ハールトンとスクレと奴隷ではない何か
スクレは上級使用人用の客室で優雅に寛ぐ自分の父親の前で、緊張を滲ませた表情で紅茶を淹れていた。
スクレはティリアトス辺境伯の聖王都にある別邸、いわゆるタウンハウスの執事長である。とはいっても領地にあるカントリー・ハウスの執事長であるハールトンのように辺境伯の視察について回って書類仕事などをしているわけではなく、タウンハウスで処理する書類に目を通したり辺境伯に報告したり、あとは使用人の教育やそれらの取りまとめなどが主な仕事だ。
だから紅茶を淹れたりするのは本来ならば侍女がする仕事なのだが、いかんせん父親はやや完璧主義であり貴族のマナーなどにも精通しているために、息子であるスクレには仕事として強制はしないものの知識のひとつとしてそういった教育も施していた。
ハールトンはソファに深く腰掛け、スクレの淹れる紅茶に視線を向けている。
カップにミルクを先に入れ、蒸らした紅茶をゆっくりと注ぐ。ストレートが至上であるスクレ的にはミルクなど先でも後でもこれっぽっちも気にしないのだが、父親は絶対に先に入れる派なのだ。それは紅茶関連の諸々を勉強するにあたり、スクレが一番最初に覚えた絶対に間違えてはならないことだった。
紅茶を口に含む父親を緊張した面持ちで眺めていると、ハールトンは面白そうに目を細め、ちらりとスクレに視線を向けて口を開いた。
「……美味しいですよ。」
そう言われ、スクレはややほっとした表情で肩の力を抜く。
「侍女長にはまだ合格点もらったことないんだよね……奥様にはもらえたんだけど。」
スクレのいう奥様とは、エレオノールのことである。社交界には一切顔を出さない第二夫人であるアイダがこの屋敷を訪れることはまずないからだ。
ハールトンはミルクと紅茶のふくよかな甘みを堪能しながら、視線を紅茶のカップに落とす。
「まだも何も、彼女は相手が旦那様であろうが誰であろうが、男である限り合格など与えませんよ。」
「ええ? 俺、それ、初耳なんだけど。」
「誰も口には出しませんが、自然と気づくのですよ。そういうものなのだ、と。」
「ふうん?」
侍女長のひっつめたお団子頭とやや吊り上がった目じりを思い浮かべつつ、スクレは自分にも紅茶を淹れハールトンの向かいのソファに座った。
たしかに彼女は執事や従僕や庭師、門番や馬番には容赦がないような気はしていたが……言われてみれば全員男である。
旦那様に対して物申しているところを見たことはないが、ハールトンが“旦那様であろうが”と言っているのでもしかしたら辺境伯に対しても本当に容赦がないのかもしれない。
使用人としてそれはどうなのかとも思うが、エレオノールがいてもいなくてもこの屋敷の女主人としての仕事はほぼ全て侍女長であるサニーがしているし、ほわほわしたエレオノールの補佐はあれくらいキツくないと務まらない……のかもしれないと、スクレは思った。
――しかし、だからと言って紅茶を認められることを諦めたことを態度に出せば、彼女は機嫌を損ねるだろう。侍女長に紅茶を淹れることなどめったにないが、毎回きっちりやって、頑張ったけれど合格をもらえないというこれまでのていを崩さないほうがいいはずだ。
スクレはそう結論を出した。つまり、やることは何も変わらないということだ。
「……で? スクレ。わざわざ好みの茶菓子まで用意して、私に何か聞きたいことがあったのではないですか?」
「ん。」
スクレは紅茶のカップから視線をハールトンに向けた。
「どうせ先ほどの奴隷のことでしょうが。」
「うん、まあ。」
ハールトンの言葉に、スクレは歯切れ悪く答えた。
――スクレはリネッタに興味を持っていた。
なぜならば、ハールトンが“触れるな”と言ったからだ。
