しんじくん。
あけました。おめでとうございます。今年もよろしくお願い致しますねー。なんだかマニュアル通りって感じで申し訳ないですが…。お話のほう、楽しんでいただけたら光栄です。
時間は刻々と過ぎていく。
「ここの時計、進むの速いんじゃない?」
僕の真剣な疑問に彼女は、まっさかぁ、と答えた。
ベッドの上で彼女の目覚まし時計とにらめっこしてみたが、秒針のスピードと僕の心臓のスピードは同じぐらいだったからため息をついた。
「ですよねぇ…」
僕は諦めて目覚まし時計を元の場所に戻して、彼女の枕を持ってベッドをおりた。
「でもさ」
おりてきた僕を右手でちょいちょいと呼んで、彼女がいった。
僕は枕をぎゅっと抱いて彼女の前に座る。
「楽しい時間って早く過ぎるよね」
僕は相槌を打って枕に鼻をうずめた。
彼女はやけにニコニコしている。
だから僕は彼女に好きだよ、と言ってみた。
彼女は知ってるし、と笑って僕の頬をぷにぷにとした。
「相対性理論…みたいな?」
彼女は掛けてもないメガネを上げる仕草をしながらインテリぶって言った。
それ、アインシュタインが言った有名な喩えで、実際はそれと相対性理論は違うんでしょ?
言おうかと思ったけど、彼女の機嫌を損ねるのはいやだったのでやめた。
かわりに、彼女の頭をなでなでした。
彼女は猫みたいに目を細めて、今にもごろごろと喉を鳴らし出しそうだった。
口では言ってたけど。
なでなでしながら枕の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
少し粉っぽいような不快な埃の臭いをかきけすように彼女の匂いは僕のなかを埋め尽くす。
口で大きく息をはいて幸せってこういうことだよね、と言ったらごろごろ言っていた彼女に笑われた。
「やっすい幸せだね」
「そんなことない。なにものにも代えがたい極上の幸せだよ」
彼女をじっと睨み付けて言ったらそーなんだ…、と苦笑い。
ヤバい、引かせたかな…?
まあ、いいか。
いつもは僕が引かされてるし。おあいこでしょ。
と、よくわからない理屈で自分を納得させて僕はピアノの前に座った。
彼女の部屋にはピアノがある。
正確には、彼女と彼女の弟の部屋にはアップライトピアノがある、だが。
僕はピアノのふたを開いて鍵盤の上に乗っているなんともいえない赤紫の長いフェルトを四つ折りにして椅子の上においた。
椅子は少し高いけれど、いじるのもめんどくさいし低いよりはましだからこのままでいいだろう。
白い鍵盤に人差し指を落とす。
ド、の音。
澄みきったその音は穢れた僕らを責めるようにもきこえた。
僕だけだと、いいけど。
鍵盤から一旦手を離してピアノの一番右のペダルをガタガタと踏んだ。
ちゃんと沈むのを確認して鍵盤に少し爪ののびた指をおく。
ペダルを踏み込んで鍵盤を優しく弾いた。
ドとミとソの音。
弱々しくアタックをしたCのコードは、ペダルの力を借りて部屋中にふぁんと広がって意外とすぐにきこえなくなった。
「へたくそ」
隣に立っていた彼女はくすりと笑った。
どうみても切りすぎの爪の指が鍵盤に落ちた。
僕は何か弾いてくれるのかと少しわくわくしたが彼女は2、3個長調の和音を弾いて僕のほうにむきなおった。
彼女を見上げると自慢気な笑顔をこちらにむけていた。
「…なに」
「なんにも」
彼女が僕の頭を乱暴に撫でて僕の脳みそを揺らした。
「くらくらするし…」
僕は呟いてイスからおりてピアノを片付けた。
彼女にはまたの機会に弾いてもらおう。
「ねぇ」
彼女は返事をする。
僕は彼女の返事を聞いてから彼女に抱きついた。
「…ん。どしたの?」
彼女が訊いてきたけど僕は軽く首を左右に振っただけだった。
彼女の胸に顔をうずめた。
ふわふわと僕を包みこんでくれる気がして僕は目を閉じた。
「…よしよし」
ぽんぽん、と彼女の手が僕の背中をさすった。
僕は彼女を少しだけ強く抱き締めた。
かちゃ、とドアノブの回る音がした。
「!?」
瞬間、僕は彼女から突き飛ばされごわごわのじゅうたんの床に転がった。
先ほどまで夢見心地だった頭では今の状況をうまく飲み込めなかった。
とりあえず床から起き上がった。
「ぁ…」
ドアを開けたのは彼女の弟だった。
気まずそうにこちらを見ている気がする。
僕の被害妄想だろうか。
「…こんにちは」
「久しぶり」
彼女の弟は僕と挨拶を交わすとじゃあ、といってドアを閉めた。
リビングにでもいったのだろうか。
「っはぁ…。びっくりしたぁ…」
「それはこっちの台詞です」
冷静なように繕っていたが僕の心臓は周りに音が聞こえるんじゃ、というぐらいばくばくしていたのだ。
「じゃ、帰るわ。シンくんにも悪いし…」
なにを考えてるのかわからない彼女にいう。
彼女は僕が自発的に帰ると言ったときはだいたい止めないのだ。
「あ、そんじゃ玄関まで」
僕たちは部屋を出た。
スニーカーをしっかりと履いて自転車の鍵をポッケからだして彼女にバイバイを言った。
「うんじゃねー」
玄関のドアに手をかけてもう一度振り返った。
なぜか偶然あった『彼』の目はやっぱり僕らのことを、なんだかぎこちなく見ているように思えてしょうがなかった。
気のせいだと、いいな。