聖王都
聖王都ヒュム・プリエは、緩やかないくつもの丘に囲まれた広大な盆地に築かれた白亜の街だ。
もともとは獣人の国の王都が巨木をくり抜いた城を中心に森と同化するように広がっていたらしいが、歴王アリダイルが精霊王の力を借り生き物も建物も木々も全てを焼き払い、文字通り焼け野原にしたのだという。それから獣人奴隷を隷属の魔装具で“使い捨て”ながら畑を作り、家畜を殖やし、今の聖王都を作り上げたそうだ。鬼畜の所業である。
まあ、だから、聖王都から見える範囲には明るく整備された木立はあっても、獣人を想起させるような森はない。王都の周囲にはただただ農地と牧草地が広がるばかりだ。
そんなだだっ広く開けた土地のど真ん中を突っ切るように作られたまっすぐな街道を、カトリーヌらを乗せた馬車の一団がゆっくりと進む。窓がなく交信しなければ外の景色を見ることができない私は、空から眺める景色を見飽きて、荷車の中でじゃらりと鎖を揺らしながら手枷を眺めていた。
手枷は今、淡い黄色の光を灯している。そう、隷属の魔装具には黄緑と赤の他に、黄色くも光るのだ。
黄色い光を放っている時。
それは、奴隷が命令された作業中であることを表している。つまり、なんの命令もされておらず待機している時の色が黄緑だったらしいのだ。
私は今、カトリーヌによって「良しと言われるまで声を出すな。」と命令されている。ここで声を出せば、たぶん光は赤くなるのだろう。……ちなみに嘘をついてもそれが命令違反でない限り、赤く光ることはないようだった。正直そこが一番のネックだったので、助かった。
ごとん、ごとん、と馬車の車輪が何かに乗り上げた音がしたかと思うと、私の荷車もゴトゴトと振動した。召喚獣に交信してみると、私を乗せた馬車の一団が聖王都の一番外側の門をくぐったところだった。
問題は次の、聖王都に入るための大きな門だ。そこにはたぶん、歴王の王都でも見た検問用のあの大きな魔法陣があるだろう。もしそこで私が引っかかれば、最悪、私が魔人だと疑われる可能性もある。
魔人は心臓が動いている人で魔核が受肉している状態なので、魔人だと言われたら、私は申し開きなど全くできないのだ。
……あれ? もしや……私は魔人なのでは?
ふんわり浮かんだ疑問に首を傾げていると、2度目の振動がやってきた。魔素の揺らぎを感じる大きな何かの上を、緊張する間もなく私を乗せた荷車が通り過ぎる。
――どうやら大丈夫だったようだ。
周囲がにわかに騒がしくなり、聖王都の中に入ったのだと分かる。私がほっと胸をなでおろしたのもつかの間、馬車の一団が止まった。私は、荷車の奥のほうの隅に座る。周囲を、誰かが囲んでいたからだ。なんだろう、魔法陣は発動しなかったはずなのだが……。
と、幌がわずかに持ち上げられた。
その隙間から覗く、警戒したような、瞳。
「……たしかに、隷属の魔法陣を嵌めているようだな。……子どもか?」
どうやら奴隷を確認しに来たらしい。私は隅っこに座ったまま、特に何の反応もしなかった。
「おい、聞こえているだろう、奴隷、お前だ。」
「……。」
答えていいか分からず何の反応も返さないでいると、幌がもう少し持ち上がった。
銀色の兜を見るに、どうやら聖王都の門番か……もしくは兵士だろうか。
門番(仮)は顔を顰め、不機嫌そうに舌打ちした。
「言葉が分からないのか? 亜人め。」
と、そこに、「――その奴隷は、主によって、話すことを禁じられているのです。」という言葉が聞こえてきた。この声は……ハールトンだ。
門番(仮)が荷車の外に視線を向け、「ふむ。」と頷く。
「なるほど。まあ、亜人が我々と同じ言葉を話すなど、不気味でしかないからな……。」
