25-3 御者とヨルモ
その頃、御者と共に馬車に残ったヨルモは、馬車の窓から屋敷の庭を食い入るように見つめていた。
邸宅や庭が物珍しかったわけではない。建物は確かに孤児院よりは立派だが、そのぶん庭が少し狭い。この辺りはそういう大きめの屋敷が多く、この屋敷自体には特別なことは何もないように見えた。
そんなことよりも、だ。邸宅の壁沿いに、見覚えのある鼠がいるのを見つけたのだ。大きな耳に長い尾の、褐色の鼠。
――ロマリアが、ここに、いる。
すぐにそう確信した。
鼠はスンスンと鼻をひく付かせながら馬車の方へと顔を向けていたが、チョロチョロと走って屋敷の壁に空いた小さな穴の中へ入っていってしまった。
「ロマリア……。」
ヨルモはそうつぶやいて、屋敷を見上げる。
今すぐにでも、あの鼠を追いたい。あの鼠を追っていけば、必ずロマリアの所に案内してくれるはずだ。
しかし、ヨルモは、動けない。
テスターが言うに、ロマリアもリネッタも今日はまだ帰ってこない、らしい。テスターには何か計画があるのだろう。ヨルモにはそれが何なのかさっぱりわからないが、ここでヨルモが感情に任せて動いて捕まってしまえば、その計画がだめになってしまうかもしれない。
それに、さすがに、今、屋敷にこっそり侵入したとしても、誰にも合わずにロマリアのところまで行くのは難しいだろう、とヨルモは考えていた。小汚い獣人の子供が廊下をうろうろしていたら、それだけで騒ぎになる。こんな立派なお屋敷なのだから、きっと下働きもたくさんいるはずだ。
結局、ここでもヨルモは自分の無力を感じずにはいられなかった。
「ヨルモさん、といいましたか?」
突然聞こえてきた声に、ヨルモはびくっと体を震わせた。馬車の入り口を見ると、そこには御者をしていた細身の人の男が顔を覗かせていた。
男の薄い茶の短髪はきっちりと後ろに流されて、やや不自然に固められている。睨まれたらすくみあがりそうな鋭い目つきが、今は優しそうに細められていた。
「私はグスターブと言います。見ての通り、テスター様の馬車の御者をさせていただいております。」
「あ、ヨ、ヨルモです。」
ヨルモは深々と頭を下げた。
「そんなかしこまらなくても良いのですよ、私はただの御者ですから。」
グスターブはにこやかにそう前置きすると、「先程は、何を見ていたのですか?」と聞いた。
見られていたのか……と、ヨルモはどうしようかしばらく迷ったが、結局「鼠、です……。」と正直に答えることにした。
「鼠ですか。」
「はい。」
「なぜ鼠を?珍しいものでもないしょう。」
「えと……。」
どう説明しようか。そもそも信じてもらえるのか。笑われたらどうしようか。ヨルモはぐるぐると考えたが、すぐにはいい案など思い浮かばなかった。
それをグスターブはじっと観察していたが、そんなことに気づく余裕はヨルモにはない。
鼠の件は、いつかどこかの魔術師様に聞こうとは思っていた。もしかしたらロマリアなら知っているかもしれないし、マティーナに聞いてもいいと思っていた。
ではこの人はどうだろうか。御者をしているのだから、魔術師様ではなさそうだ。しかし、テスター様の部下だし、もしかしたら色々知っているのかもしれない。
「言いたくないのならいいんですよ。」
悩み始めてしまったヨルモに、そうグスターブは助け舟を出したが、ヨルモは首を横に振った。悩むよりも、疑われる事を前提に、色々な人に聞けばいいだろうという結論に落ち着いたのだ。もとより、実際に体験したヨルモでさえ信じがたい話なのだから、疑われるのはしょうがない。
「あ、その……信じてもらえないかもしれないのですが……。鼠……俺が見ていた鼠は、その……変?な鼠で……。」
「――変な鼠、ですか。具体的には?」
「鼠っぽくなくて、あ、いや、見た目はちょっと変わった鼠なんですけど、なんていうか……俺、その鼠に案内されて、スラムでロマリアを見つけたんです。」
「案内?」
「あ、ご、ごめんなさい、俺、変だ、ですよね。でも俺たち、鼠に案内されて、スラムで、それで、その鼠が、このお屋敷にもいて……ここにロマリアが、いるんだなって、思って。」
考え考え言ったのでヨルモの話はだいぶ分かりづらかったが、それでもグスターブは「ふむふむ。」と頷きながら静かに聞いていた。
「鼠が道案内、ですか。」
「見たことのない鼠で、耳がでっかくて、茶色で、尻尾がひょろっと長くて……見てたら、なんか、誘ってるような気がして……ついてったら、ロマリアがいて……。」
「なるほど、その鼠がこのお屋敷にも居た、と。」
「はい……。」
「攫われたロマリアお……いえ、ロマリア様は、生成師をしていらっしゃると言うことでしたが、それ以外の魔法陣を使うところを見たことは?」
「灯りの魔法陣と、火を熾す魔法陣は見たことがあります。あと、翻訳の魔法陣も。でも、ロマリアは、魔法陣を使うのは苦手だって言ってました。あ、でも、魔術師になりたい、と言っているのは聞いたことがあります。」
