23
ポチが死んだ翌日、姫菜が待ち焦がれていた夏休みが始まった。しかし、それは姫菜が思い描いていたものとはかけ離れたものであった。
「姫菜、ご飯用意したから食べれたら食べなさい。」
廊下から扉越しに母の声が姫菜の耳に届いていた。
姫菜はまだ日の登らない早朝から目が覚めていたが、ベッドに寝て、現在までただ天井を見ている。先ほどの母の言葉もすでに姫菜の頭の中から消え失せていた。空腹感もなく、何もやる気にはなれない。ただ天井を見つめることしか出来なかった。
「……あ。」
ふと意識がはっきりし、喉から小さな音が出た。それが自分の出した大変小さな声だと気づくのに少し時間がかかってしまった。
今何時だろうか、姫菜が時計を見ると、短針が1と2のおよそ中間、長針が6付近を指していた。外が明るく、クーラーも付けずに閉めっぱなしだった部屋の中は蒸し風呂のように暑かった。現在13時半ごろ。
「お腹空い……てないからいいや。」
再び声を出すと、喉が異常に乾燥していて、身体が水分を欲しているのが分かった。のそのそと起き上がると、何か飲むために部屋を出た。
リビングに着くと、母が少し驚いたように目を見開き姫菜を見ている。そんな彼女の目の下は、薄っすらと隈が出来ていた。
「お母さん、隈出来てるよ、大丈夫?」
「姫菜もじゃない……。顔色悪いけど大丈夫?」
母は、姫菜の顔を見て驚いていたのだった。
確認するため、手近にあった手鏡で自身の顔を見ると、姫菜も目を見開いた。いつもは美しい白さである姫菜の肌も、今はやや青白く怪談話に出てくる妖怪のように不気味であった。髪はボサボサ、目は真っ赤に充血し、薄っすらと隈が出来ている。それを見て姫菜は、驚きと同時に、一日でここまで変化するということ、その変化の原因であるポチに、自分がいかに依存していたのかが分かった。
「……凄いね私、妖怪みたい。」
自嘲気味に苦笑いする姫菜。
「何言ってるの……なにか食べる?」
同じく苦笑いの母。
「いや、いいや。喉乾いただけだからなにか飲む物頂戴?」
姫菜がそう言うと、母は無言でキッチンへ向かい、冷蔵庫からペットボトルに入ったオレンジジュースを取り出した。それを姫菜の愛用している黒猫の描かれたコップへ注ぐ。
戻ってきた母にそれを受け取ると、小さく、ありがとう、と呟いた。そして、一気に飲み干しそのままリビングを出て行った。
リビングと自室間の移動で、少し動いただけであったが、姫菜には、とてつもない疲労感が押し寄せた。再びベッドに寝転がり、天井を見つめた。そのまま瞼が重くなり、姫菜は寝てしまった。
このような日が何日も続いた。最低限宿題をしながら姫菜はやる気のない夏休みを送っていた。何回か夢華とみさが訪れたこともあったが、姫菜の体調は一向に良くなる気配はなかった。
「良かったらどこか外に行って来たら?」
ある日の朝に姫菜の母が言った。
「……う、うん。」
なにもやる気が出なかった姫菜であったが、これ以上母に迷惑をかけたくないと考えた。
どこへ行こうか。外へ出たは良いが、特に行く場所がなかった姫菜は適当に歩き出していた。
蝉の鳴き声とこの暑さが、嫌というほど夏であることを知らせている。
額から大粒の汗が流れ落ちる。少し歩いていると、身体中から汗が噴き出し衣服に張り付く。衣服の張り付く不快感と喉の渇きから少し動いた気分が悪くなる。どこか座れる場所を探そう。姫菜が歩いていると、姫乃達に介抱された公園が見えた。
「日陰にベンチあるしここで休もっと。」
公園内の、木の下にあるベンチに腰掛ける姫菜。周りよりも少し涼しかったが、それでも汗は止まらない。
なぜこうなってしまったのだろう。姫菜は考えた。夢華と、互いに目を奪われ、初めは憧れのようなものもあり、一目見れただけで嬉しかった。しかし、徐々に距離が近くなっていくと、少し窮屈になり、ポチを頼ってしまった。やがてポチに依存していった。その拠り所がなくなった今、姫菜はどうすれば良いのか。
結局、姫菜にはその答えは出なかった。
喉の渇きが耐え難いものとなってきた。そろそろ帰宅しよう。姫菜は、そう思い、足腰に力を込めた。途中まで、自身の身体は持ち上がったが、すぐにベンチに勢い良く臀部をぶつけてしまった。力が入らなくなっていたのだ。
「あ、あれ?おかしいな……。」
もう一度立とうとする。しかし、今度は先ほどよりもさらに身体が重くなっている気がした。全く身体が動かなかったのだ。
先ほどまでなかった疲労感。まるで人を一人背負っているのではないかと思うくらい肩は重く、それに伴い身体が全く動かない。ベンチの背もたれに力なくもたれかかって座っている現状を維持することで精一杯であった。
「……少し休もう。」
とうとう座っているのもしんどくなった姫菜がベンチに寝転がった。
蝉の鳴き声と、遊んでいる子ども達の声が間近に聴こえていたが、姫菜はゆっくりと目を閉じ、眠りについた。
どのくらい寝ていたのだろうか。何分か、はたまた何時間か。額に当たる冷たい物の感触で姫菜は目が覚めた。身体中汗だらけで、相変わらず日陰であるとはいえ、暑いはずであるのに、少し肌寒いくらいであった。
額に当てられたのは、冷えた清涼飲料水のペットボトル。当てていたのは
、以前姫菜を助けた他校の女子生徒の一人であった。彼女はしゃがみ込み、姫菜と視線を合わせている。姫菜は少し考えた後、目の前の女子のことを思い出せた。姫乃だ。
「あっ……えっと、神崎……さん?」
「……貴女いつも体調悪いみたいだね。」
苦笑いの姫乃がそこにはいた。




