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新選組のレシピ  作者: 市宮早記
四品目 壬生浪の洗礼
18/29

「――総司、今夜殿内を殺るぞ」

 弥生も終わりに近づいてきたある日の朝、部屋を訪れた沖田に土方が声をひそめて言った。

 殿内とは将軍警護のため、ともに江戸から上洛してきた浪士組の一員である。名主の家に生まれ、上洛以前は結城藩主の水野勝知に仕える傍ら、学問所へも通っていたという。

 そうしたことから殿内は、江戸を発ったばかりの頃は浪士組の道中目付を任されていた。しかし高慢かつ癇癪持ちで、怒ると平気で刀を振り回し、人を傷つけるような粗暴者であったため、京へ着く前に平士へ降格となってしまった。

 会津藩御預かりとなり浪士組が京に滞在することになってからも、殿内の隊内での序列は低いままだったが、本人はそれが不服な様子だった。

 今夜新入隊士を募るため江戸へ発つと言っていたが、その真意が隊内での自分の立場を強くするためだということは明白だ。

「近藤先生は構わないと?」

「許可は取ってある。なかなか首を縦には振らなかったけどな」

「そうですか……」

「芹沢だけでも苦労してるっつうのに、甘すぎんだよ。あいつが仲間引き連れて隊内でもう一派作り上げてみろ。浪士組はもうまとまらねえ。間違いなく内から崩壊していくだろうな」

 言って、土方は拳を握り締める。

「せっかく開けた立身出世の道だ。俺は必ずこの浪士組をでかくして、近藤さんを幕臣にしてみせる」

「……そのためなら殺しも厭わない、ですか。怖いですねえ」

 沖田は肩をすくめて笑った。

 土方は農家の六男の生まれだが、子どもの頃から士分への憧れが強かったという。

それを聞くと、みな笑うか現実を見ろと諭したが、近藤だけは違った。近藤自身、養子に迎えられる以前は農民だったこともあり、土方の話を真摯に聞き、試衛館でともに剣の腕を磨いた。そして壬生浪士組が結成された折には、土方を副長にと推したのだ。

 土方の身分からすれば本来平士が妥当で、実際江戸を発つときは浪士組の六番平士だったのだが、近藤が強く推したため、今こうして副長という立場にある。

 土方が冷酷になるのは、もちろん自分が武士になるためというのもあるだろうが、それ以上に恩ある近藤の力になりたいという気持ちが強いように思う。

「お前は反対なのか?」

 土方が尋ねる。沖田はそれを笑い飛ばした。

「まさか。近藤さんがいいと言うものを、私が駄目だと言うはずないでしょう?」

「……そうだな」

 ずっと硬かった土方の表情が少し緩む。

「手筈は整っているんですか?」

「ああ。今夜殿内が出立する前に、景気づけと称して酒を呑ませる。殺るのはそのあとだ。酒の席には近藤さんと芹沢と俺が同席する」

「芹沢先生も計画を知っているんですか?」

「まあな。というより、この計画を言い出したのが芹沢だ」

「へえ……」

 土方は芹沢を目障りに思っているようだし、近藤を筆頭とする自分たちの一派と芹沢の一派は決して友好関係にあるわけではない。今回は利害が一致したため、一時的に手を組むということだろう。

「分かりました。殿内の処理は私に任せてください」

「任せろって……大丈夫なのか?」

 人なんて斬ったことねえだろと続けた土方の声には、昔からの弟分である沖田を案ずる色が混じっていた。

「心配性ですねえ、土方さんは。私、もう子どもじゃないんですよ」

「それはそうだが……」

「殿内さんとは何度か試合をしたことがありますけど、一本だって取られたことはないですし、私が適任だと思います。それなのに何を迷うことがあるんです?」

 微笑んで首を傾げると、土方もそれ以上は止めなかった。

「……分かった、お前に任せる。亥の刻になったら四条大橋で待機して、殿内が来たら討て」

「承知しました」

 土方に頷いて、作戦の詳細について少し話をすると部屋を出た。

 庭に面した廊下を歩きながら、ふと空を見上げる。あんなに暗く汚れた話をしていたのに、雲一つない空は嫌味なほど明るく澄み渡っている。

 ……地位や名誉とは、そんなにいいものなのだろうか。

 土方と話したことを反芻しながら、ぼんやりと考える。土方だけでなく、壬生浪士組に所属するもののほとんどは立身出世を望んでいる。尽忠報国の志を持って浪士組に志願した近藤でさえも、その気持ちがないわけではない。

 だが沖田は、そうしたものには全く興味がなかった。沖田の家は武家だったが、そのわりに貧しく、あまりいい目を見てこなかったからかもしれない。

 父親は沖田が物心つく前に病で亡くなっている。九つのときには母親が亡くなり、沖田は近藤の養父である近藤周助の内弟子として、天然理心流の道場『試衛館』へ行くことになった。

