二
「あの……何を作らはるつもりなんどすか?」
ためらいがちに秀二郎が尋ねる。格蔵は仕事があるため、また明日来ると約束して帰ってしまい、台所には秀二郎だけが付いてきていた。
「桃のタルトタタン風です」
「……はい?」
秀二郎がきょとんとして首を傾げる。
「タルトタタンはキャラメリゼしたりんごを型に敷き詰めて、上からタルト生地を被せて焼いたものです。今回は桃で代用するのでタルトタタン風なんですけど……」
説明すると、秀二郎はますます分からないという顔をした。
「えーっと……まあ、見ててください。変なものじゃないので」
苦笑しつつ、タルト生地を作っていく。今回はバターが使えないので、油を代用するつもりだ。
「すんまへん」
しばらくして、また玄関から声が聞こえてきた。聞き覚えのあるその声に、慌てて台所を出る。
「お梅さん……」
玄関先に立っていたのは、以前と同じように付き人を連れた梅だった。梅は花を見て少し驚いた顔をしたが、すぐに何事もなかったように頭を下げた。
「お久しぶりどす。芹沢先生はいてはりますやろか?」
「えっ、あ、はい! ただ、まだお休みになってるみたいで……」
どうしたらいいだろうと秀二郎をうかがう。秀二郎はこれ以上ないほどに顔を赤くして梅を見ていた。
「……秀二郎さん?」
ひらひらと顔の前で手を振ってみる。すると秀二郎ははっと我に返った様子で後ずさった。
「お、お茶……お茶、淹れてきますさかい、待っとってください」
そう言うなり、返事も待たずに踵を返す。
「ちょっと、秀二郎さん!」
慌てて呼び止めるが、秀二郎は振り返りもしなかった。急にどうしたのだろう。
「罪作りですねえ、お梅はんは」
「……やめ、末松」
目を伏せて梅が窘める。
「あの……お梅さんは何の用で芹沢さんに?」
「羽織り作った代金の支払いがまだやさかい、いただきに来ました」
「えっ!? それって先月からずっとですか?」
「先月神崎はんにお会いしたときの分は、いただいとります。せやけど代金小出しにしはったり、払い終わった思うたらすぐに新しい注文しはるさかい、あれからしょっちゅうこちらに参っとります」
梅が答えると、末松と呼ばれた付き人がこれよみがしにため息をついた。
「正直言うたら迷惑しとるんです。あんたはんから、せめて注文は纏めてしたってくれて言うてくれまへん?」
「その必要はない」
突然背後から聞こえた声に、花は飛び上りそうになった。振り返るとそこには、着流し姿の芹沢が立っている。
「今聞いた」
そう言うと、芹沢は持っていた巾着から金を出した。
「今日はこれだけしかない。足りない分は明日渡す。――それと、また隊服の羽織りを一枚頼みたい」
「……分かりました」
何か言いたげな顔をしながらも、梅は芹沢から金を受け取った。そこへ秀二郎がお盆にお茶を載せて戻ってくる。
「あ、あの、よ、よかったら、お茶を……」
「結構どす。おやかまっさんどした」
梅は頭を下げて断ると、貰った金を手に屋敷を出ていった。末松もそのあとを追いかける。
二人を見送ってから秀二郎をうかがうと、見るからに落ち込んだ様子でうなだれていた。
「片付けてきます……」
ぼそりと言って、台所へ戻っていく。その背中に声をかけようか迷っていると、不意に芹沢が振り向いた。
「……こちらにいるのは珍しいな」
まさか芹沢の方から話しかけてくるとは思わなかった。花は緊張して背筋を伸ばした。
「はっ、はい! その、今お菓子を作っていて」
「菓子?」
「会合で出す予定だったお菓子が注文できていなかったみたいで、秀二郎さんに頼まれたんです。――作ってるのは、桃のタルトタタン風っていうお菓子なんですけど」
言って、芹沢の表情を注意深く見つめる。もしも芹沢が父親なら、この時代の日本人が知るはずのない単語を聞いて、何か反応を示すかもしれないと思ったからだ。
しかし芹沢はタルトタタンを知らない様子で、「何だそれは」と訝しげな顔をした。花は内心がっかりしながらも、秀二郎にしたのと同じ説明をする。
「よく分からんな」
花の説明を聞き終えて、芹沢が言った。
「……もしよかったら、作ってるところを見てみます?」
ためらいがちに尋ねる。芹沢は黙ったまま花を見つめた。
「そ、その、嫌でしたら無理にとは言いませんが……」
「……いや。見てみよう」
「は……はい! それじゃあこちらにどうぞ!」
芹沢を促して、台所へ移動する。台所では秀二郎が、隅の方で梅のために淹れたお茶をうずくまって飲んでいた。
声をかけづらい雰囲気だったので、ひとまずそっとしておくことにして、桃の皮を剥き、種を取っていく。
