一
七月も半ばを過ぎたある日。朝ご飯で使った皿を洗っていた花のもとへ、佐々木が訪れた。
「ちょっと来いや」
「何ですか? 今、お皿洗ってるんですけど」
「ええからさっさと来い。……菱屋の件や」
声をひそめて佐々木が言う。花は慌てて手を拭くと、土間を出ていく佐々木のあとを追いかけた。
約一月前、菱屋の主人、太兵衛が妾の梅に暴力を振るっていると分かってから、花は約束通り佐々木に調査の報告を受けている。
しかし調査は奉行所に気付かれないよう秘密裏に行わなければならず、佐々木を含めた調査メンバーには箝口令が敷かれているらしい。そのため、こうして報告を聞くときには、人目につかない場所へ移動することにしている。
「――結論から言うと、今回も進展はなしや」
屋敷の奥庭へ移動するなり、佐々木が言った。
「またですか……」
「しゃあないやろ。そない簡単にはいかへんねん」
「分かってますよ。だから文句は言ってないじゃないですか」
「口に出してへんでも顔が言うてんねん」
「被害妄想はやめてください」
花と佐々木はじっと睨み合い――どちらからともなくため息をついた。
「こないしょうもない喧嘩しとる場合とちゃうな」
「そうですね……」
佐々木たちが調査したところ、やはり梅は菱屋太兵衛に暴力を振るわれていた。
しかし厄介なことに、太兵衛は奉行所の中でも町奉行に次いで権力の強い、年番方と懇意にしているようだった。
梅の付き人の言っていた通り、これでは奉行所に訴えても聞き入れてもらえない可能性が高い。
ならば先に梅を保護したらどうかという話にもなったのだが、保護したのちに太兵衛を裁けなかった場合、いずれは梅を太兵衛の元へ返さなければならなくなる。そうなると、梅の立場が今よりも悪くなり危険だということで、他の調査メンバーたちに却下されたらしい。
「それにしても、まさか前川家当主の荘司はんと太兵衛が従兄弟同士やったなんてなあ」
苛立たしげに言って、佐々木が頭を掻く。
この、佐々木の言う前川家当主とは、今花たちのいる前川邸の持ち主のことだ。浪士組は前川家に無償で屋敷を貸してもらっている。
江戸時代では自白さえ取れれば人を裁けるらしく、太兵衛から強引にでも自白を取ったらどうかという話にもなったのだが、世話になっている前川家の縁戚にあまり手荒な真似はできないということになり、この案もまた却下されてしまった。
それでも諦めるつもりはなく、どうにかして梅を助けようとはしているのだが、今のところいい案は見つかっていない。
目の前で苦しんでいる人がいるのに、何の力にもなれないのは、ひどく歯がゆい思いがした。
「太兵衛さんと年番方の人って、そんなに仲がいいんですか?」
「八日にいっぺんは島原に集まって飲んどるみたいや。……ただこれが、人払いしよったりなんや怪しい感じがすんねん」
「へえ……」
何か悪だくみでもしているのだろうか。
佐々木の話に相槌を打ち――そこでふと、花の頭にある考えが浮かんだ。
「もし太兵衛さんたちが何か悪いことを計画してたとして、それを掴めたら、まとめて全員捕まえるか、できなくてもばらすぞって脅してお梅さんを助けられるんじゃないですか!?」
「……前からちょいちょい思うとったけど、お前意外と腹黒いとこあるよな」
感心したような、それでいて呆れたような、複雑な表情で佐々木が花を見る。
「だめですか? この案」
「……いや、俺は正直ありやと思う。とりあえず、脅すことは伏せて相談してみるわ」
そう言うと佐々木はさっそく踵を返した。
「ほな、許可下りたら、これからは太兵衛の会合調べてみるさかい」
「分かりました。よろしくお願いします」
軽く頭を下げて、佐々木と別れる。花は皿洗いで甕に溜めていた水がなくなりかけていたことを思い出し、ついでに汲んでおこうと井戸へ向かった。
桶を井戸の中に放り、水が入ったのを確認すると引き上げる。ここへ来たばかりの頃は水の汲み方さえ知らなかったのに、もうすっかり手馴れたものだ。
引き上げた桶を井戸の縁に置くと、ぼんやりと水面を眺める。