 貧しいながらも母親と二人の姉に可愛がられて育った沖田にとって、家族と別れての試衛館での暮らしは生まれて初めて感じた孤独だった。

 ――剣の腕が上達しなければ、また捨てられてしまうかもしれない。

 そう恐れた沖田は必死で稽古に打ち込んだ。しかし初めは可愛がって面倒を見てくれていた人たちも、どうしてか沖田が腕を上げるにつれて、沖田を目のかたきにしたり、媚びへつらうような態度を取るようになった。

 そんななか唯一、嶋崎勝太――のちの近藤勇だけは、自分が強くなることを喜び、まるで実の弟のように可愛がってくれた。

 道場主とは普通、自分よりも強い人間を遠ざけたがるものらしいが、近藤は逆だった。近藤は流派問わず強い者とは積極的に試合をして、自分の技を磨き、高みを目指し続けた。

 そんな近藤はいつしか沖田にとって憧れとなり、目標となった。

 近藤の為なら躊躇なく刀を振れる。自分はそのためにここまで来たのだから。

 ――このときの沖田は、そう信じて疑わなかった。



 同日亥の刻、沖田は四条大橋近くの物陰に潜み、殿内が来るのを待っていた。

「はあ……」

 冷えた指先を口元にやり、息を吐く。春分の日を過ぎ、最近は羽織りがいらないほど暖かい日が続いていたが、今日に限って冬が戻ってきたかのように冷え込んでいた。

 ここに着いてから、すでに四半刻が経過している。橋へ目を向けたまま、殿内はまだ来ないのだろうかと考えて、沖田は自分の気がずいぶん緩んでいることに気づいた。

 殿内は剣術に明るく、北辰一刀流の免許皆伝者でもある。酒に酔っているからと油断していては怪我をしかねない。

 改めて気を引き締めると、暗闇に目を凝らす。そのとき沖田は、橋の中ほどに旅姿の男がいるのを見つけた。

 どくりと心臓が脈打つ。沖田は男を見つめたまま、刀の柄に手を伸ばした。

 幸い、他に人影は見当たらない。

 早鐘を打つ胸を押さえ、橋の前まで移動すると、殿内が間合いに入るのを息を殺して待った。

 まだだ……まだ早い。

 酒に酔っているせいか、少しおぼつかない足取りの殿内は、ゆっくりと歩を進める。

 あと、少し……。

 沖田は静かに、刀の鯉口を切った。

 ――今だ。

 素早く殿内の前に飛び出すと、袈裟懸けに斬り下ろす。刀が殿内の身体に沈み込むその瞬間、殿内は沖田の顔を振り仰いだ。

 ふと、殿内と目が合う。彼の目に浮かんでいたのは、恐怖でも殺意でもなく、ただ困惑のみだった。

 肩から胸にかけてを斬ったところで、沖田は手にしていた刀を取り落とした。

「あ……」

 どうしようもないほどに、手が、足が、震えていた。

 ふらつく足で沖田は数歩後ずさる。

「うああああ……っ!!」

 獣のような声で殿内が叫ぶ。彼の着物は溢れる血でみるみるうちに赤く染まっていった。

「お……きた! くそっ……謀ったな……!?」

 殿内は肩で息をしながら、憎悪に満ちた目で沖田を睨む。左手で肩を押さえると、素早く空いた方の手で沖田の刀を拾った。

「死ねええ!!」

 刀を振り上げて叫んだその声に、沖田はようやく我に返った。とっさに抜いた脇差で刃を受け止めると、力任せに弾き返す。

「――っくそ」

 沖田は浪士組きっての剣の使い手。対して殿内は酒に酔い、手傷も負っている。

 圧倒的不利を悟った殿内は、踵を返して四条大橋を駆け戻った。

 あとを追おうと足を踏み出した沖田は、一瞬――ほんの一瞬だけ、ためらった。

 あの傷では放っておいてもいずれ死ぬだろう。それなのに、わざわざ追いかけてとどめを刺す必要はあるのだろうか。

 それは、まぎれもない言い訳だった。

 肉を斬った感触はいまだ生々しく手のひらに残っており、沖田はただそれをもう一度味わうことに恐怖していたのだ。

 しかしそんな自分に気づいた沖田は、すぐに思い直して殿内のあとを追った。

 四条大橋を半町ほど走ったところで、もう少しで間合いに入るという距離になる。沖田は脇差を構えようと腕を上げた。

 そのとき、沖田の目が一つの人影を捉えた。十歳にも満たないだろう年頃の少年が、誰かを探している様子で辺りを見回しながら歩いている。

 少年は殿内に気づくと、声を弾ませて駆け出した。

「あっ、おとん? おかえんなさ――」

「どけ、小僧!」

 殿内は手にしていた沖田の刀で少年を斬りつけた。砂袋を下ろしたような音とともに、小さな人影が地面に吸い込まれる。