その近くで芹沢は、先ほど花が作ったタルト生地を興味深そうに眺めていた。
「あの……芹沢さん。さっきお梅さんたちが言ってたことなんですけど、どうして代金や注文を小出しにするんですか……?」
包丁を動かしながら、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「あの女、男に暴力を振るわれているのだろう」
「――え」
台所の隅で、秀二郎が驚いたように顔を上げた。
「芹沢さん、知ってたんですか?」
「直接聞いたわけではないが、以前菱屋に行ったときの二人の様子と腕の怪我を見て、大方そうなのだろうと思っていた」
芹沢の言葉に秀二郎は、「気づかへんかった……」と暗い顔で呟く。
「それじゃあ何度も八木邸に来させているのは、お梅さんの様子を見るため、とか……?」
「……ああ」
芹沢が頷く。それを見た途端、胸の中に安堵のようなものが広がった。
芹沢と父親が何か関係あるのかまだ分からないが、それでも父親とそっくりな顔をしたこの男の優しい一面を知れたことは嬉しかった。
「……それ、桃焦げへんのどすか?」
桃を全て切り終わったあと、砂糖と一緒に鍋に入れて火にかけようとしていると、ずっと沈んでいた秀二郎が少し復活した様子で尋ねてきた。
「桃の果汁と溶けた砂糖で水分ができるので大丈夫ですよ。……ただ、少量なので焦げ付かないように、鍋を揺すっておかないといけませんけど」
この時代の鍋はやたらと重いので、これがなかなかの重労働だ。着物の袖を捲り、「よし」と気合を入れる。
「なんで箸でやらんのどすか……?」
「それは――」
「形が崩れるからだろう」
花が答える前に、芹沢が言った。思わず目を見開いて芹沢を見上げる。
「……違ったか?」
「い、いえ! 合ってますけど、どうして……芹沢さん、料理されるんですか?」
芹沢は「いや」と首を横に振る。
「なんとなく、そう思っただけだ」
「そう、ですか……」
視線を落とすと、花は手拭いを持って鍋の端を掴んだ。桃が焦げ付かないよう、火にかけた鍋を揺する。何度かそれを繰り返したあと、花は顔を上げて思い切って聞いた。
「あの――芹沢さんって、十年前何をしてました?」
「なぜそんなことを聞く?」
尋ねられ、花は十年前の誕生日に父親が失踪して、今も見つかっていないことを説明した。
「……どんな父親だった」
「とても腕のいい料理人でした。無口であまり感情を表に出さない人でしたけど、一緒に料理を作ってくれたり、優しいところもあって――」
タルトタタンを作りながら、花は父親のことを思いつく限り話した。その話を芹沢は、口を挟むことなく黙って聞く。
しかし結局、十年前に何をしていたかは教えてくれなかった。
タルトタタンは焼き終わったあと、一晩井戸に浮かせて冷やすことにして、花は翌日また八木邸を訪れた。
「これが『桃のたるとたたん風』っちゅう菓子どすか……」
菓子を受け取りにきた格蔵は、出来上がったタルトタタンを見て物珍しそうな顔をした。
「一応、味見してもらえますか?」
味付け自体は変わったものではないが、この時代の人にとって馴染みのない料理であることには違いない。
切り分けて格蔵と秀二郎に出すと、二人はおそるおそるといった風に手を伸ばした。
「これは……」
「うまい!!」
口に入れた瞬間、二人の顔がぱっと輝く。花は胸を撫で下ろしつつ、自分も一口食べてみた。
表面をコーティングしているキャラメルはほどよい苦さで、桃の甘みと酸味によく合っている。食感もタルトはサクッと軽く、桃はなめらかな舌触りで飽きがこない。
「ぎょうさんあるし、もう一個――」
「あ、あきまへんて、格蔵はん」
会合用のタルトタタンに手を伸ばした格蔵を、秀二郎が慌てて止める。
「すんまへん、つい」
格蔵は笑って頭を掻いた。
秀二郎はタルトタタンを重箱に移すと、格蔵に手渡す。
「俺ももうちょっとしたら、向かいますさかい……」
「分かりました。ほなまたあとで。神崎はん、ありがとうございました!」
重箱を手に、格蔵は意気揚々と屋敷を出ていった。花は台所の片づけをしてから、玄関へ向かう。
「私ももう前川邸に戻りますね」
「はい……。神崎はん、おおきに――」
頭を下げかけて、ふと何かに気づいた様子で秀二郎が言葉を止める。視線を追うと、そこには梅と付き人の末松の姿があった。昨日、芹沢が残りの金は今日払うと言っていたので、受け取りにきたのだろう。
芹沢は普段離れに寝泊まりしていると昨日聞いていた。呼んでくると声をかけようと口を開く。
しかし花が言うより先に、秀二郎が息をのんで、
「お、お梅はん、顔に傷が……!」
