二
「ったく、神崎が監察も知らねえ馬鹿で助かったが……総司の野郎、あの調子で余計なことペラペラ喋ってんじゃねえだろうな」
二人が部屋からいなくなると、土方が額を押さえて深いため息を吐く。
「……神崎の調査は、前回の報告から何か進展あったか?」
尋ねられ、山崎は「いえ」と目を伏せた。
花がここで暮らすようになってから約半月。その間山崎は、花が働いていたという店『桔梗』や花自身について調べていたが、今のところ何の情報も得られていなかった。
京に桔梗という名の料理屋はない。そして、山崎が屯所で初めて会ったとき以前に、花の姿を見かけた者も今のところ見つかっていない。あれほど目立つ格好をしていたにも関わらず、だ。
そうなると、花が意図的に人目につかないよう隠れていたと考えるのが自然だろうが、山崎にはそうも思えなかった。それは、屯所で出会ってからの花の行動があまりにも派手で、かつそれを彼女が自覚しているようには見えなかったからだ。
土方は間者を疑っているようだが、それなら初めから怪しまれるような行動はせず、もっと自然に近づいたのではないだろうか。……それとも、そう思わせることが狙いなのか。
「ひとまず今は、神崎自身から情報を引き出す方向で動いてます」
「ああ、それでいい。……そっちの方は順調みたいだしな」
花の置いていった湯呑みを一瞥して土方が言う。山崎は思わず苦笑いした。
花は自分が探られているとは露ほども思っていないようで、すっかり山崎に心を許していた。――騙されていたと知れば、彼女は一体どんな顔をするだろうか。
「それで、話を戻すが……大坂での資金調達の件はどうなった?」
土方の問いに、考えていたことを頭の隅に追いやる。
しばらくの間京を離れていた山崎は、大坂の不逞浪士の調査と並行して、資金調達のできそうな商家探しをしていた。というのも、来月あたり屯所に道場を造ろうという話になっていたからだ。
「大坂も京とそない変わりません。近頃生糸の値が上がっとる影響で、どこも景気が悪いです。唯一、堀江の葦屋町にある上岡屋いう呉服屋は、羽振りがようて相当持っとる様子でしたけど……」
言い淀んだ山崎に、土方は眉を寄せる。
「何だ?」
「上岡屋の主人はかなり気難しいたちで、ただでは人に金を貸さんらしいです。今まで金を借りられた者は、主人が収集しとるっちゅう舶来品を手土産にしとったて聞きました」
「舶来品か……」
呟くように土方が言う。そこへどこからか、沖田と花の言い争う声が聞こえてきた。
土方は不意ににやりと笑って、
「それなら丁度いいのがうちにいるじゃねえか」
と山崎を見た。思わず頬を引きつらせる。
「副長、まさか……」
「使える駒は使わねえとな。ということで、山崎。神崎を連れて大坂へ行け。その主人にあいつの飯を食わせてみよう」
「せやけど、そん間の賄いは……」
「んなもん、下っ端の隊士にでもやらせとけばいいだろ」
苦し紛れに口にした反論は、軽く一蹴されてしまう。
俺、さっき大坂から帰ってきたばっかりやねんけどな……。
「まあ、すぐに行けとは言わねえよ。出立は明後日の朝でいい」
内心ため息をついていると、そんな山崎の心を読んだかのように土方が言う。
「俺は用があるから行けねえが、お前らが上岡屋に伺うときには、大坂行きの誰かが一人付くようにする。その頃には捕り物も終わってるだろうしな」
「……分かりました」
「あと、大坂行きの件は俺から神崎に伝えておく。お前はさっき話した菱屋の調査について、佐々木に話しておけ」
「佐々木にですか?」
「ああ、報告してきたのはあいつだからな。今朝菱屋の妾が訪ねてきて、応対していたときに神崎と気づいたらしい」
「そうでしたか」
ほんなら神崎への口止めもしとかなあかんな。
梅という妾への暴行の調査は、本来であれば御役所の領分だ。それを出しゃばって調査したうえ、町年寄に嫌疑をかけていると気づかれれば、面倒なことになりかねない。こちらの動きは悟られないよう、慎重に調査を進める必要があった。
「佐々木は調査するなら加わりたいと言っていた。監察方も手一杯だろうし、手伝わせろ」
土方はそう言うと、話を畳んで山崎に退室を促した。部屋を出てしばらく歩くと庭に面した廊下に出る。降り注ぐ光の眩しさに、山崎は目を細めた。水無月に入って、一層日差しが強くなった気がする。
