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新選組のレシピ  作者: 市宮早記
三品目 天下の台所
14/29

 翌朝になると、花は再び台所へ向かい、朝ご飯を作った。

 明け六つの鐘が鳴る頃には料理を全て完成させ、山崎と凛と一緒に義右衛門のもとへ向かう。

「もう一度、私の作った料理を食べていただけないでしょうか?」

 目の前に置かれた膳を見て、義右衛門は僅かに目を見開いた。

「これは……」

 料理をじっと見つめてから、おもむろに箸を持つ。昨夜は一口ずつしか食べなかったが、今朝は途中で箸を止めることなく、食べ続けた。

「……どないして、こん料理作ったんや?」

 全て食べ終えると、義右衛門が静かに尋ねた。花は義右衛門の前に、持って来ていた料理本を置く。

「台所に、料理の作り方を書いたこの本がありました」

 料理本に書かれていたのは、義右衛門の故郷である尾張でよく使われている、八丁味噌や濃口醤油、ムロアジのだしを使ったレシピばかりだった。

 凛は尾張で食べたものを懐かしい味と言っていて、あのとき花は尾張で大阪風の味付けの料理を出してもらったのだと思っていた。しかし本当は逆で、凛は母親を亡くすまで、尾張の味付けの料理を日常的に食べていたのだろう。

 義右衛門は本を手に取り、さっと目を通すと、「あいつの字やな」と呟いた。

「気に入ったんか知らんけど、尾張の実家に二人で行ってから、ずっとこん味付けで作るようなったんや」

 言いながら、本を置く。花はその言葉に首を横に振った。

「私は味が気に入ったからじゃないと思います」

 凛の母親の出身はここ大坂で、料理には主に、米味噌や薄口醤油、さばのだしなどを使う。尾張の味付けは、全く馴染みのないものだったはずだ。

「小さい頃から食べて育った味って、なかなか捨てられないものなんです。たまにならともかく、毎日馴染みのない味付けの料理を食べるなんて、簡単に受け入れられたとは思えません」

「……ほな、何でそないもんわざわざ作っとったんや?」

 戸惑ったような顔で、義右衛門が尋ねる。花はその顔をまっすぐ見つめ返した。

「義右衛門さんのことを、大切に想っていたからじゃないでしょうか」

 凛の母親にとって尾張の味に馴染みがないように、義右衛門にとっても大坂の味は馴染みがない。

 どちらに合わせるか考えて、相手に合わせたのなら、そこには確かに彼女の気持ちがあったはずだ。

「これ……勝手に借りてごめんね」

 凛に向き直りると、料理本を差し出す。凛は大事そうに両手で受け取って、じっと表紙を見つめた。

「……お母はん、うちのこと愛してくれとったんやろか」

 ふと、呟くように凛が言う。

 凛は母親が、父親を好いていなかったのではないかと疑っていたようだった。だから、その子どもである自分も、愛されていなかったのかもしれないと思っていたのだろう。

 凛の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

「うちもお母はんのこと好きやった。もっと、ずっと、傍におってほしかった……っ」

 本を胸に抱き締め、声を上げて泣く。義右衛門は凛に寄り添うように座ると、そっと頭を撫でてやった。

 ……料理本には、何度も文字を書き足したせいで、読みづらいページがいくつもあった。しかしそういったページのレシピは、決まってあとのページで読みやすいように整えられている。自分だけが読むのなら、わざわざそんなことはしない気がした。

 勝手な憶測だが、この本は母親から凛と義右衛門への、最後の贈り物だったのではないだろうか。



 昼ご飯を食べ終えたあと、花と山崎は義右衛門に呼び出された。通されたのは仏壇のある部屋で、義右衛門は花たちに背を向けて線香を上げた。

「……逃げたりせえへんと、話したらよかったな」

 仏壇を見つめたまま、語りかけるように義右衛門が言う。

「そしたら凛に、あない悲しい思いささんで済んだ。お前にも、もっとええ人生歩ませたれた。それに、わてかて……」

 言いかけて言葉を止めると、「後悔は尽きひんな」と苦笑した。

 それから花と山崎に向き直り、両手をつく。

「浪士組に金貸す話やけど、喜んで引き受けさしてもらいます。……おおきに、ありがとうございました」

 深くこうべを垂れた義右衛門に、花と山崎も頭を下げた。


「おおきにな、神崎。お前のおかげで金借りられたわ」

義右衛門が去ったあと、山崎が言った。その言葉に花は「いえ」と首を横に振る。

「山崎さんが励ましてくれたから、もう一回頑張ろうって思えたんです。……それに、私は料理本に書かれていた料理を作っただけなので。お礼なら、凛ちゃんのお母さんに言ってあげてください」

