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新選組のレシピ  作者: 市宮早記
一品目 始まりの、長い一日
1/29

 あたたかな西日の差し込むリビングに、できたての料理のいい匂いが広がる。

「お父さん、まだ?」

 ダイニングテーブルに座った少女が、待ちきれない様子で聞いた。視線の先には、大きな背中を丸めて調理台に向かう父親の姿がある。

「こら、お行儀悪い」

 隣に座っていた母親が、ぶらつかせていた少女の足を軽く叩いた。少女は軽く肩をすくめて姿勢を正す。

 そうしている間に料理を作り終えたのか、父親がリビングにやってきた。その手には、黄金色のだし巻たまごの載ったお皿がある。

「わあ、おいしそう!」

 一番の好物を前にして、少女は顔を輝かせた。

 父親はそんな少女の頭にそっと手を乗せる。大きな手が優しく頭を撫でた。

「誕生日おめでとう、花」



 目を開けると、神崎花は真っ暗な部屋の中にいた。窓の外からは、アパートの前を走る車のエンジン音が聞こえる。

今、何時だろう……。

 手探りで枕元のスマートフォンを掴み、起動させる。時刻は朝の五時。数件メールが届いているのに気づいて、身体を起こしつつ中身を開いた。

『二十歳の誕生日おめでとう! 仕事は相変わらず忙しい? たまには東京に帰ってきてね』

 高校時代の友だちからのメッセージを読んで、「あっ」と声が漏れた。そうか。今日は誕生日だったのか。

 だからあんな夢を見てしまったのだろうかと、少し苦い気持ちで考える。

 さっき見たのは、花の十歳の誕生日の記憶だった。――あのときは、これが父親と母親と家族三人で囲む最後の食卓になるなんて、想像さえしていなかった。

 部屋の電気をつけると、毛布を身体に巻き付け、一つずつ届いたメールに返信していく。しかし、最後のメールでふと手が止まった。

差出人は母親で、件名には誕生日おめでとうとある。

 メールを開くか少しためらって、時計に目をやった。目が覚めてからすでに二十分がたっている。そろそろ支度をしなければ、遅刻してしまうかもしれない。

……返信は仕事が終わってからにしよう。

 スマートフォンを置くと、さっそく着替えを始める。

 花は約一年前、東京の専門学校で調理師の免許を取ったあと、京都一の料理屋と名高い老舗料亭『桔梗』に就職した。以来、料理人の見習いとして働いている。

 どんな職でも下っ端は辛いものだろうが、殊に料理人の下積み期間は長く厳しい。

 皿洗いや仕込みといった地味な仕事を早朝から深夜までやり、帰ったらシャワーを浴びて泥のように眠る。そんな生活が毎日のように続くのだ。

 すでに専門学校時代の友だちの半数近くが料理人を辞めてしまっているが、気持ちは理解できなくない。自分は料理以上に好きなことがないから続けられているのであって、他にやりたいことがある人には耐えがたい生活だろう。

 支度を終えてリュックを背負うと、玄関へ急ぐ。靴を履きながら、忘れ物をしていないか確認のため、部屋を振り返った。

 狭い五畳の空間が広く見えるほど、部屋の中は殺風景だ。京都に引っ越してから、ずっとここに住んでいるが、いまだに必要最低限のものしかない。休みの日も料理を作ってばかりいて、自分のことにあまり頓着してこなかったからだ。今日も誕生日とはいえ、何か特別なことをする予定はない。

 子どもの頃は、誕生日といえば一年の中で最も重大なイベントだった。その日が来るのを何日も前から指折り数えたりして、わくわくして眠れない夜さえあった。それなのに、今やすっかり日常に埋もれてしまって、人から言われてようやく気づく程度のものになってしまっている。