額に浮かんだ汗を拭ったところで、ふと喉の渇きを覚えた。足を止めて、部屋から持って出た花の淹れたお茶を一口飲む。少し冷めてぬるくなっていたが、暑いのでむしろ丁度いい。湯呑みを傾けて一気に喉へ流し込みながら、山崎は花と井戸で会ったときのことを思い出した。
ああ――そうか。あんとき神崎がため息ついとったんは、梅のこと知ったからやったんか。
気づくと同時に、苦いものが込み上げてくる。……他人のこと心配しとる場合か。
もしも花が浪士組に害なす存在だと判断すれば、土方は躊躇なく彼女を始末するだろう。
「……まあ、俺には関係ないことやけど」
小さく呟いて、雲一つない青空を見上げる。静かな廊下に、蝉の鳴く声がやたらと響いて聞こえた。
**********
昼食の片づけが終わった昼下がり、花は土方に呼び出された。朝の件の説教だろうかと、憂鬱な気持ちで土方の部屋へ向かう。
「失礼します。お呼びだって聞いたんですけど……」
障子が開けっ放しだったため、声をかけて中に入った。土方は文机に向かって何か書きものをしていたようだったが、花の声を聞くと筆を置いて振り返った。
「お、来たか。わざわざ呼び立てて悪かったな」
にこやかな笑顔で迎えた土方に、思わず警戒して後ずさる。
「ど、どうしたんですか? 謝るなんて、土方さんらしくない……」
言ったあとで失言に気づいたが、土方はさして気にした様子もなく顎で自分の前を示した。
「まあとりあえず座れ」
……明らかに様子がおかしい。そう思いつつもおそるおそる土方の前に正座する。
「今日の昼餉だが……あの魚料理は何て名前なんだ?」
何を言われるのかと身構えていると、拍子抜けするほど他愛ない問いを投げかけらた。
「鰯のマリネですけど……」
肩透かしを食らった気分で答える。
「まりね……? 聞いたことねえな」
訝しそうに言った土方に、内心ぎくりとした。マリネはフランス料理だが、この時代の日本は鎖国しているので、そんなものを知っていると不審がられてしまうだろう。
「ええっと、そうですね……珍しい料理なので、普通の人には馴染みがないかもしれないですね」
適当に誤魔化して言うと、土方は「なるほど」と笑みを浮かべた。
何か変なことを言っただろうか。いつになく上機嫌な様子の土方が、逆に恐ろしい。
「ところで神崎。お前、大坂へ行ったことはあるか?」
昼食の話とは何の脈絡もない問いに、ますます困惑して眉をひそめる。
「小さい頃に何度か行ったことがありますけど……?」
「そうか。いいところだよな。賑やかで、活気があって」
「まあ……そうですね」
「行きたいよな、大坂」
「はあ…………って、はい!?」
つい頷きかけたところで、弾かれたように顔を上げる。
「そんなに行きたいのなら仕方がない。この半月、給金も無しによく働いてもらったしな。息抜きしてこい」
「いや、私行きたいなんて一言も――」
「あ? ただで行かせてもらうのは悪いって? 気にするな、気にするな」
反論しようとした言葉をかき消して、土方が笑う。どうやら花が大坂へ行くのは、すでに土方にとって決定事項であるようだ。
大坂行きをなかば諦めつつも、花は土方に身を乗り出した。
「あの! 一つだけ質問してもいいですか?」
「なんだ?」
「朝、悪い人たちを捕まえに大坂へ行くみたいな話してましたけど……それに私が付いて行くってことなんですか?」
土方であれば、花を囮として利用するくらいのことは平気でしそうだ。自分の想像に、花は身を震わせた。
「いや、お前の大坂行きは山崎に同行してもらう。出立は二日後の朝で、着く頃には捕りものも終わってるだろう」
「……へ?」
それなら自分は一体何をしに大坂へ行くのだろう。まさか土方に限って、本当に花に息抜きをさせるためという訳もあるまい。
「――ああ、そうだ。大坂へ行くついでにある店で料理をしてもらうから、必要なもんは持っていけよ」
わざとらしく、今思い出したかのように土方が言う。……どう考えてもそちらの方がメインだろう。
よく分からないが、どうやら自分は誰かに料理を振る舞いに大坂へ連れていかれるようだ。花は小さくため息をついた。
まあ、危険な目に遭うわけじゃないならいいか。
