四
凛が去って少しすると、棒手振りが数人、ものを売りに現れた。
「どうぞどうぞ、入ってください!」
花は胸を躍らせて彼らを迎え入れた。いつも節約料理ばかり作っていたので、久しぶりに金に糸目をつけず食材を買えるのが嬉しかったのだ。
「魚は何がありますか?」
「今日いっちゃんええ魚は、こん鯛やで」
棒手振りが桶を置いて、中の魚を見せてくる。
「これは目一鯛ですね」
目一鯛は夏が旬で、現代でも高級魚として扱われている魚だ。見たところ目は澄んでいるし、エラも綺麗な色をしている。鮮度は悪くなさそうだ。
「とりあえず、目一鯛をください。あとは――わっ、パクチーだ!」
野菜を持って来た棒手振りの荷を見て、花は思わず声を上げた。タイ料理で有名なパクチーは、東南アジアや中国でよく食べられている食材で、中国では香菜と呼ばれている。しかし日本料理に使われることはほとんどないため、この時代に出回っているとは思わなかった。
「ぱくちー? そない呼び方もあるん?」
棒手振りが不思議そうに花を見る。
「みなさんは何て呼んでるんですか?」
「あてらは『コエンドロ』て呼んどります」
「へえ、そうなんですね。……それじゃあ、この『コエンドロ』もください」
パクチーを一束買うと、そのあとは牡蠣、しろ菜、卵、鮑などを買った。
「――よし、こんなものかな」
台所に買った食材を並べて一息つく。
義右衛門を納得させるには、やはり今まで食べたことがないような料理を出すのがいいだろう。ということで、今日は中華料理を作ることにした。
前菜
鮑の冷菜、しろ菜の中華風おひたし、薄切り豆腐の香味だれ
湯
卵と香菜のスープ
主菜
目一鯛の中華蒸し
主食
広東風海鮮炒飯
メニューを持ってきていたメモ帳に書き出して、段取りを考える。
「まずはオイスターソース作りからだな……」
広東料理に欠かせない調味料であるオイスターソースとは、その名の通りオイスター、つまりは牡蠣のソースのことだ。
市販のソースは基本的に牡蠣を茹でた際に出る煮汁を濃縮させるが、今回はフードプロセッサーを使って牡蠣を丸ごと使ったソースを作るつもりだ。手作りのオイスターソースは味が濃厚で風味もとてもいいので、きっと料理の味を引き立ててくれる。
「俺も何か手伝うで」
さっそく牡蠣を塩水で洗っていると、山崎が申し出てくれた。
「ありがとうございます。それじゃあ、そこの鍋とかお皿を洗ってもらえますか?」
半年前から使っていないというだけあって、台所のものはすっかり埃を被ってしまっていた。
「ん、分かった」
山崎が鍋とお皿を重ねて、流しへ移動する。
それからしばらくの間、二人は無言のまま作業に集中していた。しかし、花が牡蠣を洗い終わり、にんにくの皮を剥き始めたところで、山崎が「なあ」と声をかけてきた。
「昼間の話なんやけど……何で止めに入ろうとしたん?」
「へ? 昼間って……?」
何のことかすぐには思い当たらず、振り返って首を傾げる。
「お凛助けたとき」
山崎は花に背を向けたまま答えた。
「ああ、あのとき! そういえば、お礼言い損ねてましたね。代わりにお凛ちゃんのこと助けてくれて、ありがとうございました」
花が言うと、山崎は「そういう話しとるんとちゃうくて」と振り返る。
「刀差しとるて分かっとったんやろ? せやのに自分で何とかできるて思うたんか?」
「あ、あれは、その……そういうわけじゃないですけど、助けないとって思ったら、勝手に身体が動いて」
「――あほか。なんで自分やどうにもできひんのに、助けようっちゅう考えになんねん」
眉をひそめて山崎が吐き捨てる。珍しく苛立っているようだった。花はうろたえながらも言い返す。
「だ、だって、周りの人は誰も助けようとしないし、自分で止めに行く以外、方法ないじゃないですか」