 大人になるとは、こういうことなのだろうか。

「……いってきます」

 声と共に吐き出された息は白く、冷え切った部屋にふわりと溶けた。


 料亭『桔梗』にいつも通り一番乗りすると、仕事着に着替えて厨房に入る。

誰もいない厨房はしんと静まり返っているが、これは嵐の前の静けさだ。あと一時間もすれば先輩たちが厨房に入り始め、目が回るような忙しさになる。

 さっそく仕込みを始めようと、流しへ向かい手を洗う。氷を溶かしたような冷たい水に、花は思わず身震いした。

 一月に入って、雪が降る日が増えてきた。この冬はまだ一度も積もっていないが、そろそろ積もる日も出てくるかもしれない。

 考えながら冷蔵庫から食材を取り出し、調理台に並べていく。できるだけ鮮度の高い食材で料理を提供するため、基本的に仕込みは当日の朝にすることになっている。

「――よし!」

 山のような食材を前に、花は拳を握って気合いを入れた。


 息つく暇もないほど忙しいランチタイムを乗り越え、午後三時を過ぎた頃、ようやく昼休憩に入ることができた。

 自分の分のまかないを最後に皿に盛りつけ、従業員用の休憩部屋に移動する。部屋は厨房の隣にある和室で、あまり広くはないが、エアコンがあって小さなテレビも置かれている。

 部屋に入ると、先に休憩に入っていた先輩たちは、すでに食事を始めていた。

「神崎、こっち」

 手招きするのは花にとって唯一の女性の先輩である、三上真紀だ。歳は三十で、煮方と呼ばれる煮物担当の役職を任されている。他に女の料理人がいないこともあって、ここで働き始めて以来、三上には目をかけてもらっている。

 花は三上の正面に座って、軽く頭を下げた。

「お疲れ様です」

「お疲れ。今日のまかない、えらいおいしいな」

「ありがとうございます」

 笑顔になって答える花に、三上はにやりと笑って付け加える。

「なんと……あの料理長も完食しとったで」

「えっ、本当ですか!?」

 思わず声を上げて身を乗り出す。

 まかないは花のような調理場の一番下っ端が担当する仕事だが、料理長は味にうるさく、滅多に食べきらない。過去にはまかないを作った本人の目の前で、一口だけ食べてごみ箱に捨てたことさえあるらしい。

 いくらまずくとも、食べ物を粗末にするのはいかがなものかと思うが、料理長がまかないにこだわる理由はなんとなく分かる。

 まかないは限られた食材で、三十人ほどいる従業員の分を全て、短時間で作らなければならない。しかも食べるのは、舌の肥えた料理人ばかり。調理場の新人にとって、まかない作りは一番の腕の磨きどころともいえるのだ。

「やるやん。完食なんか今の副料理長以来やで」

 三上の言葉に花は喜びを抑えきれず、両手を上げて万歳した。

「やったー!」

「……うっさいな。料理長が全部食うたぐらいで大げさやろ」

 聞こえた声に顔を向けると、畳に寝転がる男の姿があった。迫田芳樹、揚げ場という天ぷら担当の役職を任されている、三上と同期の先輩だ。

 面倒な人に絡まれてしまった。迫田はなぜか自分を目の敵にしているようで、こうして事あるごとにつっかかってくるのだ。

「気にせんでええよ。あいつあんたと同じ一年目んとき、料理長にまかない捨てられたから、僻んでんねん」

「ち、ちゃうわ、ぼけ! 三上は黙っとけ」

 へえ、まかない捨てられたの迫田さんだったんだ……。

「おい、神崎。何にやついてんねん」

「あっ、すみません。つい」

 笑って頭を下げつつ、自分の作ったまかないを一口食べる。

「お、おいしい! これ作った人、天才……?」

「自分で言うなや」

 迫田がぼそりと呟くが、花の耳には届かない。

 今日はもともと揚げ出し豆腐を作るつもりだったが、豆腐が足りなかった。そのため大根で代用して揚げ出し大根を作ったのだが、想像以上の出来だった。外はカリッとしていて食感がいいし、何よりだしがよく染み込んでいる。

 揚げ出し大根に使っただしは、休日を何日も費やし試行錯誤した末、ようやくたどり着いた特製のものだ。このだしを使った料理を料理長が認めてくれたのは、とても嬉しい。

 ご機嫌な笑顔の花に迫田はそれ以上何か言うことはなく、寝転んだままテレビを付けた。花はまかないを食べながら、横目にテレビを見る。

 やっているのは、人間の脳に関するサイエンスバラエティのようだ。スタジオにいるいかにも頭の良さそうな学者が、脳が最大で十一次元構造を持っているということについて説明している。初めは学者の説明を理解しようと聞いていた花だったが、一分とたたずに話についていけなくなった。