……この時代に来てから、もう二ヶ月がたつ。初めは分からないことばかりだったが、次第にここでの生活にも慣れつつあった。
それ自体はいいことなのかもしれない。しかし花は、そんな自分に時おり焦りを感じることがあった。
この時代に順応すればするほど、現代が遠のいていくような気がする。
いつかは現代に帰れるのだろうか。――もしかして、このままずっと帰ることができないまま、ここで年を取り、死んでいくのではないだろうか。
頭に浮かんだ恐ろしい想像に、花は頭を振った。
大丈夫。来ることができたのだから、帰ることだってできるはずだ。
言い聞かせるように胸の中で繰り返して、顔を上げる。
……今日は芹沢のところへ行ってみよう。
今までずっと勇気を出せないでいたが、自分から動かなければきっと何も変えられない。
皿洗いを終えると、花はすぐに八木邸へ向かうことにした。草履を持って廊下を歩き、途中で通りかかった藤堂の部屋を訪ねる。
「藤堂さん、ちょっとすみません」
「ん? どうしたの?」
藤堂は壁にもたれて座って、本を読んでいたようだ。
「今から八木邸に行きたいんですけど、いいですか?」
部屋の外に立ったまま尋ねる。
花は前川邸を出る際には、副長助勤の誰かに許可をもらうよう言われていた。特に用もないので、外に出ることは滅多にないが、必要なときはいつも藤堂か井上のところへ頼みにいくようにしている。
「いいよ。それにしても、土方さんもそろそろ外出くらい好きにさせてくれればいいのにね。毎回面倒でしょ」
藤堂の言葉に、思わず苦笑する。
「そうですね。読書の邪魔しちゃうのも申し訳ないですし」
藤堂は勉強家なのか、部屋を訪ねるときはいつも、本を読んだり書き物をしていたりする。
「何の本を読んでたんですか?」
「朱子学の本だよ」
「朱子学?」
「うん。たとえば朱子学の『性即理説』っていうのは、人の本性は理であるっていう意味なんだけど、理と気は切り離せないもので、この気によって人の心は乱されてしまうんだ。だから常に自分を統御すべきっていうようなことが説かれてるんだけど」
……分かったような、分からないような。
「藤堂さんって頭がいいんですね」
「そんなことないよ。でも学問ってすごく大切なのに、浪士組にはあまり熱心に勉強する人がいないんだよね。山南さんとか近藤さんは違うけど」
「すみません……。私は人のこと言えないです」
学生時代を思い出して、つい視線をそらす。藤堂は少し笑って、花を見上げた。
「学問は世の中を生きていく上での、剣や鎧だと思うんだ。無くても生きてはいけるけど、戦うすべも身を守るすべもなければ、強者に搾取され、虐げられてしまう」
「……そうですね」
一概には言えないが、現代でも同じことが言える気がする。
花は藤堂の言葉に頷いた。
「それに、俺はこのまま一兵卒でなんて終わりたくないんだ。せっかくこうして京都守護職の御預かりになれたんだし、絶対にのし上がってやりたい」
藤堂はその見た目や物腰の柔らかさから、どちらかと言うと大人しい印象があったのだが、意外に野心家だったようだ。
「偉くなって何かしたいことがあるんですか?」
「……うん。俺、父親を見返してやりたいんだ」
真剣な顔で藤堂が返す。父親が厳しい人なのだろうか。
「そうなんですね……頑張ってください! 応援してます!」
「あははっ、ありがとう」
こぶしを握って言った花に、藤堂が笑う。花は「それじゃあ」と軽く頭を下げて、部屋の前を去った。
「あれ、お花はん」
「お久しぶりです、雅さん」
八木邸に着くと、玄関に出てきた雅に挨拶する。
「あの……芹沢さんっていますか?」
「はい。せやけど朝方帰らはったみたいで、まだ寝てはります」
「そうですか……」
また飲みに出かけていたのだろうか。それなら昼過ぎくらいまで起きてこないだろうし、出直した方がいいかもしれない。
「そうや。今日はうっとこの子、みんな揃うとるさかい挨拶さしてもろてもええどすか?」
考えていると、思いついたように雅が言う。
そういえば、この時代に来てすぐ、雅に世話になったときそんな約束をしていた。
「はい、ぜひ」
「ほな中へどうぞ」
