、声を上げて沖田のあとを追った。
「わあー! 鬼が来るでえ!」
「逃げろー!」
「えっ、もしかして私が鬼?」
困惑してその場に立ち尽くす。
……しかし、人の顔を見るなり逃げ出すなんて、失礼ではないだろうか。
ああも露骨に避けられると、少し腹が立つ。
「――よし」
沖田を捕まえよう。そう決意するがいなや、花は履いていた草履を脱ぎ捨てた。
「待て!!」
裸足になって駆け出すと、まさか追ってくると思っていなかったのか、沖田はぎょっとした顔で振り返った。
しかしそれでも、逃げる速度を緩めることはない。
花と沖田はお互い全力で境内を走り回った。
ここ数日引きこもり生活が続いていた花は、あっという間に呼吸が乱れ、速度も落ちていく。対して沖田はどんどんスピードを上げて、花との距離を広げていった。
――もう無理かもしれない。そう諦めかけたとき、花の目に子どもたちの姿が飛び込んできた。
「きみたち! お願い、沖田さんを捕まえて!」
前方で固まっていた子どもたちに、沖田を指さして頼む。
二人で走り続けていたせいで暇をもてあましていたのか、子どもたちは花の言葉にぱっと顔を輝かせた。
「よっしゃ、兄ちゃん任せろ!」
「総司覚悟ぉ!」
子どもたちがいっせいに駆け寄り、沖田の足に抱きつく。
「なっ!? は、離しなさいっ! ずるいですよ!」
「だって総司強すぎるんやもん」
「天誅やー!」
「うぐ……」
子どもたちの言葉に沖田は悔しそうな顔をする。花は沖田に笑顔で近寄り、その肩をぽんと叩いた。
「捕まえた」
「ぎゃー! 今度は総司が鬼や!」
「逃げろ、逃げろー!」
沖田にしがみついていた子どもたちがみな、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。花だけが沖田の肩をしっかり掴んだまま、その場に残った。
「神崎さんは逃げなくていいんですか?」
「何言ってるんです! 逃げるわけないじゃないですか!」
成り行きでそうなっただけで、別に自分は鬼ごっこをしに来たわけではない。
立腹する花に、沖田は伏せていた目をゆっくりと上げた。
「――本当に?」
その目の鋭さに一瞬身体がこわばり、ごくりと生唾をのんだ。
しかし怯むことなく沖田を睨むと、花はこぶしを握り締めて思い切り沖田の頬を殴った。
「……へ?」
沖田は何が起こったのか分からないという顔で花を見つめた。
花はというと、右手を押さえてその場にうずくまっている。
「いった……」
生まれて初めて人を殴ったが、殴る方も痛いものなのか。
力加減を全くしなかったおかげで、ねんざでもしたかと思うほど手首が痛い。
「えっと……大丈夫ですか?」
赤くなった頬を押さえて首を傾げる沖田を、花は涙目になりながら睨みつけた。
「心配するくらいなら、もっと痛そうにしてくださいよ! 殴ったかいがないじゃないですか!」
花の言葉に沖田はきょとんとして――突然、糸が切れたように笑い出した。
「ぶっ……あははははっ!」
「わっ、笑わないでください! 私、怒ってるんですよ!?」
身体をくの字に曲げて笑う沖田を、ようよう立ち上がって怒鳴りつける。
「だ、だってあんな威勢よく睨みつけておいて、殴った方が痛そうって……」
苦しそうに引き笑いをしながら、今度は沖田がうずくまってしまう。花は顔を真っ赤にして沖田を睨んだが、それを見て沖田はますます笑い転げた。
「あのですね。私はずっと、沖田さんに腹が立ってたんです」
笑いがおさまってきたのを見計らって切り出すと、沖田は目尻に薄っすらと浮かんだ涙を拭いながら花を見上げた。
「沖田さんは人のことを斬るとか簡単に言いすぎです。このあいだなんて、待ってろって言われたのを待ってなかっただけで、事情も聞かずに刀を向けてくるし」
「……そうですね。あのときのことは、すみませんでした。脅そうとしただけで、本当に斬る気はなかったんです」
沖田は頷いて、素直に謝った。花は少し意外な気持ちで沖田を見つめる。
「神崎さんは、私が怖くないんですか?」
ふと沖田が尋ねた。花は考えながら視線を落とす。
「全く怖くないって言ったら嘘になります。……でも今は、それ以上に自分が情けなくて」
「情けない? どうしてですか?」