「あるやろ! 俺のこと呼びにい――」
山崎が声を荒げる。しかし言い終える前に、何か思い出したように口をつぐんだ。
「悪い。……何でもない」
花から視線をそらすと、また背を向けて皿を洗いだす。花は戸惑いながらも前に向き直った。
……気まずい。
自分の行動が山崎を苛立たせてしまったらしいことは分かるが、一方的に話を畳まれてしまって、結局山崎が何を言いたかったのか分からなかった。
にんにくを切りながら、ちらりと山崎の様子をうかがう。先ほどまでは気にならなかった沈黙が、やけに気になって落ち着かない。
「お花はん! 蒸籠と、いる言うてた調味料持って来ました!」
そのとき、明るい声とともに市松が台所に入ってきた。思わずほっと息を吐く。棒手振りから食材を買ったあと、持って来てほしいと頼んでいたのだが、ちょうどいいタイミングで来てくれた。
「ありがとう、そこの台に置いておいて」
「はい! あと何か手伝うことあります?」
「うーん、それじゃあ鮑を塩で洗ってくれる?」
「任せてください!」
笑顔で答えると、市松はさっそく鮑を洗い始める。その間に花は、洗って水気を切った牡蠣と、にんにく、塩、醤油、酒、砂糖を鍋に入れた。
火をおこす頃には一つ鮑が洗い終わっていたので、次は殻から身を剥がそうと市松の隣にしゃがみ込んだ。そこでふと、台所の棚の一番下の段に、一冊の本が置かれているのに気づく。
「ねえ、市松くん。これ何?」
気になって本を見せてみると、市松は手を拭いて表紙を捲った。
「料理の作り方が書いてあります。御新造さんの覚書きみたいですね」
「へえ……」
くずし字で書かれているため、何と書いてあるのかよく分からないが、ページは文字でびっしり埋まっていて、一品ごとにかなり細かく書き込まれているようだった。
几帳面な人だったのだろうかと考えつつ、本を棚に戻す。
「皿洗い終わったけど、次することある?」
「あ、えっと……それじゃあ、鍋のあくを取るのと、しろ菜を洗うの、お願いします」
山崎に頼むと、花は今度こそ鮑の身を殻から剥いで、さばき始める。
そのあとは山崎に気まずさを感じながらも、三人で料理を作り、暮れ六つ半には全ての品を完成させることができた。
膳を持つと、さっそく凛と山崎と義右衛門のところへ向かう。
「――今夜の料理は私が作らせていただきました。これでどうか、お金を用立ててもらえませんか?」
膳を置いて、頭を下げる。義右衛門は花の言葉には答えないまま、箸を持ち、料理を口に運ぶ。
花はどきどきと鳴る胸を押さえて、義右衛門の様子をうかがった。
……きっと大丈夫だ。一緒に味見をしてくれた市松は「公方様が食べはるもんみたいや!」と大絶賛してくれたし、自分でもおいしく作れた自信がある。
花が最も得意としているのは日本料理だが、料理人として幅を広げたいと思い、中華を含めこれまでさまざまな料理を作ってきていた。桔梗のまかないで中華料理を作ったこともあったが、そのときは副料理長にも褒めてもらえた。――だから、きっと義右衛門も納得するはず。
全ての料理を一口ずつ食べ終えると、義右衛門は箸を置いた。
「……どうでしたか?」
なかなか口を開かない義右衛門に、焦れて尋ねる。
すると義右衛門は目を閉じて首を横に振った。
「あきまへん。……食えたもんやない」
――一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「そ、そんな……でも……」
「でも、何ですか?」
尋ねられて、言葉に詰まる。
「言うときますけど、わては金貸したないからて嘘言うたりしまへん。こん料理は正直に、まずい思いました」
はっきりとした口調で言うと、義右衛門は膳を花の方へ押し返す。
「もう食われへんさかい、下げてもろうてもええでっしゃろか」
