一
タイムスリップしてから半月ほどたったある日の朝、花は巡察に向かう隊士たちに水筒を配っていた。隊士たちが熱中症で倒れたあの日、巡察中は水を飲めないと原田が言っていたのを思い出し、最低でも半刻に一度水分補給するのを義務付けるよう山崎から土方に頼んでもらい、許可が下りたからだ。
竹でできた水筒の中には、スポーツドリンクが入っている。これさえ飲んでいれば、あの日のような騒ぎは起こらないだろう。
「喉が渇いてなくても、ちゃんと飲んでくださいね」
声をかけながら水筒を手渡していく。そのときどこからか「あっ」と声が上がった。顔を向けると、隊士らしき一人の青年が立ってこちらを見ている。
「神崎さん、お久しぶりです」
「えーっと、あなたは……?」
どこかで見たことがあるような気もするが……誰だっただろうか。首を傾げていると、青年は苦笑しつつ近づいてくる。
「相田龍之介といいます。中暑騒動のとき、少しお手伝いしたんですけど……覚えてないですか?」
「――あっ! 隊士の方を部屋まで運ぶとき、手伝ってくれた人ですね。すみません、顔覚えが悪くて」
「いえ、印象に残らない顔だとよく言われるので、気にしないでください」
人懐こそうに笑う相田に、つられたように花も笑顔を浮かべた。
「あのときはありがとうございました。相田さんもこれから巡察ですか?」
「はい。水筒一つ頂いていいですか?」
「もちろんです。今日も暑いですから気を付けてくださいね」
傍に置いていた水筒を一つ取って、相田に差し出す。しかし不意に背後から伸びてきた手が、素早くそれを奪い取った。
慌てて振り返ると、沖田がいてしげしげと水筒を眺めている。
「水筒……? 何でこんなもの配ってるんですか?」
「朝食のとき土方さんが説明したそうですけど、聞いてなかったんですか?」
思わずため息をついて沖田を見上げた。
土方の指示で、花は食事のときいつも台所で一人で食べている。そのため自身は聞いていなかったが、今朝土方から「説明はしたから水筒の準備をしとけ」と言われていた。
「朝餉のときなら聞いてないですね。私たちは昨日の夜から近藤先生のお供で出ていて、今帰ってきたばかりですから。ねえ、源さん」
沖田が言って、うしろを振り返る。そこでようやく、沖田の傍に三十半ばくらいの男が立っていたのに気づいた。
「あ、そうだ。この人が前に話した源さんですよ」
思い出したように言って、沖田が男を手で示す。
確か沖田たちの試衛館時代の仲間で、副長助勤をしている人だったか。
「はじめまして、神崎花といいます」
「はじめまして、井上源三郎だ。きみの話は総司からよく聞いているよ」
頭を下げた花に、井上はにこりと笑って言った。沖田の噂話とは、嫌な予感しかしない。
花は「悪口言いふらさないでくださいよ」と沖田を睨んだ。
「ははっ、悪い話ではないから大丈夫だよ。むしろ総司はきみのことを気に入ってるみたいだ」
「ちょ……源さん。何言ってるんですか」
珍しく動揺した様子で、沖田が井上を肘で突く。花はにわかには信じられず、疑いたっぷりに井上を見た。
「――あの、お話し中すみません。そろそろ出発なので、水筒を返していただきたいんですが……」
それまで黙っていた相田が、ふと沖田をうかがいながら切り出す。沖田は相田を一瞥すると、水筒の中身を一気飲みした。
「あーっ、何するんですか! 人数分しか用意してないのに!」
「知りませんよ、水でも飲ませておけばいいでしょう」
「ちょっと、何なんですかその態度。私と相田さんに謝ってください!」
「ぜーったい嫌です!」
そう言うなり、沖田は花に水筒を押し付けて去っていく。花は沖田を追いかけようとしたが、相田が「俺は水で大丈夫なので」と宥めるように言うので仕方なく諦めた。
「総司が迷惑をかけてすまないね」