沖田が不思議そうな顔をする。花は目を伏せて、相田や佐々木と話したことを思い返した。
「……私、何が正しいことで何が間違いなのか、ずっと分かってるつもりで他人のこと非難してて。でも本当は、何も分かってなかったんです」
花は沖田が人を斬ったとき、その正当性など少しも気にしていなかった。自分はただ、人を殺すという行為を拒絶していただけだったのだ。
「私は残酷なものなんてない、平和な世界で生きてきて――」
言いかけて、花は言葉を止めた。
「……違いますね。本当はそうしたものはあったんですけど、私の目に映ることはほとんどなくて、ずっと他人事で生きてきてたんです。それなのに、口先だけで知った風なことを言って……そんな自分に気づいて、恥ずかしくて、情けなくなって」
現代でも正当化される殺人は――死刑や戦争で人が人を殺すことはあったが、自分はその善悪や責任について何一つ理解していなかった。それどころか真剣に考えたことさえ、もしかすると一度もなかったかもしれない。
たとえば死刑と聞いても、実際に自分が目にすることはなかったし、ましてや手を下すなんてことはあり得なかった。だからきっと、ずっと他人事だったのだ。
しかしそれらは目の前で起きていなかっただけで、現代にも確かに存在していた。――にも関わらず、自分はそうしたことにずっと無関心でいた。
沖田は花の話を聞き終えると、ゆっくり腰を上げた。
「私だって、何が正しいことかなんて分かっていませんよ。ただ、私には守りたい人がいて、その人のためなら人を斬ることも厭わないと決めているだけです」
そう言うと、ふいと花から顔をそらす。
「人を斬り、命を奪うことには重い責任がつきまといます。こんなことを続けていれば、いつかは私も誰かに殺されるかもしれない。――ですが私は、自分が斬られていまわの際になっても、己のしたことに後悔がないと、はっきり言える自信があります」
沖田の横顔は、いつになく真剣だった。
相田も佐々木も沖田も、その是非はともかく、人を斬ることに対してしっかりと自分の考えを持っている。
花はうつむいた。
残酷なものを恐ろしいと思う気持ちは、それ自体は決して間違いではないはずだ。人として大切な道徳的な心で、忘れてしまってはいけないものだと思う。
だが、そこで思考が停止してしまってはいけなかった。
今まで自分は、人を斬ることを脊髄反射的に拒絶していたが、そうではないのだ。その残酷さや責任を理解したうえで、善悪を判断すべきだった。
この時代は現代と違って、法律も曖昧で不条理なことも多い。きっと、だからこそ、自分の頭で本当の正しさを見極めなければならないのだ。
「……人を斬ることについて、今の私にはまだその正しさとか、判断ができません」
言って、花は顔を上げた。
「なので、一時休戦としませんか」
「……そこは仲直りじゃないんですか?」
「別に今までも仲良くはなかったですし、それは違うでしょう」
花が言うと、沖田は「つれないなあ」と笑った。それからじっと花を見つめる。
「なんですか?」
「……どうでもいいと思ってたんですけどねえ。存外嬉しかったみたいです、私」
微笑む沖田に、花は何の話か分からず首を傾げた。
「なんでもないです。――ところで、山崎さんとは和解したんですか?」
尋ねられて、花の顔がこわばる。
「和解なんてしようがないですよ。山崎さんは私が怪しい人間だって疑ってるんですから」
自分で言って胸が痛くなり、思わず目を伏せた。
「……山崎さんって監察方をしてるでしょう? 神崎さんは知らないみたいでしたけど、監察の仕事には隊内の人間の調査――要は素行の悪い者や裏切り者がいないか調べることが含まれているんです。大方、神崎さんのことを調べるよう言われてたんじゃないですかね」
――そういえばいつだったか、土方の部屋で山崎が『かんさつ』だと聞いたことがあった。
かんさつと聞くと、小学校の理科の授業でやった植物観察などの観察の方がなじみがあったので、あのときはぴんとこなかったが、そちらの意味の監察だったのか。
「山崎さんは監察だから……それが仕事だから、疑われてても許せって言うんですか?」
花が問うと、沖田は考えるように顎に手を当てた。
