一
早朝前川邸の台所には激しい包丁の音が響いていた。苛立った表情で冬瓜を切るのは、壬生浪士組の料理人、神崎花である。
沖田に斬られそうになったあの日から数日がたっていたが、花は今も相変わらずこの場所で料理を作っていた。
そしてここ最近すっかり恒例となってしまった『あること』に、花は朝から不機嫌だった。
「お、おい、左之お前が行けよ」
「ああ!? ぱっつぁんが誘ってきたんだろ、自分が行けよ!」
「無理だろ! 今行ったらぜってぇ切り刻まれる!」
「今朝の朝餉はぱっつぁんの煮込みか……」
「やめろ、合掌すんな!」
「――もう、何なんですか!!」
こそこそと、しかしいつまでも続く話し声に、ついに耐え切れなくなった花は、包丁をまな板に叩きつけて怒鳴った。
振り返った先には物陰に隠れてこちらをうかがう浪士組の副長助勤、原田左之助と永倉新八がいる。屈強な身体を持つ男二人がくっついて隠れているさまは、正直気持ちが悪い。
「毎日毎日そうやってこそこそして、何の用ですか? 言いたいことがあるなら、はっきり言ってください!」
睨みながら花が詰め寄ると、永倉と原田は顔を青ざめさせてのけぞった。
「は、はは花ちゃん! 落ち着いて!」
「左之の言うとおりだ、とりあえず包丁を置こう! な!?」
二人の言葉に自分の右手を見ると、包丁を持ったままだった。花は二人を睨んだまま、荒っぽく包丁を置いた。
「――で、ご用件は?」
改めて腰に手を当てて聞くと、原田が永倉のわき腹を肘で突く。永倉は気まずそうに花の前に出てきて頭を掻いた。
「いや、その、噂でさ……そう! あくまで噂で、俺たちは本当に信じてるわけじゃなくて――」
「前置きはいいですから、簡潔に話してください」
「う……じゃあ聞くけどさ」
そこで一旦言葉を切ると、永倉は素早く周囲を確認し、花に顔を寄せた。
「――花ちゃんて結局総司と山崎、どっちが好きなんだ?」
「……はい?」
「いや、俺たちは山崎と花ちゃんがいい仲だってちゃんと知ってるぜ? ただ、隊士たちが三角関係の修羅場を見たって騒いでるもんだから……」
眉を寄せた花に、永倉が焦ったように弁解する。しかし花はその言葉にさらに混乱した。
「ちょ、ちょっと待ってください。何かいろいろと誤解があるみたいですけど――まず修羅場って何ですか?」
「いや、それが隊士たちが言うには、山崎の巡察中に総司と花ちゃんが逢引きしてて、それを知った山崎が怒って花ちゃん張り倒して屯所の蔵に閉じ込めたって」
なんだそのとち狂った話は。噂には尾ひれはひれが付くものかもしれないが、この場合羽が生えて大空へ飛び立っていったくらいには事実と乖離している。
あの日のことを誰も何も言ってこないと思っていたら、まさかこんなふざけた話になっていたとは。
「あのさあ、こんなこと言いにくいんだけどよ……総司のこともちょっとは考えてやってくれねえか?」
原田も物陰から出てきて、そろそろと会話に入ってくる。
「あいつあれからよくぼーっとしててさ。あんなに元気ねえ総司久しぶりに見たから、心配でよ」
「総司とは長い付き合いで、俺たちにとっちゃあ可愛い弟みてえなもんなんだよ。だからあいつには、幸せになってもらいてえっつうか……」
その可愛い弟に、自分は二度も殺されかけたのだが。
心の中で思うが、少し顔を赤らめて照れくさそうに話す原田と永倉に言う勇気はない。
花はこめかみを押さえて、ため息をついた。
「……どこでそんな話になったのか知らないですけど、私はそもそも山崎さんの恋人じゃないです」
むしろずっと、浪士組に悪意のある人間ではないかと疑われていたのだから。
蔵を出されたときに山崎と話したことが脳裏によみがえり、花は唇を引き結んだ。
「――ってことは、総司とのこと考えてくれるってことか!?」
「ありがとう花ちゃん! よくぞ決心してくれた……!」
感極まった様子で二人が言う。花は「え」と声をもらした。
「ちょっと待ってください、私は沖田さんとも――」
「いい、いい。みなまで言うな!」
「その言葉は総司に直接言ってやってくれ! じゃあ頼んだからな!」
そう言い残すと、多大なる勘違いをしたまま台所を去っていく。花はあとを追おうと足を踏み出しかけて、途中でやめた。
面倒だし、もう放っておこう。噂だってどうせそのうち飽きて、みんな忘れてしまうだろう。
置いていた包丁を持つと、料理を再開する。――どんなに現実が嫌になっても、料理を作ることに集中している間だけは、心穏やかにいられる。
