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明徳門

作者: 鍋谷葵

 晩秋の朝寒、長安の正門、明徳門は朝日で丹塗りの柱と沓型くつがたは燦然と輝いていた。だが、唐の繁栄と似ている普段の人の往来が極端に減っていた。それもそうであろう。なぜなら、ある官僚の首吊り死体が楼で見つかったからだ。どうやら死因は自殺らしい。というのも殺しにしては争った形跡や持ち物が盗まれたような影は何もなかったからである。また決定的だったのは遺書が死体の足元に置いてあったからだ。そしてその死体の身なりは中々奇妙であった。なぜならその死体が朱色の漢服を羽織っていたからである。その朱色の漢服というのはこの官僚の同僚曰く、身分の高い人に会う時の正装であったらしい。しかしその漢服の色とは相反するように死体は青白く、肋骨が浮き、腹は鼓腸のせいで出ていた。それはあまりにも惨めで例えるなら地獄の餓鬼であった。


 この官僚、李然は長安では随分と有名な男であったらしい。それはあまりにも若くして科挙に受かり、その能力も優秀であったからだ。また容姿は古来からの戦士のようであった。髪は艶やかな漆黒、背丈も高く、筋肉質な体でありそれを例えるならば金剛力士というものが一番似合っているのかもしれない。

 これらに加えて李然は道徳観念の強い男でもあった。何か民が苦しむような制度を作ろうとするものが現れたのならば身分の差など一切を考えずに即刻糾弾をした。

 男はこのような人間であり、何処か武士気質であり、その性分はあまりに真っ直ぐであった。


 ある夏の日。その日は雲一つ無い快晴であった。


 休暇をもらっていた李然は普段の仕事の気晴らしをするために朱雀大路を闊歩していた。李然はこの長安がたまらなく好きであった。特に正門である明徳門は威厳があり、明王が如くこの都に立ち入る者の一切を見下ろしているような建ち住まいであったため武士気質の李然は好んでいた。それこそ、自害するならば明徳門でしようと思うくらい。

 また街並みは相変わらず丹塗りの建物が美しく輝いており、多くの人で賑わっていた。売り子の声、惣菜の匂い、色とりどりな極彩色を放つ服たち、それら全ての光景は唐の繁栄の影響であった。この光景も李然は好んでいた。

 しかし、ある一か所のみは栄光の喧騒とは違い、何か不吉な喧騒が起こっているのが李然の目に映った。そこは普段は人の出入りなど一切ない路地だったため余計目に着いた。

 李然は仕事を忘れようとせっかくの休日を気晴らしに使っていたが正義感の歪みようか青年なりの好奇心かは分からないがとにかくその喧騒が目に付いて、気になったため、犬のように路地に向かって人ごみを掻き分け、駆けよった。


 現場は想像以上に不吉な空気が漂っていた。

 そんな空気を一息のみ体を慣らすと李然は重い息を吐き、もう一呼吸すると嫌な鼻に着くにおいを真っ先に感じた。そして何か得体のしれない恐怖に襲われた。嗚呼、恐ろしや……。

 李然は先程感じた得体のしれない恐怖を取り払うため、近くにいた紺の服を着た若い少し痩せ気味の女に問うた。


「おい!どうしたのだ」

 

 その尋ね方も何処となく若々しい武士のような覇気と青年の好奇心とが混じった少し返答を渋るような尋ね方であった。しかし若い娘はそんな尋ね方にも物怖じせずはっきりと返答し、ある一点に向かってほっそりとした瑞々しい人差し指を向けた。


 「おお、李然様。実はですね、また人が殺されたのですよ。それがさっき死体が見つかって、皆がここに集まってきて……、今の騒ぎが起きているのです」


 李然は驚いた。

 それはもちろんこの女の返答、その凛然さにではない。その女が指を指した一点にあった光景のことである。

 一人の若い男が腹を綺麗に割られて死んでいたのである。争った形跡もなく、すれ違いざまにザッと切られたようだった。また、血は鮮血ではなくすでにどす黒い血に変わっておりその肌は紫色に変色していた。それに加えこの夏の暑さのせいか腐食が進みあの先ほど李然の感じた異臭を放っていた。どうやら銀蠅もたかっているらしい。


「なんということか……」


 李然は誰にも聞こえない声で呟いた。いいや、呟きなんかではないであろう。あれは、そう、嘆きであった。人が死んだというのに何も思わず野次馬精神で集まる者、人殺しという非道の道に堕ちた者に対する嘆きであった。またこの嘆きと同時にある一つの勇気が芽生えた。『非道の者をこの手で罰する。』この勇気は純粋な正義感から来るものであり、辺りの喧騒や自分の和を焼き切るものでもあった。

 それから数分自らの勇気に心をたぎらせ立ち止っていると熱く熱せられた鉄を冷却するよう突然、声を掛けられた。

 

