妖精の本分 2、あるいはカトリーヌの受難
その霊獣はもともと影妖精と呼ばれていた。それらは分裂することで個体数を増やし、ある程度増えたのち再びひとつとなることで“成体”へと至る。
“召喚獣”という妖精を知らない者らの理で作られたまがい物は、しかし核を得る前も得た後も、召喚者の望み通りに己は妖精であるという自覚を持ち、本来の影妖精という存在をなぞるように、召喚者が知り得ぬ理に生きていた。
創造主と守護主の魔素を吸収しながら存在を世界に馴染ませ、まがい物であるがゆえに本来の影妖精のような分裂はできなくとも、いつか訪れるだろう力の解放に向けて着々と相応の魔素を蓄えていた。
そして、その霊獣は、守護すべき主の願いを受けた。
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馬車の外からは、何も聞こえてこない。戦いの前の静けさに支配されている。
馬車内でハールトンの後ろに隠れるように小さくなり、カトリーヌはひとり自決用の短刀を握りしめたまま精霊に救いを祈っていた。
聖王都ヒュム・プリエから領地への帰り道。
来るときも通ってきたはずの最も安全な――聖王都から少し離れた場所にいくつか飛び地で存在している小さな聖王の直轄地の、ひとつ。
賊が襲ってきたのはその土地の真ん中あたり、街道沿いの人気のない岩場に囲まれた小さな野営地用の広場であった。
こちらはティリアトス辺境伯家の紋章が描かれた4台連なる馬車隊で、さらには騎士が護衛している。そんな貴族の馬車を“祝福されし聖王の直轄地”で襲うような賊の中身が何なのかなど……想像に難くはない。
甦るのは、アトラドフ連合王国で賊に襲われ斬られたときの、恐怖、絶望、痛み。人の、死。
――殺される、の?
ハールトンがいる。連れてきた使用人も10人近くいる。護衛の騎士も倍以上いる。
ちらりと馬車の窓、カーテンの隙間から見えた賊の数は、多かった。ハールトンは、ティリアトス領の騎士たちならば勝てるはずだとは言うが……ただの賊ならまだしも、もし相手が訓練された兵士だったのであれば数で負けている騎士たちは勝てないのではないだろうか。不安が募る。
騎士たちが負ければ、カトリーヌも含めた全員が捕らえられるのか、殺されるのか。襲われている理由がわからない以上どうなるかわからないが、たぶん待っているのは最悪の結果だ。……リネッタは、いない。
「なぜ、わたくしは、何も、できないの……?」
騎士たちはこれから、カトリーヌを護るために絶望的な戦いに挑んで、死ぬ。
以前襲われたときだって、何人かの騎士が死に、侍女たちだって死ぬような目に遭って心に傷を負った。
襲われる原因が何かすらもわからない。けれど、狙いはカトリーヌだというのは、間違いないだろう。本来ならばカトリーヌひとりが犠牲になれば解決するはずなのだ。しかし、カトリーヌが貴族の娘だから、周囲を巻き込んでしまう。力もなにもないただのひ弱な娘一人を守るために、何人もの犠牲が、出る。
カトリーヌを護っている精霊は、兄であるクロードの精霊のように治癒の力を持たないと聞いている。きっとヒュランダルでカトリーヌをとアギトを引き合わせたときのような、導きの力に長けているのだろう。
しかし、祈らずにはいられない。
「精霊様……どうか……助けてください……どうか…導きを……。」
震えながら、そう、ぽつりとこぼす。
“てと るる あ?”
