三
「神崎、足怪我しとるんやろ。手当てしたるさかい、草鞋脱ぎ」
休もうと地面に座るなり、山崎が花の前へたらいを置いて言った。その言葉に驚いて顔を上げる。
「気づいてたんですか?」
「そら、歩き方おかしかったさかい」
先ほどの男たちの竹光といい、山崎は何でもお見通しのようだ。花は誤魔化すのを諦めて、素直に「ありがとうございます」と頭を下げた。
「……礼は言わん方がええかもな」
荷物の中からさらしを取り出しつつ、山崎が言う。
「どういう意味ですか?」
尋ねるが、山崎は意味深な笑みを浮かべるだけで教えてくれなかった。
花は内心首を傾げながらも、草鞋と足袋を脱ぐ。足袋の下は、予想していた通り血だらけだった。
「ほな足洗うたるさかい、貸し」
「えっ!? い、いいですよ! 汚いですし、自分でやります」
手を差し出してきた山崎に、慌てて首を横に振る。
「自分やと綺麗に洗われへん思うで。ええから任しとき」
手を引っ込めることなく山崎が言う。
そういえば山崎は、中暑騒動のとき医学の心得がある風だった。ここは大人しく従った方がいいかもしれない。
「……分かりました」
袴の裾を上げて、そろそろと足を出す。治療のためだと分かってはいるが、素足に触られるのはどうにも恥ずかしい。
山崎は両手で花の足を持ち、傷口を避けてそっと砂を払った。その手つきの優しさに、思わず胸が鳴る。
「騒いでもええけど、あんまし暴れんようにな」
不意に山崎が言って、微笑んだ。
「へ? それって――」
どういう意味かと聞こうとしたそのとき、山崎が花の足を水を張ったたらいに浸けた。次の瞬間、足に剣山でも刺したかのような激痛が走る。
「い……っ!? ま、待ってください! 痛い痛い!」
「もうちょっと我慢し。砂入りこんでもうとるさかい」
言いながら山崎は、手拭いで傷口を拭う。花は悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえた。
――たとえ珍妙と言われても、スニーカーを履いてくればよかった。
今さら遅いが、後悔が胸に込み上げてくる。
「大丈夫ですか? えらい歩かはったんですね」
傍に座っていた凛が、心配そうに尋ねてきた。
「いや、京の壬生村からやから、そない距離は歩いてへんよ」
「え、そうなんですか……?」
凛は信じられないとでも言いたげな顔で、山崎と花の足とを見比べる。
花としてはかなりの距離を歩いたつもりだったが、二人にとって――というより、恐らくこの時代の人にとっては、大したことのない距離であるようだ。
「あの……頑張ってください。船着き場には、あと半刻くらいで着きますから」
一回りは年下であろう子どもに励まされてしまう自分が情けない。花は泣きたいような気持ちでお礼を言った。
山崎に足の手当てをしてもらったあとは、少し休憩をして、再び伏見街道を歩き出した。相変わらず足は痛かったが、山崎の手当てと休憩のおかげで、いくらかましになったように思う。
歯を食いしばって歩くこと、約一時間。花たちは、ようやく伏見に着いた。
「うわあ、すごい人……!」
人で溢れた活気のある町並みに、思わず声を上げる。
「伏見港は京大坂間における水上交通の要衝やからな。三十石船も、多いときは三百以上便があるらしいで」
前を歩いていた山崎が、ちらりと振り返って言う。あちこちから宿の客引きや、物を売り歩く声が聞こえてきて、祭りのような賑わいだ。花は足の痛みも忘れて、興味津々に辺りを見回した。
「もうすぐ船着き場やけど、ひとまずそこでお凛の連れ捜そか」
「そうですね。凛ちゃん、連れの人ってどんな人なの?」
笑顔で隣を歩く凛に尋ねる。
「えっと、歳は十七で、お花はんよりちょっと背が低うて――」
「お嬢様!」
言いかけた凛の言葉を遮るように、声が聞こえた。目を向けると、十七、八くらいの小麦色の肌をした少女が、こちらに向かって駆けてくるところだった。その顔を目にしたとたん、凛の表情が明るくなる。
「お鶴、よかった。先に着いとったんやな」
「すんまへん、お嬢様。ぼうっとしとったら、見失ってもうて」
「ええよ。お鶴のうっかりは、いつものことやし」
くすりと凛が笑う。
「ところでお嬢様、こちらの方々は……?」
