きっと、幸せに
三月に入ったばかりだというのに、外の空気はもうすっかり春の暖かさだ。
天気予報では、今日の気温は五月中旬並みだと言っていた。
雲一つない青空は気持ちまで澄み渡っていくような清々しさだが、花粉症の人にとっては嬉しいばかりではないらしく、通りにはマスクを着け足早に歩く人も多く見受けられた。
私の成人式の日も、こんな天気だったらいいんだけど。
成人式は、春分の日。バイトも休みをもらって、その前後二週間ほど帰省する予定だ。大学の友人達は一月の成人の日に済ませたという人が多かったが、お正月休みが終わって授業が始まった後にまた帰省しなくてはいけないので、行ったり来たり大変そうだった。そう思うと、春分の日は春休み中でとても都合がいい。
中学の時の同級生達とも久しぶりに会う。みんな元気だろうか。
考えながら歩いていると、賑やかな笑い声が耳に入ってきた。
制服を着た女の子達。高校生だろうか、卒業式を終えた後のようだ。手に卒業証書の筒らしき物を持っている子もいる。空と同じ、曇りの無い明るい笑顔だった。
自分とそう年も変わらないのに、彼女達の笑顔がキラキラと眩しく感じられて、私は目を細めた。
私の高校の卒業式は、何日だっただろう? 二年しか経っていないのに、もう日付も覚えていない。
立ち止まり、肩にかけた鞄の中から文庫本を取り出してページを開く。開いたページに挟まっていた、四つ葉のクローバーの押し花が付いたしおりを手に取った。
卒業式の日を思い出す。
彼は今どうしているだろうか――。
◇
「梨絵ちゃん、あたしたち部室行ってくるね」
「あ、うん。いってらっしゃーい」
私は一人、教室を出て行く友人達を見送った。
卒業式も最後のホームルームも終わって、もういつ帰ってもいい状態なのだが、校舎にはまだ大勢の生徒が残っていた。みんな写真を撮ったり、先生に挨拶しに行ったり、仲の良いグループで集まって話をしたり、思い思いに三年間過ごした学び舎や仲間達との別れを惜しんでいる。
ひと通り仲の良い子達との写真を撮り終わった後はそれ以外のコミュニティの写真を撮りに行くわけだが、部活をやっていた友人達とは違って私は帰宅部だったので、彼女達を見送った後はぽつんと一人取り残される形になった。
帰るタイミングを逃した私は、手持無沙汰を誤魔化すように鞄の中を整理し始めた。下を向いて気にしない振りをしているのに、自然と耳に入ってくる周りの楽しそうな笑い声が、私を惨めな気持ちにさせる。
それが自分自身のせいだというのは分かっていた。部活に入らなかったのも自分で決めたことだ。周囲の人達と浅い付き合いしかしてこなかったのも。
さっきまで一緒に写真を撮っていた友人達だって、学校でこそよく話をするが、休日に遊んだことなんて数えるくらいしか無い。
自分の心の内を打ち明けられる相手なんて、誰もいない。上辺だけの薄っぺらな付き合い。
それは私が選んだこと。
それでも、こうして賑やかな教室に一人でいると、胸の奥がキュッと締め付けられるような痛みを覚える。
不意にバサッと何かが床に落ちる音が聞こえ、鞄に落とした視線の端にひらひらと紙切れのような物が飛んできた。
自分の足元に落ちた長方形の紙片を拾い上げると、それはしおりだった。淡いブルーの紙に四つ葉のクローバーの押し花が付いている。鮮やかな緑の葉がとても綺麗だ。
「ごめん、ありがとう」
やわらかな声音の主は、同じクラスの伊藤晴人だった。彼の傍の床にはカバーの付いた本が落ちている。このしおりはそこに挟まっていた物らしい。
そういえば、彼は休み時間によく本を読んでいた。私は男子と気軽に会話するタイプではなかったので彼とも話したことなんてほとんど無いが、私も読書が趣味ということもあり、彼がどんな本を読んでいるのか気にはなっていた。
穏やかな人だな、というのが彼に対する印象だった。眼鏡の奥の瞳はやさしげで、クラスメイトと話す声は、やわらかく落ち着いている。彼が怒ったり、大声を出して笑ったりするのは想像できない。彼はいつも物静かで、周りの他の男子達とは違う雰囲気だった。声の大きな人達が苦手な私にとって、彼のそういう静かさは好ましく思われた。
彼は座ったまま手を伸ばして床に落ちた本を拾った。教室の廊下側、出入り口に近い彼の席の横には、折り畳まれた車椅子が立て掛けられている。
晴人の、他の男子とも女子とも決定的に異なる部分。
彼は足が不自由で、車椅子で生活していた。
