五
蔵に閉じ込められた花は、しばらくのあいだ座り込んだまま動けなかった。脳裏には先ほどの凄惨な光景が焼きついていて、離れない。
ただただ、恐ろしかった。
人を斬った沖田が、動かない死体が、それを平気で見つめる人々が――ひいてはこの時代が。
「逃げなきゃ……」
無意識のうちに呟いて、はっとする。
そうだ、逃げなければ。このままここにいれば、どんな目に遭わされるか分かったものではない。
花はふらふらと立ち上がり、蔵の扉を掴んで揺らしてみた。しかしかなり頑丈な造りのようで、びくともしない。
他にどこか外へ出られそうなところはないかと周りを見渡してみるが、高い場所に格子窓があるくらいだ。格子の間隔は狭く、とても外へは出られそうにない。
「……どうしよう」
自分はこれからどうなるのだろう。――まさか、殺されてしまうのだろうか。
考えて、息が止まりそうになった。
沖田に斬られそうになったときは、混乱する気持ちが大きく怖いと思う暇もなかったが、一度冷静になると駄目だった。
まるで底なしの沼に沈んでいくように、恐怖が身体をのみ込んでいく。花は震える身体を強く抱きしめた。
格子窓から見える太陽は、とっくに真上を通り過ぎている。――これ以上時間を無駄にはできない。
脱出に使えそうなものを探そうと、花は蔵の中を歩き出した。
怯えていても何も始まらない。頼れるのは自分だけなのだ。
あんなによくしてくれた山崎でさえも、簡単に自分を裏切ったのだから。
ひりひりと痛む頬に、そっと手を当てる。鏡がなくとも腫れているのが分かる。
山崎の怒りに満ちた声と表情を思い出し、花は視界が滲むのを感じた。
――事情も聞いてくれなかった。きっと山崎は初めから花のことなど信用してはいなかったのだ。そうとも知らず、一方的に心を許したりして……馬鹿みたいだ。
いつか、大坂で山崎に励ましてもらったことを思い出す。義右衛門にまずいと料理を突き返されて、心が折れそうになったとき、山崎の言葉に救われた。
あのときの言葉も、全て嘘だったのだろうか。
涙が溢れそうになり、花はきつく唇を引き結んだ。
泣いている暇なんてない。今はとにかく、ここから逃げることを考えなければ。
蔵は今は使われていない味噌蔵のようで、花の背丈より大きい樽がいくつも並んでいる。その傍には味噌作りの道具らしきものが置かれていたため、花はそれらを一つ一つ調べ始めた。
蔵の中を調べ尽くす頃には、日はすっかり沈んでしまっていた。
壁に手をつき、力なくその場に座り込む。
……結局、何も見つけられなかった。
このままでは殺されてしまうかもしれないが、気力も体力ももうすっかり尽きてしまっていて、立ち上がることさえできない。
うなだれると、袴の紐に括りつけたストラップの石が、暗闇の中ぼんやりと浮かんで見えた。
そっと手を伸ばし、ストラップに触れてみる。この時代に来たときのように、突然何の前触れもなく、現代に戻される――。そんな奇跡を思い浮かべてみたが、何も起こらない。
目の前の現実は、まるで自分をあざ笑うように、変わらずそこにあり続けた。
「――帰りたい」
ぽつりと呟く。一度言葉にすると、もう止まらなかった。
両手で胸元を握りこみ、うつむいたまま吐き出すように叫ぶ。
「帰りたい、帰りたい、帰りたい……!!」
ここには自分を知っていて、助けてくれる人などどこにもいないのだ。
孤独で、不安で、恐ろしくてたまらない。
堰を切ったように涙が溢れだして、花は声をあげて泣いた。
どうしてか、こんなとき頭に浮かぶのは、距離を置いていたはずの母親の姿だった。
「お母さん……」
今頃どうしているだろう。父親だけでなく、自分までいなくなって、どんな想いでいるのだろう。母を想うと郷愁に胸が締め付けられて、息をするのも苦しかった。
「もう嫌だ……お願いだから、帰して……っ」
現代にいた頃は嫌いだった、うるさい車のエンジン音や夜の街の派手なネオンでさえも、今はひどく懐かしい。
花は床の上にうずくまり、涙が枯れるまで泣き続けた。
どれくらいたった頃か、ようやく泣き止んだ花は、涙を拭って顔を上げた。思い切り泣いて、少し落ち着きを取り戻していた。
自分はもう、現代には帰れないのだろうか。
ここで暮らし始めてから、もうずいぶんたつが、いまだ元の時代へ帰れる予兆すらない。
――帰りたい。
花は、強く願った。
自分がどうしてこの時代に飛ばされたのかなんてどうでもいい。ただ、もといた時代が恋しかった。
膝を抱えて座り直し、格子窓から空を見上げる。暗い闇の中、半分に欠けた月だけが冷たく輝いていた。
**********
夜四つの鐘が鳴る頃、山崎は土方の部屋を訪れていた。
「昼間捕縛した浪士の件、どうだった」
土方が尋ねる。
「御番所に引き渡したあと尾関が張ってましたけど、半刻前に放免になったのを確認したそうです」
「馬鹿な……。うちのやつが一人殺されてんだぞ」
思わずといった風に、土方が声を荒げる。
今朝の巡察中、山崎のいた佐伯の隊は尊攘過激派浪士の急襲にあった。殺されたのはつい数日前に入隊したばかりの仮同志で、まだ正式には浪士組の一員でなかったが、それにしてもこちらに非は全くなく、浪士たちが無罪放免になる理由はないはずだ。
