カトリーヌの帰還 3
心身ともに疲れ果て寝不足だったカトリーヌは、浴室で意識を失ったあとは翌日の昼まで一度も目を覚まさなかった。ようやく目を覚ますと、少しはしたないと思いつつも喉を鳴らして水をごくごくと飲み干し、一息ついてから軽い食事をゆっくりと済ませる。そのあたりで、クロードがアイダを連れて部屋に訪れた。
カトリーヌは肌触りの良い寝間着のまま、たくさんのクッションを背もたれにして座っていた。クロードは、ベッドサイドの椅子に座って色が変わったままのカトリーヌの頭を撫でる。
アイダは、部屋に入ってすぐ、扉の横にまるで侍女のように待機した。
「カティ。がんばったね。」
「……はい、お兄様……。」
カトリーヌの瞳に涙が浮かぶ。
賊に襲われたことがよっぽど怖かったのだろう、以前襲われたときのことも思い出して、余計に……。
クロードは腹の底に怒りが滾るのを感じたが、顔には出さなかった。
「……。」
カトリーヌの視線が困惑したままアイダにちらりと向いたのを見て、クロードは頷く。
「昨日ハールトンにも言ったけど、僕たちは和解したんだ。アイダは洗脳……操られていたんだ。癒しの精霊様によって洗脳は解かれたから、もう心配はいらないよ。エイラや、アイダが家から連れてきていた使用人たちも全員アイダの家に行かせたから、大丈夫。」
その説明に、カトリーヌは言葉を失った。
過去の記憶がぐるぐると蘇ってくるが、一番気になったのは——
「誰に、操られていたのですか……?」
「錬金術師だ。錬金術師はアイダを操り僕とカティを殺そうとしていたし、奴は僕達が死んだあとアイダも殺そうとしていた。アイダも錬金術師の毒を知らずのうちに飲んでいたんだ。」
「な、んて……ひどい……!なぜ、そんなことを……。」
カトリーヌが両手で口を覆い、俯く。
「そうだね……。」
クロードは、すべての説明をカトリーヌにするつもりはなかった。歴王に連なる血だとか、そういったことを伝えて無駄に悩ませる必要はない。今後何かしらのタイミングで話すことはあるかもしれないが、今は心と体を休めるべきだ。
「カティ。だからね、もうこの家に僕達を傷つける者はいない。安心して、精霊様と何があったのか、教えてくれるかい?」
「ええ……わかりました。けれど、その……アイダ、体調は大丈夫?毒を飲んでいたということだけれど……。」
その言葉に、アイダはやや目を見張った。
「はい、お嬢様、ありがとうございます。私は……操られていたとはいえ、許されないことを……数え切れないほどの罪を犯したのです。それでも、心配してくださるのですね……私は、本当に……なんてことを……。」
あんなに嫌っていた相手なのに、そんなことが言えてしまう。
こんな子を、アイダは殺そうとしていたのだ……。
唇を噛み締め視線を落とすアイダを、カトリーヌも信じられない気持ちで見ていた。
あのアイダが……改心、いや、洗脳されていたのだから、今のアイダのほうが本来のアイダなのだろうが……今のアイダにもどうしても不信感が拭えないのは仕方のないことだろう。
けれど、精霊様が浄化してくださった。だから、信じるのだ。
クロードが言うように、きっと、大丈夫。大丈夫なはずだ。と、カトリーヌは自分を納得させ、兄に向き直って姿勢を正す。
「お兄様、わたくしを護ってくださる精霊様について、ですが……。
お兄様。リネッタは、以前、癒やしの精霊様と幻影の精霊様が“対”になっていると言っていました。」
「対……。」
カトリーヌの真剣な眼差しに、クロードも姿勢を正す。
「そう、“対”です。それをわたくしは、ずっと、“揃いの”だと思っていました。考えてみれば、癒やしと幻影……あまり揃いの力には、思えません。
……リネッタの言っていた“対”とは、“反対の”という意味だったと思うのです。」
「反対……?」
「そう、反対。真逆だったんです。
精霊王サシェスト様と太月様が動と静、物理と精神を司って対であるように。子月様と闇月様が光と闇、生と死を司って対であるように。
癒やしの精霊様はその御力をみるに子月様の眷属なのでしょう。つまり、その対になっているという幻影の精霊様は……。」
「まさか……闇月様の、眷属だとでもいうのか……!?」
——この世界には太陽の化身とされている精霊王サシェストのほかに、大精霊と呼ばれる存在が信じられている。それが、夜空にうかぶ3つの月、太月、子月、闇月だ。
そのうち闇月が持っているといわれている権能は、闇と死に纏わる、人々にとっては忌避されている力ばかりだった。
