三
七月半ばの京は、現代であれば祇園祭のまっただ中だ。しかし江戸時代には祇園祭は祇園御霊会と呼ばれ、六月に行われていた。というのも、明治五年まで使われていた天保暦が、現代ではグレゴリオ暦に改暦されているからだ。
そんなわけで花は、祭りも終わり落ち着いた雰囲気の洛中を、沖田に連れられて歩いていた。
「神崎さん、あそこで団子売ってますよ! ちょっと寄って行きません?」
「行きません」
目を輝かせて袖を引いてくる沖田に、間髪入れずに答える。わけも分からないまま屯所から引っ張ってこられたが、何が楽しくて沖田とお茶しなければならないのか。
沖田は花の態度に拗ねたように口を尖らせた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。いつも屋敷にこもってばかりですし、たまには身体も動かさないと」
「許可がなくても屯所を出られるなら、私だってもう少し外出してますよ」
「あーっ、見てください! おしるこ売ってますよ!」
わざとなのか素なのか、沖田は花の言葉を無視して近くの茶屋を指さした。思わずげんなりしてため息をつく。
「だから行きませ――って、ちょっと沖田さん!?」
「まあまあ、そう言わず! 寄って行きましょうよ」
沖田は花の腕を引いて、なかば無理やりに茶屋へと向かう。
店に入ると、結い上げた髪に少し白髪の混じった女将が笑顔で出迎えてくれた。
「おいでやす」
「どうも、おしるこ二杯ください」
「おおきに。さ、おあがりやして」
女将に促されて、花と沖田は奥の座敷に向かい合って座る。花は女将がいなくなると、慌てて沖田に顔を寄せた。
「あの、私お金持ってないんですけど……」
「あははっ! 神崎さん、もしかしてそれ気にして来たがらなかったんですか? 全く、野暮なこと言わないでくださいよ」
「え……」
思わず目を丸くする。もしかして奢ってくれるのだろうか。
「全部私が食べるに決まってるでしょう?」
「あっそうですか!」
文句を言うのも馬鹿馬鹿しくなってそっぽを向く。そんな花を見て、沖田はおかしそうに笑った。
「冗談ですよ、ほらどうぞ」
言いながら、運ばれてきたお盆を差し出す。
「え? あ、ありがとうございます……」
「ああ、そっちじゃないですよ」
おしるこに手を伸ばした花に言って、沖田はその隣に置かれた小鉢を顎で示した。
「私、漬物苦手なんです」
「――ありがたくいただきます!」
この男の言葉は二度と信用しない。
心に固く誓ってから、花は小鉢を奪うように取った。
「うーん、甘いものって食べると本当に幸せな気持ちになれますよね」
「よかったですね……」
おいしそうにおしるこを食べる沖田を睨みつつ、漬物を齧る。そこへ総髪に髷を結った、商人風の男が暖簾をくぐって店に入ってきた。
「おいでやす――って豆腐屋の旦那はんやないどすか。こない時間に来はって、お店はええんどすか?」
「ええも悪いもあらへんよ」
男はどかっと座敷に座り込み、不機嫌そうに眉をひそめる。
「壬生浪のやつら、営業妨害もええとこやわ」
壬生浪といえば、浪士組のことだ。何かあったのだろうか。
花はちらりと沖田をうかがうが、当の本人は素知らぬ顔でおしるこを啜っている。
「なんや乱暴でもされましたん?」
「うちは何もされてへんよ。せやけどあいつら店先で急に捕りもの始めよって、そんせいで客が寄ってこおへんようなったんや」
「まあ、そやったんどすか。困りましたなあ」
「ほんま、商売上がったりや。終いには斬り合いになるし――」
どきりと心臓が鳴った。沖田はお椀を置いて、脇に置いていた刀を手に取る。
「沖田さん……」
「すみません、神崎さんは少しここで待っていてくれますか?」
立ち上がった沖田の顔に笑みはない。その表情に、花は初めて沖田と会ったときのことを思い出した。