自らの父親は、完璧に仕事をこなすことを求めてくるタイプの上司だとスクレは考えている。スクレには理解しがたいのだが、問題が起こったとしても完璧に対処すればそれは問題など起こっていなかったのだとかなんとか、そういう思考の持ち主なのだ。しかも求められる完璧の水準はこの聖王都内の他の貴族の屋敷よりも高く、かなり厳しめだ。
まあ、完璧主義は仕事のときだけで、休憩中などの仕事時間以外では比較的なんでも許してくれるハールトンは、意外にも使用人たちから慕われているのだが。
――問題は、そのハールトンが、この件には関わるなと言ったことだ。スクレが教育を引き継いだこの屋敷の使用人では、問題に対処“できない”と言ったも同然である。
奴隷の知能が高いと聞いた時にも違和感を感じたが、幼いころからハールトンによって執事長がなんたるものかという教育を受けてきたスクレにとって、父親に、使用人を再教育するどころか“避ける”ことを選ばせただろう奴隷が一体どういう相手なのか、気になった。
そうしてハールトンに聞いてみれば「では食事を運ぶのを手伝ってください。」と言うので、一刻ほど前、スクレはハールトンに連れられてリネッタを観察しにいったのだ。
地下に降りてみると、リネッタは個室をうろちょろすることもなく、かといって寝ているわけでもなく、ベッド代わりの木の板の上にちょこんと座って大人しくしていた。
遊びたい盛り、大声をあげたい盛り、走り回りたい盛り。暇を感じればいきなり歌いだし、孤児の仕事であるゴミ拾いくらいはできるが、道端に花が咲いていればすぐにそっちに行ってしまう。花壇の花をむしり冠をつくったりする。スクレの中で孤児や平民の少女とはそういったイメージだった。
いいとこのご令嬢だって、暇を持て余せば刺繍なりなんなり何かしらを始めるものだ。それが、何もない部屋でひとり座ったままいったい何をしていたのだろうか。幼い奴隷なので、感情面に致命的な問題が起こっている可能性もあるだろう。
スクレがそんなことを考えつつリネッタを観察している間に、ハールトンは牢の鍵を開け、中に食事を入れていた。野菜くずのスープはあの汚スープ事件のあとに屋敷内で調理したものだが、黒パンは買ってきたものだ。この屋敷では使用人にも白パンが与えられるので、キッチンには黒パンの材料すらなかったのである。
食事を出されたリネッタはハールトンに頭を下げる。それからハールトンが「食べて良し。」というまではじっとその場で待ち、食事の許可がおりるとそっとパンを手に取った。そして小さく一口分だけをちぎって、口に入れる。もくもくと小さな動作で咀嚼する。スープもきちんとスプーンを使い、食べ散らかすどころか音を出さないよう気を付け、こぼさないように飲む。
野蛮さが全くないその姿に、スクレは自らの獣人――そして幼い子ども――の定義を疑った。
たしかにこの奴隷はカトリーヌの所有物だが、獣人は獣人だ。今がどうであれ、目の前にいるのはもともとは野蛮な獣の子どもだったはずなのだ。……人形としての教育の結果だろうか?
スクレはそもそも獣人を遠くからしか眺めたことがなく、“獣人中立派を貫かなければならない”というハールトンの教育もあってそこまで差別視しているつもりもなかったのだが、この奴隷の少女はなんというか……あからさまに“スクレの考える”獣人っぽくなく、スクレは自らの獣人というものに対しての考え方が聖王都に染まりつつあるのだと気づかされたような気がした。
「――リネッタは奴隷ではありません。」
リネッタの態度を思い返していたスクレを、ハールトンが笑いながら現実に引き戻した。
「……は?」
スクレは思わずまじまじと父親の顔を見る。リネッタが奴隷ではないというところではなく、声を上げて笑う父親に驚いたのだ。それは、タウンハウスに居た頃はありえなかったことで、父親のあまりにも珍しい表情にスクレは上手く反応できなかった。
「アレは、カトリーヌ様の護衛として雇われた傭兵です。」
「???」
言葉を失う。……護衛。…………傭兵?