「李然様、どうしてこのようなところに」


 その声の主は四十手前の髭が伸び、恐ろしく脂ぎった顔の延尉の庁の役人であった。李然は内心この者に怒りを覚えた。自らが考えをたぎらせ、悪を罰そうとしている所をなぜ邪魔をするのか、腹立たしい、怒りはそんな自己中心的なものであった。しかし怒りはサッと引き、この者と協力し正義を成そうとする考えが浮かび、優先された。


「いや、なんだ役人よ、たまたま休暇をもらったのでしばらくぶりに町を歩いていたんだが、この騒ぎが目に付いてな。少し気になって駆け付けたらこの様だった訳なんだ」


「そうでしたか李然様。でもまあ何とも惨たらしいですな。無抵抗であったであろう人間を殺して、まだ強盗だったら理解できなくもないですが何も盗んだ形跡もない。ただの殺人な訳ですからな。しかも、これと同様の殺人が同じ路地で連続してが三件ですよ」


 役人は何がおかしいの笑いながらそんなことを言った。しかし、そんなことは全然彼の頭に残らなかった。また、李然は叫ぶにして叫ばないような何とも言えない声で役人に提案した。


「ええその通りです。何の罪もない人間が何人も殺されるのが繰り返されるのは耐え難い。ですから役人よどうか私と協力して犯人をひっ捕らえませんか」


 役人は鳩が鉄砲を喰らったような顔をすると数分間役人は考え込み、ようやく顔を上げ、一瞬暗い表情をしたかと思うとすぐさま明るい表情に変えて小さな声で『はい』と返答をした。

 李然はすっかり勇気と実行する力を纏い、一切の邪悪を滅する自信をつけてさらに提案をした。

 

「良し、ならば今夜またこの路地へ来てくれ。そこで犯人が来るのを待つのだ。」


「分かりました。ならば是非、刀をご持参して頂けないでしょうか。犯人ばかりが刀を持っていては返り討ちに会うかもしれませんから」


「あい、分かった」


 李然は役人と別れ、一端は自宅へと戻り、犯人をひっ捕らえる準備を終えると束の間の休息を貪った。


 この暫しの李然の休息の間に作者から一つ提案をさせて頂きたい。この話に出てくる人間を読者諸君の身近な人間に例えて読んでほしいというものだ。これは特段、私が強要したいものでもないし、もっと言うならこの段落など飛ばして読んでもらっても構わない。しかし、こんな物語に出てくる人間でもやはり人間だということだけは覚えていて欲しい。


 それから数刻たち日は暮れ、夜を迎えた。空気は冷え込み、凛然とした空気が張り詰め、空には光り輝く、まさに団子のような丸い月が都を仄暗くもやさしい光で照らしていた。また町からは昼の喧騒が嘘の様に静まり町にはただ鈴虫の鳴き声が響くのみであった。

 李然は急ぎ、走りあの路地へ向かった。というのもあの勇気がとめどなく心に響き渡り一刻も早く犯人を捕まえたいという欲求がふつふつと精神を蝕んでいたからである。

 それから数分間走り、あの路地に着くと役人がすでにそこにおり、火の灯った木切れを持ってジッと路地に隠れていた。また揺らめく炎の光がぼんやりと役人の顔を照らしており、ふと見える役人の形相はあの協力を提案したときに一瞬だけ見せたあの表情に似ていた。

 李然はその様を見るとさっきまで精神を蝕んでいた欲求がすぐさま失われ同時に得体のしれない恐怖に襲われた。しかしそんな恐怖に襲われてもあの勇気は全然消えなかった。


「ああ、李然様。まだ犯人は来ておりませんぞ」


 役人は李然の顔見るとまた一瞬で表情を変え明るい表情となった。そこには全く緊張とかそんなものを感じられなかった。


「そうか、はて今晩奴は現れるのかな」


「ええ現れますよ、きっと。そうです、刀はご持参いただけましたかな」


「ああ勿論」


「ならば良いのです……」


 また数刻経った。しかし、依然として犯人は現れなかった。李然はそんな犯人が現れない焦りから自分の勇気が揺らぐのを感じた。この絶対たる物の揺らぎ徐々に大きなものになり、少しだけ、あの剛健な顔に脂汗として現れた。その様子を感じ取ったのか役人は小さな声で尋ねた。


「李然様、どうしたのですか。まさかしばらく冷たい風に当たって体調が悪くしてしまったのですか」


「いいや、違うのだ。ただ、そう、気持ちが落ち着かないだけなのだ」


「なるほど」と役人はやはり耳にスッと触れるだけの声で返事をし、また何か思い悩むような顔すると火のついた木切れから手を放し、木切れが地面に落ちると同時に唐突、叫び声をあげた。猿のような声であった。

 李然は状況があまりに唐突で何が何だかうまく掴めず、どうしたらこの気狂いの喚きを止められるのかを悩む暇もなく、脂汗は更に分泌され、顔は青白く変化しており、急ぎ、腰に差している刀に手をかけて怒鳴った。それはきっと刃を見せれば恐怖で慄き黙るのだと考えたと思う。