相田が巡察に向かったあと、井上が苦笑して言った。
「いえ。……ただやっぱり、沖田さんが私を気に入ってるなんて、あり得ないと思います」
沖田のいなくなった方を睨みながら、井上に答える。あんな嫌がらせ、気に入っている人間にすることではないだろう。
「……きみは以前、総司の陰口を叩いた隊士に、嘘をつくなと言ったそうだね」
「へ? ああ、はい」
そういえば、そんなこともあった。佐々木とのやり取りを思い出しつつ頷く。
「自分ではあまり気づいていないようだが、相当嬉しかったみたいで、何度もその話をしていたよ」
「え……でもそれ、別に沖田さんのために言ったわけじゃないんですけど……」
本人にも言ったが、別に沖田を庇ってやろうという気持ちがあったわけではない。ただ単に、佐々木が気に食わなかっただけなのだ。
慌ててそれを説明すると、井上は「だからだよ」と微笑んだ。
「総司には剣の才があるが、そのせいで昔から人の注目を集めやすくてね。取り入ろうとしたり、妬んで目の敵にしたりする者も多かった。……だからこそ、何の打算も下心もなく、間違っていることは間違っていると言うきみのまっすぐさが嬉しかったんだろう」
「……そう、ですか」
なんとなく、居心地が悪くて視線をさまよわせる。
沖田の事情など少しも知らなかったし、あのとき自分は本当に、思っていたことが口から出てしまっただけだった。それなのに、さもいいことをしたように言われると、戸惑ってしまう。
井上は花を優しい目で見ながら、
「まあ私は、佐々木くんをはじめ、総司を妬む人の気持ちも分からないではないのだけどね」
と呟くように言った。
「井上さんが……?」
さっき沖田と一緒にいたときの様子からは、とても考えられない。
思わず首を傾げて見上げると、井上は苦笑して話し始めた。
「私は幼少の頃に天然理心流に入門し、二十歳で目録、三十二になってようやく免許を受けることができた。だが総司は、十九の頃にはすでに天然理心流と北辰一刀流の免許を受けて、塾頭にまでなっていたんだ。あの子はもちろん人並み以上の努力をしていたが、それでも努力さえすれば、みな総司のようになれるわけもない。私が何年もかけて習得した技を、総司は隣で軽々とこなしていくんだ。最初は差があった剣の腕も、じわじわと縮められて、気づけば追い越されていた。……あの気持ちは、悔しいなんて言葉で言い表せるようなものではなかったさ」
そう言うと、腰に差した刀に手を伸ばし、そっと柄を握り締める。
「剣を習うとき、初めは誰しも『もしかすると自分には特別な才能があるかもしれない』と夢見るものだ。物語に登場する英雄のように、その腕一つで周囲を圧倒できるような強い男になれるかもしれないと。……だが次第に、否が応にも己の器というものを知っていく。そんなとき、近くに本物の『特別な才能』があって、穏やかでいられる者などいはしない。必死でやってきた者ほど、激しく嫉妬し、打ちのめされる」
井上の声は、静かだった。そこには怒りも悲しみもなく、ただ遠い過去を懐かしむような優しさだけがある。
こんな風に話せるようになるまで、どれほど葛藤を重ねてきたのだろう。
「浪士組の話が出たとき、私は初め、行かないつもりだった。私は学もなければ、剣の腕も並以下だ。同心の子の三男に生まれて、そのままでは一生兄の厄介になりながら農業をするくらいの道しかなかったが、それが平凡以下な自分の、身の丈に合った生き方のような気がしたんだ。……だが、近藤さんに一緒に来てくれと頭を下げられてね」
刀から手を離し、井上が顔を上げる。
「こんな自分でも必要としてくれる人がいるのかと、胸が熱くなって――この人生、彼のために使いたいと、そう思ったんだ」
井上は微笑んで、遠くを見るように目を細めた。風が吹いて、彼の着ている浅葱の羽織りがはためく。
