妖精の本分 3、あるいは騎士が見た奇跡
突然襲ってきた“隊列を組んだ”賊に、カトリーヌの馬車隊を守護していた騎士たちが狼狽えたのは一瞬だけだった。
ティリアトス辺境伯爵領は、国内に二か所ある魔獣の巣のうちのひとつを有し、さらには周辺国に睨みをきかせなければならない国境に位置する要の土地だ。領地や国に何かがあったときにできるだけ後手に回らないよう、辺境伯領の兵士たちは魔獣だけでなく、普段からただの賊から密偵、他国の兵士、そして反乱が起きたときのために自国の兵士まで、あらゆる対人を想定した訓練を行っている。
律儀に待っている賊たちの前で騎士たちは速やかに馬から降り、敵には魔術師もいるという想定でしっかりと陣形を組みなおす。
下らない挑発はしない。相手が賊の格好をしつつもわざわざ出自を知らせるように現れたのは、同じ国を護る兵士であるこちらに敬意を払っているのだろうから。
盗賊の格好をしながらも、こちらを不意打ちするでもなく盗賊のふりをするでもない。それは、こちらを襲うことに相手の兵士たちが納得していないという明確な意思表示だ。つまり、相手方にこちらを襲う大義名分がないか、あったとしてもかなり弱いということを示していた。
しかし、命令されたらそうしなければならないのが兵士の役目なのだから、どんなに不服だったとしてもやれと命令されたら盗賊の格好だってするし、盗賊のフリをして貴族の馬車だって襲わなければならない。
ではどうするか。結果的にこちらが全滅すればそれは“盗賊に襲われた”ということになるのだから、どう殲滅するかまでは自由だろう、と、相手はそんなことを考えたのかもしれない。
しかし分の悪い戦いだ、と、今回の隊長を任されているロキロト・マクア副騎士団長は心の中で毒づいた。
相手はこちらの人数や構成を知っているだろう。地の利もあちらにある。ひとりとて逃さないよう、伏兵も散らばっているだろう。相手が軍として向かってこようが賊として向かってこようが、ここを切り抜けるのは至難の業である。
一番馬の扱いに長けた騎士ひとりがカトリーヌを担いで逃げるにしても、現状では弓や魔術の的にしかならない。何人かを犠牲にして突破口を開き、何人かを肉壁にしながらカトリーヌを担いで駆け抜けるしかない。ハールトンや使用人は諦めなければならないだろう。カトリーヌさえ生き残ればいい。今回の戦いはそういう類のものだ。
賊に視線を向ける。ぐるりと見回しながら、端的に味方の騎士たちに隠語も混ぜて指示を飛ばす。
カトリーヌを連れて逃げる騎士とその盾になる騎士達は馬車の近くにし、突破口にするのは相手の隊長格がいる場所から馬車を挟んで反対側にする。できるだけ感づかれないようロキロトは隊長格を相手取る位置へと移動した。
相手は、この作戦ともいえないこちらのお粗末な計画を確実に見越しているだろう。それでも今回の隊長を任されているロキロトを放ってはおけないはずだ。ロキロトはこれでも、腕の立つティリアトス辺境伯領の騎士たちの上に立つ騎士団長に次ぐ副団長だ。暴れ、全てをなぎ倒し、できるだけ馬車付近から意識を逸らさせなければならない。
ゆっくりと剣を抜く。ロキロトから少し遅れて、他の騎士たちも抜刀した。
騎士のなかには、ティリアトス辺境伯爵と血縁のない下位貴族の子どももいる。腕っ節だけでのし上がった平民もいる。獣人に対しての意見は様々だが、ロキロトにとっては全員がかけがえのない仲間だ。それをこんな形で失うことが、残念でならなかった。
ティリアトス辺境領にとっては致命的でないものの、あとからも様々な問題が起こるだろう。賊の仕業だと主張するだろう聖王との関係悪化は避けられない。一体何のためなのか……。
誰もが何も知らないまま、絶望的な戦いが、始まる。
味方の誰もがそう思っていたし、敵もそう確信していただろう。
しかし実際には、戦いが始まる前に全てが終わった。
唐突に現れた、魔獣の気配。
いや、それは魔獣の気配のようでいて、少し違う奇妙なものだった。
真後ろに感じた不気味な気配に、思わず目の前にいる敵の事も忘れてロキロトは振り向いた。
見れば、他の騎士たちも、ロキロトの後ろ……馬車の方向へとに視線を向けている。賊の格好をした敵も、半分以上が馬車を凝視し、残りは味方も含めた周囲の不可解な行動に戸惑っているようだった。
――馬車に乗っているのは、間違いなくカトリーヌとハールトンだ。
