小話5(蝉と蛸)
幼き頃、野辺に咲く花を摘み取り、花占いをしたことがございます。
好き、嫌い、好き、嫌い、好き、嫌い、好き、嫌い……。
放課後、学園の中庭。
綺麗に剪定された植え込みの横を歩いておりますと、低木の枝木の所々に蝉の脱け殻を見つけました。
わたくしは脱け殻を親指と人差し指で優しく、潰さぬように摘まみ上げます。
脱け殻はとても軽く、また、カサカサとした音が聞こえます。
脱け殻にもきちんと脚があり、昆虫なので脚の数は六本。蝉は分類の大きな括りではカメムシと同じ仲間。初等部の終わり頃のある日、わたくしは邸で昆虫図鑑を見ておりました。図鑑でその事実を知ったときは大層驚き、驚きのあまり執事のコロロギスを探して捕獲し、図鑑のページを幾度も見せたのを覚えております。ちなみに、コオロギは昆虫の分類の大きな括りではバッタの仲間。キリギリスも同じくバッタの仲間。よく兄上が、我が家の執事はバッタの仲間によって合成されたキメラなのだと、まことしやかに語っておいででした。
外の日差しはとても強く、生い茂る木々によって幾らか影が落とされてはいても、じっとしているだけで汗ばんでしまいそうな暑さです。皆は下校したのか、はたまた室内に残っているのか、中庭には誰もおりません。
「ジジジジジ……」 「ミンミンミンミンミン……」
中庭には蝉の鳴き声だけが聞こえます。
他に人などいない、蝉の鳴き声だけに満たされた中庭にいる自分。今この場にいる自分は果たして、ちゃんと生きて存在する人間なのか、空っぽなだけの体躯なのか、はたまた蝉なのか、蝉の脱け殻なのか。ジジジジジという蝉の鳴き声の中で、先日の殿下の、わたくしに問う声が聞こえてきます。蒟蒻廃棄……もとい、婚約破棄を今でも望むのかどうか、殿下の妻となることを、殿下を、厭うのかどうか。
指に摘まんだ、蝉の脱け殻。
脚を一本もぎ取りました。
「好き」
更に一本。
「嫌い」
残り四本、全て取ると、脱け殻はコロンとした繭玉の形になりました。繭玉となった脱け殻をそっと植え込みに置いて、また見つけた蝉の脱け殻を手に取ります。
「好き」
「嫌い」
また見つけては占い、また見つけては占い……。
「好き」
「嫌い」
「……好っ」
狂わないはずの占いの結果。昆虫の脚は六本であると、誰しもが知っていて、勿論わたくしも存じております。それ故、「好き」で始めた占いの結果は必ず「嫌い」で終わるはずなのです。それなのに……。脚が一本、始めから欠けていたのでしょうか。狂ってしまった占いの結果。殿下の口づけを拒まない自分。その場から逃げ出さない自分。わたくしが嫌だと言ったなら、きっと何もなさらないと分かっていながら、その場にじっとして、嫌だとは言えない、嫌だと言わない自分。
日差しのせいなのか、体の内からなのか。とても暑くて、暑くて、顔が茹で上がったように熱く、手で冷やすように顔を押さえておりました。
「ご機嫌よう。暑いね」
びっくりしました。誰もいない、蝉と脱け殻だけの中庭に、人間がいたのです。
しかし、わたくしは貴族令嬢。いつ、いかなるときも、気品ある態度であらねばなりません。心を落ち着けて、焦らず、ゆっくり振り返ります。
声の主は殿下のご友人でした。スケッチブックと鉛筆を持っておられるので、絵を描いていらしたのだと分かります。
「ご機嫌よう。絵を描いていらっしゃいましたの?」
既に見て分かっていることですが、これが社交辞令というものでしょう。決して焦らず、言葉は慎重に選ばねばなりません。
「うん。これ、見る?」
そう言って、スケッチブックを差し出されました。差し出されたものを拒むのは余程の理由がなければ難しいように存じます。まだ指に摘まんでいた繭玉をそっと植え込みに置き、スケッチブックを受け取ります。
絵がお上手なことは有名でした。芸術のクラスの折りに、ご友人の絵は飾られることが多く、幾度かその絵を拝見したことがあります。
スケッチブックを捲ります。黒鉛筆で描かれていて、細い線や点描などの細やかな筆致、どれもとても美しく、とても綺麗な絵。学園の風景や人物、植物など、様々な絵が描かれています。夢中になり、次へ、次へと捲っておりました。次を捲って、わたくしは突如として目に飛び込んできた人物達の絵に驚いて、パタンっと、スケッチブックを閉じてしまいました。
「急にどうしたの? 大丈夫?」
ご友人はにこやかに、そうおっしゃいます。
わたくしはまた急に顔が熱くなり、手で顔を押さえました。
「何をしている?」
またもや蝉の国に人間がやって来た模様です。声には聞き覚えがありますので、振り向かずとも誰が来たのか、わたくしには分かります。それに、今は振り向けぬのです。何やら顔が熱いもので。
「暑いねーってお喋りして、スケッチを見てもらっていたところだよ」
「ほぉ、そうか。では、許嫁殿の顔が真っ赤なのはどういう訳だ?」
何となく、そんな気はしておりました。先程からずっと、顔が熱いもので。殿下曰く、真っ赤なのだそうです。茹で蛸が如く、わたくしの顔は真っ赤なのだそうです。
「スケッチ見る? はい、どうぞ」
「?」
殿下は訝しみながらもスケッチブックを受け取り、次へ、次へと捲っていかれ……。
「これは……何であろうな?」
羞恥による赤か、怒りによる赤か、どちらともとれるような殿下の声音。
「刺身蛸が茹で蛸に」
「刺身ならば山葵が欲しいが、茹で蛸はどのように食すのがよいか……で、友人殿」
口から蛸が飛び出しましたが、殿下はご友人に夢中であり、被害は免れた模様です。
「んー。この間、人類の進化の素晴らしさについて話していて、その感動的な進化の過程を見させてもらったから、お礼、かな?」
「は?」
ご友人の仰ることが殿下にはよく分からないようです。蛸の進化……茹でたことによる色の変化の話でしょうか?