「お花はんと山崎はん。うちが絡まれとったとこ助けてくれて、お鶴のことも一緒に捜してくれはってん」
凛の紹介をうけて、花は鶴に向き直ると笑みを浮かべた。
「神崎花です。半月前から壬生浪士組で料理人をしていて――」
「浪士組?」
はっとしたように鶴が聞き返す。その声はどこか険を帯びているようで、花は困惑した。
「どうかしましたか?」
「……いえ。すんまへん、何も」
気まずそうに視線をそらして鶴が答える。とても何もない様子には見えない。
「俺は山崎烝。こいつと同じで浪士組におるんや」
山崎は鶴の態度には触れず、微笑んだ。
「……お嬢様を助けてくれはって、ありがとうございます」
花と山崎に向かって、鶴が深々と頭を下げる。その横で、凛が何か思いついたように「せや」と声を上げた。
「お花はんと山崎はんも、大坂に行かはるんですよね? お礼さしてもらいたいさかい、よかったらうっとこの家に寄ってかはりません?」
「気持ちだけで十分やで。俺ら大坂着いたら、上岡屋いう呉服屋に行かなあかんさかい」
山崎が言うと、凛はきょとんとした顔をする。
「上岡屋? 堀江の葦屋町にある?」
「知っとるんか?」
「はい……。知っとるも何も、そん店はうっとこの店です」
*
三十石船に乗って揺られること、約三刻。花たちは昼七つの鐘が鳴る頃に、大坂に着いた。
一昨日土方が言っていた、大坂での捕り物には結局、芹沢、近藤、山南、沖田、井上、平山、野口、永倉、島田、斎藤の計十人が向かったようだったが、山崎は船着き場近くの茶屋で、そのうちの一人、山南と待ち合わせをしているという。しかし寄ってみたものの、姿がない。仕方なく、店の主人に山南が来たら先に上岡屋へ行っていると伝えるよう頼んで、店をあとにした。
「――それにしても、まさかこの旅がお金を借りにいく旅だったなんて」
人ごみの中を歩きながら、ため息をつく。船に乗っている間、山崎に話を聞いたのだが、土方の言っていた『息抜きついでに大坂で料理を作ってくる』とは大分違っていた。
花も決してその言葉を信じていたわけではなかったが、正直に話してくれたらよかったのにと思わなくはない。恐らく花に力を貸してくれと言うのは、プライドが許さなかったのだろうが。
「店着いたら、うちからも用立てたってくれて頼んでみますね。うちのこと助けてくれはった恩人さんやし、きっと貸してくれますよって、安心してください」
「うん……ありがとう」
張り切る凛に、微笑んでお礼を言う。しかし凛の隣で、鶴が終始硬い表情をしているのが、少し気にかかっていた。
上岡屋は大店だと山崎から聞いていたが、到着してみると確かにその言葉通りの店構えだった。二階建てで、店先ののれんなど軽く十メートルはあるだろうという長さだ。
「どうぞ、入ってください」
中へ入りながら、凛が振り返って手招きする。花は少し緊張してしまいながらも、店の中へ足を踏み入れた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
使用人だろうか、七、八歳くらいの少年が駆け寄ってきた。
「ただいま、市松。お父はんはおる?」
「はい。お部屋の方にいてはります」
「ほな、鶴。足洗うたらお客はん連れて行く言うとって。そんあとは休んでええさかい」
凛の言葉に鶴は「はい」と頷いて、草鞋を脱ぐと店の奥へと消えていった。
「市松は他の手空いとる人らと水持ってきて」
「分かりました!」
元気よく返事をして、市松と呼ばれた少年が去っていく。花は山崎と凛と三人で、土間に腰掛けて草鞋と足袋を脱ぎ始めた。しばらくすると、市松と他の使用人らしき人たちが、水を張ったたらいを持って現れる。
「あ……お花はんは洗うんやめとかはります?」
顔を引きつらせて目の前に置かれたたらいを見つめる花に、凛が気遣わしげに尋ねる。花は慌てて首を横に振った。
「う、ううん! 大丈夫!」
年上として、これ以上凛に情けない姿は見せられない。それに、傷口を汚れたままにしていたら、膿んで治りが遅くなる可能性がある。
「さらし巻いとったさかい、砂とかは入ってへんみたいやな。今回は軽く汗流すくらいでええで」
幸い山崎がそう言ってくれたので、花はたらいに足を浸けて軽く揺らすようにして洗った。――それでも、握り締めた両手に爪の跡が残るくらいには痛かったが。
