2-1
「『夢』の事だったよね。僕で良ければ話してくれないかな?」
低くも高くもない艶のある声で漣は問いかけた。辺りにはコーヒーの香りが漂い、智は余計場違いな雰囲気に内心身を縮める。
「見始めたのは一週間前でした。舞台はヨーロッパのどこかで……」
記憶を探りながら智は喋る。
舞台はヨーロッパ、月のない闇の中、二人の人物が対面している。大きな屋敷の片隅にいるのは金髪の美女と目付きの鋭い男。美女は泣きそうな顔で男に訴えかけた。
「お兄様、全て私が決めた事です。あの方は私を大切に思ってくれています。そして私の気持ちも同じなのです」
「当人同士の問題ではない。あの男の家は、そう簡単に割り切らないだろう。俺はアリサが泣くのを見たくない。大事な妹なのだから」
小さな叫びにも似た声に、アリサは淡い微笑を浮かべる。
「ありがとう、お兄様。でも私は行きます。たとえ何があっても、あの方の妻をやめません。だからお兄様も自分の幸せを考えて」
幼い恋人のようにアリサは兄の胸に飛び込む。
「一生会う事が出来なくても、お兄様はお兄様だもの。たった一人の家族なんだから…」
「分かったよ」
妹の頭を撫でながら、ふと気付いた事を口にした。
「子供じゃあるまいし、めったやたらに男に抱き付くのは考えものだぞ。近々嫁に行く娘が…」
「嫌だわ、お兄様ったら」
クスクスとアリサは笑う。
「嫌ではない。俺は常識をいっているだけだ」
「でも、お兄様だし。あの方も分かってくださるわ」
無邪気なアリサと違い男は気をまずそうに頭をかく。
「あー、そうだけど。いや別に俺は、あいつが恐い訳ではなくて…」
カチャリと音を立てて、カップをソーサーに戻す。コーヒーは飲みやすい温度になり、智の渇いた喉を潤す。
「全体的にセピア色をしていて、まるで昔の映画を見ている感じでした。アリサの髪の色も僕が勝手に金髪と思っているかもしれないし。夢にまで見るような本や映画を見た事もなかったし。それも毎回同じ内容で…」
「毎回同じ夢ですか。気になりますね。相模君が見たもの全てが、僕に伝わっているとは限らないけど、彼女達はかなり良い家の出身ではないかな?だけど現在は違う」
「違う?」
「そう。相模君のいう身なりから考えると没落した貴族かと。それに彼女は兄の事を『お兄様』と呼んでいたし」
「ああ、そうですね。没落貴族かもしれません。全体的に荒廃的という雰囲気だったし。でも桂木さん、おかしな事があります」
場違いと感じていた雰囲気は今はもうなく、智は身を乗り出し漣に質問をする。いつも通りの強い瞳で。
「貴族なのに、兄は身なりも言葉遣いも悪いんですけど」
「これは推測だけど、兄は出奔してたんじゃないかな?つまり家出。貴族というのは堅苦しいらしいし、特に長男ですからね。家出もしたくなりますよ。たぶん」
出奔という言葉を家出と置き換える事により、智は例の二人をイメージしやすくなった。何かの事情により没落し、家族を失った妹のもとに、家出をしていた兄が戻って来た。
「戻って来た理由は分からないけど。会話からは善良な理由に見える。だけど心の中、本心は見えないからね。優しさからだと信じたいよ、僕は」
「そう、ですね。彼女がこれ以上、悲しむのは見たくない。でも桂木さん、これが真実とは限らないでしょう?」
「ただの夢かもしれない。でも違うかもしれない。今は嘘とか本当とかにこだわるんじゃなくて、こんな夢を見た理由を考えたほうがいいと思うな。気になるという事は、君自身にも関係がある事だろうし。だから相模君は相模君の出来る事を考えなさい。それ以外は僕達が調べるから」
「そんな事をしてもらう理由が分かりません。これは僕の問題であって、桂木さん達には関係ない事です」
「そうだね」といって、漣は微笑む。