当然、魔法陣にもあまり使われていない。闇月を信仰する者たちもいるにいるが、墓守のような者たちや、裏稼業の者たちばかりである。
「幻影の精霊様は、闇月様の眷属。その御力は、まさに癒やしや浄化の反対。苦しみや災い、破滅を呼ぶものです。精霊様が御力を使われているとき、わたくしは精霊様の強い思念に飲み込まれないことだけで精一杯でした。精霊様の御力に流されれば最後、わたくしは、その場にいた者たち、を、一人残らずこ、殺、し、……もしかしたら、わたくしたちの……護衛騎士、までも……っ!」
最後のあたりは口にするのも恐ろしかったようで、途切れ途切れに言葉を紡いだ後、カトリーヌはとうとう顔を覆って泣き始めてしまった。クロードはその背中をさすりながらひどく難しい顔をした。
話を聞くに幻影の精霊様の御力は、カトリーヌには過ぎたる力だろう。
しかしリネッタは、クロードには癒やしの精霊様を、カトリーヌには幻影の精霊様を守護精霊としてくださった。そこにはきっと、理由が、ある。
……そうだ。
この国は、カトリーヌを直接的な暴力によって理不尽にも排除しようとしているじゃないか。
そう思いついたとき、クロードはぱっと目の前が明るくなった気がした。
「カティ。」
「……はい、お兄様。」
クロードが優しく名前を呼ぶと、カトリーヌは涙に濡れた瞳をクロードに向けた。
クロードはその頬を伝う涙をそっとハンカチで優しく押さえて拭いてやりながら、穏やかな顔で口を開く。
「リネッタは、すべて分かっていたんだ。理不尽な暴力には……そう、それすら圧倒する力で対抗するしかない。カティは、そうは思わないかい?」
「え……?」
「今までのカティは、圧倒的な暴力には成すすべがなかっただろう?
ただ、怯え、恐ろしいことが通り過ぎるのを待つしかなかった。護るものがいなくなれば、カティに与えられる選択肢は、理不尽にも自害か殺されるかの二択だった!
でも、幻影の精霊様がいらっしゃれば、それを覆すことができる。どんなに恐ろしいものが来ようが、カティ、君は、君と君が護りたいものを護ることができるようになったんだ。
現に今回だって、結果的には誰一人として傷つかなかったじゃないか!
確かに精霊様の御力は僕達には計り知れないし、分からないからこそ恐ろしくも感じるだろう。
けど精霊様は、その御力でずっと僕達を護ってくださっているだろう? ね、カティ、幻影の精霊様が闇月様の眷属で、その御力が恐ろしいものであっても、僕達には向けられることはない。それだけは間違いない。どんな精霊様でも、正しい者を救ってくださる。そうだろう?」
「……。」
「幻影の精霊様と癒しの精霊様は、僕達に不足している力を補ってくださっているんだよ、カティ。」
クロードが生き生き(?)と説明している横で、カトリーヌはじわりと不安が広がっている気がしていた。
クロードは頬が上気して、爛々と目を輝かせて——まるで熱に浮かされているような顔で精霊様について語っている。
クロードの言い分も分かる。暴力を前にしたカトリーヌは、無力だ。
襲われたあの時も、たしかに馬車の中で無力を嘆いていた。
あれをどうにかできたのは、幻影の精霊様の力あってのことだ。
けれど……。
カトリーヌは目を閉じて、幻影の精霊様から感じた鬱蒼とした暗い森のイメージを思い返した。悪夢にうなされもがき苦しむ敵兵を見て、幻影の精霊様は無邪気な喜びを感じていた。
正直なところ、自分を護っているつもりなのかも分からなかったのだ。ただ、力を解放することを楽しんでいるような感情のようなものだけが流れてきていた。
あのときのカトリーヌは、ただただ、誰も殺さないでくれと、それだけを精霊様に懇願していた。
カトリーヌはゆっくりと瞼を開け、クロードを見た。
「わかりました、お兄様。わたくしは……わたくしではどうしようもないことに直面したときのみ、精霊様に救いを求めようと思います。」
「ああ、それがいい。この国は……アリダイル聖王国は、精霊様を我が物のように考えている。そんな愚かな国と同じになってはならない。絶対に。
……精霊様の御力を僕達が思うままに行使しているなんて、精霊様を冒涜するような考えはしてはいけないよ。」
「ええ……そうならないよう、努力いたします。」
「うん。じゃあ、あとは父と母への説明だけだな。カトリーヌは休んでおきなさい。
アイダ、ハールトンを呼んでくれ。」
「承知しました。」
クロードは席を立ち、アイダとともに慌ただしく部屋を去っていった。
その背中を、カトリーヌは心配をにじませた瞳で見送った。