そんな可愛らしい不思議な響きの音が聞こえたかと思うと、もぞりとスカートのすそから精霊が顔を出した。
精霊の輝く赤い双眸がカトリーヌを映している。カトリーヌは驚いて、思わず「え?」と声を漏らした。
「精霊……様?」
「……カトリーヌ様?」
ざわりと異様な気配を感じ取ったハールトンが振り向き、カトリーヌが精霊様と呼んだそれに目を留めた。そしてその、物語にあるような小さな小さな人形のナニカに、息を呑む。
「これは……」
ハールトンが驚きと困惑の混じった顔で、カトリーヌに視線を向けた。しかし、カトリーヌは呆然と精霊に視線を向けたまま、動かない。
「カトリーヌ様?」
「え、ええ。」
ハールトンが再び呼びかけて、ようやくカトリーヌは視線をあげたが、しかしすぐに惹きつけられるようにまた精霊へと向ける。
カトリーヌは戸惑っていた。
はじめての精霊からの直接的な干渉に戸惑い、そしてわずかに怯えていた。
いつもは身振り手振りでなにかしら――大抵は甘いものが食べたいという欲求――を伝えようとしていた精霊が、その瞳にはっきりと意味の在る言葉を宿してカトリーヌに問いかけていた。
頭に浮かぶのは、鬱蒼としていて人を拒むような深い森の色。
それと同時に、ざわざわと聴いたこともない音が聞こえてくるような気がする。
するりと心に侵入してくるそれらの色や音は、とても――暗澹としている。
癒やしの精霊と“対”をなすという、幻影の精霊。
対、とは、どういうことなのか。
今までは漠然と捉えていたその言葉に、カトリーヌはこの時初めて疑問を覚えた。
癒やしの、対。
対というのは、一般的には“揃いの”という意味だ。しかし、リネッタが言ったその対というのが、もし、鏡写しのような意味であったなら? そう、対は対でも、反対という意味であったのなら。
癒やしの “反対” は。
しかし、精霊の輝く赤い瞳が、それ以上考えることを許さない鋭さをもってカトリーヌを射抜いていた。
リネッタに言われてずっと隠れていたはずの精霊が、ハールトンが相手とはいえ姿を現した。……精霊がカトリーヌを導くために、救いの求めに応じた、ということだ。
精神を蝕むように頭に流れ込んでくるのは、可愛らしい声で囁かれる、心がざわつく不協和音。
しかしカトリーヌには、その“言葉”の意味が不思議と理解できた。
ぞわ、と心が震える。……カトリーヌは、リネッタが幻影の精霊と呼んだそれと視線を合わせながら、自らの心を揺るがしているのがどんな感情なのか気づかないふりをした。
頭に浮かぶのは夜に浮かぶ三つ月の、一番昏い月だ。癒やしの精霊が生命を司る小月の眷属だとすれば、対をなす幻影の精霊は……きっと死を司る闇月の眷属なのだろう。
このまま精霊からの干渉に流されて言葉を発してはならない、と、心のどこかで警鐘が鳴っている。
しかし、精霊様が手を差し伸べてくださっている。その手を取らなければ、きっと、ここで全員殺されてしまうのだ。
言わなければ。言わなければ、ならないのだ。
戦うために差し出された剣を、今、この手に。
“――今こそ力ある言葉を!”
リネッタはこうなること分かっていたのだろうか。
カトリーヌは震える唇をわずかに開き、とぎれとぎれに、精霊の望むままにその言葉を紡ぎはじめた。
「問い、に、答、え、よ……暗が、り、の……子ら、よ……」
ぞわりと体から力が抜けていく感覚に、カトリーヌは意識を手放しかけ慌てて馬車の壁と床に手をついて自らの体を支えた。急に気が遠くなり、ふと、“力の対価”という言葉が頭をよぎる。少し遅れて、ハールトンがカトリーヌを支えた。
強く手を握りしめ、静かに息を吐き、意識を保つことに集中する。
最後まで、言葉を、精霊が望む言葉を、紡がなければならないのだ。
「怒り、に、は……」
[――嘲笑をっ!]
カトリーヌの“問い”に、昏い喜びに満ちあふれたようなぞっとする可愛らしい声が、満面の笑みを浮かべた精霊から聞こえた、気がした。
本文のいろいろな修正や表記揺れなどなどが終わり、ようやく投稿再開です。
週1更新はちょっと難しいかも知れませんが、よっぽどのことがない限りは1ヶ月以上の空きとかがないよう、投稿していけたらと思います。
感想は開けていますが、個別のお返事は難しいと思います。全部読みます。すみません。
それでは、これからもよろしくお願いいたします。




