トキテ
結局、トキテはあのあとも体のいい助っ人としてアーク内を奔走した。
どこで話を聞きつけたのか知らないが、他部署の雑用まで舞い込んで来た。小荷物運びが殆どで、本来なら瞬間移動能力者のスタッフやアーク内を巡回するロボットがその役目を負っていたはずの仕事だ。ロボットはハッキングを恐れて全てが運用停止。それに伴い、重要部署に瞬間移動能力者がスタッフも含め、全員が臨時配属されてしまった。そのため、瞬間移動能力者を配置してもらえなかった小規模部署は、荷物を自分で運ばなければいけなくなった。このご時世だと、不便極まりない。
あちこちに顔を出すうち、トキテは段々と交友関係を広げていった。
そう言えば、今まではセキヨウと二人きりだった。
二人の世界を大事に守って、外の世界に触れようとしなかった。トキテが知る人物は、上司のラルフと、必要以上に他人に介入するクセがあるロッソ、以前任務で一緒に行動したことがあるルーヴィスくらいだ。そこに、研究所の事務員ベスと、何人かの研究員が加わった。手伝いで顔を出した庶務部や運輸部(そう言えばロッソも運輸部だ)にも、顔見知りが出来た。ただ残念なことに、人の名前を覚えるのが苦手だと、このとき初めて気付いた。付き合いが増えなければ、わからなかったことだ。
教会の神父のことを言えないな、とこの日もトキテは研究部事務室に出勤した。研究開発部の始業は遅い。
「おはよう、ベス」
もう昼前だが、エリザベスは机に突っ伏して寝ていた。
「また徹夜?」
エリザベスのボサボサ頭の謎はすぐに解けた。ここ最近の激務で、彼女は殆ど帰っていない。本社裏手にある社員寮に住んでいるらしいが、それでも帰るのが面倒と思うくらい、休みが取れない。エリザベスだけではない。研究開発部の殆どがそうだ。
「ふわぁ〜……おはよーございます……。今何時ぃ〜?」
えっと、とトキテは壁掛けのデジタル時計を見る。あと十分ほどで正午だと伝えると、冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出し、グビッと飲む。どう見ても不健康だ。
「ベス、まともなご飯を食べたのはいつ?」
「ん、と……一昨日かな?」
信頼度は低そうだ。時間の感覚が大いにズレているので、エリザベスが言う一昨日は三日前というのがザラだ。
「お腹空かない?」
「慣れた」
慣れるもんなのか、と一日三食を食べているトキテには疑問だ。貧民街で育ったのはもう十五年近く昔で、記憶の彼方だ。空腹で、ひもじくて、惨めで、生きるのに精一杯だったという記憶は朧げながらある。しかし、その実体験がかなり薄れてきていた。今では夢だったかと勘違いしそうになる程だ。
トキテはカバンから袋を取り出して広げた。出てきたものを見て、ベスが目を丸くする。
「なぁに、これ?」
「おにぎり。自分の昼用で三つあるから、一つやるよ」
「へぇ……。これって、ライスだよね?寿司とは違うね?」
物珍しそうに観察した後、おにぎりを頬張った。頬張るエリザベスは、幸せそうに顔を綻ばせた。その顔を見ていると、トキテはなんだか昔を思い出すような、よく分からない感覚を覚えた。記憶の彼方だからか、それとも錯覚か。その感覚の輪郭を掴む前に、それは霧散してしまった。
「今日もラボ間の荷物運びとかでいいのかな?」
うん、よろしく、と頬を膨らませたままのエリザベスが答える。彼女はしばらく口をモグモグと動かし、喋れるようになると、テキパキと指示し始めた。
「今日はまず九番からデータ貰ってー、七番、四番、三番に寄ってから帰って」
事務室から一番遠いのが九番ラボなので、行き来がなければ、九番ラボに行ってから戻りながら他のラボに顔を出すのが効率良いことは、トキテにもわかってきた。ただし、五番と六番は事務室を挟んで反対側にある。二番は地下の巨大なラボで、トキテはそこに行くのが一番嫌だった。行きにくいのもあるが、大体面倒なことを頼まれる。閉鎖的な空間のせいか、集まっている人もかなりの変人揃いだ。それを考えると、今日のルートは回りやすい。
トキテはここ何回かの手伝いで、聞き込みもしていた。
まずはエリザベスに、ヨーコ・トキテを知らないか、聞いていた。同じような質問を、各ラボの研究員にしているが、知っているという人物にまだ会えていない。
研究員も、実はすごく多いらしいが、勤務時間が不規則なのと、トキテが会うのは大体がラボの責任者か事務員なので、ラボの全員に話は聞けていない。
九番ラボで、データをもらいにきたと告げると、顔を出したのはシャオだった。会うのは三度目である。エリザベスの上司、研究室全体の主任で、ベスとお揃いのボサボサ頭。多分、この人も家に帰ってないのだろう。
「やあ」とシャオは挨拶した。「すっかりベスにこき使われてるみたいだね」
「まぁ……否定はしません」
「はは。悪いね。はい、これ」
と手渡されたのはディスクだ。一般規格ではなく、アークのコンピュータ専用だという。もちろん、セキュリティも施されていて、毎回解除鍵が違うようだ。だからこそ、トキテにも気軽に渡せる。
わかりました、と受け取って、九番ラボを出た。次の行き先があるから、長居はしない。研究室としても、今この時期に部外者が長時間在室するのが気になるようだった。
「あっ」ラボを出て、背後で閉まった鉄扉を振り返った。「またシャオさんに聞くの忘れた……」
手伝い優先にしてしまうと、自分の要件をつい忘れてしまう。
また今度。
多分、九番ラボにはまた来るだろうなと、トキテは次の七番ラボへ向かった。