そのあとは凛が用意してくれた薬を塗って、上からさらしを巻いた。
「ほんなら行きまひょか」
凛の案内で、さっそく上岡屋の主人、義右衛門の部屋へ向かう。その途中で、障子の開いた部屋の前を通りかかった。
「――あ、眼鏡?」
洋風のテーブルの上にぽつんと置かれているものを見て、思わず呟く。耳に掛ける部分が違うものの、現代の眼鏡と見た目に大きな差はない。
「ようご存知ですね。あれはお父はんが長崎へ行ったとき、お母はんにて土産に買うた舶来品なんです」
「それじゃあ、ここはお母さんの部屋なの? ごめんね、覗いちゃって」
「いえ、大丈夫です。……お母はんは、半年前に病気して死んでもうたさかい」
そう言うと、凛は障子に手を掛けて部屋の中をぐるりと見回した。
「変なもんでいっぱいですやろ。お母はん、珍しいもんが好きやったさかい、お父はんがいろいろ集めて贈っとって」
「そっか……ご両親、仲が良かったんだね」
花の言葉に凛は「どうやろ」と苦笑する。
「お母はん、生まれも大坂やったんですけど、京に子どもん頃からの許婚がおったらしいんです。せやけどお父はんがお母はんに一目ぼれして、金にもの言わせて無理やり嫁にもろたらしくて。せやからか、あんまし二人で話したりすることもなくって……」
凛の表情がみるみるうちに萎んでいく。
何と声をかけるべきか迷っていると、こちらに向かって駆けてくる足音が聞こえてきた。
「あっ、すんまへん! 雑巾洗いに行っとったんやけど、障子閉めるん忘れてました」
廊下の角から現れたのは、市松だった。花たちに気づくなり、しまったという顔をして頭を下げる。
「ええよ。いっつもお母はんの部屋、綺麗にしてくれておおきにな。……せやけど、廊下は走ったらあかんで」
市松を軽く窘めて、凛は花と山崎を振り向く。
「ほな、お父はん待っとるやろうし、行きまひょ」
「……うん」
再び歩き出した凛のあとに続く。義右衛門の部屋には、それからほどなくして着いた。
「お父はん、凛です。入ってええですか?」
凛が声をかけると、一拍置いて中から「ああ」と返事が返ってきた。
「お花はん、山崎はん、どうぞ」
障子を開けて、先に中に入るよう促される。花は山崎のあとから部屋の中に入った。
凛の父親、義右衛門は四十歳前後の気難しそうな男だった。しかし呉服屋というだけあって、着ているものは派手ではないもののセンスがいい。
「どうぞ、こちらに座らはってください」
義右衛門は花たちを見てもにこりともせず、目の前の畳を示した。なんとなく歓迎されていない空気を感じ取り、軽く会釈だけして山崎の隣に座る。
「――まず、うっとこの娘を助けてくれたことに礼を言います。おおきにありがとうございました」
凛と山崎から話を聞き終えると、義右衛門は両手をついて深く頭を下げてきた。
「ほんならお父はん――」
「ただ、申し訳ないけど金は貸されしまへん」
義右衛門の言葉に、凛は驚いたように身を乗り出す。
「なんでなん、お父はん?」
「お前は黙っとき、凛」
ぴしゃりと言って、義右衛門は改めて花と山崎の顔を見た。
「娘を助けてもろたことには感謝しとりますさかい、もちろん礼はさしてもらいます。せやけどそれは、あんたはんらお二人に対してや。浪士組に金を貸す道理はありまへん」
凛を助けたことを笠に着たくはないので、正面切っては言えないが……それは詭弁ではないだろうか。
「ほんなら、浪士組に貸す金を渡してもろうたら俺らが助かる、言うたらどうですか?」
――と思っていたら、山崎も詭弁で返した。しかし義右衛門は「あきまへん」と跳ねのける。
「もし、この件が原因で浪士組辞めさせられて金に困ったら、用立ててもかましまへんけど」
これはどうあっても首を縦に振る気がないようだ。
「それなら、他のお金を借りた人たちのように、義右衛門さんを満足させられるものを用意できれば、貸してもらえますか?」
挑むように花が言う。義右衛門はじっと花の顔を見て、やがて頷いた。
「せやったら、ええですやろ」
「本当ですか……!」
「はい。ほんでよかったら、今日はうっとこに泊まってかはってください。できる限りもてなさしてもらいますさかい」
その言葉に、山崎は宿をとるからと断ろうとした。しかしお礼をしたいという気持ちは本当なのか、なかば強引に押し切られ、結局今夜は上岡屋に泊まらせてもらうことになった。