山崎や沖田と顔を合わせたくないということもあり、花はここ数日ほとんど台所に籠もって料理に没頭していた。
「おい神埼――って、お前その頬どないしたん?」
朝ご飯を作り終えた頃になって、佐々木が現れた。
ぎょっとした顔をする佐々木に、花は首を傾げる。
「佐々木さんは噂知らないんですね」
「噂……? 俺最近屯所におらへんかったんやけど、何かあったんか?」
「いえ、別に。それより用って――お梅さんの件ですか?」
声をひそめて尋ねると、佐々木は神妙な面持ちで頷いた。
「ちょっと時間ないさかい、ここで話す」
手招きされて、台所の隅へ移動する。
「前に太兵衛が島原で御番所のやつらと会合しとるて話したやろ? ほんでここ数日張っとったんやけど、どうも太兵衛が金渡して罪人を放免させとるみたいやねん」
「なんですかそれ……! そんなこと許されるんですか!?」
「静かにせえ、あほ」
思わず声をあげた花を、佐々木が小突く。
「もちろん許されるわけない。せやけど太兵衛がそないなことする理由も分からへんし、裏に太兵衛を動かしとる黒幕がおる可能性もあるさかい、まだ動けへんて土方副長には言われた」
「理由は分かりそうなんですか?」
「どうやろな……。せやけどそないことより、分かったあとにほんまに動く気があるんかっちゅうことのが問題や」
そう言うと、佐々木はいっそう声を小さくして話し始めた。
「お白洲で罪人やて認められるには、本人の自白が必須なんや。せやけど太兵衛ら突き出して、御番所のやつらが本気で取り調べするとは思われへん。罪人の放免を命令したんは太兵衛らでも、実際やったんは下っ端やろうし、下手したらそいつら切って自分らは知らんふりするかもしれへん。そうなったら俺らには何もできひんし、そうなることが分かっとって副長が動くとも思えへん」
「そんな……それじゃあどうしたら……」
「――お前、自分が言うたこと忘れたんか?」
佐々木がにやりと笑う。
「俺は今日太兵衛んとこ行って、お梅はんを渡さへんねやったら、お前の悪事ばらしたるて脅してくるつもりや。証拠はないけど、あいつ外面だけはええみたいやし、変な噂たてられるんは嫌やろ」
佐々木の言葉に、二月ほど前に話したことを思い出す。
しかし太兵衛のやっていた悪事が、想像していた以上に大きかったため、花は少しためらった。
「そんなことして、佐々木さんは大丈夫なんですか? 『知られちまったからには生かしておけねえ!』とかって、命狙われたりしないです……?」
昔見たドラマであった展開を思い出しつつ尋ねる。佐々木は「誰の真似やそれ?」と吹き出した。
「太兵衛のことは何回か見たことあるけど、あいつはそない玉とちゃうよ。それに勝手に動いたて副長にばれたらまずいさかい、変装していくつもりやし」
梅を保護したあとは、ひとまず恋人のあぐりの家に預けるつもりだと佐々木は話す。
花は少し考えて、顔を上げた。
「私も太兵衛さんのところ、ついて行っていいですか?」
「はあ? 何言うてん。女なんか連れてけるわけないやろ」
佐々木が一蹴するが、花は食い下がった。
「私も変装しますから! それに一人だと味方がいないんだって思われて、舐められるかもしれないですよ」
「いや……でもなあ」
「太兵衛さんは命を狙ってくるような人じゃないんですよね? なら私がついて行ったって大丈夫じゃないですか」
渋る佐々木を懸命に説得する。自分が行っても大して役に立たないのは分かっているが、佐々木一人を行かせることにどうしても抵抗を感じた。
「……しゃあないな」
佐々木はなかなか了承してくれなかったが、『変装した格好がちゃんと男に見えるものであること』を条件に、不承不承ながら頷いた。
「決行は今日や。昼九つになったら壬生寺の前に来い」
「分かりました」
花が頷いた、そのとき。
「――佐々木」
突然背後から聞こえた声に、花と佐々木は飛び上がった。
そこにいたのは、花や佐々木とほぼ同じ年頃の青年だった。山野八十八といって、花がこの時代にタイムスリップして京の町で捕まったとき、沖田に命じられて屯所へ引きずっていった隊士でもある。
佐々木とは仲がいいのか、よく一緒にいるところを見る。
「や、山野。どないしたん?」
「今日は俺とお前が厠の掃除当番だろ。さぼってないで行くぞ」
「あー、せやったっけ? 悪い悪い」
笑って頭を掻く佐々木に、山野はため息をついて台所を出ていく。