 学生時代も勉強はからっきしだったし、まあ仕方がないだろう。

 諦めてまかないを食べることに集中する。下っ端の花は、夜の部でも一番に厨房に入って、仕込みを始めなければならない。

 食べ終わると、すぐに皿を重ねて立ち上がった。休憩部屋を出ようとしたところで、ふとテレビが目に入る。ちょうど番組が終わるところのようだ。

「――脳には未知な部分が多く、さまざまな可能性に溢れています」

 聞こえてきた締めのナレーションが、なんとなく耳に残った。


「神崎、ちょっと来いや」

 料理長にそう呼び出されたのは、営業時間が終わってすぐの頃だった。

 反射的に何かミスをしただろうかと、今日一日の自分の行動を思い出す。料理長はとても厳しい人で、個別に話をするときは説教と相場が決まっているのだ。

「何やらかしたんや?」

 迫田が小声でからかうように聞いてくるが、答える余裕もない。

「い、今行きます!」

 急いで洗っていた皿を置き、料理長のもとへと走った。


 休憩部屋の座卓の前にどかりと腰を下ろすと、料理長は座れと言うように顎で自分の正面を示した。緊張しつつ、料理長に示された場所に正座する。

 一体何を言われるのだろう。料理長に呼び出されるような心当たりは、どれだけ考えてもなかった。いつもと違うことといえば、料理長がまかないを完食したことくらいだが、まさか料理長に限って褒めるのが用件ということはないだろう。

 何か考えるように目を閉じたまま黙っている料理長の顔を、気づかれないようこっそりうかがう。白髪交じりの頭に、いつも皺の寄っている眉間。歳は四十代らしいと三上から聞いたことがあったが、正直なところもっと年上に見える。

「神崎」

 不意に料理長が目を開けて花を見た。慌てて背筋を伸ばす。

「はっ、はい。何でしょうか」

「お前……父親の名前は何ちゅうんや」

 思いもよらない質問に、思わず「へ?」と間の抜けた声が漏れた。

「神崎智弘ですが……」

 訝しげな顔をしながら花が答えると、料理長は深いため息を吐いた。

「……そやったか」

 呟くように言って、それきりまた口を閉ざしてしまう。意味深な料理長の態度に、花は落ち着かない気分になった。

「あの、私の父親がどうかしたんですか?」

 急かすように尋ねると、料理長は座卓の上に置いていた手を組み、ゆっくりと口を開いた。

「お前の父親とは、昔同じ店で働いとった同期やったんや」

 料理長の言葉にはっと息をのむ。

「智弘はそんとき働いとった店で、一番の料理人やった。あいつはすぐに料理長を任されるようになって、俺はずっと副料理長をしとった」

 当時を思い出しているのか、料理長の目が遠くを見るように細まる。

「無口で感情の起伏の小さい男やったけど、料理に対しては誰より熱い心を持っとった。店閉めたあとも、よう二人で残って新しいメニュー考えたりしたもんや」

「そう、だったんですか……」

「行方不明なったて聞いとったんやけど、まだ見つかってへんのか?」

「……はい」

 十歳の誕生日の夜、父親は失踪して行方はいまだに分かっていない。

 母親によると父親はその日の晩、仕事終わりに二人で家に帰っている途中、突然突っ込んできた車に跳ね飛ばされ、直後その場から忽然と姿を消したらしい。父親を轢いた犯人は逃げてしまったそうで、目撃者は母親しかいないと聞いている。

「そやったか……」

 料理長の表情がくもる。花は重い空気に居心地の悪さを感じながらも、視線を上げて料理長の顔を見た。

「あの、どうして今になって、私の父親のこと気づいたんですか?」

 料理長は花の問いに「だしや」と答えた。

「昼のまかないの揚げ出し大根……あれのだしと智弘のだしが、よう似とったから」

 ……私の作っただしと、お父さんのだしが似てる?