「綺麗だね」
私はそう言って彼にしおりを差し出した。普段の私ならそんなに積極的に会話しようとはしないのだが、今日で卒業だということで、いくらか気安くなっているのかもしれない。
「良かったら、三条さんにあげるよ」
彼はいつもと同じく穏やかに微笑んだ。
「え、でも、いいの?」
「うん。卒業の記念に」
予想外の彼の申し出に驚いたが、私はお礼を言って彼の好意を受け取ることにした。
手元のしおりに目を落とす。
幸運の四つ葉のクローバー。小さい頃、夢中になって探したものだ。見つけた時はすごく嬉しかった。でも、あの時見つけた四つ葉のクローバーはどこへやっただろう。無くしてしまったから、私は幸せになれていないのだろうか。
「きっと幸せになれるよ」
しおりを見つめる私に言った彼の静かな声だけが、教室のざわめきの中でとてもはっきりと聞こえた。
◇
「わあー、綺麗にしてもらったねえ」
振り袖姿の私に祖母は相好を崩し、色々な角度から見ようと私の周りをぐるぐる回っている。そんな風に喜んでもらえると、自分まで嬉しくなってくる。
朝早くから着付けとヘアメイクをしてもらって、一旦家に帰って来たところだ。成人式が始まるまでまだ時間がある。家族と一緒に写真を撮った後、慣れない着物を窮屈に感じながら、ソファに腰を下ろして読みかけの本を開いた。開いたページには、卒業式の日に晴人から貰ったあのしおりが挟まっている。
あの日以来、本を読む時にはいつもこの四つ葉のクローバーのしおりを使うようになった。
読書の時に使うだけでなく、大学の友達との人間関係に悩んだ時や、バイトで失敗した時、自分に自信が無くなった時にこのしおりを手に取って眺めるのが私の習慣になっていた。ただのクラスメイトでしかなかった彼のしおりを心の支えにするなんておかしなことかもしれないが、小さな緑の葉を見ると不思議と心が安らいだ。「きっと幸せになれるよ」と言った彼の静謐な声が、いつも私を暗い気持ちから救ってくれた。
本当におかしな話だ。
私は彼のことを何も知らない。小学校も中学校も違ったし、高校で同じクラスになったのは二年生になってからだ。初めて車椅子の彼を見た時は少し驚いたが、クラスメイト達は彼と同じ中学だったり一年の時から知っている生徒ばかりだったようで、特に気にする素振りも無く、ごく当たり前のように彼を受け入れていた。だから私も彼の足のことを誰かに聞くタイミングを逃して、彼が何故、いつから車椅子を使用しているのかを結局知らないままだった。
彼について知っているのは、静かで、穏やかで、そしておそらく読書が好きだということくらいだ。
「そろそろ出た方がいいんじゃない。約束してるんでしょ?」
母の声で我に返った私は、しおりを再び本に挟もうとする手を止め、しおりだけをバッグの中に入れた。
会場に着くと、式の開始までまだ一時間以上あるにもかかわらず、建物の外は振袖やスーツの新成人で華やかな雰囲気に包まれていた。天気は良くても気温はそれほど高くない。それでも久々の旧友達との再会に盛り上がる彼らには、寒さも気にならないようだった。
「あ、綾ちゃん!」
「梨絵ちゃん! こっちこっちー」
似たような振り袖姿の中から待ち合わせていた中学時代の友人を見つけて足早に歩み寄ると、彼女も笑顔で私を迎えてくれた。彼女とは高校で別々になってしまったが、今でも連絡を取り合っていて、私が帰省する時には一緒に遊んだりする数少ない友達だ。今年のお正月休みにも会っているのでそこまで久しぶりという感じはしないが、いつもとは違う装いにお互い新鮮な感じがする。
綾と話していると、他の中学時代のクラスメイト達も続々とやって来た。男子とはあまり話したことが無いが、やんちゃしていた彼らが大分落ち着いた雰囲気になっていて、彼らも大人になったんだな、と感慨深い。
「梨絵ちゃん、ごめん、ちょっと高校の友達のところに行ってきてもいいかな?」
綾は中学の頃から友達の少ない私とは違って社交的な子だ。さっき集まってきた人達だって、みんな綾に声をかけに来たのだ。
「うん。大丈夫だよ。じゃあ、また後でね」
彼女を見送った私は、賑やかな笑い声の中でまた一人になってしまった。
卒業式のあの日と同じだ。自分だけ周囲から取り残されているような疎外感。
時間を確認するために携帯電話を取り出そうとバッグに入れた手に、違う物が触れる。四つ葉のクローバーのしおりだ。