すぐに人の魔獣化という言葉が浮かび、ロキロトはぞっとした。
聖王国軍が出張ってきたのはこのためだったのか?という考えが過る。
しかし、カトリーヌは精霊に愛されているはずで……もし本当に魔獣化の懸念があったのならば、そもそも聖王都には入れないだろうし、聖王国軍はわざわざ賊の格好などする必要はないはずだ。
では一体何が起きようとしているのか。そんな一瞬の動揺が相手側にも伝わってしまったのか、相手の指揮官だろう大男から「おい。」と声がかかった。武器を腰に戻し、敵味方などもうどうでもいいかのように大股でこちらに近づき、やや声を潜めて言葉を続ける。
「何が起ころうとしている。」
「……どこまで知っている?」
「カトリーヌ様は、獣人の少女を着飾り祭り上げ、獣人の反乱分子を率いていると聞いている。だから見せしめのために、賊の格好をして手酷く始末しろという命令だ。」
「なんだそれは!」
「……まあな。だが事実、ティリアトス領では反乱が起こっても一度も成功していないとも聞いている。獣人どもが各地で暴れ、深刻な被害を出している領地もあるらしいからな。見せしめのひとつやふたつは必要だそうだ。だからといって、あんな子どもを殺させようだなど、はじめは我が耳を疑ったが。」
その言葉に、ロキロトは呻いた。
「そういうことか。だが実際、カトリーヌ様は獣人を連れ歩いてはいるが反乱など考えてはいない。ティアトス辺境領は……護られている……。」
「誰に。」
「精霊様だ。事実、カトリーヌ様は死にかけたが精霊様に命を救われたことがある。ただし、当然だがこれは伯爵様とその場に居たごく一部の者しか知らない。」
「はん?そんなことが信じられるとも?」
「俺はこの目で――」
というところで、がちゃりという小さな音がやけに大きく響いた。ざわめきに支配されていた世界から、急速に音が失われる。
ぎ、と馬車の扉が開き、降りてきたのは……顔面蒼白のハールトンだった。
――おい、大丈夫か。と声をかけようとして、ロキロトは自らの声がでないことに気づいた。
いや、出ていないのではない、喉は確実に震えていた。しかし今、ロキロトには風の音すら聞こえていない。つまり、音が消えている。何者かによって、消されている。
ハールトンはちらりとロキロトに視線を向け、小さく頷いた。“大丈夫です。”と。そして振り返り、恭しく手を差し出す。馬車内へと。
そこに、ほっそりとした少女の手が乗せられた。空気が凍るような緊張感に、ロキロトは息を詰めた。
見慣れた少女に、気圧される。馬車からふわりと体重を感じさせないような不思議な足取りで降り立ち、周囲を睥睨するように視線を巡らせたカトリーヌの姿は、どこか人ならざるものであるような美しさであった。
ロキロトは息を呑んだ。自らが飲み下したその音すら耳に届かないが、きっとカトリーヌの“元の色”を知っている騎士たちはみんなそうしただろう。
カトリーヌの美しい淡いピンクゴールドの髪は、淡い紫の光をまとっていた。
よく見れば、瞳もほのかに光を帯びているように見える。
その神々しい人ならざるものの気配を撒き散らしているカトリーヌの表情が、わずかに曇る。
その小さな形の良い唇が僅かに、開く。
ロキロトから馬車まではある程度の距離があるのに、その繊細な動きが手にとるように見えた気がした。
そして次に、その場にいた全員が、彼女から清らかで優しげな声が聞こえるのだろうと、思った。
カトリーヌがわずかに息を吸う。そして。
「剣を、収めてください。」
ずし、と圧としか言いようのないものが、ロキロトを襲った。
精神的なものではない、物理的な圧力だった。それはこの場にいる他の者達にも及んでいるらしく、馬車を取り囲んでいた賊の格好をした王国軍のうち、何割かがそれだけで膝をついた。相変わらず、なんの音も出せずに。
「剣を、捨ててください。」
静かな落ち着いた声でもう一度カトリーヌがそう言っただけで、敵味方関係なく、その場に居た全ての兵士が、物理的な天からの圧力に両方の膝をつかざるを得なくなった。倒れ伏したものもいる。それはあまりにも異様な光景だった。
「あぁ、精霊様……いけません……。」
カトリーヌが、ひどく苦しげな声で、小さく小さく呻いた。そして、悲しそうに目を伏せる。
――精霊様の、力か。
圧がかかり続ける中、ロキロトはカトリーヌの言葉を聞き取って、確信した。