「この3日間、私がいないときは貴方がアレの世話をしなければならないのですから、貴方は知っていたほうがいいでしょう。アレは、奴隷などでは、ない。……まあ、こちらの屋敷から連れてきた侍女2人はすでに知っていますが。」
「隷属の首輪、してたじゃないか。」
「ええ。聖王都では奴隷として扱わなければならないので、アイダ様が手枷と合わせて素晴らしいものを用意してくださいました。」
「それはわかるけど……発動してたよな?」
「ええ、していましたね。」
「百歩譲って子どもの姿をした傭兵でカトリーヌ様の護衛だったとして、あいつは隷属の首輪をつけることに納得したのか?」
「自分から進んで装着したそうですよ。反対するカトリーヌ様に、“これを付けなければ、獣人擁護派に見られてしまうでしょう”などど宣ったそうです。」
「……ごめん、父さん、俺、ちょっと理解が追っ付かない。」
隷属の魔装具というのは、付けた者の全てを剥奪するものだ。
何を命令されても、抵抗は許されない。生殺与奪を握られるどころの話ではない。しかも従属ではなく隷属だ。相手が人であれば、命令の優先度はあるものの基本的には誰の命令でも聞かなければならない。息をすることすら、制限される。隷属の魔装具はそんなシロモノなのだ。
「じゃあ、使用人を遠ざけたのは奴隷じゃない相手に隷属の魔装具を発動させないためなんだ?」
「いえ。彼女にとって、隷属の魔装具はアクセサリー程度でしかないように思います。カトリーヌ様に命令されて魔装具が黄色く光った瞬間、彼女は目をキラキラさせてそれを眺めていましたからね。まるで、黄色にも光るんだ!と言わんばかりに。」
「……危機感がないだけじゃないか。」
それが赤く光るとどうなるか、あの獣人の子どもは知らないからお気楽に考えていただけなのだ。しかも本当に傭兵であるのならば、雇った傭兵に隷属の魔装具をつけた時点で他国の傭兵ギルドに喧嘩を売っているようなものではないか。スクレはそう思ったのだが、ハールトンはゆっくりと首を横に振った。
「彼女には危機感など必要のない感覚なのでしょう。……いいですか、スクレ。カトリーヌ様とリネッタを屋敷で預かる執事長としてよく聞きなさい。アレは、聖王都の人であればあるほど扱い難くなります。貴方でさえ私から離れて数年で獣人差別が染みつき始めているのですから、他には到底任せられる仕事ではないのですよ。スクレ、私がいない間は貴方がアレの世話をしなければならないのです、わかりますね?」
「あー、……わかったよ。」
スクレはそれでもまだ不可解そうに、しかししっかりと返事をした。ごくごくとはしたなく紅茶を飲み干し、気を引き締めるように小さく息をつく。
そんなスクレから冷めたミルクティーに視線を戻して、ハールトンは考える。
聖王国の王族が、獣人の子どもを見たいからという理由で辺境の地から聖王都までわざわざ奴隷を連れてこさせる。そんなことは通常あり得ない。シャーリィ王女がどういった人物かは分からないが、呼び出した目的のなかに獣人の子どもに対しての純粋な興味など、ほぼ含まれないと考えてもいいだろう。
そもそもただの興味本位ならば、現聖王が許可を出すとは考えられないのだ。彼の王は、先代の歴王の下で熱心に獣人を保護していたにも関わらず歴王を継ぐことができず、獣人に対して並々ならぬ負の感情を持ち続けているのだから。
このティリアトス辺境伯爵家に何かしらの圧力をかけたいか、もしくはけん制しているのか、何か他に目的があるのか……ハールトンには王族の考えなど分からないが、何にしてもあまり良い話ではないことは確かだった。
補足
執事長が複数いるのは違和感があるかもしれませんが、タウンハウスとカントリー・ハウスの使用人はそれぞれ混ざることなく屋敷ごとで管理されています。その頂点としての執事長です。ハールトンは執事長というか、家令長にあたるのかもしれません。