と悲鳴のような声を上げた。よくよく見ると、確かに梅のこめかみ辺りに小さな切り傷がある。
梅は目を伏せて、さっと手で傷を隠した。
「これは――転んで切ってもうたんどす。たいしたことないさかい、気にせんとってください」
「あきまへん。薬持ってきますさかい、そこに座って待っとってください」
珍しくはっきりとした口調で言うと、秀二郎は急いで屋敷の奥へ向かった。梅は戸惑ったような顔をしながらも、言われた通り玄関の上り框に腰を下ろす。
ただ突っ立って待っているのもどうかと思い、花は梅の怪我を心配しつつも芹沢を呼びに行った。
芹沢を連れて戻ってくると、秀二郎が持ってきたらしい塗り薬を、梅が傷口に塗っているところだった。
手当てが終わるのを待って、芹沢が金を渡す。
「……残りの金だ」
芹沢は梅の怪我について、特に触れることはしなかった。梅は金を受け取り、秀二郎に礼を言うと、早々に立ち去ろうとする。
「ま……待ってください」
それを秀二郎が止めた。
「帰ったら、また酷い目に遭うんどっしゃろ……? そやったら――こんまま、うっとこにおりまへんか?」
「え……」
「あっ、その、へ、変な意味やなくて……! ただ俺は、お梅はんが心配で……ここおってくれはったら、安心やし……そやから……」
秀二郎の声はどんどん尻すぼみになっていく。
「……おおきにありがとうございます」
梅は深々と頭を下げた。
「そやけど、そない気遣いはいりまへん。――うちのことはどうぞ放っといてください」
梅の声は静かだったが、どこか冷ややかな響きがあった。固まる秀二郎に背を向けると、梅は玄関を出ていく。
「ほんなら、おやかまっさんどした」
「あ……」
秀二郎は呼び止めようとするように口を開けたが、結局何も言わなかった。小さくため息をついて、末松が梅のあとを追う。
「中途半端に首突っ込むんは、やめてくれまへんかね……」
去り際呟いた末松の言葉に、秀二郎はうつむくだけだった。
前川邸に戻った花は、梅のことを考えながら廊下を歩いていた。
――梅はどうして秀二郎の申し出を断ったのだろう。どうせいつかは太兵衛のもとへ戻らなければならないからだろうか。
だが梅も、このままでいいと思っているはずはない。秀二郎の手を借りて、なんとか現状を打開しようとは考えなかったのだろうか……。
「お前は……自分が非番だからって、なんで俺の部屋に来るんだ」
ふと開けっ放しの障子の向こうから、声が聞こえてきた。
「だってー、近藤さんはお仕事中だし、原田さんたちも巡察に行ってるし、暇なんですもん」
「おい、俺も仕事中だぞ。見て分かんねえのか」
どうやら声の主は土方と沖田のようだ。見つかると面倒なことに巻き込まれかねないが、この部屋の前を通らなければ自分の部屋へ戻れない。
花はこっそり部屋の中をのぞいてみた。土方は文机に向かっており、沖田もそちらを向いたまま寝転がって碁石を弾いて遊んでいる。これなら気づかれなさそうだ。
足音をたてないよう、そっと足を踏み出す。――しかし次の瞬間、
「おっと、手が滑った」
パチンと音が響いて、沖田の弾いた碁石が花の額に命中した。
「いたっ!」
「あれ、神崎さんじゃないですか。こんな所で何してるんです?」
「部屋に戻ろうとしてただけです。というか、先に謝ってください!」
起き上がりもせず顔だけこちらに向けた沖田を、痛みで潤んだ目で睨む。沖田はわざとらしく心配そうな顔を作って首を傾げた。
「どうしたんですか? おでこが真っ赤ですよ?」
「沖田さんがやったんでしょう!」
腹が立って、当てられた碁石を投げつける。沖田は顔面目がけて飛んできた碁石を、片手で難なく受け止めた。
「もう少し力を抜いて腕を振りぬいた方が、速く投げられますよ」
「沖田さんは私の野球のコーチか何かですか? そんな助言いりません!」
「ははっ、何言ってるんですか? 相変わらず変な人ですねえ」
「――ああもう! うるせえ!」
我慢の限界に達したのか、突然土方が机を叩いた。
花はその剣幕におののいたが、沖田は笑顔のままで、
「そんなに怒ったらせっかくの男前が台無しですよ」
などと茶目っ気たっぷりに言って、土方の背中を指先でつついた。この人に怖いものはないのだろうか。
「お前ら二人とも、今すぐ出てけ!!」
とうとう筆を置いて、土方が立ち上がる。
「まずいっ! 逃げろ!」
沖田はぱっと身体を起こし、花の腕を引いて走り出した。
「ちょっと、沖田さん! どこ行くんですか!?」
「いいから、いいから!」
軽く笑いながら、沖田は走り続ける。花は足がもつれそうになりながらも、必死でそのあとに付いていった。