ずっと屯所に籠もりきりだったし、気分転換になるかもしれない。
「分かりました」
「大坂っつったら流通の拠点で、珍しい物も多いからな。お前、珍妙な格好してたし好きそうだよな」
小馬鹿にしたように話す土方を睨みつつ「そうですね」と相槌を打つ。
――でも、そっか。この時代の大坂って天下の台所とか呼ばれてたんだよね。
ふと考えた花は、ぱっと顔を輝かせた。もしかすると、大坂へ行けばこの時代にはまだ普及していない食材もあるかもしれない。
「土方さん! 私、大坂へ行くの、すっごく楽しみになりました!」
「……はあ?」
急に上機嫌になった花を、土方は不審そうに見る。しかし花はそんな土方などお構いなしで、大坂への夢を膨らませていた。
*
それから二日後の早朝。待ち合わせ場所に指定された屯所の裏口へ行くと、山崎が塀に背を預けて立っていた。花は足取り軽く山崎の前まで歩いていく。
「おはようございます、山崎さん。お待たせしてすみませんでした。さ、行きましょう!」
笑顔で言うと、そのまま門の外へ出ようとする。しかしうしろから襟を掴まれ、やや強引に引き戻された。
「……ちょい待ち。なんやその格好は」
尋ねられ、自分の格好を改めて見下ろす。藤堂に譲ってもらった袴姿に、いつも履いている草履、そして手には早起きして作った弁当と調理道具を入れた風呂敷がある。
「何か変ですか?」
現代の服を着ているわけでもないのに。きょとんとして首を傾げると、山崎は額を押さえてため息をついた。
そのとき、山崎の肘から手の甲にかけてが、濃紺の布で覆われているのに気付いた。改めて山崎の出で立ちを見てみると、脇には笠を抱えているし、足元もいつもの草履ではなく足袋に草鞋を履いている。
「……分かった。とりあえず、神崎はそこの離れの縁側で待っとき」
悟りでも開いたような顔で言って、山崎は花に背を向けて母屋へと戻っていく。大人しく縁側に座って待っていると、数分ほどで山崎は戻ってきた。
「これが手甲、ほんで足袋と草鞋と笠。あとは羽織りもな」
「わわっ!」
次々と手渡され、腕から落としそうになった花は、それらを慌てて縁側に置いた。
「これ、全部私の分ですか?」
「せや。旅支度て言うたら、最低でもこれくらいは準備するもんやで」
「へえ……そうなんですね」
この時代では京から大坂へ行くくらいでこんな重装備をするのか。
山崎は花の隣に腰掛けて、そのままごろんと横になった。
「ほなさっさと支度しい」
「あ、はい!」
慌てて足袋を手に取って履く。しかし山崎が手甲と言った、腕に巻く布や草鞋はどう身に着ければいいのかさっぱり分からない。花は頭を捻りながら、着けては外しを繰り返していた。
「――ああもう、貸し! 俺がやるわ!」
不意に焦れたように起き上がると、山崎は花の手から手甲と草鞋を奪い取った。
「だ、大丈夫です! 自分でできます!」
面倒をかけたくない一心で主張するが、山崎はそれを無視して花の右腕を掴む。
「どこが大丈夫やねん。こないきつう縛って……血ぃ止まるで」
確かに少し腕が痺れるなと思っていた。返す言葉を失って、されるがままになる。
「はあ……もう、えらい固う結んだなあ……」
山崎は眉を寄せて、花の腕に巻かれた紐を解いていく。解き終えると、ものの数十秒で手甲を着け直した。
「次、左腕」
「はい……」
左腕を差し出すと、これまた素早く手甲を着けられる。最後に草鞋を履かせてもらいながら、花は思わずうなだれた。
山崎には出会ってからずっと、世話になりっぱなしだ。そのため今回の大坂行きでは、絶対に迷惑をかけるまいと内心意気込んでいたのだが、結局出発前からこの様だ。
「――ん、出来たで」
草鞋の紐を足首で結んで、山崎が立ち上がる。
「ありがとうございます……」
「ほな行こか」
歩き出した山崎の背中を荷物を持って追いかける。裏口から屯所を出ると、山崎がふと口を開いた。
「せやけどお前、大坂行ったことあるて土方副長から聞いてんけど。旅支度も知らんでよう行けたなあ」
「ああそれは、大坂へは電車――じゃなくて、乗り物に乗って行ったので。そんなに歩きませんでしたし」
そこまで言って、はたと考える。そういえば、ここから大坂へどうやって行くのだろう。
この時代、電車もなければ車もない。まさか全行程徒歩なのだろうかと、花は青ざめた。