 それを見た瞬間、火でもついたように、頭の芯がかっと熱くなった。

「――殿内ぃっ!!」

 叫んだ声は、本当に自分の声かと疑うような、激しい怒りに満ちたものだった。勢いよく足を踏み込み、今度は深く、その身に刀を沈ませる。

 殿内は声もなくその場に崩れ落ちた。肩で息をしながら、その姿を見下ろす。

 たいして走ってもいないのに、呼吸が乱れて一向に整わない。沖田はふらふらと歩き、少年の前で足を止めた。

 地面に膝をつくと、祈るような気持ちで少年の身体を抱き起こす。

「あ……あぁ……」

 ため息にも似た声が口からこぼれた。ぬるりとした生温かい感触に、自分の手を見つめる。真っ赤に染まった、その手を。

 少年はすでに息をしていなかった。

 ――私のせいだ。

 沖田は思った。

 自分があのとき躊躇しなければ、足を止めなければ、この子は死なずにすんだ――。



屯所に帰った沖田は、まっすぐに井戸へ向かった。

無心で水を汲むと、桶の水を頭から被る。一瞬ぎゅっと心臓が縮んだような感覚がして、すぐに身体が震えだした。それでも沖田は構わず、たらいいっぱいに水を張ると、両手を突っ込んで乱暴に擦り合わせた。

何度も何度も、水を替えては手を洗った。

だが、いつまでたってもあの血の感触も、臭いも、消えてくれない。

「くそっ……!」

「――総司」

ふと聞こえた声に、顔を上げる。そこには硬い表情をした土方が立っていた。

「もうやめろ」

そう言うと、土方は手に持っていた手ぬぐいを沖田の頭に掛けた。沖田は唇を噛んで、手ぬぐいを握りしめる。

「こんな冷える夜に水被るなんて、正気か?」

土方が背を向けて、たらいの水を流す。その様子を目で追いながら、沖田は口を開いた。

「土方さん」

「なんだ」

「私……子どもを殺してしまいました」

沖田の言葉に土方がゆっくりと振り返る。真意をはかるようなその目から、沖田は逃げるように顔を伏せた。

ぐっしょりと濡れた前髪から、一滴また一滴と水滴が落ちる。それに混じって、瞳から溢れたものが頬を伝い落ちた。

「……私はもう二度と、人を斬るのに躊躇したりしません」

声を震わせながらも、はっきりと誓うように言う。

あの少年を殺したのは、自分の中にあった甘さだ。自分が中途半端な覚悟で刀を振るったせいで、何の罪もない少年を巻き添えにしてしまった。

取り返しのつかないことをしてしまった。

この後悔の前では、人を斬る恐怖も、血の匂いも、ちっぽけなものだった。

――私はもう二度と、迷わない。守るべきものを、守るために。



それからの沖田は、隊務になると人が変わったように刀を振るうようになった。

初めのうちはそれでも血の臭いが気になり、あかぎれができるほど何度も手を洗っていたが、いつしか慣れて何も感じなくなっていった。

隊士の多くはそんな沖田を心ない人斬りだと恐れたが、別段心が動くことはなかった。沖田にとっては近藤の役に立つことと、無駄な犠牲を出さないことだけが大切だったからだ。

だが――自分に斬り殺された死体に怯え、全身で拒絶する花を見たとき、沖田は裏切られたような感覚に襲われた。

花は何度本気で脅しても変わらない態度で接してきて……そんな彼女なら、人を斬る自分を見ても受け入れてくれるのではと、知らず知らずのうちに期待していたのだ。

しかし、それは間違いだった。そのことを理解すると同時に、沖田は花に失望し、いっそ消えていなくなってしまえばいいと思った。

花に刀を向けたときのことを思い出す。

本当に殺すつもりだったわけではない。ただ、そうして脅せば今度こそ逃げ出して、もう二度と顔を合わせずにすむと思ったのだ。――結局花は、山崎に連れられて屯所へ戻っていったが。

花の処分がどうなるのかは分からない。だが一つだけ、もう二度と以前の関係には戻れないということだけは分かっていた。

沖田はこぶしを握り締めて、うつむいた。

別に、花に対して何か特別な感情を抱いていたわけではない。からかうと面白い、暇つぶし程度の存在でしかなかった。

――そう、最近気に入っていた暇つぶしの道具が壊れてなくなってしまった。ただそれだけのことじゃないか。

沖田は自分に言い聞かせる。

だが、たったそれだけのことが、なぜかひどく胸を締め付けた。

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