26-1 発露
ある男は笑い
ある男は顔を引きつらせ
ある男は唖然とし
ある男は嘲笑い
少女らは悲鳴を上げた
始まりは、朝。
部屋に近づいてくる足音にロマリアが私を抱きしめ、最後の別れを交わそうとした時だった。
扉の鍵を開けて入ってきたのは、貴族のおっさん、の、息子だった。うん、まだテスター様の馬車着いてないしね。
ええと、名前は、たしかダ……ダッタン、だっけ?
ロマリアはダッタンを見るとすぐに私からぱっと離れて、両手を口元に寄せて怯えた表情を浮かべた。
ダッタンは黙って部屋を見回してまず私を見、それからロマリアに視線を向けて静かに微笑んだ。
「僕は、精霊に選ばれし者、ダスタン。」
…………、……、えっ?
いきなり訳のわからないことを話し始めた。一体何の話だろうか。
私の疑問をよそに、ダスタンは完全に座った目でロマリアから視線を外さず、手を広げて大仰に「助けてやろう、囚われの生成師よ。」と言った。親子だけあって、その姿はどこか昨晩の貴族のおっさんに似ている。
あ、そうか。ダスタンはロマリアが今日、孤児院に帰る事を知らないのか。
私は、ぽんと手を打つ。もちろん心の中だけで。
考えてみれば、ダスタンは貴族のおっさんの代わりに罪を被るのだ。それを既に知らされていれば、この部屋に入るどころか、屋敷の中を自由に歩くこともできないだろう。で、何にも知らないダスタンは、どういった心境の変化なのか、貴族のおっさんの魔の手からロマリアを逃がそうとこの部屋まで来てくれた、と。……精霊に選ばれた云々は全く意味が分からないけども。
しかし、ダスタンには申し訳ないが、ロマリアは今日、孤児院に帰る。テスターの馬車は問題なくこちらに向かっているし、もうしばらくすれば屋敷に到着する。
ロマリアは、怯えの中に困ったような表情を混じらせてダスタンを見ていた。どう答えれば良いのかわからないようだ。
「――なんだ?逃げたくないのか?」
ダスタンも、何かが妙だと気づいたのか不可解そうな顔になった。
両者の間に落ちる沈黙。そんな重い空気に耐えられなかったのか、ロマリアがダスタンの機嫌を窺うような表情で口を開いた。
「あ、あの……あ、ありがとう、ございます。で、でも、私は今日、孤児院に帰る事に、なって、い、て……っ。」
ピシ、と場の空気が凍った、気がした。ダスタンの顔が一気に怒りに歪んだのだ。ロマリアは慌てて「ご、ごめんなさい!」と悲鳴のような声をあげて、後ずさった。
私はロマリアを背中に庇うようにそっと前に出る。怒りの感情によってなのかなんなのか、ダスタンの周囲の魔素が僅かに揺らいだのだ。本能が感じている。なんかやばそう、と。
「そう、か。もう、僕に……ふざけ、やがって……どいつも、こいつも……」
ダスタンは、私の後ろで震えるロマリアに見向きもせず、下を向いてダンッ、ダンッ、と床を踏みつけて何やらブツブツと悪態をつきはじめた。そこに突然響いたのは、第三者の声だった。
「ダスタン!?」
それは、傭兵を伴って部屋に入ってきた、貴族のおっさんだった。
「なぜこの部屋にいる!」
「オトウサマ……。」
ゆっくりとダスタンがそちらを向く。その隙に、私はロマリアを部屋のすみまで押しやり、背後に庇った。あんなに顔を怒りに染めていたダスタンが、父親を見て、笑ったのだ。何か恐ろしいことが起こりそうな気がした。
「お父様……いや、オーガスト侯爵。」
そう口を開いたダスタンの横顔にもう怒りはなく、その表情はどこか慈愛に満ちたものになっていた。
「僕を殺しても、精霊に選ばれし者でない限り、精霊の小石は手に入りませんよ?」
「……?」
貴族のおっさんがあからさまに困惑した顔になる。