「くれぐれも、ここを動かないように」
そう念押しすると、沖田は女将たちと二言三言言葉を交わして、足早に店を出て行った。
残された花は、うつむいて女将たちの会話を反芻する。
この時代では、人が殺し合うことは珍しくないのだろうか。女将たちが気にしていたのは自分たちの商売のことだけで、誰かが傷ついたり死んだりするかもしれないということには、まるで興味がない様子だった。
自然と大坂で山南たちと話したことが思い出される。花はこめかみを押さえて、ため息をついた。
しばらくすると、店が混んできた。花は沖田に待っているよう言われていたので、そのまま席に居続けていたが、ついに店の女将に、
「すんまへんけど、食べ終わったんやったら席空けたってくれまへんか……?」
と頼まれてしまった。沖田は金を払って出ていたらしく、花はこれ以上居座ることもできず、仕方なく店を出た。
「また浪士組が暴れとるらしいな」
店先に立って沖田を待っていると、ふと話し声が聞こえてきた。
「ああ。さっき見たけど、一人死人が出たみたいやったで」
「――え?」
目の前を通り過ぎようとした男の袖を、とっさに掴む。
「あの、すみません! 死人が出たって、浪士組にですか?」
男は突然話しかけてきた花を、訝しそうに見ながらも頷いた。
「せや。浅葱の羽織り着とったさかい、間違いないな。頭からばっさり斬られとったで」
男の言葉を聞いた瞬間、全身からさあっと血の気が引くのを感じた。
浪士組の人が死んだって、一体誰が……。
隊服を着ていたそうだから、まず沖田ではない。今の時間、巡察に行っていたのは誰だったろう。
巡察前に水筒を配ったときのことを思い出す。確か三隊に分かれていて、それぞれ隊長は永倉と原田、佐伯だった。
「あ……」
ふと脳裏をよぎった光景に、花は心臓を握られたような気がした。――そういえば、佐伯の隊には山崎がいた。
永倉と原田がやたらと絡んできていたため、近寄っては来なかったが、目が合うと軽く手を上げて笑ってくれて……。
「あのー、あんたはん、用ないんやったらそろそろ離してくれへん?」
男が顔を覗きこんでくる。花は掴んだままだった袖を強く握り締めて、顔を上げた。
「……斬り合いがあったのって、どこですか?」
男から場所を聞くと、花は居ても立ってもいられず走り出した。
沖田からは茶屋にいろと言われていたし、そもそも斬り合いの現場に行くなんて危険だ。巻き込まれて怪我をしたり、死んだりなんて絶対にしたくない。――そう思いながらも、一度走り出してしまった足は止まらなかった。
しばらくすると、遠くに人だかりができているのを見つける。人混みの中からはちらちらと浅葱の色が見え、中心にいるのは浪士組の集団だと分かった。ここから見た限りでは、死体らしきものは見えない。
花はひとまず沖田を捜そうと、背伸びをして視線をめぐらせた。沖田は浅葱色の隊服を着た隊士たちの中で、唯一藍色の着物に袴姿だったため、すぐに見つかった。
「すみません、通してください」
沖田に声をかけようと、人混みを掻き分けて進む。そのとき、
「死ねえぇっ!!」
一人の男が刀を振り上げて、隊士たちに向かっていった。
――危ない。花はとっさに叫ぼうとしたが、それが声になることはなかった。
「う……ぐっ」
隊士たちに襲いかかった男が、刀を握り締めたまま数歩後ずさる。彼の歩いた地面には、赤い血の跡ができていた。
男の前には、抜身の刀を持った沖田の姿がある。花はその光景を呆然と見つめた。
沖田が、男を斬ったのだ。それを理解するのに、少し時間を要した。
「死にたくなければ刀を置きなさい」
男を睨んだまま、沖田が言い放つ。男は苦しそうに顔を歪めながらも、再び刀を振り上げた。