「でも、来月の誕生日プレゼントにしてもいいなぁーって思うから、あげるのは来月ね」
「はぁ」
そもそもが殿下自ら質問したことであるのに、右の耳から左の耳に聞き流しているような、投げ遣りなお返事をなされます。
殿下はスケッチブックを閉じてご友人にお返しになりました。いつもの斜め上の角度から、今度はわたくしを見ておいでのようです。
「さて、許嫁殿とは蛸談義の途中であったか?」
「蛸団子? 海老煎餅のお仲間かしら?」
「蛸団子……いや、海老煎餅の同類だとすると菓子であろう? 蛸入りのみたらし団子のようなものはどうにも。せめて、蛸入りつくねとか、蛸入り蒲鉾とか、魚肉練り製品にすべきではないか」
「本日はマルシェはお休みですの?」
「えぇ、本日は棚卸しのため臨時休業で……って何故私が毎度のように店員をせねばならぬのだ? で、人を蛸だと愚弄した話を誤魔化そうとしておいでかな? 許嫁殿」
「わたくしは何も。ただ殿下が蛸の食品加工についてご熱心なだけでありましょう?」
「で、友人殿はまた何をしておいでかな?」
「人物画のスケッチ」
「はぁ。どいつもこいつも。呆れて物も言えぬ」
「殿下はたくさん喋っていらっしゃいますわ。特に、蛸について蛸さん」
「許嫁殿は余程蛸がお好きと見える。次に皇后がそちらへ伺う際の手土産は蛸にいたそう」
「二人とも可愛いなぁ」
「人を勝手にスケッチするのは止めてもらえるか? 友人殿」
「これも誕生日に一緒にあげるね」
「はぁ。呆れて……」
会話が山手線に乗りかけて、殿下は口を閉ざされました。そして、殿下は何故かわたくしの手をとるのでした。
「またな。友人殿」
「うん。またねー」
「?」
わたくしは殿下に手を引かれ、そのまま歩き出したのでした。
「蝉がよく鳴く」
殿下がぽつりと漏らされました。
蝉の国を行く異邦人が二人。
「殿下、お手を……」
先程の自分への問いかけがまた戻ってきてしまいます。わたくしはどうしたいのか? 口にしたはずの言葉の後半はもやもやした感情に呑まれ、砂浜の波のようにじんわりと消えてしまいます。
「この辺りがよいかな」
殿下が手を離されました。場所は学園の庭なのですが、わたくしはあまり通らぬ場所で、普段目にしない周りの景色を眺めました。
殿下は花壇のブロックに腰かけて、わたくしにも座るようにと顎を動かし、また視線で促すのでした。
「この辺りはあまり通りませぬゆえ、見慣れた学園の景色も新鮮に見えますわね」
殿下の横に、少し間を空けて腰掛けました。
「そうだな。私も普段は来ぬ」
「あら、そうなのですか?」
「人目に付きにくい場所ゆえ、常は避けておる」
殿下は国の第一王子というお立場。学園の防犯は徹底されていて安全と言えど、何かあってはいけない、ということなのでしょう。
「……では、何故この場所へ?」
「物であっても、場所であっても、有効利用できるものは、そうすべきであろう」
「……っ」
殿下は二人の間に片手をついて、わたくしに体を向け、頬に口付けなさいました。
「場所を……お考えになった方がよろしいのでは?」
「考えた故、ここにおる」
「でも、前回はその……スケッチまでされておりましたのに」
「ここなら人からは見えぬ」
ただ蝉が鳴くだけの、蝉の楽園。殿下とわたくし。わたくしは何故ここにいるのでしょう? 殿下も何故ここにいるのでしょう?
「……何を……しておる?」
わたくしは何をしたのでしょう? スケッチブックの人物画。女性の頬に口付けする男性。目にしたのはたった一瞬でしたのに、男女の絵は目に染み込んだように、わたくしの内から消えてはくれません。
わたくしは果たして本当にここにいるのでしょうか? ちゃんと生きて存在する人間なのか、空っぽなだけの体躯なのか、蝉なのか、蝉の脱け殻なのか。
ジジジジジという蝉の鳴き声が聞こえます。
「蝉が……とまったのではありませんか?」
「蝉?」
「蝉は樹液を吸いますもの」
「吸われたのか? 私が?」
「刺身蛸が茹で蛸に」
ガタンゴトン、ガタンゴトンと、蝉の国を山手線の電車が走ります。
「許嫁殿は蛸には吸盤があるとご存知か?」
殿下の顔が近付き、唇と唇が触れ……。
「……っん……」
蝉と蛸はどちらが強いのか……。