「……すまない、いつの間にか自分語りになっていたね。歳をとると話が長くなっていかんな」
気恥ずかしそうにする井上に、とっさに首を横に振る。
「いえ! その……お話聞けて、よかったです」
花の言葉に井上は、「そうか」と笑って屋敷の中へと戻っていった。水筒を運ぶのに使った行李を腕に抱えて、その背中を見送る。
今まで自分は、浪士組にいる人たちのことを知ろうとしてこなかった。知りたいと思ったことさえなかった。ここには一時的に身を寄せているだけで、いつかは現代に帰るつもりだったから。
今も、その気持ちは変わっていない。しかし、井上の話には心を動かされた。
台所へと戻りながら、数人の隊士たちとすれ違う。
この時代にタイムスリップしてから、今までずっと、どこか夢の中にいるような気分だった。しかし、ここにいる人たちは確かに血の通った人間なのだ。
花はそのことに、今初めて気づいたような気がした。
「わっ」
うつむいて歩いていると、土間の前で中から現れた人とぶつかった。
顔を上げた先には佐々木がいて、嫌そうに花を見ている。
「前見て歩けや」
そんなことを言う佐々木の手には開かれた和綴じの本があり、彼も前を見ず本を読みながら歩いていたことは一目瞭然だった。
一瞬、先ほどの井上の話が脳裏をよぎったが、すぐに打ち消す。たとえ佐々木が沖田に対し劣等感を抱いて葛藤していたといても、それとこれとは関係ない。
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
「何やて?」
きつく睨まれ、負けじと睨み返す。無言で火花を散らしていると、屋敷の門の方から「すんまへん!」と呼ぶ声が聞こえてきた。
佐々木と同時に、門に向かって歩き出す。
「付いてくんなや」
「自意識過剰ですね。誰も佐々木さんになんて付いていってませんよ」
言い合いながらもなんとか門前に着く。
そこには二十代半ばくらいの女性と、付き人らしき小柄な男が立っていた。女性は色白で華奢な美人だ。今にも消えそうな、儚げな雰囲気がある。
「お二人はん、壬生浪士組のお方どすか?」
「そうですけど、どちら様ですか?」
佐々木が尋ねると、女性は深々とお辞儀をする。
「菱屋の梅と申します。芹沢先生はいてはりますでしょうか?」
芹沢と梅が言った瞬間、心臓がどきりと鳴った。久しぶりに、その名前を耳にした。
「芹沢局長やったら、ここやなくてたぶん裏の八木邸におると思いますけど」
「ああ、あっちやったんですね。どっちか迷ったんですよ」
梅の付き人が頭を掻きながら言う。
「ほな伺ってみます。おおきにありがとうございました」
梅はもう一度頭を下げて、踵を返す。しかし、歩き出そうとしたところで、足元の石に躓いて転びそうになった。
反射的に腕を掴んで支えると、梅は「いたっ」と声を上げる。
「何してんねん。お前馬鹿力か?」
呆れたように佐々木が言う。花は慌てて掴んでいた腕を離した。
「す、すみません! 大丈夫で――」
言いかけて、途中で言葉に詰まる。梅の腕は痣だらけで、手首には縄で縛られたような跡があった。
「これは……」
佐々木が小さく呟くと、梅は弾かれたように背を向ける。
「……何でもありまへん。おやかまっさんどした」
そう言い残して、逃げるように去っていく。付き人の男も「ほな」と梅に続くように踵を返そうとしたが、佐々木が腕を掴んでそれを止めた。
「ちょい待ちや」
「あの痣なんですか!?」
「ちょ……勘弁してくださいや。俺にも立場っちゅうもんがあるんです」
佐々木と花に詰め寄られ、付き人は困ったように視線をそらす。
「あない痣、見過ごすわけにいかんやろ。誰がやったんや? 御役所に引き渡したる」
「御役所?」