「なんの話だ。」
「僕はもう、真実を知ってしまいました。ですから……もう隠されなくてもいいんですよ?オトウサマが精霊の小石を欲したことを、僕は許します。僕をこの屋敷に閉じ込めていたことも、許してあげます。そう、オトウサマが今ここで、土下座をし、僕に許しを乞えば、僕は今まで受けた全ての屈辱を許してあげますよ。」
「ダスタン、何の話をしている?あの透明な石を、精霊の小石だとでも思っているのか?」
困惑から呆れに変わったその言葉に、ダスタンは目を見開いた。そして――途端に腹を抱えて笑いはじめる。
「あは、はは!ははは!まさか、歴王の治める国の!侯爵ともあろうお方が!この僕が、選ばれし者だと!気づいていなかったのですか!あはははははは!」
「何を訳のわからないことを……」
「オーガスト侯爵……貴方は本当に愚かな人だったんですね……」
ダスタンがぴたりと笑うのを止め、どこか呆れた顔になって首を横にふりはじめた。その態度に、オーガスト侯爵から表情が消える。
「ダスタン、何を考えているか知らんが、お前は部屋に戻れ。さもなくば――」
「さもなくば何ですか?殺す、ですか?ははは!精霊に選ばれしこの僕が!僕の力に気づかなかったただの人であるお前に殺されるなんてあり得ないんだよクソ親父!」
啖呵を切るダスタンに、オーガスト侯爵は何も答えずダスタンに背を向け後ろに控えていた傭兵の腰から剣を抜いた。
「精霊に選ばれた?今さら精霊の祝福にでも目覚めたのか?以前から愚息だとは思っていたが、お前には本当に……呆れる。」
言うが早いが、振り返りざまに無造作にブンッと横薙ぎに剣を振る。剣術も何もない。ただ横に降っただけだ。それに対しダスタンは避けようともせず……当然のごとく、服も、腹も、切れた。少し遅れてじわりと服に赤が滲む。
後ろでロマリアが声にならない悲鳴を上げ、私の肩を掴んでいる手に力が入った。
「そんなも、の?」
腹から溢れる、血。切りつけられても余裕すらあったダスタンは、ようやく痛みを感じたのか、ヨロヨロと後ずさった。
「……な?ななななななんで血が……な、な……!?」
足元に少しずつ血溜まりが広がると、みるみるうちに顔の血の気も引いていく。
「ふん、なかなか良い剣だ。
……ん、どうした、選ばれし者殿?どこであの魔素クリスタルのことを知ったのかも、誰に騙されたのかももうどうでもいいが、愚かなのはどちらか、明らかになったようだな?」
血は溢れたが、分厚い脂肪のおかげで内臓が溢れるようなことはなかった。オーガスト侯爵にダスタンを殺す気はなさそうだと思い、私はひとまず安心した。人殺しの瞬間なんてロマリアは見るべきではないし、もちろん私も見たくない。
ダスタンは、「なんで、なんで……」と腹を触って自らの血にまみれた両手を見ながら口をぱくぱくとさせている。
「フリスタ。こいつの手当をして、あの部屋に放り込んでおけ。あとでギッシュも呼んでこい。あいつが何か知っているかもしれん。まったく。役に立たない息子にお似合いの、役に立たん男だ。」
「ギッシュ……。」
真っ青になって慌てていたダスタンが、ぴたりと慌てるのをやめ、低い声を出した。
「ん?ギッシュがどうかしたのか?選ばれし者殿。」
オーガスト侯爵が鼻で嘲笑う。
「違う!あいつは!僕の為に!……クソッ、クソクソクソ!」
再び床をダンダンと踏みつけ始めたダスタンの周辺に、何かモヤのようなものがかかり始めた。ダスタンの周囲を揺らぐだけだった魔素が、突然変質し始めたのだ。そうしてそれは次第にドロドロとした闇を纏い、ダスタンへと集まっていく。あれは――魔法、だろうか?