 彼女の残した料理本がなければ、きっと自分には義右衛門を納得させることはできなかった。

山崎は黙って仏壇を振り向いた。義右衛門の上げた線香は、もう燃え尽きていたが、香りはいまだ消えずに残っている。

「……死人っちゅうのは、残酷なもんやな」

 ぽつりと山崎が言う。

「どない後悔も、償いも、受け入れてくれへん。ただ黙って、責めるみたいにそこに在るだけや」

 花は山崎と同じように、仏壇へ目を向けた。

 ……そうだろうか。

 自分が身近な人を亡くしたときは、もう二度と会えないことがただ寂しくて、悲しくて、そればかりだった。山崎の言うような罪悪感に苛まれたことはない。

 花には山崎の言っていることが、いま一つ理解できなかった。

「……行こうか」

 山崎が立ち上がり、部屋を出ていく。そのあとに続きながら、花は山崎の背を見つめた。

 ――山崎には、そんな風に感じる人がいるのだろうか。

 気になったが、聞けるはずもない。結局花は、ただ黙って山崎のあとをついて行くだけだった。


 金を貸してもらうという目的は果たされたため、その日のうちに大坂を立つことになった。泊まっていた部屋へ戻ると、さっそく荷物をまとめて凛に声をかける。

「お凛、俺らこれから京に戻るさかい」

「泊めてくれてありがとね。いろいろお世話になりました」

「もう帰らはるんですか? 来たばっかりやし、もっとゆっくりしてかはってもええんやないです?」

 凛は引き止めてくれたが、用もないのに長居はできない。丁重にお断りすると、せめてと玄関まで見送りに出てくれた。

「結局たいしたもてなしもできひんままで、ほんまにすんまへん。またこっち来ることあったら、絶対声かけてください」

「うん。凛ちゃんも、京に来ることがあったら浪士組に遊びにきてね」

 そう言いつつ、沖田や土方のことを思い出し、「あんまり楽しいところじゃないけど」と苦笑いする。凛はくすりと笑うと、改まって花を見上げた。

「うち、これからお母はんの残してくれた本で、たくさん料理作ろう思てます。ほんでお母はんの代わりに、お父はんにおいしいもんぎょうさん食べさしたげたいです」

「……うん。きっと義右衛門さん、喜ぶよ」

 花が言うと、凛はまだ少し赤い目を細めて、くすぐったそうに微笑んだ。

「それじゃあまたね!」

 凛に手を振って、上岡屋をあとにする。その直後、背後から駆けてくる足音が聞こえてきた。

「――山崎くん、神崎くん!」

 振り返ると、山南の姿がある。待ち合わせていたのは昨日の夕方だったが、今来たのだろうか。

「遅くなってすまない。これから京へ戻るところか? 金を借りる話はどうなった?」

「無事借りられました」

「そうか、それはよかった」

 山南はほっとしたように笑みを浮かべる。

「ところでえらい遅かったですけど、何かあったんですか?」

「ああ……実は昨日こちらに来る前に、力士と乱闘騒ぎになってね」

「えっ、どうしてそんなことに!? みなさん無事だったんですか?」

「こちらには怪我人は出ませんでした。捕り物が早く終わったので、小舟に乗って少し涼もうということになったのですが、途中で斉藤くんが具合を悪くしてしまって舟を降りることになり……。そこへ力士がやって来て、こちらに無礼を働いたので、芹沢さんが殴り乱闘になったという次第です」

「……そう、ですか」

 芹沢が――あの、父親と瓜二つの顔をした男が、乱闘を起こしたのか。

 影が差したように心が暗くなる。浪士組に身を置くようになってから、芹沢の噂は何度か耳にしていたが、いつも酒に酔っているだとか、乱暴者で怒ると手がつけられないだとか、よくない話がほとんどだった。

 あれだけ似ているのだから父親と何か関係があるかもしれないし、一度話をしてみるべきだとは思う。しかし、こうした噂話を聞いてしまうとつい二の足を踏んでしまい、行動できないままでいた。

「……『こちらには』怪我人が出なかったということは、力士の方には出たのですか?」

 山南の話を聞いて、山崎が尋ねる。山南は視線を落として頷いた。

「乱闘になったときは、せいぜい打ち身程度だった。だがそのあと、斉藤くんを介抱するため訪れた北新地に、力士たちが仲間を三十人ほど引きつれて来てね。みな手に角棒を持っていて、襲いかかってきたものだから私たちも応戦したんだ。……そこで一人、あちらに死人が出てしまった」

 ――死人?

「そのあとは御番所に届けを出したんだが、非は力士側にあると認められた。彼らも謝罪してきたから無事和解できたよ」

 山南は、何を言っているのだろう。

 花は言葉を失って山南を見つめた。人を殺したのに、一日と経たないうちに非は相手側にあると判断されて、和解までできたなんてとても信じられない。命とは、そんなに軽いものではないはずだ。

「――待って、ください」

 両手を強く握り締め、なんとか声を絞り出す。

「亡くなった方のご家族やご友人も、それで納得したんですか?」

「分かりませんが、納得せざるをえないでしょう。初めに無礼な真似をしたのも、襲ってきたのもあちらです。加えて私たちは、そのときたったの八人でした。相手が少人数で来れば殺さずにすんだでしょうが、三十人も相手にして、手加減すればこちらの方が殺されていました」

