カトリーヌの帰還 1
懐かしい景色が見えて、カトリーヌは小さく、本当に小さく息を吐いた。
戻ってきたのだ、領地に。家族の元に。
リネッタを置いてきてしまったが、それ以外は誰一人欠けることなく帰ることができた。
安堵で、意識がふわりと歪んで沈みかける。
その微妙にぶれた焦点の端に、精霊様の力を受けたからだろう、薄紫色へと変色したままになっている自分の髪の毛が見えた。
精霊様が覚醒されたときからここまで、ずっと緊張し通しだった。追っ手が無いとは限らないし——それよりなにより、自分が眠っている間に精霊様の力が周囲の大切なひとたちにいたずらに振るわれるかもしれない、と思うと恐ろしかった。夜もほとんど眠ることが出来ず、意識がはっきりしていることもあったが、大半の時間は朦朧としていたような気がする。眠気に負けて少し意識が落ちたとしても、揺れている馬車内では少しのことですぐ飛び起きてしまうのだ。
あのあと、騎士達はどこかに留まることなく、交代で眠りながら夜通し馬車を進めてくれた。そうしてようやく帰ってきたのだ。
ガラガラと音を立てながら、普段よりもやや早めの速度で馬車は屋敷の敷地に入った。
全員、疲れていた。肉体的にも、精神的にも。
「カトリーヌ!」
誰かから知らせを受けたのだろうか、真っ先に屋敷から出てきたのは兄のようだった。病弱だったことなど微塵も感じさせない張りのある声が聞こえて窓から視線を向けると、兄のすぐ後ろに付き従うようについてくるアイダが見えた。
先にハールトンが馬車から降り、恭しくお辞儀をする。そして、外で待つ兄に声をかける。
「クロード様。カトリーヌ様のお姿に思うところがあるとは思いますが、まずは、お体をゆっくり休ませてあげてください。」
「ああ、わかった。」
その声を聞いて、カトリーヌはおずおずと席を立ち、差し出されたハールトンの手に自分の手を乗せる。
「っ……!」
兄が、息を飲んだのが聞こえたような気がした。なんとも言えず、気不味くなって視線を伏せる。
「クロード様、帰りの道中、お嬢様は賊に襲われたのです。ですが、お嬢様のおかげで全員無事で戻りました。」
「……、そうか。話はあとで聞こう。おいで、カティ。疲れただろう、部屋に戻ろう?」
柔らかく微笑まれ、緊張に苛まれていたカトリーヌは思わず涙ぐんでしまった。
しかし、兄のすぐ後ろに控えるアイダに、どうしても緊張を解くことが出来ない。
「おかえりなさいませ、お嬢様。」
アイダは……いつも通りだった。エイラの姿は見えない。
「フルグリット様とエレオノール様は現在、領地の会合に出られており、夜まで戻られません。ゆっくりお休みください。」
「……っ。」
アイダに柔らかく微笑まれ、カトリーヌは背筋に冷たいものを感じながらも頷いた。
——カトリーヌはその後、侍女達に風呂に入れられている間に意識を失うように眠り始め、クロードに抱き抱えられて自室のベッドに寝かされた。
カトリーヌが眠ったのを確認したあと、兄はハールトンを執務室に呼んだ。すぐにでも報告を聞きたかった。
「精霊様がらみで何かあったのだろう。カティの髪色は、カティを護って下さっている精霊様の色だ。それと……リネッタはどうした?姿が見えないようだが。」
「……は、その……。」
ハールトンは、しばらく見ないうちにやや達観したような雰囲気をまとうようになったクロードに違和感を覚えていた。あれだけ警戒していたアイダを、部屋の中に待機させているのもおかしい。
自分が居ない間に、何かがあったのだろうか……そして、旦那様よりも先にクロードに報告していいものかとも悩む。
ちらりともアイダに視線を向けなかったにもかかわらず、ハールトンが一瞬だけ逡巡したことに気づいたのだろう。クロードが先に口を開いた。
「……そうだな、まず、この状況を説明した方がいいか。」
「申し訳ございません。」
「いや、いいんだ。アイダがなぜここにいるのか、お前が不自然に感じるのも無理はない。カティも警戒していたからな。説明はいるだろう。」
兄はそういって、溜息を吐いた。
「結論から言うが、アイダは錬金術師によって洗脳されていた。僕に長年薬を盛っていたのは、僕の母がディストニカ王国出身だったという理由だった。歴王になれなかったこの国の王族は、この地がディストニカの王族の血にわずかでも繋がりのある僕が治めることを許さず、アイダを使って嫡男である僕を殺そうとしていたそうだ。」
「……。」
「アイダも、知らずのうちに錬金術師に毒を盛られていたことがわかった。すでに僕とアイダは和解している。……精霊様が、アイダの洗脳を解いてくださったからだ。精霊様が、アイダを審判してくださったから。僕は、アイダからの謝罪も受け入れている。」
「……伯爵様と御母君には……。」