「ちょっと助けたくらいやのに、悪いな」
部屋へと案内してもらいながら、山崎が苦笑する。凛はとんでもない、という風に首を横に振った。
「こちらこそ、お父はんがすんまへん。部屋だけはぎょうさんあるさかい、気にせんとゆっくりしてかはってください」
凛の言った通り、屋敷は広く、部屋の数は無限にあるかのようだった。迷子になってしまわないだろうかと、少し心配しながら廊下を歩く。
「こん部屋はどうですやろか?」
そう言って通されたのは、手入れの行き届いた綺麗な庭に面した二部屋だった。花と山崎はそれぞれ一部屋ずつ借りることにして中に入る。
「ところで、お父はんを納得させるもんて、何を出すつもりなんですか?」
荷物を下ろしていると、凛が部屋の中に入ってきて尋ねた。
「料理を作るつもりだよ」
「料理……ですか?」
花の返事を聞いたとたん、凛の表情が不安げに曇る。花は握りこぶしをつくって笑ってみせた。
「大丈夫だよ。絶対あっと言わせてみせるから!」
「……はい。せやったら、台所に案内しますね」
「うん。夜ご飯を用意したいから、さっそく頼んでいいかな?」
料理道具をまとめて立ち上がる。隣の部屋で山崎も荷解きを終えたようで、一緒に台所へ向かうことになった。
凛に聞いたところ、上岡屋には住み込みで働く丁稚や手代が二十人近くいるらしい。自分が台所を使ったあとから料理を作れば、食べるのが遅くなってしまうだろうと心配し、花は彼らの分も作ると申し出たが、上岡屋には台所が二つあるそうで作らなくても問題ないと言われた。
「お母はんは毎日、お父はんのとうちのと三人分、そん台所で別にご飯作ってくれとったんです。お母はんが死んでもうてからは誰も使うてないさかい、いろいろ足りひんもんある思いますけど、そんときは市松に言うてください」
話をしているうちに、台所に着いた。ざっと見たところ、規模も設備も前川邸のものとそう変わらないようだ。戸を開けて出るとすぐに井戸があり、水汲みも楽にできそうだった。
「食材はもうちょっとしたら棒手振りが売りに来る思います。金はこれ使うてください」
そう言って凛に手渡された金は、三十人近くいる隊士たちの一食にかかる金より多かった。
「こんなにいいの?」
「はい。いつもの分にちょっとお気持ち付けたくらいやさかい、気にせんとってください」
にこりと凛が笑う。さすが店が繁盛しているだけある。
呉服屋とは普通小売のみで、織屋から呉服仲介と問屋を通して織物を仕入れるのだが、上岡屋では店で織った織物を売っているらしい。そのため仲介を挟んでいない分、安く売ることができ、商売に成功できたそうだ。
「にしても、最近は生糸の価格が高騰しとるのに、羽振りがええんやな」
山崎が不思議そうに尋ねる。
「生糸の値が上がっとるんは、京の大和屋いう生糸商が買い占めとるからなんです。せやけどうちは、昔から贔屓にしとる仕入れ先があって、そこが大和屋に売らんとうちに流してくれとるさかい、影響受けてへんのです」
「せやったんか……。確か大和屋の主人は、尊攘派で有名やったな」
凛は山崎の言葉に、ふんとそっぽを向いた。
「尊王攘夷やなんて、どうせ口だけです。大和屋の主人は庄兵衛いうて、何回か会うたことあるんですけど、うちはあん人大っ嫌いです。自分のもうけが一番やて、平気で人のことも騙すし。商人はそういうもんや言う人もいてはりますけど、うっとこの店は少なくとも、生糸の買い占めやなんて汚い真似絶対しまへん」
どうやら大和屋庄兵衛のことは、相当嫌っている様子だ。人当たりのいい凛がここまで言うとは、一体どんな男なのだろうかと少し気になってくる。
「ほな、料理作るんに邪魔やろうし、うちはそろそろおいとまします。何かあったらいつでも呼んでください」
「うん、分かった。何から何までありがとね」
「いえ……むしろうちのお父はんのせいで、ゆっくり休まれへんようなって、ほんまにすんまへん。あとで、もっかい用立てたってくれて頼んでみます。聞いてくれるか自信はないけど……」
視線を落として、うつむきがちに凛が言う。
「ありがとう、凛ちゃん。でも、予定通り料理を作って頼むから大丈夫だよ」
安心させるように笑みを浮かべる。しかし、凛の表情が晴れることはなかった。