この小さな可愛らしい葉が、彼のやわらかな声が、言葉が、あの日私を惨めな気持ちから救ってくれた。
今の私はあの時から全く変わっていない。
成人式を迎えたというのに、私はまたあの卒業式の日と同じように、ただ下を向いて孤独をやり過ごすだけでいるつもりなのだろうか。
違う。
自分を救ってくれる何かを待つだけなんて、駄目だ。
たくさんのクローバーの中から四つ葉を見つけるように、幸せは自分で探せばいい。
決心した私は顔を上げ、歩き出した。
晴人の出身中学校の受付では、私の知らない男女が数人集まって談笑していた。来てみたはいいものの、見ず知らずの相手に話し掛けるのに少し躊躇する。立ち止まって深呼吸する私の手の中で、しおりが後押ししてくれるような気がして、思い切って彼らに話しかけた。
「あの、すみません。伊藤晴人君は来てますか?」
「伊藤? ああ、たった今受付したばっかりだからその辺に……あ、あそこだ」
スーツ姿の受付の人が指さした先に、彼がいた。
私は教えてくれた彼にお礼を言って、晴人の方へ向かった。
スーツを着て車椅子に乗った姿は、紛れも無く彼だ。後ろで車椅子を押しているのは彼の母親だった。高校の頃、毎日送り迎えをするのを見ていたので間違い無い。
彼との距離が近付くにつれ、鼓動が速くなるのを感じる。
突然話しかけて、変に思われないだろうか。もしかしたら彼は私のことなんて忘れているかもしれない。同じクラスだったとはいえ、まともに話したことなどほとんど無いのだから。
それでも何故か、私は話しかけるのを止めようとは思わなかった。
「伊藤君」
「三条さん?」
私の声に反応して振り返った彼が、こちらを見て目を丸くする。
私は彼の傍にいる彼の母親に会釈して、改めて彼に向き直った。
「私のこと、覚えててくれたんだ」
「うん、同じクラスだったからね」
晴人は最初こそ少し戸惑っていたようだが、すぐに以前と変わらないやわらかな口調で答えた。スーツを着た彼は、二年前より少し大人っぽく見える。
呼び止めたはいいが何をどう話したらいいか分からず言葉を探す私に気を利かせてくれたのか、彼の母親がその場を離れ、私と晴人の二人だけが残された。
「あの、あのね、これ、覚えてる?」
私は先ほどからずっと持っていた小さな紙片を彼に見せた。
「それ……。僕があげたしおり?」
「そう。私ね、これいつも本を読む時に使ってるんだ」
「そうなんだ」
彼は眼鏡の奥のやさしい目を細めた。記憶の中と変わらない彼の笑顔にほっとする。
「ごめん、私話すのあんまり得意じゃなくて、上手く言えないんだけど、伊藤君にお礼が言いたくて。あの、ありがとう」
「ううん。こちらこそ、ありがとう。まさか、まだ持っててくれてるとは思わなかったから」
しおりを見つめ、思い出すように彼が言う。
「そのしおり、僕が小学生の時に作ったんだ」
「え、手作りっぽいなって思ってたけど、そうなの? 私が貰ってていいのかな」
彼の手作りとは思わなかった。もし思い出の品だったりしたら、私が持っているべきではないのではないか。
私の心配をよそに、彼は穏やかに答えた。
「うん。三条さんが使ってくれてるなら、それでいいんだ」
「そっか……」
彼と話したいと思ったのに、言葉が喉に引っかかって上手く出てこない。自分の不器用さが恥ずかしくなって、私は視線を足元に落とした。
「……三条さん、もし良かったら、三条さんのおすすめの本を教えてもらえないかな?」
「え?」
思いがけない彼の言葉に、私は顔を上げ、自分の目の高さより下にある彼の顔を見た。
「高校の時、三条さんよく本を読んでたでしょう? どんな本読んでるのかなって、気になってたんだ。……ごめん、無理だったら別にいいんだ。気にしないで」
すぐに彼が自分の言葉を取り消す。やわらかな微笑みはそのまま、遠慮がちに目が伏せられた。
「む、無理じゃないよ! 私もね、伊藤君のおすすめの本教えてほしい! 連絡先交換しようよ!」
勢いで言ってしまったが、自分から人の連絡先を聞くのは初めてかもしれない。頬がかあっと熱くなる。
でも、伏せていた目を上げて真っ直ぐに私を見る晴人の顔は、それまでの穏やかな表情とは違う、もっと明るい笑顔だったので、これで良かったのだと思う。
今はまだ固い桜の蕾が開いたら、四つ葉のクローバーを探しに行こう。
何時間かかったっていい。
見つけたら押し花にしてしおりを作ろう。
きっと、幸せになれるから――。