なぜ犯罪者を役所に引き渡すのだろう。現代の役所を思い浮かべた花は、思わず首を傾げた。
「何ぼけとんねん。御番所――奉行所のことや。知らんのか?」
「ああ、お白洲のある!」
昔現代で見た、時代劇の裁判シーンを思い出して手を打つ。佐々木は花の中途半端な知識に微妙な顔をした。
「……間違ってます?」
「いや、間違ってはへんけど……。まあええ、とにかく俺がとっ捕まえたるさかい、吐きや」
「……捕まえても無駄ですよ」
付き人がため息混じりにこぼす。花が「どういう意味ですか」と問うと、仕方なさそうに話し始めた。
「お梅はんは菱屋の旦那のお妾はんなんやけど……その旦那、えらい内弁慶でな」
「それって、あの痣を作ったのは旦那さんだってことですか?」
付き人は花の問いを否定しない。
「な……っ! あり得ない、その旦那さん! 最低!」
「ああ。自分の女に手え上げるやなんて、そいついっぺん死んだ方がええな」
隣で佐々木が頷く。花は目を丸くして佐々木を見た。
「……なんやねん」
「いえ……佐々木さんがそんなこと言うなんて、意外だなって思って」
「お前、俺のこと何やと思うてんねん」
男尊女卑の権化だと思っていた、とは言えない。佐々木は腕を組み、「ええか」と花に向き直った。
「俺は女には絶対手え上げたりせえへん。たとえ相手がお前みたいな、失礼で生意気な女やったとしてもな。女は男の言葉に黙って従うべきやけど、そん代わり男は自分の命に代えても女を守ったらなあかんねん」
「へえ……」
黙って従えという部分は気になるが、決して女を軽んじていたわけではなかったようだ。ほんの少し、見直した。
「ふふん。なんや、俺に惚れたか? あいにくやけど、俺にはもうあぐりっちゅう女がおんねん。『三国志演義』に出てくるかの有名な美女、貂蝉も隣に並んだら霞むやろうっちゅうくらいの美人で――」
「そうですか、それは佐々木さんにはもったいない」
「おい、最後まで聞けや」
むっとしたように佐々木が眉を寄せる。
「……なあ、俺もう行ってもええですか? お梅はん追いかけなあかんのですけど」
「いや、まだあかん。――さっきの御役所行っても無駄っちゅうのは、どういう意味なんや?」
それは自分も気になっていたことだ。付き人は渋々といった風に、口を開く。
「旦那は外面がええし、町年寄をやっとって御役所の信頼も厚いんです。訴えたかてどうせ相手にされまへん。最悪、御役所の連中が旦那に告げ口するかもしれへんし、そないなことになったら今よりもっと酷いことされるようになります」
「……だから黙ってこのまま耐えてた方がいいって言うんですか?」
つい責めるような口調で聞くと、付き人は「ほなどないせえっちゅうんですか」とこちらを睨んだ。
「お梅はんはもともと島原におったんを、金で買われて妾になっとるんですよ。――それとも、代わりにあんたはんがそん金払うてくれるんですか?」
尋ねられ、とっさに言葉に詰まる。無一文の上、浪士組に居候している身分で、人を一人買うなど軽々しく口にはできない。
「正義感はご立派やけど、何もできひんねやったら黙っといてください」
言い捨てると、付き人は今度こそ台所を出てお梅さんのあとを追いかけていった。
「あの、さっきの人が言ってたお金って、どれくらい――」
「やめとけ。身売りでもせな払える金額やない」
佐々木は花の言葉を遮って、小さく息を吐く。
「菱屋の旦那については、ひとまず俺から土方副長に報告しとく。邪魔やから、お前は首突っ込むなよ。ええな?」
念を押すように佐々木に言われ、花はうつむいた。
正直この時代のことはまだ分からないことばかりで、自分の生活さえままならない状態だ。……だが、あんな怪我を見て、放っておくなどできない。
「おい、返事は?」
「したくない……」