 予想だにしなかった言葉に、花は動揺した。

「あ、あれは、私が休みの日に試行錯誤して作ったものです。私は父親の作っただしなんて覚えてませんし、似てるはずありません」

「いや、似とった。子どもん頃に食べて育った味っちゅうのは、自分では覚えとらんつもりでも、身体が覚えとるもんや。……無意識に父親の味を求めとったんとちゃうか」

「違います!」

 思わず声を上げて、料理長の言葉を否定する。

 しかし驚いたように目を見開いた料理長の顔を見て、すぐに我に返った。自分は何をむきになっているのだろう。

「……すみません」

 消え入るような声で謝ると、料理長は小さく息を吐いて立ち上がった。

「料理人にとって、料理は味が全てや。思い出も情も、関係ない。……俺はたとえ智弘の作っただしと似とっても、まずかったら食わんかったで」

 休憩部屋を出る直前、料理長が言った。それが料理長なりのフォローだとはすぐに気づいたが、気づいたからこそ情けなくて、何も言えなかった。


 厨房に戻ると、すでに片付けは終わっていた。

「すみません、みなさんに片付け任せてしまって……」

「ほんまお前のせいでえらい疲れたわ」

 迫田がやれやれといった風にため息を吐く。その脇腹を三上が肘で突いた。

「あんたは大して片付け手伝ってへんかったやろ。気にせんでええよ、神崎。それより料理長の話、なんやったん?」

「――えっと……」

 とっさに言葉に詰まる。花は今まで職場の人たちに、父親のことを話したことがなかった。というより、どうしても話さなければならない状況でない限り、父親のことを誰かに話したことがなかった。……別に、隠しているわけではないのだが。