「どうした、役人!恐怖か!恐怖なのか!」


 しかし役人は叫ぶのを止めなかった。それどころかさっき以上に声を上げ叫んだ。さらにその叫んでいた内容というものが奇想天外とんでもないものであった。


「おおい!おおい!助けてくれ!通り魔の野郎だ!早く、早く助けてくれい!殺されちまうよ!」


 叫びは完璧であった。自らの周りの状況それらが叫びを完璧にさせた。青白い不吉な顔をした筋肉質の男、怯えている弱々しい男、これが証拠と言えず何であろうか。

 その叫びから刹那、用意されたように対になっている向こうの路地からこの役人と同じ恰好をしたものが四、五人現れ李然の肩や腕を抑えた。また、辺りには夜中突然鳴り響いた叫び声を確かめるために出てきた人々が人だかりを成していた。そして完全に李然を地面に取り押さえると小さな声で会話を始めた。


「おい、よくやった。お前、これで人殺しの手柄は我らのものであるぞ。恩給間違いなしだ」


「そうさな、間違いない。いやはや計画を起こすために三人ほど殺してしまったがまあ、庶民なぞ変わりがいくらでもいるからな」


 小さな小さな笑い声は鈴虫の鳴き声の中に有耶無耶と消えて行った。そしてあの協力していた役人は嘲るように言った。


「李然様あなたが悪いのです」

 

 李然は表情を一変させた。その顔色は先程までの青白い顔とは打って変わり真っ赤な鬼の様な顔となった。もう李然の中には勇気とかそんなものは一切合財無くなっていた。その勇気の代りに新たに湧いてきたものが悪に対する灼熱の憤怒である。己を騙し、罪なき者を我の欲求のためだけに殺す。そんな身勝手な欲に対する正義から生まれた憤怒である。


「私はやっていない!事実だ!それは私の名誉に誓って言えよう!この罰は罪を行った者へ下されなければならないのだ!罪を起こしたのは貴様たち役人だ!信じろ、清廉潔白の身の私を信じろ!」


 李然は叫び、怒り、訴えた。


 しかし、人だかりでは李然の憤怒とは全く違う、冷徹な、嘲るような会話が繰り広げられていた。それは二人の会話から、三人へ、また増え十人、そんな連鎖が続いた結果の会話である。この中、つまり会話を繰り広げる人々の内にも少なからず李然に助けられた者がいたであろう。そのような者たちでさえ李然の罪を疑わず、一方的に決めつけた。中には路傍の小石を李然に投げつける者もいた。


 李然はこの光景を見てさらに怒った。「私が助けたはずの者でさえも私を信じてくれないのか!」この言葉が永遠、頭の中で繰り返された。繰り返される度に怒りは温度を上げて行った。だが、李然は悟った。この者たちに何を訴えても無駄であると。人を信じぬ者に何を訴えても無駄であると。そう悟ると灼熱の憤怒は嘘のように消えていった。そして李然の中にはただ空虚が広がった。


 これから先は書くまでも無いであろう。李然は抵抗を止め、連行され、ありもしない罪で裁かれた。この途中、李然が無実だと信じる者は誰一人として現れなかった。しかし李然は死刑には科せられなかった。それは律の長の情けであったからである。

 そして李然はあらゆるものを失った。職、尊厳、私財、およそ生活に必要なものを全て没収された。しかし、ほんの一握りの財産だけは残った。初めての給料で買った、朱色の大切な漢服と帯。そして名誉。この二つだけが李然の手に残った。

 

 また時が経ち、秋は深まった。そのせいか、今まで野宿で何とかなっていた生活も、夜の寒さのせいどうにも回らなくなってしまった。そこで李然は考えた。無常。もう生きていてどうしようもないと。そして、歩いた。おぼつかない足取りで。明徳門へと。もうその頃には李然の体は昔が嘘のように変貌していた。筋肉質だった体は痩せ細り、目は一切の光を灯さなくなっており、艶のある黒髪はもう真っ白になっていた。こんな姿になっても誰も李然に助けの手を伸ばす者はやはり居なかった。


 李然は深夜ようやく明徳門へと着いた。辺りは己が捕まった夜とは違い、月光は差しておらず、ただ寒いだけの寂しい夜であった。

 李然は夜目を効かせ楼へと繋がる階段を上った。楼へ上がると李然は自ら持っていた鋭く割れた黒曜石で自らの着ていた白の服を長方形に裂くと、今度は自らの手を切り、最後の力、想像を絶する集中力で自らの血を使い切り裂いた長方形の服に遺書をしたためた。その内容こんなものだった。


『私は今、自害します。たった一つ騙され、裏切られたため自害します。どうか私をお許しください仏様、善行は悪行でもあるのかもしれません』


 遺書を書き終わると、李然はなけなしの名誉を守るためにあの漢服を着て、近くにあった木箱に足を乗せ、梁に帯を結ぶと、そのまま、首を掛け……。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 純粋に正義にかられる者は、身の周りのものすべてが己の正義のためにあると思ってしまうのかなと思いました。 [気になる点] 作者からの段落はちょっと注意力がそがれました。
2020/03/23 23:22 退会済み
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