そっぽを向いてぼそりと答えると、佐々木は顔を引きつらせた。それから頭をがしがしと掻いて、「ああもう!」と叫ぶ。
「ほな、菱屋と御役所のこととか、何か分かったら教えたるさかい! それでええやろ!?」
「……本当に教えてくれます?」
「男に二言はない」
頷いて、きっぱりと言う。その顔を疑うように見つめていると、ふと真面目な表情になって佐々木が口を開いた。
「俺かて、女にあない怪我さした菱屋の旦那は許せへんねん。せやから、俺が絶対なんとかしてみせるさかい、お前は自分の仕事をしっかりしいや」
佐々木はまっすぐな目で花を見つめる。佐々木自身のことはともかく、この言葉は信じていい気がした。
「……分かりました」
「よし。ほなさっそく副長んとこ行ってくるわ」
踵を返して、佐々木が屋敷の中に戻っていく。花は行李を台所に置くと、水を汲みに井戸へ向かった。
……島原にいたのを買われた、か。
歩きながら、梅の付き人が言っていたことを思い出す。そして、佐々木の「身売りでもしなければ」という言葉も。
この時代では、当然のように人が売り買いされている――。その事実を目の当たりにして、花は少なからずショックを受けていた。
時代劇などで見たことがあったし、知識としては知っていたはずだった。だが、今自分がいる場所で、実際にそうしたことが起きているのだと考えたことはなかった。
……もしかすると、梅のような人はこの時代にはたくさんいるのかもしれない。それなのに、目の前にいる人だけ助けようとするのは、偽善なのだろうか。
井戸の前に着き、ため息をこぼして桶を投げ入れる。中に水が入ると、桶を引き上げようと縄に体重をかけた。
そのときふと花の横顔に影がさし、横から腕が伸びてきた。
「元気ないな。どないしたん?」
「山崎さん!」
顔を向けた先には、ここ数日屯所で見かけなくなっていた山崎の姿があった。
山崎は花の持つ縄に手を掛けて、軽々と桶を引き上げる。
「ありがとうございます。久しぶりですね」
「ああ。ちょっと土方副長に頼まれた用があったさかい、大坂に行っとったんや」
そう答えると、山崎は首を傾げて花を見た。
「それより、ため息なんかついて何かあったんか?」
「あ……いえ! ちょっと水汲みが憂鬱だなって思ってただけです」
梅の事情を人に勝手に話すのは憚られたので、とっさに誤魔化して笑う。
「ほんならええけど……何かあったら話聞くさかい、あんまり背負い込み過ぎんようにな」
「はい! ありがとうございます」
頭を下げると、山崎は土方に報告があるからと去っていった。
ここで暮らすようになってから、山崎はよく声をかけてくれたりと、自分のことを気にかけてくれている。まだこの時代のことは分からないことが多いので、山崎の気遣いは素直にありがたかった。
あとでお茶でも持っていこう。
日頃のお礼にしては軽いが、ちょうど屯所に帰ってきたばかりのようだったし、喉が渇いているかもしれない。
甕の水がいっぱいになるまで井戸と台所を往復すると、花はお茶の用意をして、土方の部屋へ向かった。その途中で、ばったり沖田と鉢合わせる。
「か、神崎さん」
相田の水筒を奪った件を思い出したのか、沖田は一瞬逃げようとするように後ずさった。しかし花の持つお盆に気づくと、怪訝そうに首を傾げる。
「何です? そのお茶」
「……山崎さんが大坂から戻ったそうなので、喉が渇いてるんじゃないかと思って、これから出しにいくところです」
「へえ。私には何もありませんでしたけど」
「当たり前です。何で私が沖田さんにお茶出さないといけないんですか。……それに、沖田さんは相田さんの飲み物全部飲んだでしょう」
せっかく忘れたふりをしてやっていたというのに。じろりと睨みつけると、沖田は無言のまま花のお盆に手を伸ばしてきた。