しかし山崎はこの結果に驚きはしなかった。というのも、今回捕縛した浪士たちの中に一人、一月前に御番所へ引き渡した男がいたからだ。この男も人を斬っており、しかるべき罰を下されるべきだが、なぜか特に罰せられた様子もなかった。
「どう考えても、御番所が怪しいな」
「はい。それと、今回の浪士の急襲にも気になるところがあります」
「何だ?」
「急襲は永倉はんと原田はんの二隊と一番離れた場所におったとき、しかもちょうど狭い路地に入ったときに前後から挟み撃ちするような形でされました。浪士たちは隊がどう動くか知っとったとしか思えまへん」
「だが巡察の行程は毎日変わるものだ。待ち伏せなんてできるもんじゃ――」
言いかけて、土方は何かに気づいたように言葉を止めた。
「内通者がいるのか」
「確証はないですけど、俺はそうやないかと思うてます」
「そうか……。まだ公にはしていないが、実は少し前に隊の金が五十両盗まれてな。俺は内部の人間の犯行だろうと踏んでいる。この件も合わせて調べてくれるか」
「承知しました」
「詳細は島田に話してあるから、あとで聞いておけ。あとは――神崎の件か」
土方の発した「神崎」のひとことに、一瞬胸がざわついた。心を落ち着けるように、膝の上に置いた手を握り締める。
「……神崎は目立つ格好してますさかい、茶屋を離れた経緯は聞き込みしたらすぐに分かりました」
そう前置きすると山崎は、店が混んできて花が外へ出たこと、そこで浪士組に死人が出たと聞いて現場へ向かったことを説明した。
「――分かった。総司のせいで余計な仕事増やさせたな」
話を聞き終えると、土方は深いため息をついた。
「正直お前が間に入ってくれて助かった。神崎がいいところの家の娘だったとして、総司が斬ってたら、ただではすまなかっただろうからな」
「……いえ。俺は何も」
視線を落として言って、山崎は腰を上げた。
「神崎はまだ蔵の中なんで、出してきます」
「ああ、頼んだ」
土方の部屋を出ると、まっすぐ奥庭の蔵へ向かう。その道すがら、山崎は花を屯所へ連れ戻したときのことを思い出していた。
山崎がそんなことをしたのは、行き過ぎた沖田の行動を止めるためだと土方は思っているようだが、それは違っていた。
あの場に花が来てから沖田に斬られそうになるまでの一部始終を見ていたが、山崎はそのときこれ以上ないほどに苛立っていた。
疑われている身で浪士を助けようとするなど、浅はかにもほどがある。どうしてもっと頭を使って、損得考えて動けないのか。胸がむかついて、気分が悪いくらいだった。
しかしそのあと――花に刀を向ける沖田を見たとき、山崎はとっさに花を助けようと動いた。あのとき二人の間に入ったのは、沖田を止めるためではなく、花を助けるためだったのだ。
山崎はうつむいて唇を引き結んだ。――どうかしている。
結果的にそれが最善の行動だったからよかったものの、もしも本当に花が間者だったなら、自分の行動は浪士組に対する裏切りそのものだった。
本当に……どうかしているとしか思えない。
錠を外し、蔵の扉を開けると、床に座り込んだ花が黙って見上げてきた。山崎が殴った頬は赤く腫れていて、胸のどこかが少し痛んだ気がした。
「出てき」
「……私のこと、殺すんですか?」
花はこぶしを握りしめて、睨むような目を向ける。
「お前が茶屋離れたんは、浪士組に死人が出たて聞いたからやったんやろ。裏は取れとるさかい、罰受けることはない」
山崎の言葉を聞くと、花は束の間うつむいて、立ち上がった。足早に蔵を出て山崎の脇を通り過ぎようとする。
山崎はそんな花の腕を掴んで止めた。
「どこ行く気や」
「ここを出ていくんです。放してください」
花は顔を背けて腕を引く。山崎は思わずため息をついた。
「そない勝手、許されるわけないやろ。お前まだ自分が疑われとるて分かってへんのか?」
「――分かってますよ!」
叩きつけるような声で花が言った。
「結局山崎さんも、私のことずっと疑ってたんでしょう!? 私は山崎さんのこと信じてたのに……!」
掴んだ花の腕は、怒りからか微かに震えていた。
違うと答えるべきだろう。監察として花の素性を調べ続けるならば、ここで弁解して信用を取り戻さなければならない。――そして、それ自体は決して難しいことではないとも思う。
山崎はゆっくりと口を開いた。
「せや、俺はずっとお前のこと疑っとった」
言った瞬間、花がはっと息をのんだ。目を見開いて、ゆっくりと山崎の方を向く。
山崎はその顔をまっすぐに見つめた。
「ええか、神崎。裏切られたないんやったら、他人を信じるな。――まして、自分のこと犠牲にしてまで、誰かのこと助けようなんて思うな。そないことはええことでもなんでもない。ただのあほのすることや」
淡々と言って聞かせる山崎を、花は呆然と見つめていた。しかしやがて言われていることの意味をのみ込んだのか、顔を歪めて山崎を睨んだ。
「最低……っ」
吐き捨てるように言って、山崎の手を払う。
「そうやな。せやけどここにおる限り、お前はいい加減その甘えた考え改めんと、あっという間に死ぬで」
花は山崎を睨んだまま何も言わない。その目に涙が滲んでいるのに気づき、山崎は踵を返した。
「はよ記憶戻って家帰れたらええな。……俺も、お前はここにおらん方がええと思う」