「くそ……っ!」
「――駄目、逃げて!」
思わず叫びながら駆け出した。男の腕を掴もうと、必死で手を伸ばす。
次の瞬間、視界が真っ赤に染まった。顔に生温かい飛沫がかかり、目の前の男が糸の切れた操り人形のように、ゆっくりと地面に倒れる。
花は束の間言葉を失って、倒れたままピクリとも動かない男を見下ろした。
「あ、の……」
おそるおそる声をかけて、男の傍に膝をつく。横向きに倒れた男の身体を軽く揺すってみたが、反応はない。
花は男の顔を見ようと、軽く肩を引いた。すると彼の身体はごろんと仰向けに転がり、大きく見開かれた二つの瞳がこちらを向いた。
「――っ!」
声にならない悲鳴を上げて、男から手を離す。距離を取ろうとして、バランスを崩し、尻餅をついた。男はその間も、瞬き一つせず何もない宙を見つめ続ける。
「そん、な……」
頭の中が真っ白で、何も考えられない。身体だけが、壊れたように小刻みに震えていた。
「――どうしてこんなところにいるんですか、神崎さん」
不意に冷ややかな声が頭上から降ってきた。沖田だと気づいたが、顔を上げることさえできない。
「私は動くなと言ったはずですよ。あなたへの疑いはまだ晴れていないんです。そこで勝手な行動をとることが、どういう意味を為すか……分からないわけはないですよね?」
刀の切っ先が自分に向けられるのが分かった。
……斬られるのだろうか。
頭の片隅で思ったが、まるで他人事のように心が動かない。目の前で起きた全てのことに現実感がなく、白昼夢でも見ているような気分だった。
「――神崎!」
突然怒号が響いて、沖田と花の間に誰かが割って入ってきた。声の主は花が顔を上げるより早く、襟を掴んで立ち上がらせる。
まばたきしたあとには、花の身体は地面に打ち付けられていた。
一瞬何が起きたか分からなかったが、じわじわと焼けるように痛みだす頬に、殴られたのだと理解した。
「何しとるんや、お前……」
顔を上げると、固くこぶしを握り締めた山崎が立っていた。怒りを露わにしたその姿を、ぼんやりと見つめる。
「来い!」
山崎は花の腕を乱暴に掴み、再び立ち上がらせると、なかば引きずるようにして歩き出した。途中で草履が片方脱げたが、山崎は見向きもせずに歩き続ける。
屯所に着くと、山崎は奥庭に建つ古びた蔵に花を押し込んだ。その拍子に転んだ花は、顔だけ振り向いて山崎を見上げた。
「……しばらくそこで反省しとけ」
たったそれだけ言って、山崎は分厚い蔵の扉を閉める。続けて錠をかける重たい音がして、花は薄暗い闇の中に一人取り残された。
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「あの――沖田先生」
「……はい、何ですか?」
山崎と花の去った方を向いていた沖田は、隊士の声にゆっくりと振り返った。隊士は沖田の顔色をうかがいながら口を開く。
「浪士の捕縛、遺体の処理ともに完了しましたが……」
「承知しました。この隊の隊長は佐伯先生でしたよね?」
「はい。そういえば、佐伯先生はどちらにいらっしゃるんでしょう……」
隊士がきょろきょろと辺りを見回す。
「……私は先に屯所へ戻ります」
そう言い残すと、沖田は半分ほどになった人だかりを抜けて歩き始めた。
今日着ていたのがこの色の着物でよかった。歩きながら返り血のついた袖へ目を向ける。藍色の着物は血の色をうまく隠してくれていた。
ただ、錆びた鉄のような血の臭いだけは、いつまでも身体を付きまとって離れない。
この臭いが気にならなくなったのは、一体いつからだったろう。
沖田はふと、そんなことを考えた。
初めて人を斬った日のことは、今でも鮮明に思い出せる。あれは近藤たちとともに上洛を果たして、一月がたったある夜のことだった――。