*
「――すんまへん!」
義右衛門の部屋を出ると、凛が思い切ったように頭を下げてきた。
「実はお父はん、お母はんが死んでもうてから、あんまし食べへんようなっとったんです。せやから料理で納得させるんは難しいんちゃうかて思うとったんですけど、お花はん張り切ってはったさかい、言い出せんくて……」
「そう、だったんだ……」
凛の言葉に頷く。しかし、それなら仕方がないという気持ちにはなれなかった。
――どんな理由があろうと、義右衛門がまずいと思ったことに変わりはない。
花は今まで人に料理を作って、まずいと言われたことなどなかった。専門学校を卒業してすぐに京都一の老舗料亭で働き始めて、そこでも一年目にしては高く評価してもらっていて――しかし、現状に胡坐をかくことは決してしなかった。料理を作ることに全力をそそいで、誰よりも努力してきたという自負があった。
「お花はん……」
「――ごめんね、なんか暗くさせて! 大丈夫、全然気にしてないから!」
心配そうにする凛に、慌てて笑顔をつくってみせる。
「私、このお膳片付けてくるから、二人は先に食べてて」
そう言うなり、逃げ出すようにその場をあとにした。
台所に着くと、流しの前に膳を置いてしゃがみ込む。
義右衛門に言われた言葉が、こびり付いたみたいに頭から離れない。
料理の腕を磨いてきたのは、ただ自分がそうしたかったからだ。おいしいものを作れたら嬉しかったし、自然と「次はもっとおいしいものを作りたい」と思った。決して、誰かに褒められたくてやってきたわけではない。
それでも、自分が必死で打ちこんできたものを否定されるのは、たまらなく悔しく、悲しくて、まるでごみ溜めにつま先で蹴落とされるような気持ちがした。
小皿を手に取ると、流しに投げつけようと腕を振り上げる。その手を誰かが掴んだ。
「――何してんねん」
振り返った先にいたのは山崎だった。走ってきたのか、ほんの少し息が上がっている。
「離してください」
掴まれた腕を強く引く。すると山崎は花の手から小皿を奪った。
「返して!」
「捨てへんて約束するんやったらな」
「なんで……山崎さんには関係ないじゃないですか! ほっといてください!」
怒鳴りながら、そんな自分がひどく情けなく、惨めに思えた。子どもみたいに八つ当たりなんかして、本当に救いようがない。
唇を噛んでうつむくと、コトリと小皿を置く音が聞こえた。
さすがに山崎も呆れてしまっただろう。きっともう自分には構わないはずだ。――仕方がない、自業自得だ。
そう思う反面、胸は刺すように痛んで、涙が出そうになる。
「……神崎」
山崎は立ち去ることなく、花の前にしゃがみ込んだ。
「お前はよう頑張っとるよ。水汲みも竈の火の調節も慣れへんで、やけどしたり手にまめ作ったりして、それでも泣き言一つ言わんと、毎日一所懸命うまい料理作ろうとしとって」
両手で花の手を取って、ゆっくりと広げる。
「俺はお前が努力しとるん、見とった。……ちゃんと、分かっとるさかい」
言い聞かせるような山崎の声は、優しかった。さっきとは違う意味で泣きそうになって、必死でこらえる。
「でも……頑張ったって、駄目だったじゃないですか」
「一回あかん言われたくらいで、なに弱気なっとんねん。お前はあの鬼の副長黙らせたんやで?」
山崎の手が、少し乱暴に花の頭を撫でた。
「お前の腕は確かや。自分で自分のこと信じられへんねやったら、俺の言葉信じ」
「――でも、義右衛門さんはまずいって」
「神崎。さっき作ったもんが、お前の全てなんか?」
尋ねられて、考えてみる。
「……違います」
義右衛門に見せたのは、料理人としての自分の、ほんの一部分だけだ。決して、あれだけが全てなわけではない。