「うーん、でも本当に神崎さんのことを疑ってたなら、私が刀を向けたとき、わざわざ間に入ってきたりしなかったんじゃないかって思うんですよね。私にサクッと斬らせておけば、探ったりする必要もなくなって万事解決しますし」
「な……」
思わずぽかんと口を開ける。
そんな風に考えたことはなかったが、確かに言われてみると、見方によってはあのとき山崎は自分を助けたとも取れる。
「だ、だけど山崎さん、私のことずっと疑ってたとか、他人のことなんか信じるなとか言って……」
「ええー、それこそ敵に塩を送るようなものじゃないですか。今後も探る気があるなら、そんなこと教えないで適当に言いくるめて油断させた方がいいでしょう。あの人、そういうの得意みたいですし」
――やはり山崎は、優しいばかりの人ではなかったのか。
頭の片隅でそんなことを考えつつ、花は手のひらで口を押さえた。
「どうしよう……」
もしも沖田の言っていることが真実なのだとしたら、自分は山崎に酷いことを言ってしまった。
「まあ私は山崎さんじゃないので、本当のところは分かりませんけどね。何か企みがあって、あえて神崎さんにそんなことを言ったのかもしれないですし」
「……ちょっと、結局どっちなんですか」
じっとりと睨むと、沖田は首をすくめてみせた。
「仕方ないでしょう。私の頭って山崎さんみたいに複雑にできてないんですもん。あの人の考えてることなんて分かんないですよ」
「そんな……他人事だと思って、適当な」
「そりゃあ他人事ですよ、神崎さんの問題なんですから。私にできるのは助言だけです。最後には神崎さんが自分の頭で考えて、どうするか決めないと」
笑いながら沖田が言う。
……悔しいが、沖田の言うことには一理ある。
花は目を閉じて、深いため息をついた。そこへ、くいと袴を引っ張られてうしろを向く。
立っていたのは沖田と遊んでいた子どもたちで、みな不満そうに眉間にしわを寄せていた。
「ちょい、兄ちゃんと総司何しとるんや。みんな逃げとるんやから、はよ捕まえてや」
「そやそや、やめるんやったら誰か捕まえてからにしてや」
「す、すみません」
子どもたちの言い分がもっともだったため、花はつい頭を下げて謝った。
そんな花を見て、沖田はくすりと笑って手を叩く。
「よし、それじゃあ私が今から十数えるんで、みなさん逃げてくださいね! ――ほら、神崎さんも早く逃げて!」
「え、私もやるんですか?」
「つべこべ言わんとさっさ逃げるで、兄ちゃん! 総司、ほんまに容赦ないさかい!」
「はっ、はい!」
子どもたちに急かされて、花も走り出す。そして、ぽつりと呟いた。
「私、兄ちゃんじゃなくて、姉ちゃんなんだけどな……」
*
結局子どもたちと遊ぶ沖田に一刻ほど付き合ったあとで、花は一人で前川邸に戻った。
平隊士たちが寝所として使っている大部屋の前にくると、中にいる隊士たちに気づかれないようこっそりのぞいてみる。
部屋の中では非番と思われる数人の隊士が、読書をしたり将棋を指したりしていた。
「――あれ、神崎さん?」
「わあっ!?」
突然声をかけられて、びくりと身体が跳ねる。慌てて振り返ると、廊下に山野と佐々木が立っていた。
「すみません、驚かせるつもりはなかったんですけど……」
「そないところで何してんねん、お前」
「あ、どうも……」
会釈して、花はもう一度ちらりと部屋の中を見る。
「その……山崎さんを探してて」
どうやら不在のようだったが。
「そういえばここ数日見かけませんね」
「ああ、山崎はんやったら、副長の用でしばらく屯所空ける言うてはったで」
「……そうなんですか」
ここ数日、台所に籠もってばかりいたせいで、山崎がいないのにも気づかなかった。
先ほど沖田の意見を聞いて、山崎と話をしてみようと思ったのだが。
少しがっかりしていると、佐々木が何やら深刻そうに顔を寄せてきた。
「――なあお前、山崎はんと痴話げんかしたんやってな」
小声で言われて、思わずげんなりする。
今朝台所で会ったときには知らなかったのに、浪士組内の噂の拡散力はなかなかのようだ。
「山崎はんがそないなことするんは意外やったけど……女殴るようなやつはやめといた方がええんとちゃうか?」
そう言う佐々木は茶化しているのではなく、純粋に花を心配しているようだった。
