セシアルとアーヴィン
不快なにおいが混ざる空気をじんわりと感じて、ああ、意識が落ちていたのか、と、ゆっくりと目を開ける。視線の先にぼんやりと光っている何かが見えるが、まだ焦点は合わない。
起きあがろうと体に力を入れた瞬間間髪入れずずきりと痛んだ肩と頭に、ふいに呼び起こされたのは、壊れた喉から捻り出された「わたしのかちだ!」という高揚した声だった。
そうか、俺は負けたんだな……。
意識が戻ってすぐだからか焦点の合わない目を一度閉じて、考える。アイツの手が――手どころか魔核まで確実に灰にしたはずだが、まあとにかくあの無駄に細い手が――俺の肩を掴むと、鋭い痛みが走った。反射的に振り払おうとしたが、もうそこからの記憶がない。相手に一撃が当たりさえすればどうにかできる、そういう類の刻印だった可能性が高い。あの女はそのタイミングを虎視眈々と狙い続けていたのだろう、血反吐を吐きながら。
刻印が強力なほど魔人としての力や肉体は強化されづらい傾向にあるので、アイツの圧倒的弱さにも納得できる気がした。いやそれにしても弱すぎたが。
さて。ご丁寧にも仰向けに寝かされていたのは、牢にしては高すぎる天井に煌々と輝く魔法陣をなによりも早く見せる為だろうか。アーヴィンは何回か瞬きしてから、天井の魔法陣に目の焦点を合わせた。……アレは、まあ、魔人封じの魔法陣だろう。つまりここはどこかの、いや……もろもろを考えると聖王国の王城の牢の可能性が高い。
魔人の回復力はほとんど魔獣と変わらない。しかし、未だに傷が癒えていないことを考えると、傷を受けてから1日経っていないか、回復に時間がかかるほど深い傷だったか――もしくはあの魔人封じの魔法陣で傷の治りが遅くなっているかだろう。
ゆっくりと起き上がる。冷たい石の床、石の壁、鉄格子。壁や床はやや湿っぽく、わずかにカビとほこりのにおいに混じってすえた臭いもしている、かなり古めかしい牢だった。壁の溝に沿って這う緑は苔だろうか……石の冷たさに反して空気は生ぬるく淀んでいる。壁には等間隔に三本立ての蝋燭が灯され、辺りを照らしていた。
どこを見回しても空気孔のようなものがないところを見るに、地下ではないのか……魔人用の牢と考えると地下であっても空気孔が作られないかもしれないが、さすがに魔人専用の牢など用途が限られるのでそれはないだろう。
天井の魔法陣を見上げる。
どことなく、力が入らないような、不思議な感覚があった。手を握りしめてみると、それでも一般人程度の力は出せるようだ。とはいえ無理やり出るのは骨が折れるだろうが――さて。
俺は視線を鉄格子の先に向けた。何かしらの気配を感じたからだ。わずかに足音もするような気がする。人だったころはもう少しそういったものに鋭かったはずだ。魔人の力が失われただけでこんなにも気配に疎くなってしまうとは、いかに魔獣から得た力に依存していたかがわかる。まあ、今後の課題として覚えておこう。忘れなければ。
隠すつもりのなさそうな、軽い足音が聞こえ始めた。果たして現れたのは、どこか甘い匂いを纏った、ひどく仏頂面のセシアルだった。
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ぶは、と噴き出すような声に、セシアルは眉間の皺を深くしてぎりりと奥歯を噛んだ。視線を牢の中に向けると、蝋燭の明かりが揺らめく薄暗いなかにニヤついたアーヴィンの顔が見えた。
「酷く機嫌が良さそうじゃないか、アヴィエント。囚われの身だというのに。」
「ああそうだなァ? だが、まさか灰にしたはずの奴が蘇るとは思わねェだろ?」
アーヴィンは肩を竦めると、諦めたようなそれでいて笑っているような顔で小さく息を吐いた。
「えらくしぶとい奴だと思ったが、まさかあそこまでして蘇ってくるとはな。やべえ魔人を仲間にしたじゃねェか、セシアル。どこで拾ったんだ?」
「っはぁ!?」
セシアルから返ってきたのは、どんなときでも余裕の態度を崩さない彼とは思えない、イラついた声。
「“あれは何?”アヴィエント。」
「ン~?」
「ふざけないで。リネッタだよ。何、あれ。あれこそどこで拾ったのさ。」
イライラを隠さず、鉄格子に詰め寄ってセシアルが低い声で問う。
「精霊の祝福が強力すぎる、あんなの反則だ!複数の祝福持ちだってあんな……めちゃくちゃだ……魔人だってあんなことできない。」
「……クク……なんだ? 逃げられでもしたのかァ? 隷属の魔装具まで付けた獣人の子どもにィ?」
ガンッと、鉄格子が震え、音が牢内に反響した。セシアルが蹴ったのだ。
「あれは何?……“答えて。”」
「クク、ク……いいザマだなァセシアル。まあ、今の俺は機嫌がいいからな、アレが何なのか教えてやってもいいぜ。で? リネッタは何をしでかしたンだ?」