今まではカトリーヌのみにその力を示してきた精霊が、公に出てきたのだ。カトリーヌの危機を感じて、罰を与えるために。
抗えない重圧に膝を付きながら、ロキロトはどうすべきかと考えを巡らせた。しかし、どうもこうもない。何も出来ない。動くことも喋ることも、精霊によって許されていないのだから。ロキロトにできることなど、何もない。
その間にも事は進んでいく。さきほどの悲しげな表情のまま、カトリーヌは、再び周囲を見回した。
「私を、家に、帰らせてください。」
それはただの懇願だった。
だが、その一言だけで、誰も動くことができない無音の世界の中、目には見えない力が荒れ狂う。
音は聞こえずとも何かが動いた気配を感じ、ロキロトは苦労して首を巡らせ、ぎょっとした。
すぐ後ろにいた王国軍側の隊長だろう大男が、倒れていた。それも、なにかひどく恐ろしいものを見たときのような顔で、痙攣している。
視線だけであたりを見回せば、賊の格好をした王国軍の兵士“全て”が、そのような状態に陥っていたのだった。
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カトリーヌは立ち尽くしていた。
精霊とは、全ての力の源で、全てを統べるものだ。人々に恩恵を与えるためだけに存在しているのではないと、ちゃんと自分でもわかっている……そう、思っていた。
強制的に頭を垂れさせられている自らの領地の騎士たちと、悪夢に襲われもがき苦しむ賊の格好をした王国軍だろう相手に、カトリーヌは心を痛めずにはいられない。
この力は、精霊のものだ。彼らは国の命令に従っただけで、カトリーヌのように帰りたい場所もあるだろうし、愛する家族だっている。そうしてできるだけ殺さないようにと精霊に希った結果、どうしてだかこうなってしまった。
精霊の力は、カトリーヌの想像を遥かに超えていた。カトリーヌは、ただ安全にここを切り抜けられたら、程度のことしか考えいなかった。しかし精霊は罰を与えたかったのか、ただ眠らせるだけではなくそこに悍ましい悪夢を追加した。そして、その悪夢にもがく兵士たちの姿に精霊が愉悦を感じているのがわかってしまう。
精霊の“受け皿”になっている今のカトリーヌには、王国軍がどんな状態に陥っているかも手にとるようにわかった。悪夢の内容は、それぞれがもとから持っているトラウマや恐怖心を最大限に煽るようなもので、どう考えてもこれは、カトリーヌの“安全に切り抜けたい”という願いから、あからさまに外れている。
導くだけの精霊だと、思っていた。
菓子を食む姿や可愛らしい仕草に、いつの間にか存在を侮っていたのだ。
可愛いようでいても、精霊は、精霊。カトリーヌには理解の及ばない存在のはずなのに。
幻影の精霊は、死と闇を司る闇月の眷属なのだろう。全てを癒やし浄化するという、兄を守護している浄化の精霊とは真逆、“対の存在”――混沌を齎すという闇月の眷属たるこの精霊がさらに力を使えば、今すでに苦しんでいる彼らにはもっと悲惨な災難が落ちてくる。そして、今のカトリーヌが精霊に頼めば、精霊は嬉々として願いを叶えてくれるだろう。
“わたくしを襲ったのだから、こうなるのは当然……なはず、ないわ。王族の命令には逆らえない、ただの兵士なのよ。誰も怪我すらしていないのだから、これ以上、甚振る必要は、ないわ。いまだって、じゅうぶん罰を受けているもの……。”
カトリーヌは、精霊の力によって負の方向へと高ぶりかける心を沈めるように、静かに目を閉じた。
この力は、どう考えてもカトリーヌの手に余る。しかしリネッタは、カトリーヌにこの精霊を預けた。
その意図はカトリーヌにはわからないが……これだけの力を持つ存在なのだ、そこにはカトリーヌには計り知れない何か重大な理由があるのだろう。
「……。」
一刻も早くこの場から遠ざかり、苦しみもがく兵士たちから精霊を遠ざけなければならない。
カトリーヌはあたりを見回す。そして、今回の隊長格である騎士に近づいてその肩に手を起き、「精霊様……この者たちは、わたくしとともに帰ります。どうか、力をお収めください。」と声に出して願った。
そして、ようやく圧から解き放たれて顔をあげたロキロトに、「帰りましょう、わたくしたちの領地へ。」と、弱々しい笑みを浮かべて静かに告げた。
次の更新は明日よりかは少し間が空きます。
次はリネッタ視点の予定です。