「なんや、そない説教きつかったん?」

 黙り込んだ花を見て、落ち込んでいると勘違いしたらしい三上は、励ますように背中を叩いた。

「まああんま気にしすぎんときや。誰にでも失敗はあるんやから」

「そうですね……」

 三上の言葉に、曖昧に笑って返す。

「そや、ちょうど良かった。あんたに渡すもんがあんねん。これで元気出しや」

 そう言うなり、三上は背後の棚に置かれていた段ボール箱を取って、花に差し出してきた。大きさは片腕で抱えられる程度だが、受け取ってみると意外に重い。

「何ですか、これ?」

 首を傾げる花に、三上が微笑む。

「誕生日おめでとう、神崎。みんなからプレゼントやで」

「え……」

 驚いて周囲を見回すと、厨房に残っていた他の先輩たちもにっと笑った。

「先に言うとくけど、来年からはないで」

「今回は成人した記念やから特別な」

 先輩たちが口々に言うのを、ぽかんと口を開けたまま聞く。職場内でプレゼントを贈り合うような風習はなかったので、まさか自分が貰えるとは夢にも思っていなかった。

「開けてみてもいいですか?」

「どうぞ」

 三上が頷き、さっそく段ボールを開けてみる。中には電池式のフードプロセッサーが一つと、食材がこれでもかというほど詰まっていた。

「フードプロセッサー、コードレスのが欲しいて前に言うてたやろ。あと、料理の研究頑張っとるみたいやから、食材ぎょうさん入れといたで」

「わあ……ありがとうございます! 私、さっそく練習して帰ります!」

 意気込んで言うと、三上は顔から笑みを消して首を横に振った。

「いや、それはやめとき」

「どうしてですか?」

「お前、ニュース見てへんのか? 昨日の夜、烏丸三条の交差点で人が刺される事件があったんやで」

 横から口を挟んできた迫田の言葉に、ぎょっとする。

「し、知りませんでした……」

「神崎……料理に熱中するんはええけど、修行僧とちゃうんやから、世間のことにももうちょい関心持ちや」

 呆れたように三上が頭を押さえた。

「まだテレビ買うてへんのやったら、新聞くらいとり。――そや、野菜包んどる新聞、今日の朝刊やから家帰ったら読みや」

「そうですねえ……」

「絶対読まんやろ、こいつ」

 明後日の方向を見ながら答えた花を、迫田がじっとりと睨む。

 そう言われても、活字を読むのは苦手なのだ。興味のある内容――料理関連の本ならまだしも、新聞なんて絶対に読んでいる途中で寝てしまう。

「そやけどおっかないよなあ。通り魔やないかて言われてんねやろ」

「ああ。しかも凶器は日本刀やったらしいで。犯人まだ捕まってへんらしいから、今日は早よ帰りや」

 先に着替えを済ませていた先輩たちが、荷物を持って帰り始める。

「分かりました。あと……プレゼント、本当にありがとうございました」

「おう。ほなまた明日」

 先輩が軽く手を上げて、厨房を出ていく。三上は着替えず待っていてくれたようで、被っていた帽子を脱ぐと更衣室へと歩き出した。

「私らもさっさと着替えて帰ろや」

「はい!」

 元気よく返事をすると、花は段ボールを抱えて三上のあとを追った。


 店を出て三上と別れたあと、家に向かって歩いていると、ふと目の前を白いものがちらついた。

「雪……」

 ぼんやりと空を見上げて呟く。……東京でも降ってるかな。

 考えながら、東京で祖父母と暮らしている母親のことを思い出した。今朝貰ったメールは、まだ目を通してすらいない。そろそろ日付も変わってしまうし、早く読んで返事をしなければと頭では分かっているのだが。

 赤信号で立ち止まると、小さくため息をこぼした。

 母親とは父親が失踪して以来、あまりうまくいっていない。と言っても、けんかをするとか口をきかないとか、そういうことがあるわけではない。ただ母親といるときは、いつも気まずくて息が詰まった。

 そう感じるようになった原因は分かっている。それは自分が父親の失踪に関する母親の話を信じられていなくて、母親もそのことを察していると分かっているからだ。

 母親といるといつも、「どうして信じてくれないのか」と責められているような気持ちになった。

 だけど……しょうがないじゃない。人が消えるなんて、そんなことあり得ない。信じられるわけがない。

 消えたというのは母親の嘘で、自分たちは父親に捨てられたのではないか。花はずっとそう疑っていた。

 母親を信じられない罪悪感と、嘘をつかれているのだという不信感。相反する思いがずっと胸にあって、次第に母親との接し方が分からなくなっていった。

 せめて父親のことに触れずにいられたら、ここまで拗れることもなかったかもしれないが、母親はことあるごとに父親の話をしたがった。父親と営んでいた料理屋のこと、家族三人で出かけたときのこと。母親はいつも、父親との思い出を懐かしそうに語る。

 しかし花は、そのたびに耳を塞ぎたい気分になった。もういない人のことを、あれこれ話したって何の意味もない。蓋をして思い出さないでいた方がいいに決まっている。それなのに、どうして母親はわざわざ蓋を開けたがるのか、花には理解できなかった。

 信号が青になり、段ボールを抱え直して歩き出す。横断歩道を渡り終えると、いつも通っている路地へ足を向けて――立ち止まった。仕事終わりに聞いた、通り魔の事件が頭をよぎる。

 この道、暗くて人通りもないし、今日はやめておこうかな。

 今いる大通りをあと信号二つ分歩いた先にある通りは、もう少し明るいし、それほど遠回りにはならない。今日はそっちの道を使おうと決めて、再び歩き出す。

 花が専門学校を卒業して京都に来てからは、まだ一年もたっていない。しかしそれ以前にも、生まれてから十歳まではここで暮らしていたため、京都の地図は大体頭に入っていた。

 特にこの近くは、昔住んでた家と父親の料理屋があったから――。

 考えてふと、今向かっているのが母親から聞いた、父親の消えた現場だったことに気づいた。時間帯もちょうど同じくらい。あの夜も、こんな風に雪が降っていた。

 一瞬また違う道を通って帰ろうかと考えたが、やめた。

 できるだけ遠回りせずに帰りたいし……それに道を変えるのは、自分がまだ父親との思い出に囚われているようで嫌だ。

 ――無意識に父親の味を求めとったんとちゃうか。

 脳裏によみがえった料理長の言葉を振り払うように、歩く速度を速める。

 そんなわけない。私はお父さんのことなんて、もうなんとも思ってないんだから。

 うつむきがちに歩いていると、やがて父親が消えたという場所に着いた。さっさと通り過ぎてしまおうと足早に歩く。

 しかし、ふと反対側の道路でしゃがみ込む女性が目に入った。具合でも悪いのだろうか。足を止めて様子をうかがってみると、どうやら泣いているようだ。花は少し迷った末、横断歩道を渡って女性に近寄った。