どちらが囚われているかわからない態度だが、よっぽど焦っているのか、セシアルは小さく舌打ちをしてから口を開いた。
「――あいつは、城にいた全員の意識を落とし、鉄格子を不明な力でくり抜いたように消し去って、隠匿を捕えていた魔法陣を破壊し、隠匿と城の住人だった4人の娘を連れ去った。」
セシアルの声は小さく早口だったが、その全てをきっちり聞き取って、ひゅうとアーヴィンが口笛を吹き、笑った。
「何をやってもアイツはバケモンだな。」
「ふざけるな。“あれは何?”」
「何って、今言っただろ、バケモンだよ。お前、リネッタと話をしてみたか? あいつ、誰が相手でも異様に肝が据わってただろ。それに対して違和感がなかったか?」
「……年齢の割に落ち着いてたし、面白い子だとは思ったけど。」
むすっとして話すセシアルに、俺も最初はそう思ったンだがなァ、とアーヴィンはひとりごちた。
「あの異様な落ち着きようはな、自信の表れなンだよ。あいつにとっちゃァ、人も獣人も魔人さえ関係ねェ取るに足らない相手っつーことをリネッタは理解してンだ、無意識にな!だから、ああいう丁寧に舐め腐った態度になるンだよ。俺が隠匿の力も使って全力で殴りかかったとして、まァ……負けるのは俺だ。あいつに不意を打たれたときゃ手も足も出ず遊ばれ放題だったからな。……なァ、どれだけやべェ奴か分かンだろ? 隷属の魔装具には驚いたが、考えてみりゃアレも効いてるかどうか怪しいもんだぜ。」
「はぁ?そんなわけ――」
「獣人の子どもの姿をしてそれらしい言動をしちゃァいるが、中身は正真正銘バケモンなンだよ。お前風に言うと、そうだな……あいつは“世界の理の外に在る”ンだ。魔獣の巣でもぺらっぺらの服一枚で武器も持たず歩いてンだぜ、さも無害ですみたいなすまし顔でなァ!」
「なん……だよ、それ……。」
「精霊の祝福や刻印なんて遥かに届かない高みにいやがるンだ。あいつが何なのかなんて分かるのは、精霊王とあいつだけだ。俺たちからしてみれば、バケモノ以外の何物でもねェからな!」
リネッタのことを話せる知り合いが居なかったために溜めに溜め込んだリネッタの愚痴をここぞとばかりに吐き出しきって、アーヴィンは少しすっきりした顔で、ハ、と嗤った。
「被害が隠匿だけで良かったじゃねェか。城にはヴェスティも居るんだろ? あいつ、本気で潰すつってたからな……今回は隠匿を逃がすことを優先したんだろうが、ヴェスティはリネッタと顔を合わせたら最後、問答無用で消されるぞ、精々気を付けるこったな。」
「……。……そんなバケモノに、うまく取り入ったものだね。」
不服そうな顔で、セシアルはつぶやいた。セシアルにしてみれば、隠匿に利用できるかもなどと安易な考えで、まんまと脳筋のアーヴィンの言う事を信じてリネッタを城に招き入れてしまったのだ。最悪である。しかしアーヴィンはすぐに疲れた顔になって、肩をすくめて鼻を鳴らした。
「取り入ったァ……?違ェよ。偶然、興味を持たれただけだ。……あいつはな、仲間なんてもんじゃねェ。あれは、魔人を玩具か何かだと思ってやがるからな。俺はそのお人形遊びに運よ……いや、運悪く、お人形として目を付けられただけだ。扱いは仲間っつーより奴隷に近いぞ。」
「……じゃあ、ここに、お気に入りの人形を取り返しにくるんじゃないの? ねえ、アヴィエント。“隠匿とリネッタはどこへ消えたの?”」
「さァな。あいつは新しい玩具を手に入れたし、あとはなんだ? 魔人でもないただの人を4人も攫ったって? 何が気に入ったのかは分からねェが、気の毒なことだ。
リネッタは俺の居場所が分かるわけでもねェし、じじいが俺を探したところで詳細な居場所はわからねェから、ここに戻るようなことはねェだろうな。つーか、あの頑固じじいはテコでも動かねェってここ数年で分かったろ。そろそろ諦めろ。リネッタも、これ以上関わってもあいつはあいつのしたいことしかしねェし……ん?」
ふと、アーヴィンがやけに鼻につく甘い香りに違和感を覚えて、怪訝な顔をしてセシアルを見た。
「香水かと思ってたが……なんだ?」
セシアルは、しかめっ面をやや穏やかにして、諦め顔で小さく息を吐いた。
「錬金術師様お手製の、御薬入りの香水だよ。君の口がよく回るようにね……たくさん喋ってくれた割には、必要な情報全く出てこなかったし、なんか……本来なら香りにだって気づかないはずだし、効いてるのかもよくわかんなかったけど。
でもさあ、リネッタが隠匿を連れて逃げたのは本当。だからさ、すごく怒ってるんだよね、僕。」
セシアルは一度目を閉じてゆっくり開いて、にっこりと笑った。
「だからさ、ちょっと腹いせに付き合ってよ。まだ殺しはしないからさ。」