「伝えていないし、今後伝える気もない。社交ばかりしてきた母に、今さら家を取り仕切らせるのは難しいだろうし、余計な混乱を招く。僕とアイダ、お前とカティさえ黙っていれば、家の中の事は全て丸く収まる。」
「そう……でしたか。」
ハールトンは、後ろにいるアイダの気配を感じながら、いろいろなものを飲み込んだ。
十何年も、嫡男の食事に仕込まれていた毒に気付けなかったのだ。ハールトンだって、アイダを信じきっていた。素晴らしい第二婦人だと思い込まされていたことには、思うところしかない。
しかし、毒を仕込まれていた本人が、納得している。精霊様がアイダを審判して下さった、とも。ならば、その決定にハールトンの気持ちなど欠片も必要ない。
——思うところがあるだろうに全く表情を変えずにいるハールトンを眺めながら、クロードは、あのときのアイダを思い返していた。ひどく重く感じる剣を振り上げ、アイダから出た黒い靄を叩くように切ったあとの、酷く狼狽して真っ青になったアイダを。
アイダにとっては、今まで信じて生きていたこと全てが虚構だったのだ。この家の誰よりも精霊様を信仰していたアイダにとって、精霊様すら冒涜するようなそれは耐えがたいものだっただろう。そして、その間違った知識だけで、自らの子どもたちを育ててしまったことも、アイダを苛んだようだった。
アイダは、自らと関わる全てに対して許されざることをしたという恐怖に震え上がり、床に頭を擦り付けながら謝った。そして「子どもだけはお助け下さい」と懇願した。
いつ病が重くなって死ぬか分からない恐怖と戦っていた十何年間の思いを、クロードは、そこでぐっと心の奥底に封印したのだ。カティが殺された事だって、許せるはずが無い。しかし、それらはアイダの本心ではなかった。
……恨むのは、操られていたアイダではない。この国の王族と、錬金術師なのだ、と、クロードはアイダに対する負の感情を腹の底へと無理やり追いやった。
精霊様は、アイダを許すことをお許しになられた。あのアイダから放出されたどす黒いもやと一緒に、アイダの罪は灌がれたのだ。
アイダがいなければ、この家は回らない。自分さえ恨む口を閉じてしまえば、傍目から見れば穏やかな毎日のままなのだ、と。
アイダは……じっとその場に立っていた。
自分が犯した罪は、とてつもなく大きい。嫁いできた家の嫡男とその妹を殺そうとして、実の娘には完全に間違った教育をし、さらには息子を使って家を乗っ取ろうとしていた。
洗脳されていたとはいえ、子どももろとも打ち首になってもおかしくない所業だという自覚は、当然ある。
それを、クロードは許した。彼は、アイダからの全ての謝罪を受け入れたのだ。
当然、心から許すことなどできないだろう。遊び盛りの大事な時間を奪い、大切な妹を一度殺したのだから。
しかし、家の為に、嫡男として、彼は上辺だけでもアイダを許すことにしたのだ。精霊様が許したから、とは言っていたが、そんな現実にはあり得ないような建前でもなければ、その怒りは飲み込めるものではなかっただろう。感情のままに罵倒され、その場で斬り殺されてもおかしくはなかったはずだ。
クロードと和解したその数日後、アイダは娘のエイラを実家から連れてきた侍女ともども、実家に向かわせた。
エイラは、アイダによって“聖王国の貴族”として育てられたのだ。アイダの洗脳が解かれた今、エイラをこの屋敷には置いておくことは絶対に出来なかった。
「問題が起きたの。安全の為に、貴女は私の家に行きなさい。」
アイダは、エイラにそう嘘を吐いた。エイラはなにも疑うことなく、やや寂しそうにはしていたものの、にこやかに旅立っていった。
獣人やこの家のこと以外については、エイラはやややんちゃなものの、それでも一端の貴族令嬢になった。離れるのは寂しいが、獣人拒絶派のアイダの実家でエイラはうまくやっていけるだろう。そして実家の方に養子縁組をし、今後はこちらの家には関わらないようにしなければならない。
毒などの事情を知る一部の侍女たちには固く口止めをして金銭も渡したが、どこまで守られるかは定かではない。が、バレたとしてもアイダが罰せられることはないはずだ。なぜならば、この国が、クロードに毒を盛ることを許しているのだから。
幼い息子アーロンについては、クロードの補佐としての役割もあるし、クロードにもカトリーヌにも懐いていたので家に残すことになった。
アイダは、精霊様に、クロードに、そしてこの家に誓った。
もう二度と、裏切らないことを。この家と、そしてクロードを守護する精霊様のために、命を賭して仕えることを。
思い思いに考え込む空気の中、ハールトンがゆっくりと口を開いた。
「では、何が起こったのか、お話いたします。」
ゆるゆるぼちぼち書いて、ようやく100万文字。
読んでくださっているみなさま、ありがとうございます。