「あの……どうかされましたか?」

 おそるおそる声をかけると、女性は弾かれたように顔を上げる。歳は三十か、それより少し若いくらいだろう。怪我をしている様子はなさそうで、ほっと胸を撫で下ろした。

「昨日人が刺される事件があったみたいですし、物騒ですから早くお家に帰った方がいいですよ」

「あ……私……」

 女性は花から何かを隠すように身じろいだ。なんとなく気になって女性の背後へ目を向けると、地面に小さな花束が置かれていた。

「それは……?」

「――う……っ」

 尋ねた瞬間、女性が両手で顔を覆って再び泣き始める。

「だ、大丈夫ですか?」

 うろたえながらも背中を撫でると、しばらくして女性は落ち着いたように顔を上げた。

「すみません。見ず知らずの方にこんなご迷惑を……」

「気にしないでください。それより、何かあったんですか……?」

ためらいつつも聞いてみる。

 女性は少しの間、迷うように視線をさまよわせていた。しかし、話を聞いてもらいたい気持ちがどこかにあったのか、やがてぽつりぽつりと語り始める。

 彼女は十年前の今日、ここで車を運転していたとき、人を轢いてしまったらしい。

だがその人は、自分と彼の妻らしき人の目の前で忽然と姿を消した。それを見て女性は混乱と恐怖のあまり、そのまま逃げてしまったのだと言う。

「罪悪感はずっと胸にありました。ですが、人が消えるなんてあり得ないと思って……あれは夢だったんだと、自分に言い聞かせて生きてきたんです」

 苦しそうに、絞り出すような声で女性が話す。

「ですが昨年結婚したことで、あのときの奥さんの気持ちを初めて考えて、胸が苦しくなって……せめてと思って花を手向けにきたんです」

 そう言うと、女性は話を聞いてもらえて少し心が軽くなったと去っていった。


 一人になった花は、花束の置かれた地面をじっと見下ろした。

さっきの女性が轢いたのは、自分の父親なのだろうか。心の中で思う反面、まだあり得ないと考える自分もいる。

 人が消えるなんて、信じられない。――でも、それならさっき聞いた話は何だったのだろう。

 目を閉じて、額を押さえる。……とりあえず、家に帰ろう。

 深く息を吐くと、踵を返す。そのとき、縁石の傍にシロツメ草が咲いているのに気づいた。こんな季節にどうしてシロツメ草が。

 しゃがみ込んで触れてみると、周りに生えた三つ葉の陰に隠れるように、何かが落ちているのが見えた。

 ストラップだ。組み紐の先っぽに、少し色褪せた小さな青い石のようなものがついている。

 どこか見覚えがある気がして、束の間思考を巡らせる。

「――あ」

 ふとよみがえった記憶に、思わず声が漏れた。

 このストラップは、昔父親の誕生日に贈ったものだ。青い石はパワーストーンで、確か癒しの効果があるなどと謳っていた。

 手を伸ばしてストラップを拾い上げる。しかし石に指が触れた瞬間、静電気のようなものが走り、車道に飛んでいった。反射的に腰を上げて、ストラップを掴もうとする。

 もう少しで届く――そう思って身を乗り出した次の瞬間、縁石に躓き、車道に飛び出してしまった。けたたましいクラクションの音が聞こえる。顔を向けると、ものすごいスピードで車が突っ込んでくるところだった。

 ――避けられない。とっさに腕で頭を覆って身を縮こまらせる。しかし予期していた衝撃はなく、代わりに不思議な浮遊感に包まれた。

 ゆっくりと、腕を下ろして顔を上げる。花は真っ暗な闇の中にいた。そこには地面も空もない。まるで光の届かない、深い海の底に沈んでしまったかのようだ。

「ここは――」

 呟いたそのとき、雷鳴のような音が耳に響き、激しい頭痛に襲われた。

「い……っ」

 思わず目を閉じて頭を抱える。その直後、足を踏み外したような感覚がして、自分がどこかへ落ちていくのを感じた。

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