「俺は料理人とちゃうさかい、あんまし知った風な口ききたないけど、人には味の好みがあるやろ? さっきのはたまたまあん人の口に合わんかっただけなんちゃうか?」
そう言うと、山崎は花の頭から手を離した。
「大丈夫や、神崎。自信持ち」
ためらいがちに顔を上げると、山崎が微笑む。花は少し間を置いて、小さく頷いた。
**********
夕餉を食べ終わったあと、山崎は文机に向かって土方への報告書をまとめていた。
花が義右衛門に出した料理について書いて、ふと手を止める。
――料理をつき返されたとき、花が傷ついたのは分かっていた。だが明日にでもなれば、きっと気持ちも落ち着いているだろうと、山崎は放っておくつもりでいた。
それなのに、どうしてか胸が落ち着かなくて、気がつくと花のもとへ走っていたのだ。
柄にもなく、必死になって励ましたりして――本当に、何をしているのだろう。
夕餉を作っていたときもそうだ。本当はあんな風に、苛立ちをぶつけるつもりなんてなかった。
別に花が自ら危険に飛び込んで怪我をしようと、自分の知ったことではない。ただ花にとって心地のいい言葉を並べて、懐に入れさえすればそれでいいはずだった。
筆を置いて、花に言いかけた言葉を思い出す。
騙している分際で、自分に助けを求めるよう言うなんて、どうかしている。
……いや、違う。どうかしていると思うことの方がおかしいのだ。
山崎は顔を覆ってため息をついた。
こんな風に感情的になって、自分で自分の行動を制御できないことなど今までなかった。
できることならもう、花とはあまり関わりたくない。――監察として花の監視を任されている以上、そんなことはできないと分かっているが。
「ほんま、どないしてもうたんやろ……」
最初はただの珍妙な料理人だと思っていた。素直で騙しやすい人間だとも。
まさか自分は、ほだされてしまったのだろうか。
考えて、首を横に振る。
それはない。……そんなことは、あり得ない。
頭の中に浮かんだ考えを打ち消すように、山崎は筆を取って報告書の続きを書くのに集中した。
**********
夜、風呂から上がって部屋に戻った花の手には、一冊の本があった。凛の母親の料理本だ。
台所で山崎と話したあと、ずっと考えていたことがある。
花は料理を作るとき、いつも『自分がおいしいと思えるもの』を目指してきた。しかし本当は、『食べる人がおいしいと思えるもの』を目指すべきだったのだと思う。
山崎に、人には味の好みがあると言われて、ようやくそんな当たり前のことに気づいた。
本を胸に抱くと、山崎と自分の部屋を仕切る襖へ向かう。
もしも自分の考えが当たっていたら、もしかすると、今度こそ義右衛門を納得させられるかもしれない。
「山崎さん、ちょっといいですか?」
声をかけると、少しして「ええけど」と返事が返ってくる。花は部屋に入って、文机に向かっていた山崎の隣に正座した。
「……何?」
ややたじろいだ様子で、山崎が聞く。
「この本読んでください! お願いします!」
そう言うと、花は本を差し出して頭を下げた。すると頭上から、深いため息が降ってくる。
「……駄目ですか?」
「いや、そういうことやなくて……まあええわ」
もう一つため息をついて、山崎は花から本を受け取る。
「お前、読み書きできひんの?」
「いえ、その……楷書ならできるんですけど」
花が答えると、この時代の人にとってよほどおかしな答えだったのか、山崎はまるで人語を喋る犬でも見たような顔をした。
「……よう分からんけど、楷書はほぼ使うことないさかい、勉強し直した方がええ思うで」
助言して、ついでのように「あと」と口にする。
「どっかから奥ゆかしさとかも、学んできた方がええ」
花は何の話か分からなかったが、とにかく早く本の中身が知りたかったので、素直に「分かりました」と頷いておいた。