「君が見たという事は、君に関わりがあるんだろうね。だけど今、こうして話をしているって事は、僕も関わりを持ってしまったというんじゃないかな?一人で問題を解決出来る事もある。でも出来ない事もあるんだよ」
智にもそれは痛いほど分かっている。17年間生きてきて、どうにでもならない出来事をたくさん見てきた。
「それでも悪いので…」
俯き加減で喋る智に漣は苦笑に見える笑顔を作った。
「仕方がないね。ああ、そんな顔しないで。相模君は気にする事ないから。これは僕のおせっかいに過ぎないんだから」
「すみません」
「誤る事もないけど。ただ、気になる事があったら、いつでも相談はしてほしいな。ぼやきでもOKだよ」
今まで会った誰とも違う反応に、智は内心戸惑いながら頷いた。
「ところで相模君。美怜ちゃんから聞いてるんだけど、一人暮らしなんだって?」
「そうですけど。それが何か?」
突然の話の変化にも智は動揺する事もなく、いつもどおりの人当たりの良い受け答えをする。
「遅くなったおわびにはならないかもしれないけど、店のブランチメニューをテイクアウト用に包んでおくから、家に着いたら温めて食べてくれないかな?」
「ブランチメニュー?アンティークショップじゃなかったんですか?」
当然の質問に、漣はパンフレットを読むかのようにスラスラと答える。
「もともとはアンティークショップだったのを、広尾に引越してきた時ティールームを3階に作ったんだ。アンティークって、敷居が高いと思ってほしくなかったから。それに古くて価値のある物だから大切に仕舞っておくんじゃなくて、大切に使ってほしいしね。そういう考えから毎週土曜日曜の11:00~16:00まで、気軽にアンティークに親しめるようにティールームを営業しているんだよ。店の為にも開発中のメニューで良かったら食べてほしいんだけど」
「話を聞いてもらえただけでも感謝しているのに……」
「気にしなくていいよ」と、漣がニッコリ笑ったのと同時に、微かなノックの音と共に、紙袋を携えた従業員の男性が入ってきた。
「漣様、こちらでよろしいでしょうか?」
頷く漣を見、今度は智に話しかける。クリーム色の紙でできたランチボックスを同色の紙袋に男性は仕舞い込んだ。紙袋には、臙脂色の文字で幻燈館の名前と住所が小さく記されてあるだけのセンスのいいもの。
「ありがとうございます」と、智は二人に向かって小さく会釈する。
「僕も久し振りに楽しかったよ。人の悩み事に対しては不謹慎かもしれないけど」
「相模君」と従業員の男性-名前は松波信志という-が声をかけてきた。
「勘違いしないでほしいな。漣様は自分の言葉で話せるのが嬉しいんですよ。そして、それに見合った言葉が返ってくるのが楽しい」
松波は笑みを浮かべる。それは智が今まで会った事のない、見た事のない大人の男を感じさせる魅力的な笑み。大人に紛れて生きてきたけど、智の周りにはこんな笑顔をする大人はいなかった。思わず見惚れている姿を漣に気付かれる。
「家まで送るよ。確か京王線沿線だよね?」
「はい。でも悪いので…」
「だけどね…」と珍しく漣は神妙な表情を作った。
「こんな時間まで相模君を引き止めておいて、帰りも電車を使わせたなんて、美怜ちゃんに知られたら怒られるから」
「美怜さんには漣様も頭が上がりませんからね。だから相模君、是非送らせて下さい。『幻燈館』の明るい未来のために」と、松波も握り拳を作り智を説得した。
少々大袈裟に聞こえるセリフも、美怜の性格を知っている智には、十分理解できるもので、同時に漣と松波に同情もする。
「それじゃあ、送ってもらえますか?」
「もちろんだよ。僕は車を出してくるから、相模君は信志と1階で待っていてくれないかな」
智が頷くのを待ってから漣は車を取りに行った。
「さあ、行こうか?」
信志に促され智は1階の階段を下りる。店にある時計が8時を告げるのと同時に