「乗り物て駕籠か? お前ほんまにええとこの娘なんやなあ。せやけどそない金は無いさかい、今回は伏見までは歩いてもらうで」
「伏見までって、そこからはどうやって行くんですか?」
「三十石船が出とるさかい、それに乗るんや」
「あ、船に乗るんですね」
それならなんとかなりそうだ。山崎の言葉にほっと胸を撫で下ろす。
――しかし屯所を出て三時間ほど歩いたところで、花は自分の考えがいかに甘かったか理解した。
伏見までの街道は、特に峠があるわけでもなく比較的歩きやすいという。しかし現代人の花にとっては、草鞋も舗装されていない道も全く慣れないもの。その上、これほど長い距離を歩くこと自体、ずいぶんと久しぶりのことだった。
伏見なんてすぐ近くだとたかを括っていたが、それは現代の交通手段が発達していたから言えたことだ。すでに足は限界に近く、濃紺の足袋には目立たないが薄っすらと血まで滲んでしまっていた。
「……神崎?」
痛む足を庇って歩いていると、不意に山崎が振り返った。
「な、何ですか?」
「いや、さっきからちょっと遅れてくるさかい……疲れたんか?」
不思議そうに首を傾げる山崎に、慌てて首を横に振る。
「全然! 余裕です、余裕! むしろ山崎さんなんて置いて行っちゃいますよ!」
そう言って笑顔を見せると、花は内心足の痛みに悶えながらも山崎を追い抜こうとした。しかし、山崎は花の腕を掴んでそれを止める。
「待ち。ここらで一旦休憩にしよ」
「だ、大丈夫ですって」
「分かっとる。俺が休みたなっただけやから」
言いながら、山崎は被っていた笠を取って微笑んだ。
「悪いけど、付き合うてくれる?」
……その言い方は、ずるくないだろうか。
小さく頷くと、山崎は花を街道沿いの木の下へ座るよう促した。
「すぐ戻ってくるさかい、ちょっと待っとき」
言い残して、雑踏の中へ消えていく。一人残された花は、荷物を脇に置いて足を伸ばした。
「いった……」
足に食い込んでいた草鞋の紐を引っ張って緩めながら、顔をしかめる。きっと足は血だらけになっているだろう。本当は草鞋も足袋も脱いでしまいたいが、山崎がいつ戻ってくるか分からないので脱げない。
足の傷を見られれば、きっと気を遣わせてしまう。花はこれ以上山崎のお荷物にはなりたくなかった。
「――やめてください!」
不意にどこからか、子どもの高い声が響いた。反射的に周囲を見回すと、数メートル先に声の主らしき少女の姿がある。歳は十二、三だろうか。鮮やかな赤い色の着物を着た彼女は、目の前に立つ薄汚い身なりの男二人を睨むように見上げていた。
「大声出すなや嬢ちゃん」
「せや、俺らは迷子なんやったら、家まで連れてったるて言うとるだけやん」
男たちはにやにやと笑いながら、少女の肩へ手を伸ばす。少女はその手を叩くようにして払いのけた。
「結構です。うち、迷子やありまへんから」
「嘘言うなて。ほら、俺らに任せ」
「嫌です! 離して!」
男の一人に腕を掴まれた少女は、身をよじって叫んだ。周囲にいる人たちは、気にするように様子をうかがいつつも、誰も止めようとはしない。
花はとっさに腰を上げかけるが、うしろから誰かに肩を押さえて止められた。
「やめ」
振り返った先にいたのは、水を張ったたらいを持った山崎だった。
「でも!」
「ええから座っとき。――俺が行ってくる」
宥めるように言うと、山崎はたらいを置いて腰に差していた刀を外した。
「お前はこれ預かっといて」
差し出された刀に、戸惑って山崎を見上げる。
「あの人たち、刀差してますよ」
「大丈夫」
山崎はなかば押し付けるようにして花に刀を持たせた。わざわざ丸腰になって向かうなんて、何を考えているのだろう。
花は困惑して、男たちのもとへ歩いていく山崎を見た。
「そん手、離したってくれへん?」
山崎の声に、男たちが振り返る。
「何や、お前」
「そこの子、俺の連れやねん。な?」
山崎が少女に笑いかける。少女は束の間、迷うように山崎を見つめたのち、しっかりと頷いた。
「そういうことで、先急いどるさかい、早よ放したってほしいねんけど」
男たちに向き直って、山崎が言う。
「んな話、信じられるか」
「せや、どうせ適当言うとるだけやろ。斬られたなかったらさっさと消えや」