しかし、それに気づいたのは私だけだ。
私はロマリアを後ろに庇ったまま、『――防御壁の魔法』と、小さな声で唱えた。いつものように詠唱を省略してもよかったが、なんかヤバそうだったので魔法の名称だけを声に出した。こうすることで、魔素の消費量は増えるが、魔法の強度は上がる。もちろん全文詠唱すればもっと強度は増すが、さすがにそこまでする必要はないだろうと判断した。時間もかかるし。
その間にもダスタンはブツブツと何かをつぶやきながら闇を体にまとわりつかせていく。その濃さは次第に侯爵やロマリアやフリスタにも見えるまでになった。
「ダスタン?……これは……!?」
オーガスト侯爵が後ずさり、入れ替わりにその手からそっと剣を受け取ったフリスタが、冷や汗を浮かべた顔で前に出る。
「侯爵様、逃げて下さい。俺、見たことがあるんですよね。これ、魔人化の前兆ですよ。しかもこれ、失敗します。つまり坊っちゃんは魔獣になるってことです。まあ、変化が終わったら魔人にしろ魔獣にしろとりあえず暴れるんで、侯爵様とそこの嬢ちゃん達はさっさと逃げて下さい。じゃないと俺も逃げれないんで!」
冷や汗だらだらで、まくし立てるフリスタ。
「そろそろ魔術師と獣人の騎士が来ますよね?そしたらすぐに助けを求めて下さい。いいですか侯爵様、今手を出すと巻き込まれるうえに、完全に魔獣化したら俺なんかじゃどうすることもできません。ダスタン坊ちゃまはもう元に戻りませんから、何よりも先に生き残ることを考えてください!全力で!」
最後は泣きが入っている。
魔人……化?どういうことだろうか。いや、今はそれどころではないか。
私がロマリアを逃がそうと振り返ると、ロマリアはその場にぺたんと座り込んでしまっていた。
「ロマリア、逃げなきゃ!」
「う、うん。……でも、あれ?何で……私の足、立ってくれないよ……」
ロマリアはすがるような目で見上げてくる。どうにか立とうとしているが、膝立ちすら出来ていない。どう見ても腰が抜けてしまっていた。
抜けた腰を治す魔法などない。いつの間にかオーガスト侯爵は部屋から逃げてしまっているし、私は途方に暮れてしまった。フリスタは闇に包まれたダスタンに剣を向けてはいるが、恐怖からか顔がひきつっている。
話を聞くに、今、ここに魔人か魔獣が現れる、……生まれる?ということだろうか。人が魔人や魔獣になる……そんなことがあるのだろうか?
そうこうしているうちに、ダスタンを包み込んでいた闇が一気に晴れた。
――そこに居たのは、ダスタンの面影が一切ない、異形の化物だった。
そのあまりにも醜悪な姿に、私とロマリアは甲高い悲鳴を上げる。
ダスタンよりもふたまわりほど大きな豚っぽい顔の、巨漢。巨大化したためか服は裂け、肌は濃い紫、目は赤黒く輝き、顔は豚なのに口には小牙豚も真っ青な数の牙が覗いている。牙の隙間からは、赤い舌が垂れ下がっていた。
「豚頭か……えらくアレな核を掴まされたんだな坊っちゃん……。どうみても魔獣だよなあ。あー、言葉、通じねえよなもうやめてくれよほんと。」
じわじわと私とロマリアの方へと近づいていたフリスタが、私の前まで来てそんなようなことを言った。
「はー、逃げたい。俺ほんと逃げたいからさ、ほら、嬢ちゃん達も眺めてないで逃げようよ。あんな怖い顔の化物が、ただの豚頭なわけないからさ。絶対強いよあれ。」
「ロマリアの腰が抜けてしまったから無理よ。」
「まじかー。騎士が来るまで、俺、もたないと思うんだけど。」
パキキ、と何かが割れる音がした。ふわりと周囲に魔素があふれ、それはすぐにフリスタの剣に吸い込まれて剣身に光が宿った。
剣に魔法陣が仕込んであるのだろうか?まあ、このおにーさんが戦ってくれるのならば、全部お任せするとしよう。
「がんばってください。」
私はそう言ってそっと手を伸ばし、フリスタの背に触れた。