「ほな、昼にな」
佐々木は軽く花の肩を叩いて、山野のあとを追った。
朝ご飯の片付けを終えたあと、自分の部屋へ向かっていると、庭に面した廊下で刀の手入れをする相田の姿を見つけた。反射的に、町で沖田が浪士を斬った場面を思い出し、背筋がぞくりと震える。
つい立ち止まって刀を見つめていると、相田は花の視線に気づいた様子で顔を上げた。
「神崎さん、おはようございます」
「……おはようございます」
軽く頭を下げて、それからまた刀へ目を向ける。刀身は太陽の光を反射して白く輝いていた。そのさまは美しく、清らかで――とても人を斬る道具には見えない。
「どうかしましたか?」
尋ねられ、花は少し逡巡したのち口を開いた。
「相田さんは、人を斬ったことがありますか?」
「――ありますよ」
相田の答えに心臓が大きく鳴った。
「怖くないんですか?」
思わず尋ねて、身体の前で両手を握り締める。
「……私は、人が斬っているところを見ただけで、怖かったです。身体が震えて動けなくなるくらい、怖かった」
相田はしばらくの間、何も言わないで刀身を見つめていた。
しかしやがて刀を鞘に戻すと、
「座りませんか?」
と自分の隣を叩く。花はためらいつつも、相田の隣に座った。
「俺は人の命を奪うことに、何も感じない人なんていないと思います。もしもいるとすれば、それは人の皮を被ったけだものです」
「それなら、どうして斬るんですか?」
人を斬って辛い思いをするなら、なおさら斬る意味が分からない。別に刀を持っていなくたって、人を斬らなくたって、生きてはいけるのに。
「理由は人それぞれだと思いますが……俺はこの国をよくしたいから、そのために必要なら人を斬ります」
「国のために人を斬るんですか……?」
尋ねる花に頷いて、相田は傍らに置いていた紐を手に取った。紐は長い間使われているのか、擦り切れてぼろぼろになっている。
「この下緒は五年前に亡くなった父の形見なんです。父は最期まで、この国のために自分に何ができるかと考えていて……俺はそんな父を誰より尊敬していました。国が潰れるということは、すなわちこの国に住むすべての人が犠牲になるということです。怖いから、辛いからと逃げてばかりではいられません」
花はうつむいた。
「……私には、よく分かりません」
国を想うことと人を殺すことと、何が関係あるのだろう。この時代はそんなことをしなければ、国をよくできないのだろうか。
――そもそも、国をよくするとは、いい国とは一体何なのだろう。
相田は花を見て、薄く笑んだ。
「さっき神崎さんは、人が斬っているところを見て怖かったと言っていましたよね。――それは先日、沖田先生が浪士を斬ったところを見たときのことですか?」
「どうしてそれを……」
「あのとき、俺もいたんです」
相田は言って、花の目をじっと見つめてきた。
「神崎さんは、沖田先生がどうすれば満足だったんですか?」
「それはもちろん、あの人を斬ったりしないで、御番所に連れていっていれば」
「あの浪士は浪士組の隊士を斬っていました。御番所へ連れていけば、間違いなく死罪だったでしょう。――それでも、自分が斬られるかもしれないのに、その危険を冒してまで生け捕りにして連れていくべきでしたか?」
花はとっさに言葉に詰まって黙り込んだ。
「……質問を変えましょうか。もしも沖田先生が浪士を捕えて御番所へ連れていき、沙汰が下されたうえで斬っていれば、神崎さんは沖田先生を怖いと思いませんでしたか?」
相田の問いに花は当然だと思った。現代にだって死刑はある。きちんと裁きを受けて殺されるのなら、それは正しいことのはずだ。何も間違っていないのだから、恐れる必要もない。
しかし頷こうとしたそのとき、花は「本当か?」と自問する声が聞こえた気がした。
本当に自分は、目の前で人を斬る姿を見て、恐れないでいられるだろうか。正しいことならば、あの残酷な光景を受け入れられるのだろうか。
そもそもあのとき――沖田が人を斬ったとき、自分はその行為の善悪など考えていただろうか。
口の中が乾いて、喉が張り付いたようになる。
「……私は……」
掠れた声で言ったきり、再び黙り込んだ花に相田は苦笑した。
「すみません、混乱させてしまいましたね。――俺はもう行きます」
言いながら、手早く刀の手入れ道具を纏めて立ち上がる。花は膝の上に視線を落としたまま、相田の足音が遠くなるのをじっと聞いていた。