男たちが腰に差した刀に手を掛ける。しかし山崎は怯んだ様子もなく、むしろ笑みを浮かべてみせた。
「な、なんや?」
「……抜かへんの?」
「は……?」
「抜けへんもんな。――それ、竹光やろ」
山崎が言った瞬間、男たちに動揺が走った。
「な、何でそれを」
「そんくらい、見とったら分かるわ。大方、金に困って売ったんやろ」
山崎の言葉に、男たちは顔を赤くする。
「この……っ!」
拳を固く握り締めて、山崎に殴りかかる。山崎は素早くそれを避けると、彼らの背後に回った。二人が振り返る前に彼らの足を払い、うつぶせに倒す。
「てめえ……」
「――動くな。こいつの腕折るで」
男の肩を踏み、腕を掴んで押し曲げながら山崎が言う。腕はあり得ない方へと曲がっていき、みしりと音を立てた。
「う、ああああ! やめろ、やめてくれ!」
痛みと恐怖に顔を歪めて男が叫ぶ。それを見て、起き上がろうとしていたもう一人の男は動きを止めた。
「……ええ判断やな」
まるで子どもを褒めるような、優しい声で山崎が言う。しかし、その目はひどく冷たい。
「今からこいつの腕離したる。お前らは十数え終わる前に、こっから失せ」
「わ、分かった」
「ええか? もしまた手え出してきたら、今度はほんまに折るからな」
「分かった、もう何もせえへん! せやからはよ離してくれ!」
腕を掴まれている方の男が、たまらずといった風に声を上げる。もうすっかり戦意を失くしている様子だ。山崎はゆっくりと男の腕を離して足を退けた。
「大丈夫か? 行くで」
「ああ……」
男たちは振り返ることもなく、足早にその場を去っていく。二人の姿が見えなくなったところで、花ははっと我に返った。
「山崎さん、大丈夫でしたか」
刀を抱えたまま、山崎のもとへ駆け寄る。
「ああ。刀、おおきにな」
山崎は何事もなかったかのような顔で、花を振り向いた。刀を返しながら、さっき男たちの相手をしていた山崎の姿を思い出す。普段の山崎とは別人のようで――まるで、見てはいけないものを見てしまったような気がしていた。
腕を折られそうになった男の上げた悲鳴を思い出して、唇をきつく引き結ぶ。
少女を助けるためだと分かっていても、あのとき花は、一瞬山崎に恐怖を感じた。
「――あの」
不意に傍らから小さな声がする。顔を向けると、男たちに絡まれていた少女が、緊張した面持ちでこちらを見つめていた。
「大丈夫? さっきの人たちに、何か変なことされなかった?」
怖がらせてしまわないよう、少女の前にしゃがみ込み、目線を合わせて尋ねる。少女は僅かに表情を緩めて頷いた。それからおそるおそる、山崎を見上げる。
「どうも、おおきに。お陰様で助かりました」
「ええよ。それより、一人旅なん?」
「いえ。連れはおって、一緒に大坂帰るとこやったんですけど……一刻ほど前にはぐれてもうて」
「そっか……。それじゃあその人、一緒に捜そうか。さっきみたいに、悪い人に絡まれたら大変だし」
「……ええんですか?」
言いながら、少女がちらりと山崎を見る。
「構へんよ。せやけど、こっから大坂帰るとこやったんなら、十中八九船乗るつもりやったんやろ。はぐれたんは一刻も前やし、船着き場まで行って、連れが来るん待っとった方がええんとちゃう?」
山崎が言うと、少女は少し考えるような顔をして、頷いた。
「そうですね……。うちもそれがええと思います」
「ほんなら、俺らちょっと休んでから行くつもりやったさかい、それ付き合うてもろてから向かうんでええ?」
「はい。お世話になります」
少女が了承したので、三人で先ほどまで花が休んでいた場所へ戻る。その間に、お互い自己紹介をした。
少女は大坂にある商家の娘で、名前を凛というらしい。尾張国に住む父方の祖父母のもとへ遊びに行き、帰りに京へ寄ってから大坂へ戻る途中だったそうだ。
ちなみに尾張国がどこにあるのか分からず、こっそり山崎に聞いてみたところ、現代では名古屋のある場所にあった国のようだった。
「遠いさかい、初めて行ったんですけど、何や出てくる料理の味が懐かしいもんばっかりやって、初めてな気がしまへんでした」
「へえ……」
名古屋の味付けと大阪の味付けはかなり違うはずだが、凛の祖父母が気を遣って大阪風の食事を用意したのだろうか。凛の話を聞きながら、ぼんやりとそんなことを考えた。