「ちょっと、何するんですか!」
慌ててお盆を自分の背中側に隠す。沖田はそんな花を満面の笑みで見た。
「他人のものって、何故かやたらと欲しくなりません?」
――まずい。直感でそう思った花は、沖田の横を全速力で走り抜けた。
「逃がしませんよ!」
そう言うなり、沖田も花を追って駆けだす。巡察中で人があまりいないのをいいことに、二人はドタバタと大きな音を立てて屯所内を走り回った。
「お茶くらい自分で淹れたらいいじゃないですか!」
走りながら叫ぶが、沖田が諦める様子は全くない。花はとっさに近くにあった部屋の障子を開けて飛び込んだ。
「助けてください!」
「――そうだな、今すぐ楽にしてやるよ」
飛び込んだ部屋には、こめかみを痙攣させ、刀の鯉口を切る男の姿がある。その顔を見た瞬間、花は顔を青ざめさせた。
「ひっ、土方さん!?」
土方のうしろには、呆れた顔でこちらを見る山崎の姿まである。必死で逃げていたので気づかなかったが、入ったのは土方の部屋だったらしい。
「総司、お前も何してんだ! 餓鬼じゃあるまいし、屯所の中を走り回るな!」
「あーあ、神崎さんのせいで本物の鬼に捕まっちゃったじゃないですか」
沖田が大きなため息をつく。事の発端が自分にあるとは少しも思っていなさそうだ。
「ところで二人は何の話をしてたんですか?」
「……最近こっちでも噂になっている『大坂の壬生浪』の件だ」
不機嫌そうに刀を置いて、土方が言う。沖田はすぐに合点がいった様子で手を打った。
「勝手に壬生浪士組の名を語って、あちこちの商家から金を押し借りしてるっていうあれですか」
「ええっ、何ですかそれ?」
「そういう輩が大坂にいるらしいんですよ。私たちも有名になったものですよねえ」
緊張感のない笑顔を浮かべる沖田を、土方は眉を寄せて見る。
「のんきなこと言ってんじゃねえよ。おかげで浪士組の評判はがた落ちだ」
「ははっ、落ちるほどの評判がうちにあったんですか?」
おかしそうに笑う沖田の言葉に、土方は苦虫を噛んだような顔をして、山崎は苦笑した。……浪士組はそんなに評判が悪いのだろうか。
「まあでも、どうせ放っておくつもりはないんでしょう?」
沖田が問うと、土方は「当たり前だ」と素っ気なく返した。背後の文机に手を伸ばし、置いてあった紙を取ると沖田に見せる。
「大坂の御番所から、あの狼藉者どもをどうにかしろと文が届いた。今晩出立するから、昼にその人選について話し合うつもりだ。まあ、やつらの居場所は山崎に調べさせてあるから、捕り物はすぐ済むだろうがな」
「ああ、そういえば山崎さん、先日から監察方に入ったんですよね」
「……かんさつ?」
「――おい、総司」
聞き慣れない言葉に首を傾げると、土方が沖田をきつく睨んだ。沖田はきょとんとした顔をしたのち、土方の言わんとしている事を理解した様子で、「ああ、そうでした」と笑った。
観察とは何を観察する仕事なのだろう。疑問に思いつつ、山崎の方をちらりと見る。山崎の顔は少し強張っていたが、目が合うと、なぜか呆れたようにため息をつかれた。
「……とにかく、巡察に行ってるやつらが戻ってきたら、また改めて招集するから大人しく部屋に戻っとけ」
「はあーい。じゃあ行きましょうか、神崎さん」
「え、あ、ちょっと待ってください」
促すように背を叩いた沖田に言って、花は土方と山崎の間に膝をついた。
「お茶淹れたので、よかったらどうぞ」
湯呑みと急須を山崎の前にそっと置く。
「……湯呑みが一つしかねえじゃねえか」
「私、土方さんに淹れたなんて一言も言ってませんけど……?」
眉を寄せて首を傾げると、土方の顔が引きつる。
「さっさと出てけ!」
「はっ、はい! お邪魔してすみませんでした!」
怒鳴り声に急き立てられるようにして、花は沖田と部屋を飛び出ていった。