 つまりは、正当防衛だったと言いたいのだろうか。

 花はうつむいて唇を引き結んだ。

 山南の言っていることは、正論なのかもしれない。だが、頭でどれだけそう思っても、心がついていかなかった。

 たとえやむを得なかったとしても、人として、一人の人間を殺して、そんな風に簡単に割り切れてしまえるものなのだろうか。

「しかし、世情は刻一刻と変わっているというのに、私たちは不逞浪士の捕縛に乱闘騒ぎと、一体何をしているのだか……」

 山南がため息をつく。

「先だっても、老中格の小笠原様率いる幕軍を乗せた軍艦が、大坂に上陸したばかりですからね。洋式軍隊で、兵の数は千五百を下らんて聞きました。見とるばかりで何もできひんで、歯がゆい思いをしとる者は多いでしょう」

「ああ。巷では尊攘派の一掃と公方様の東帰を計っているのではと噂されているが、山崎くんはどう思う?」

「そうですね……。小笠原様の考えは読めまへんけど、上陸してから動きはないみたいやし、上京は差し止められとるんやないかと思てます」

 山崎と山南は、花を置いたまま話を進めていく。花は途方に暮れたような気持ちで二人を見つめていた。


 少し立ち話をしたあと、山南はこれからまた、一緒に下坂したメンバーと合流するからと去っていった。花と山崎も京へ戻るため通りを歩き出す。

「あの……山崎さん。さっき山南さんが言ってたこと、どう思いましたか?」

「さっきて?」

「その、力士の人を殺したことについてです。……山崎さんも、仕方がないって思いましたか?」

尋ねると、隣を歩いていた山崎がこちらを一瞥した。

「せやな」

 そう答えた山崎の声に迷いはない。花は動揺した。

「で、でも、山崎さんは凛ちゃんを助けたとき、相手の人を斬ったりしませんでしたよね? あのときみたいに、山崎さんなら人を斬らないで済むようにするんじゃないですか?」

「そうかもしれへんな」

「それじゃあなんで……」

 戸惑っていると、山崎は足を止めた。自然と花も足を止める。

「……たとえば昨日お凛を助けたとき、相手の持っとる刀が本物やったら、俺かて斬っとったかもしれん」

 山崎の言葉に、小さく息をのむ。

「俺は進んで人を斬りたいとは思わへん。けど、必要やて判断したら迷わず斬る。せやから山南さんらが力士を殺したことも、俺は何も言われへん」

「でも……殺した人とかそのご家族の気持ちを考えたら、胸が痛みますよね?」

「人を殺すことは、確かに悪やと思う。せやけどそない中途半端な憐れみ向けるくらいやったら、はなから殺さん方がええやろ。腰に刀なんか差さんと、襲われたら潔う自分が死んだったらええねん」

 淡々と答えて、山崎は薄く微笑んだ。

「……期待しとった答えとちゃうかった?」

 花は口を開いて――結局何も言えないまま閉じた。そんな花に苦笑して、山崎は再び歩き始める。

「俺はお前が思うとるようなやつとちゃうよ」



申の刻、花と山崎は船着き場に着いた。

「……大坂からも舟が出てるんだ」

伏見行きの舟の前に立ち、思わず呟く。

行きがあるのだから、帰りもあるのは当然だろう。しかし行きは川の流れに乗って下っていけばよかったものの、帰りは逆で流れに逆行しなければならない。この時代はエンジンが無いので、船頭は大変そうだ。

「せやで。行きと違うて時間かかるさかい、その間にしっかり休んどき」

船頭に船賃を払い終わった山崎が、振り返って答える。

「どのくらいかかるんですか?」

「まあ言うても、寅の刻までには着く思うけど」

「と、寅の刻!?」

 さらりと放たれた爆弾に、驚いて声を上げる。

寅の刻とは午前四時のことで、つまりこれから十二時間は舟に乗っていなければならないということだ。

三十石舟には、柔らかなクッションの付いた座り心地のいい椅子などあるわけもなく、硬い木板の上に直接座らなければならない。その上、夜行バスにあるような仕切りのカーテンもなく、プライバシーなんてものは存在しない。

「どないした?」

「い、いえ……」

花は少し顔を引きつらせながらも、首を横に振った。

きっと寝ていればすぐだろう――そう自分に言い聞かせて、舟に乗り込む。しばらくすると、舟は岸から離れて川を上り始めた。

その様子をぼんやり眺めながら、花は浪士組に殺された力士のことを考えた。

 ――憐れんだところで、結局何をするわけでもない。そんな想いがふと胸に湧く。

現代でも人が殺されるニュースを見ることがあったが、可哀想だと心を痛めるのも犯人に怒りが湧くのもそのときだけで、しばらくすると何事もなかったように日常に戻った。

 所詮は他人事で、自分の正義感などその程度の薄っぺらいものなのだ。

 山南たちを冷たいと思ったが、もしかすると自分も、そう変わらないのかもしれない。

 舟の縁にもたれて小さく息を吐く。太陽の光を浴びてきらきらと輝いた川面は、沈んだ気持ちとは裏腹に、目を奪われるほど美しかった。

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