執事長と執事長の息子の執事長
「リネッタ、紹介します。顔は分かりますね? 彼は私の息子で、この屋敷の執事長を務めているスクレです。」
「はい。」
「リネッタ、あなたは名前を覚えるのが苦手でしょう。いいですか、スクレです。――スクレ。」
「スクレさま。」
「そう、スクレです。」
屋敷の地下、奴隷部屋のベッド的な木の板の上で手首にはめていた隷属の魔道具を眺めていると、いきなり現れたハールトンがいきなり息子を連れてきて紹介し始めた。たしか初日にも、ハールトンがいないときの世話をしてくれるとかいうことで紹介された……と思われる人だ。顔は記憶にあるが、名前は、まあ、覚えてはいなかった。
今日は、カトリーヌが領地に帰る日である。
当然ハールトンおよびその他もろもろはカトリーヌと一緒に帰るので、この屋敷に残るのは私だけになる。その私の世話を引き継ぐのがこのスクレということなのだろう。
ちなみに王女サマの強い要望により、私はカトリーヌによって喋ることを許可されていた。まあ、何が不敬になるかわからないので基本的には無口を続けるつもりなのだが。
――すくれ。よし、忘れるまで覚えていよう。私はそう固く誓って、ハールトンのやや後ろに立っているスクレに小さくお辞儀をした。スクレは澄ましたような顔で背筋を伸ばして立っていたが、こちらに視線を向けて小さく頷いてみせてくれた。
スクレは、ハールトンの子どもだからなのか執事長だからなのか、獣人に対して嫌そうなそぶりを一切しない珍しいタイプの人だ。たぶんそこまで獣人を嫌ってはいないのだろう。きっと。
「スクレはこの屋敷の執事長ですから、貴方が傭兵だと伝えてあります。カトリーヌ様の護衛だということも。ですから、何かあったときは奴隷ではなく雇われているいち傭兵として、相談してください。」
「はい。」
正直、スクレが私の素性を知っていても頼ることはないだろうが、何か聞きたいことがあったときのためにはいいのかもしれない。その質問にスクレが応えられるかはわからないが。
「それと……リネッタ。カトリーヌ様にはお伝えしていませんが、貴女に言っておかなければならないことがあります。」
そう言って、ハールトンが小さくため息を吐いた。あまり表情を動かさないハールトンのその眉尻の下がった表情が珍しく、私は首を傾げる。
「隷属の魔装具の拘束にはいくつかの抜け道があり、シャーリィ王女は貴女に嘘をつかせることができます。貴女が真実だと思い込んでいることは、隷属の魔装具にとって嘘にはならないからです。私が言っていることの意味が分かりますか?」
いつもよりゆっくと話すハールトンの言葉をひとつひとつ聞いて、ああそんなことかと私は頷いた。
「記憶の改ざんには対応していないんですね。」
隷属の魔装具がどうやって命令違反を判断しているのかを考えれば、まあ、予測はできたことだ。
首の魔法陣が確認できないので予想ではあるが、この魔装具、命令違反の判断を命令した側が下すことができないのである。装着している側が“命令違反をしている”と感じた時点で魔装具が反応するようなのだ。
まあそれはそれで大体の場合はなんとかなるとは思うし、装着された魔法陣に対して外部から何かしようと思うとこの構造だと命令する側も魔道具が必要になるのでこうなってしまってもしょうがないとも思う。何より命令違反を外部から判断しようとすると、奴隷をたくさん使っている場合ひどく管理がめんどくさくなるだろう。最悪、一人の命令違反で全員が懲罰を受ける可能性もある。
で、それはそれでまあいいとして、そうなると問題になってくるのは奴隷が欠片も命令違反だと思っていない場合の対処である。“ソファに座れ”と言われて座らないのは明確な命令違反だが、座らせる目的で“ソファを使え”と言ったときに奴隷がソファに寝そべったとしてもそれは命令違反にはならない。
明確に命令しない、つまり奴隷に裁量を与えてしまうような命令の仕方をすると、奴隷側にそういう抜け道ができる。
そしてそれとは別に、もうひとつ。思い込みを利用したり洗脳したりして、奴隷の思考を塗り替えることですり抜けられる命令違反だ。どういった場面でそういうことが必要になるのかは想像がつきにくいが、今回の王女サマのように、嘘が付けない奴隷に嘘をつかせることのできる手段としては有効だろう。
「……まあ、言いたいことはいろいろありますが、置いておきましょう。私が言いたいことはきちんと伝わったようなので、よしとします。」
ハールトンがなぜか呆れたような顔をしているので、私は再び首を傾げた。
正直なところ、王女側が本当に私を洗脳しようとしているのならば、何が目的なのかちょっと気になるところでもあった。無傷で返すというのだから、洗脳したあとに領地に帰らせて何かをさせたいのだろうか。
……この世界はなんでもかんでも魔法陣に頼っているので、洗脳用の魔法陣とかがあるのだろうか。もし本当にそうだったら、楽しみですらあるかもしれない。あ、魔人の刻印を使う可能性もあるかもしれないが、まあ、それはそれで得るものもあるだろう。
ナントカ王女サマが本当に素で獣人を飼ってみたいと考えている可能性もなくはないが――というか、そもそも私を洗脳なんてできるのだろうか? 魔法陣を使うならなおさらだ。
そんなことを考えていると、ハールトンが小さく咳ばらいをしたので、私はハールトンに意識を戻す。
ハールトンは先ほどと打って変わってしっかりとした視線でこちらを見ていた。
「いいですか、リネッタ。貴女は奴隷として扱われますが、命の危機を感じたときは身を守りなさい。貞操を奪われそうになったら迷わず逃げなさい。」
「――え?」
唐突な命令に私がぽかんとしていると、命令を受理した隷属の魔装具が淡い黄の光を灯した。少し遅れてスクレが目を丸くしてハールトンに視線を向け、「は!?」と素っ頓狂な声をあげる。
え?今、何てった?……貞操???
「貴女は確かに大人びていますし、私が考える以上の知識を蓄えているのでしょう。傭兵として身を立てていたのですから、実力もあるのでしょう。ですが、傍から見ればただの獣人の子どもでしかありません。しかも隷属の魔装具を付けた、か弱い少女です。……もちろん、これは私の独断です。貴女に何かあったときは、貴女をシャーリィ様に渡すと決めた私が責任を取るべきでしょう。私が死ねば貴女にかかっている命令は消えますので、カトリーヌ様が疑われる心配はありません。」
「ちょ、父さん!?」
「私は貴女に多大な恩義を感じています。ティリアトス辺境伯爵家の執事長として、それを仇で返すわけにはいかないのですよ。」
なぜか壮絶な覚悟を決めているらしいハールトンと狼狽えているスクレに、私は何とも言えない気持ちになった。私が粗相をしたらハールトンが責任を取ると言っているのだ、ハールトンよりもむしろ私の責任が重すぎやしないだろうか。
……とはいえここでいつものように軽い調子で大丈夫などと言っても響かないだろうし、ハールトンの覚悟に見合うような、ちょっと強気な応えがいいかもしれない。
私はハールトンとスクレを安心させるべく微笑んで小さく頷き、口を開いた。
「有象無象なんてどうとでもなりますよ、問題ありません。」
――どうやら気合の入った返事は、執事長のお気に召さなかったらしい。
ハールトンはぎこちない笑みを浮かべたまま、カトリーヌらとともに領地に帰っていった。