雅に促されて、八木邸の玄関を上がる。すると花たちの会話を聞いていたのか、玄関を上がってすぐ左手にある部屋から、兄弟らしき少年が二人顔を出した。
「お客はん?」
「前川邸で料理人してはる神崎花はんやで。二人とも挨拶しい」
雅が言うと、二人は部屋を出て花の前へと歩いてくる。
「はじめまして、俺は八木為三郎。歳は十四や」
兄の方は物怖じしない性格なのか、ハキハキと自己紹介する。それに対して弟は――。
「……勇之助」
それだけ言うと、すぐに兄の陰に隠れてしまった。恥ずかしがり屋なのだろうか。
「勇之介、お前もう九つやろ? ええ加減人見知り直さな、秀兄みたいになるで」
為三郎が勇之介の頭を軽く叩く。名前は忘れてしまったが、確か雅は息子が三人いると言っていた。おそらく為三郎の言う『秀兄』が長男だろう。
「はじめまして、これからよろしくね」
ひとまず二人に笑顔で挨拶する。為三郎は「うん!」と元気よく答えたが、勇之介は控えめに頷くだけだった。
「秀二郎はんは部屋やろか……? すんまへん、ちょっとここで待っとってください」
雅が言って、部屋を出ていく。
花はただ黙って待っているのもなんだし、とあまり期待はせずに二人に芹沢のことを聞いてみることにした。
「ねえ、二人はここに住んでる芹沢鴨って人と話したことある?」
「あるで。たまにやけど一緒に遊んでくれたりするし」
「えっ、本当に!?」
思いもよらなかった返事に、つい前のめりになる。
「芹沢さんのこと、どんな人だと思う? 遊ぶって、何して遊ぶの?」
「うーん、俺は無口な人やなって思う。遊ぶんは絵描いたり、魚釣ったり」
「……芹沢はん、絵うまい」
為三郎のうしろで勇之介も付け足す。
無口なのは父親と同じだ。しかし絵はどうだっただろう。器用だったから、もしかすると上手だったかもしれないが――。
考えかけて、はっとする。つい父親と同一人物という線で考えてしまっていたが、自分は以前芹沢に「誰だ」と言われていたのだ。
……落ち着こう。先走るのはよくない。
「お花はん、お待たせしました」
声がして顔を向けると、雅と二十歳くらいの青年が部屋に入ってきた。青年は花と目が合うと、
「ど、どうも……。はじめまして、秀二郎どす」
小さな声で言って頭を下げた。身体が細く、気弱そうな青年だ。
花が挨拶すると、それに対しても「よ、よろしくお願いします……」とどもりながら返した。
「えーっと……秀二郎さんは、普段何されてるんですか?」
自分が黙っていると沈黙が続きそうだったので、当たり障りのなさそうな話題を振ってみる。
「父が村の行司役をしとるさかい、その手伝いと……あと、お茶の勉強を」
「お茶の勉強? 茶道のことですか?」
「それもどすけど、茶葉の育て方やったりお茶の淹れ方やったり、お茶に関係あることやったら何でも興味あるみたいどす。秀二郎はん、昔からえらいお茶が好きやって」
雅が苦笑しながら説明してくれる。
「へえ、そうなんですね」
自分にとっての料理のようなものだろうか。花は少し、秀二郎に親近感を覚えた。
「すんまへん、秀二郎はんいてはりますか!?」
もっと話を聞こうとしたところで、玄関から慌ただしく一人の男が現れる。
「どないしはったんどすか? そない慌てて……」
「聞いてください! 明日の会合用の菓子、手違いで注文できとらんかったみたいなんどす!」
「え……」
男の言葉を聞いて、秀二郎の顔がさっと青ざめる。
「そ、そんな……二月も前に頼んどったのに……」
「もう玉露と野石屋のようかん出す言うてもうとって、みんなはんも楽しみにしてはったのに……どないしまひょか」
二人は腕を組み、頭を悩ませている。邪魔してはいけないし、自分は帰った方がいいかもしれない。
「あの、雅さん。私――」
「そや!」
突然、秀二郎と考え込んでいた男が顔を上げた。
「浪士組にえらい腕のいい料理人がいてはるんどっしゃろ? そん人に代わりの菓子を作ってもらうっちゅうんはどうどす?」
「はっ!?」
思わず声が出て、慌てて両手で口を押さえる。幸か不幸か、男は花の声が聞こえなかった様子で話を続けた。