ヨルモの話を興味深そうに聞いていたグスターブは、「ふむ、なるほど。」と声をもらした。
「その鼠の事、何か知ってるんですか?」
「鼠、といいますか、形態は様々ですが、【使い魔召喚】という魔法陣があることは知っています。とはいえ、これは魔術師が2~5人がかりで発動させるものですし、小さいものでも3級の魔素クリスタルが何個か必要な大掛かりな魔法陣です。一人では到底出来るものではありません。
ですが、一度召喚すれば、攻撃されなければですが、当分は消えることはありませんし、使い方によっては道案内くらいならできるでしょう。私も長く御者をやっておりますので様々な地域に出向きますが、そういった姿の鼠は見たことがありませんし、使い魔という可能性もなくはないでしょうな。あとは――」
「あとは?」
「命を司る子月様の使者、という可能性もありますな。」
そう言うと、グスターブは優しく微笑んだ。
「彼女は、清らかな心身を持つ者を愛する、と言い伝えにあります。子月様の眷属である生命の精霊が小動物に姿を変えて、ロマリア様を助けている、という事もあり得なくはないでしょう。おとぎ話の粋を出ない話ではありますが……。」
「精霊が……ロマリアを……。」
ヨルモは噛みしめるように言葉を紡いだ。鼠に道案内されたことを“よくわからない不思議な出来事”としか捉えていなかったヨルモには、考えもしなかったことだった。
「まあ、どなたかの使い魔にしろ子月様の眷属にしろ、大きな存在がロマリア様を守っているということでしょうから、……貴方はもう少し安心してもいいのではないですか?」
「えっ?」
ヨルモが目を丸くしてグスターブを見た。
「冷たいようですが、子供と大人では、出来ることが違います。悲しいかな、身分によっても出来ることは違います。しかし、今は手を差し伸べてくださる身分の高い大人がいるのです。頼るのは子供の特権ですから、貴方の役目は心配することではなく、信じることですよ。テスター様を。」
「俺……。」
「自分が無力だと感じることは良いことですよ。それは、そろそろ成人する貴方の、自立への第一歩ですから。ですが、自らの手ではどうしようもできない領域についての憤りは、この先もずっと……いくつになってもついて回る問題でもあります。その時に、無力だということを受け入れて諦めたり、現実に打ちひしがれて考えるのを止めてしまうのも、実は、問題を乗り越える最良の手であることもあります。解決はしませんけどね。でも、どうにもならないことは、どれだけ考えてもどうにもなりませんから。」
グスターブはそう言ってカラカラと笑った。
「グスターブさん……俺、どうしたらいいのか、わかんなくて……せっかくロマリアを見つけたのに、警備兵は動いてくれないし、いつのまにかリネッタも居なくなってるし、警備兵が動いてくれるっていう時にロマリアはスラムにいないっていうし……俺、無力なままは嫌です。だから色々したのに、全部空回りして、結局なにもできなくて……。」
ボソボソとヨルモは、今まで誰にも言えなかった心の内を吐露した。耳はぺたんと伏して、尻尾も力なく座席から垂れている。グスターブは小さくため息を吐いてから、そっとヨルモに顔を近づけた。
「……ここだけの話、ですが、貴方の話は大いに役に立つはずです。」
「えっ?」
「警備兵の件ですが、ヨルモさんが証言してくださらなかったら、もしかしたら、今回の、警備兵による連絡ミスは明らかにならなかったかもしれません。職務怠慢は、王都の平和を守る兵として、あってはならないことですから。ヨルモさんが警備兵の問題を訴えてくださって、ギルフォード様は、国を守る騎士団の長として、感謝していると思いますよ。
それに、ロマリア様が最初はスラムに監禁されていた、というのも、重要な情報です。なぜ、ロマリア様をスラムからこの屋敷に移動させたのか、私には分かりかねますが、テスター様やギルフォード様ならすぐに見当がつくでしょう。
もちろん、先程話して頂いた、不思議な鼠の話もです。もしそれが本当に精霊の眷属なら、ロマリア様は精霊の祝福を受けているかもしれない、ということです。」
「精霊の祝福……。」
「そうです。ですから、貴方の話はとても役に立つのですよ。ほら、無力というほど無力ではないでしょう?」
「……。……ありがとうございます。」
片目をつぶって微笑むグスターブに、ヨルモは深々と頭を下げた。重かった心が、多少なりとも救われた気がしていた。
「お礼を言われるような事はしていませんよ。私はただの御者ですから。お礼を言うのは、ロマリア様が助かってから、テスター様におっしゃってください。」
グスターブは、「では。」と言って馬車の扉を閉め御者台に戻った。
ヨルモは多少軽くなった心で、ロマリアを想い、再び屋敷を見上げたのだった。