「……あのですね、変な噂が流れてるみたいですけど、全部嘘ですから。そもそも私と山崎さんは恋人じゃないですし」
さすがに怒る気にはなれず、落ち着いて説明する。しかし佐々木は、
「せやったん? あっ、ほなお前の片思いなんか」
と勝手に納得した。
「どうしてそうなるんですか」
「山崎はんて大人やし、頼りがいあるし、お前がころっといってまう気持ちも分からんでもないけどなあ。なかなかくせ者やと思うし、お前みたいなあほには、もうちょい普通のやつの方が合っとるんとちゃう?」
「余計なお世話ですよ」
「あっ、せや、こいつとかどう? 面もええし」
佐々木が笑顔で山野の肩に手を置く。
いきなり売り出された山野は「いやいや」と顔の前で手を振った。
「俺、恋人いるから。前に話しただろ」
「せやったっけ? あー、残念やったな、神崎」
佐々木は言って、憐れむような目を花に向ける。
好きだと言った覚えもないのに、どうして私がふられたみたいになっているのだろう。
花は納得いかない気持ちを抱えつつ、夜ご飯の支度をするため、二人と別れて台所へと向かった。
*
その日の晩、夜ご飯を作り終えた花は、梅の様子を見に八木邸を訪ねた。
雅と主人の源之丞に声をかけて玄関を上がったところで、芹沢が佐伯と平間と副長助勤の平山五郎という男を連れて現れる。
「あっ、こんばんは。……今からお出かけですか?」
「ああ」
「そうですか……。実はおすそ分けしようと思って、夜ご飯のおかずを持って来たんです。よかったらまた明日の朝にでも食べてください」
持って来た重箱を少し持ち上げて言うと、芹沢は「分かった」と頷いて屋敷を出ていった。その後ろ姿を複雑な気持ちで見送る。
今から酒を飲みに行くのだろうか。
噂によると芹沢は、ほぼ毎晩部下である佐伯と平間、平山の三人を連れて飲みに出掛けているようだ。
父親と同じ顔をした男が毎晩飲み歩いているというのも複雑だが、それ以上に花は芹沢が佐伯たちとつるんでいるのが嫌だった。佐伯たちはよく昼間から酒盛りをして屋敷の中で暴れているらしく、雅が困っていると話していたからだ。
「……神崎はん?」
ついもの思いに沈んでいると、背後から声がかかった。振り返った先には梅が立っている。
手当てをしてもらったのか、太兵衛の妾宅にいたときはそのままだった傷に、さらしが巻かれている。
「こんばんは、お梅さん。夜ご飯のおかずをおすそ分けしに来たんですけど、よかったらどうですか?」
「……おおきに、いただきます」
梅はぎこちなく頷いた。まだ八木邸にいることに慣れないせいか、立っている姿もどこか気まずそうに見える。
「ちょうど時間もええ頃やし、ご飯にしまひょか。神崎はんもまだやったら、一緒に食べてかはりまへん?」
八木家では夜ご飯はまだだったらしく、雅が立ち上がって聞いた。
「ぜひ! ご飯の支度、私も手伝います」
「あ……うちも、手伝わしてください」
花に続いて梅も申し出る。
「まあ、別嬪はんが二人も手伝うてくれはるやなんて、嬉しおすなあ」
雅が目を細めて微笑む。こんな風に年上の女性に褒められるのは久しぶりで、花はくすぐったいような気持ちになって笑った。すると隣で、梅も笑みを浮かべる。
初めて会ったときから綺麗な人だと思っていたが、梅の笑った姿は思わず息をのむような美しさだった。
花は一瞬見惚れてしまって――それから、梅が笑うところを今初めて見たのだということに気づいた。
「……行きましょう」
梅に言って、歩き出した雅のあとに続く。
――これからは、梅がたくさん笑える毎日を送れるといい。
夜ご飯はほとんど作り終えていたようで、台所は出来上がった料理のいい香りに包まれていた。
花と梅は皿の用意をすることにして、それぞれ棚に向かう。
「何べんも炊かれへんのはしゃあないどすけど、時間がたったご飯はどないして硬うなってまうんどっしゃろか……。夜はまだしも、朝のご飯はぶぶ漬けにでもせな、よう食べられへんし」
竈に立って釜の蓋を開けた雅が、ふとため息をついて言った。
前川邸では隊士の数が多いので朝と晩に炊いているが、この時代の一般家庭は一日に一度しかご飯を炊かないらしい。
