陸の魚と針の音
――大きくなったら何になりたい?――
その問いに対する返事が「魚になりたい」。誰だったか忘れたけれど、そのとき近くに居た大人が言った。
――あなたは人間の女の子。お魚さんにはなれないのよ――
――もっと“普通”に、あなたの夢を教えて頂戴。お花屋さんとかケーキ屋さんとか、ね。いろいろあるでしょう?――
しばらく考えてから凄く凄く小さな、消え入りそうな声で呟いた。幼稚園の文集用に求められたその答えはそのままの形で記された。
『まだきめてない』と。
自分のものではないその文字を私はぼんやり見つめていた。
“うそつき”
自らの何処かからそんな声が生まれた気がする。だけど同時に納得もしていた気がする。
今思うとあの頃の私は、なんとなくでもわかっていたのかも知れない。叶わない夢を口にしたこと。そして、自分の願いは“普通”ではないのだと。
あれから随分と時が経った。
もう女盛りなどと持て囃される歳ではないけど、働き盛りとは呼ばれるくらい。
時が動いてる。動いてる。
キリキリ、キリキリ、秒針が鳴く。
あのとき無理矢理に導き出した答えはある種の呪縛だったのか。『まだきめてない』そんな漠然とした状態を保ったまま、私はこの歳まできてしまった。
こんな私でもどういう訳か結婚して妻となった。夫は私の何処を気に入ってくれたのかわからない。ううん、何度か聞いたことがあるの。夫は真面目な人。とりあえずの返答なんかしないとわかってる。私も覚えてる。
「嘘をつかないところだよ。初めてのデートで君は遅刻したよね。一時間も待たせた上に“寝坊しました”って言ったの。失礼だけど正直な子だなって」
本当、あのときはごめんなさいね。顔の前で手を合わせてくすぐったく笑う。今では笑い話。それでも私の中では絶えず鳴り響いていた。
”うそつき”
”うそつき”
私は正直なんかじゃない。
こんな純水の中で生きられるのかしら。お魚になって大海を泳ぎ、お腹いっぱいプランクトンを食べたいわ。
勤勉な夫だけでなく、外の世界もそうだった。社会は穢れてるなんてよく聞くけれど、私からしたらむしろ逆よ。
みんな生き生きとしているわ。陸地に生きるものらしくコンクリートやアスファルトを踏みしめて、きりりとした眼差しをひたすら前へ向けている。しゃんと背を伸ばしている。それでいて何処か慎ましいの。清らかで眩しい花菖蒲の群れ。
直射日光。眩しいわ。瞼を開き続けるなんて難しい。珊瑚のベッドに寝そべったり、海藻たちとくすぐり合ってお腹捩れるほど笑ってみたいわ。岩陰でかくれんぼ。そんなところに居たら誰にも見えない?
いいのよ。
いいのよ。
だって、私は……
『まだきめてない』
ずっと昔に嘘をついてしまったばかりに、私は本当にフワフワと漂う生き方しか出来ないみたいよ。
私、第一印象だけはいいらしいの。入学にしても就職にしても、面接は不思議なくらいすうっと通ることがあったわ。面接官は私の何処を見て良しとしてくれたのかわからない。
でもね、長くは続かないのよ。私は陸地の言葉を上手く話せないみたいなのよ。短すぎたり長すぎたり、嫌味と受け取られることもあった。初対面であれだけハキハキと受け答えしていたんだから口下手ということはないでしょう、わざとでしょうってね。第一印象が仇となる。
急げど急げど、早くはならない。
言葉。この言葉、伝わらない。
キリキリキリキリ、みぞおちが痛む。
魔女さん、魔女さん。ねぇ、貴女。魔法をかける相手を間違えたわね?