「なんでも、偏屈で有名な上岡屋の主人に、料理作っただけで大金出させたて言うやないですか。そないすごい料理人に作ってもろうたら、みんなはんもがっかりさせんですみますやろ!」
なぜその話をこの男は知っているのだろう。気になったが――それより今は、早くこの場を立ち去った方がいい。
花は秀二郎たちに気づかれないよう、こっそりと後ずさりした。
「――神崎はん」
玄関前まできて背を向けようとした瞬間、秀二郎に呼び止められた。
「……はい」
「今の話、聞いてはりましたか……? よかったら作ってほしいんどすけど……」
おずおずと秀二郎が頼んでくる。花は全力で首を横に振った。
「すみませんけど、私は料理人であって和菓子職人でもパティシエでもないので!お菓子は無理です」
一応菓子も専門学校や趣味で作ったことはあるが、その道のプロというわけではない。秀二郎たちは有名な菓子を用意する予定だったようだし、その代わりとして出せるクオリティは保障できない。
「あんたはんが浪士組の料理人なんどすか!?」
秀二郎との会話を聞いていた男が、目を輝かせて割って入ってくる。
「は、はい……。神崎花です」
「はじめまして! 俺は格蔵いうて、家が茶問屋やっとる者どす。神崎はんて誰も見たことないような、変わった料理作らはるんどっしゃろ? しかもそれがえらい美味いとか! いやあ、お噂の料理人はんにお会いできて光栄どす!」
「はあ……」
満面の笑みで話す格蔵に、花は頬を引きつらせた。
分かりやすくおだてられているが、乗るわけにはいかない。
「あの、もう一度言いますけど、私お菓子は専門でないので無理です」
花は格蔵の目を見て、きっぱりと断った。
「そこをなんとか、お願いします! 俺、今回初めて秀二郎はんと会合仕切らせてもらうことなったところで、失敗できひんのです!」
「いや、それならなおさら他の人気なお店のお菓子にした方がいいですよ」
「店やったらここらやと野石屋が一番やから、別の店はどん店選んでも劣ってまうんどす。そやからどうか、お願いします! 作ってみてあかんかっても、責任取れ言うたりしまへんさかい!」
格蔵は土下座でもしそうな勢いで頼んでくる。花は諦めてため息をついた。
「……玉露と一緒に食べるお菓子でしたっけ?」
「は、はい! 作ってくれはるんどすか!?」
「あんまり期待し過ぎないでくださいよ」
「ありがとうございます!」
格蔵と、そのうしろで秀二郎もおどおどと頭を下げる。花はさっそく何を作るか考え始めた。
「確か玉露はコクのある濃いお茶でしたよね……。メインはお茶でしょうし、お菓子は味の濃いものや匂いのきついものは避けた方がいいですね」
「は、はい。あとは量も少ないさかい、干菓子とか塩気があって喉が渇くもんも避けた方がいいどす……」
花はほとんど独り言のつもりだったが、小声で秀二郎が付け足した。
「へえ、そうなんですね!」
お茶にはそれほど詳しくないので、教えてもらえるのは素直にありがたい。花は秀二郎のアドバイスも参考にしつつ考えた。
和菓子だとようかんや練りきりが合うだろうが、それなら正直自分が作るより店で買った方が美味しいと思う。――ここは思い切って、洋菓子にしてみよう。
味に癖のないものにすれば、この時代の人の口に合わないということもないだろう。
ただそうなると、乳製品を使えないのが痛い。バターや生クリーム、ヨーグルトにチーズなど、多くの洋菓子には乳製品が使われているが、この時代は基本的に肉食が禁止されており、牛乳も牛の血という位置付けで、飲むことは忌避されている。
現代人の花は肉を食べることにも牛乳を飲むことにも全く抵抗はないが、食べる相手が嫌がる可能性のあるものは入れられない。
「玉露には生菓子を合わせたいから……それで乳製品を使わないってなったら、やっぱり果物をメインにするのがいいかな」
この季節に手に入る果物には、スイカや桃、梨、イチジクなどがある。
「水菓子って何かありますか?」
「確か貰いもんの桃が何個かあったはずどす」
雅が答える。花はそれを聞いて作る菓子を決めた。
雅から桃を六つ貰うと、さっそく八木邸の台所へ移動する。