東の朝炊き、西の昼炊きといって、職人の多い江戸では弁当を持っていくため朝にご飯を炊き、商人の多い京や大坂では朝から商売があるため昼に炊くのだという。
「硬くなったご飯を復活させるには、日本酒をかけて蒸らすといいんですよ」
「そないことして、ご飯が酒臭うならんのどすか?」
花の言葉に梅が目を丸くする。
「熱でアルコール……えーっと、お酒の成分が飛ぶので大丈夫です! 為三郎くんと勇之助くんも食べられますよ」
「ほんまどすか。そやったら、さっそくやってみまひょ」
雅がいそいそと日本酒を取り出す。
硬くなったご飯に少量かけて蒸すこと数分、ご飯はふっくらとよみがえった。
「炊きたてみたいどすなあ。これはええこと教わりましたわ」
「ちなみにもっと時間がたって黄色くなっちゃったときは、お酒と酢をかけて蒸すといいんですよ」
「そうどすか。ほな、明日の朝やってみます」
雅はご飯をお櫃に移し、花と梅はおかずを皿に盛り付ける。
そうしてご飯の支度をすませると、秀次郎たちも呼んで、みんなで食事をすることになった。
「あれ、今日のご飯硬うない!」
ご飯を一口食べて、為三郎が驚いたように声を上げた。
「神崎はんが硬うなったご飯戻す、ええ方法教えてくれはったんよ」
「へえ、そうなんや。神崎はん、物知りなんどすなあ」
感心したように源之丞が言う。
「いえいえそんな。あ、そうだ、煮しめを作ってきたので皆さんよかったらどうぞ」
花は重箱の蓋を開けて、中に入れていた小鉢を配った。
「かわええ……」
煮しめのれんこんを見て、ぽつりと梅が呟く。隣で雅も微笑んだ。
「ほんまや、お花みたいどすなあ」
二人の言葉に、花は嬉しくなってぱっと顔を輝かせる。
「ですよね!? れんこんを飾り切りしたもので、花れんこんって言うんです!」
今晩前川邸でも出したのだが、隊士たちは料理の見た目にはそこまで興味がないのか、特に何も言ってくれなかった。沖田に至っては、
「言われてみればいつもと形が違うような」
と気づいてすらいなかった様子で、せっかく手間をかけたのにと内心がっかりしていたのだ。
「うち、島原でお勤めしとった頃も、綺麗なお料理見るの好きやったんどす。こない料理作れるやなんて、うらやましおすなあ……」
「あ……そやったらお梅はん、神崎はんに料理教えてもろうたらどうどすか? これから働くとこ見つけるのに、役に立つかもしれへんし……」
思いついたように秀二郎が言う。それからはっとしたように顔を赤くして、
「も、もちろん、お梅はんと神崎はんがよかったらやけど」
と付け足した。
正直なところ自分はまだ駆け出しの料理人で、人に教えられるような身分ではないと思う。――だがそれでも、自分が教えることで梅の道が開けるならば。
「その……私でよかったら、料理教えましょうか?」
おずおずと尋ねると、梅はこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いた。
「え、えっと、無理にとは言わないので! 私もまだまだ修行中の身ですし――」
「お願いします!」
花の言葉を遮って、梅が頭を下げる。
「うち、昔はお料理作るの好きやったんどす。せやけど太兵衛はんとこおったときは、本宅からまかない運んでもろうとって、台所使わしてもらえへんくて」
そう言うと、おそるおそる花の顔を見る。
「よかったら、教えてもらえますか?」
「――よろこんで!」
花は笑顔で頷いた。
*
その日以来、花は夜ご飯を作る時間になると八木邸に行って、梅に料理を教えるようになった。
梅はとてもまじめで熱心だったため、料理の腕は見る間に上達し、十日もたつ頃には雅と交代で朝と昼の食事を作るまでになっていた。
「いろんな料理作れるようになってきましたし、今日は飾り切りの練習してみましょうか」
夕焼け色に染まった台所に、いつものように梅と立った花はふと思いついて言った。梅はそれを聞いて、嬉しそうに顔を輝かせる。
「ほんまどすか? うち実は、ずっと飾り切りやってみたい思うとって」
「そうだったんですね。お梅さん上達するの早いから、きっとすぐに作れるようになれますよ」
「……頑張ります」
褒められて、少し気恥ずかしそうに笑って答える。一緒に料理を作るようになってから、こうして梅の笑顔を見ることが増えた。梅が笑うとほっと胸があたたかくなるようで、嬉しい。