私はただの魚よ。陸の王子様に恋をしたのは本当だけど、お姫様なんかじゃないし、なれるだけの清らかさも品の良さも持ち合わせていないのよ。もう女の子でさえないわ。これ以上、優しい王子様の手を煩わせたくないの。だから、お願い。
叶わない願い。もうわかっていたんだから。
「お魚になれないなら泡にして」
それから。
ただの魚は泡にはならず、深海の奥へと沈んでいった。それはこの陸地で言うところの眠りだった。
起きられないどころの話ではなく、私はおそらく数日間、自分の持つありとあらゆる感覚を何処か懐かしい彼方の場所へ委ねていた。
目覚めたとき、夫が手を握ってくれていることに気が付いた。今が一体何時なのかもわからないのだけど……
コチ、コチ、コチ
一雫、一雫、雨だれのように秒針が、泣く。
「玲司さん」
“◻︎◻︎◻︎”
「……え?」
私は久しぶりに夫の名を口にした。その後に何か零れた。切れ長の目をまぁるく見開いた彼を見てやっと、私はこの陸地での言葉を思い出す。
心配をかけてごめんなさい。
「僕の方こそ。こんなことになるまで気付かなかったなんて……」
貴方のせいじゃないわ。
「ううん、君は何度も泣いていたよね。まだ頑張れるって決めつけてしまった」
いいえ、いいえ。
確かに私は伝えていたつもりだったけど、今に始まったことじゃない。私は昔から、上手くは伝えられないの。
会話が成り立っていたのが不思議なくらい、私の紡ぎ出す言葉は弱々しく、辿々しく、まともに形にもなっていなかった。ふと夫が思い出したように立ち上がる。
「何か食べるかい?」
私は冷蔵庫の方向を指差し、手ぶりで形を示した。
蜜柑とヨーグルトを寄せ固めたゼリーを持ってきてくれた。それをスプーンでひと掬い。私が唇だけで感覚を辿り吸い付くようにすると、雛鳥みたいだねと言って微笑む。
「ゴミ箱を見てびっくりした。毎日僕の弁当を作ってくれていたけど、君はこればかりしか食べていなかったんだね」
そう、食欲が無くて。
「さっきのもびっくりしたよ。一体何処の言葉を喋ったのかと思った」
私も、よくわからないの。玲司さん、知ってる?
「ううん、初めて聞いた。でもちょっと懐かしかった。真似しようとしても出来ない。不思議だね」
本当に不思議。懐かしいだなんて、まさか貴方までそう言うだなんて。私もよ。思い出そうとしても二度と出てこないと思うの。
コチ、コチ、コチ
速度を緩めていく秒針の音が
コチ……コチ……コチ……
この陸地で足掻いて生きてきた私の、私の、あまりに不器用な感覚を呼び戻してくれる。巻き戻すみたいに。
音もない一雫が頰を伝ったそのときに、自然と一欠片の言葉が落ちた。
「優しい音」
怖くてたまらなかった秒針の音が、時を刻むこの音がこんなに優しく聞こえる日が来るなんて、思わなかった。
やってみるかい? と渡されたスプーンを私は持つことが出来る。きらり光るゼリーのプラスチックの器を優しく持つことが出来る。ぷちぷちと小さく弾ける蜜柑の食感、この口の中で味わえる。もう流し込むだけのものじゃない。
貴方を見つめることが出来る。切れ長のその瞳。昔からそうね、鋭いばかりでなく優しくて。重ねた額からぬくもりを感じることが出来る。もう側に居るだけの人じゃない。
それだけのこと。かつて当たり前とさえ認識していなかったことが、こんなに嬉しく思える日が来るなんて、思わなかった。
朝日なのか、夕日なのか。
柔らかな日がリビングの方面から細く射し込む頃に夫が言った。
「今、君の本当の姿が見える。初夏の青空がよく似合うね」
ああ、お空もいいかも知れない。何処までも何処までも、貴方と共に行きたいわ。
ありがたいことにこの作品へ素敵なアートを頂きました!
✴︎九藤 朋様より
http://mypage.syosetu.com/476884/
憂いが生を彩る。
『空想い』
という言葉と作品タイトルと共に贈って下さいました。言葉といい絵といいなんて麗しい! そしてなんと著者をイメージして描いて下さったとのことです! このように美しくイメージしてもらえて光栄でございます。
憂いを帯びた表情。だけど彼女には確かに生きる力がある。人の儚さと強さを共に感じました。
朋さん、拙作を読んで下さった上に素敵な絵まで下さって本当にありがとうございます! 大切に致しますね。
☆✴︎☆✴︎☆
ちなみにスピリチュアル好きで語りたがりな著者からちょっと余談です(もちろん飛ばしても大丈夫です)
夫の名前である『玲司』は零時とかけています。またここから二人でやり直そうという意味です。
例えば10培ってきたものを全て失ったとしても、0からでも歩み出す力を人は持っている。著者自身が現在進行形で立ち上がろうとしているところなので、そうありたいという思いを込めました。