「よし、それじゃあさっそく――」
「神崎、お梅はん、おる?」
腕まくりしたところで、玄関の方から佐々木の声が聞こえてきた。一度梅と顔を見合わせて、二人で台所を出ていく。
玄関先には佐々木と十七、八歳くらいの少女が立っていた。少女は立っているだけで場が華やぐような、可愛らしい顔立ちをしている。
「佐々木さんと、そちらは……」
「紹介するて前に言うとったやろ。あぐりや」
「はじめまして」
あぐりは鈴が鳴るような、これまた可愛い声であいさつした。
「はっ、はじめまして! お噂はかねがね……」
花が慌てて頭を下げると、あぐりの顔が赤らんだ。
「もう、愛次郎はん。あんましうちの話せんといてって言うとるのに。恥ずかしい」
「悪い、悪い。つい自慢したなって」
ふくれっ面するあぐりに、佐々木はにやけた締まらない顔で謝る。以前から分かっていたことだが、本当にべた惚れなようだ。
「今日は二人でお出かけなんですか?」
「ああ、ちょっと二条通りまで行って飯食うてくんねん」
「そうなんですね」
花が相槌を打ったところで、梅が気まずそうに佐々木の前に進み出た。
「あの、佐々木はん。太兵衛はんとこから連れ出してもろうたとき、うち、ろくにお礼も言えんとすんまへんどした」
「いやいや、あんなん俺らが勝手にやったことやし、気にせんとってください。それよりお梅はん、秀二郎はんとはどうどすか?」
佐々木は言って、からかうような笑みを浮かべる。
「あん人最近しっかりしてきましたよね。やっぱし好きな女が傍におったらちゃうんやなあ」
「好きな女?」
何の話かと首を傾げる。そんな花を佐々木は信じられないものでも見るような目で見つめた。
「それ……本気で言うとるんか?」
「な、何なんですか、その目は」
うろたえながら言うと、佐々木は呆れたように息を吐く。
「お前あほなだけやなくて、色恋沙汰にも疎かったんやなあ。――秀二郎はんがお梅はんのこと好きやて、ほんまに気づかへんかったんか?」
「え、ええーっ!? そうだったんですか!?」
佐々木の言葉に花は仰天した。全くもって少しも気がつかなかった。
「むしろこっちが『ええー』言いたいとこやけどな。……て、悪いあぐり、待たせたな。そろそろ行こか」
「はい」
あぐりがにこりと笑って頷く。花は動揺を抑えつつ、二人に手を振った。
「それじゃあ、気をつけて」
「ん、行ってくる」
軽く手を挙げると、佐々木はあぐりと連れ立って八木邸を出ていった。二人の姿が見えなくなった頃合いで、花は梅に顔を向ける。
「あの、お梅さんは秀二郎さんのこと――」
「も、もう台所戻りまひょ。飾り切り教えてもらう約束どす」
「えー、少しくらい話してくれても……」
口を尖らせて梅のあとを追う。そこへ平間と平山が現れた。
「……うるさいな」
花たちを一瞥して、平間が悪態をつく。
「な――」
「すんまへん、気をつけます」
言い返そうとした花の口を塞いで、梅が頭を下げる。平間はふんと鼻を鳴らして、平山と玄関を出ていった。
これから二人で飲みに行くのだろうか。
「……神崎はんて、見かけによらんと意外に喧嘩っ早いおすな」
平間たちがいなくなると、梅はようやく手を離してため息をついた。
「すみません、つい……」
謝りつつ、ちらりと離れのある方を見る。
花が梅に料理を教えに八木邸に来るようになってから、芹沢はあまり夜出かけなくなった。今日は佐伯が一緒でなかったので、もしかすると二人で出かけるつもりなのかもしれないが……。
「――あ、芹沢はん」
梅の声にどきっと心臓が跳ねた。振り返ると、着流し姿の芹沢が立っている。
「こんばんは。あの、今日の晩ご飯は……」
「……今晩はどこへも出掛けない」
芹沢が答えたとたん、花は顔をほころばせた。
「分かりました。それじゃあ芹沢さんの分もご用意しますね」
「ああ」
素っ気なく言うと、芹沢は厠のある方へ去っていく。花は梅と台所へ戻りながら、こっそり笑みをこぼした。
芹沢は飲み歩かなくなり、梅はよく笑うようになった。
この時代にタイムスリップしてから、初めてと言っていいほど嬉しいことが続いていて――まるで全てが上手くいっているような、そんな馬鹿な錯覚をしていた。