幌が下がった後、門番(仮)のそんな声が聞こえた。
その言葉がカトリーヌに聞こえていないといいのだけれど、と、変な心配をしつつも、今のカトリーヌならば大丈夫だろうとも思う。カトリーヌはもう立派(?)な、聖王国の令嬢になったのだ。多少奴隷が貶されようが、意に介さない……はずだ。
馬車の一団が、ゆっくりと動き出す。
もしや馬車は、奴隷の確認のためだけに止められていたのだろうか。さすがに、貴族でも聖王都に獣人を持ち込むのに許可が必要、というわけではないとは思うのだが……カトリーヌは王族に頼まれて連れて来たのだし。隷属の魔装具は必ず嵌めなければならない、とかいう決まりはあるのかもしれない。アイダ様サマサマである。
そのあとは私が乗った荷車は止まることなく進み、ティリアトス辺境伯の別邸に到着した。
「リネッタ、出なさい。」
幌が上げられ、ハールトンにそう“命令”されて私は荷馬車から降りた。
カトリーヌは私の主だが、奴隷は主の代わりに従僕や執事・侍女が扱うらしく、聖王都での私の世話はハールトンがするようだった。
ハールトンが私の首輪に赤い革で出来たリードを付ける。本来ならば手枷同士をつなぐ鎖につけるものらしいが、こうやって首輪に着けることで“愛玩奴隷”だということを周囲に知らせる役割があるそうだ。
その赤い革紐を持ったハールトンに連れられ、屋敷の裏手にある地下への階段を降りる。
案内されたのは、地下牢をちょっとだけ居心地よく改装した奴隷部屋だった。
石床に、薄い絨毯が敷かれている。木の板のようなベッドにも、薄い毛布がある。獣人に対してこんな優しい環境でいいのだろうかと考えていると、ハールトンがこちらを見ていたので私も視線を向ける。
「カトリーヌ様の、ご慈悲です。」
私が何を考えているのかなどこの執事長にはお見通しらしい。私は静かに頷いた。
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リネッタを奴隷部屋に入れたのち。
屋敷の一階にあるサンルームで、ハールトンは緊急招集した屋敷の使用人たちの前に立ち、凍てつくような怒りを湛えて周囲を見ていた。
カトリーヌのマナーの勉強のために領地の屋敷に呼び戻されるまでこの屋敷の執事長であったハールトンを前にし、使用人たちはいったい何事かと震えあがっている。その一人一人の顔を静かな眼差しで確認しながら、ハールトンは口を開いた。
「貴方がたは、カトリーヌ様を、愚弄しているのですか。」
底冷えするような、声。
ハールトンの目の前には、リネッタに出されるはずだった食事が置かれていた。
そのスープは灰色に濁っていて糸くずやほこりが浮いている。パンには虫が練りこまれている。カトリーヌが見れば卒倒していただろう。あの何が起こっても動じなさそうなリネッタでさえ、悲鳴を上げるかもしれない。
そんな恐ろしいモノにちらりと視線を向け、ハールトンは静かにため息を吐く。
「貴方がたにとって、アレは、奴隷ではありません。忌むべき亜人でもありません。いいですか、アレは、カトリーヌ様の、所有物です。」
けして大きな声ではないし、語気は穏やかだ。しかし、静寂の中発せられるその言葉は鋭利な刃物のように使用人たちの首元に突き付けられている。
「――貴方がたは、見た目が気に入らないからと、カトリーヌ様のドレスを裂きますか? 色が気に入らないからと、カトリーヌ様の靴を汚すのですか? さえずりが気に入らないからと、飼っている小鳥に毒を与えるとでも?」
ハールトンは静かに目を閉じ、それからゆっくりと開けた。
「お前たちには、ティリアトス辺境伯爵家に仕えているというプライドはないのですか。アレは、お前たちがどうにかして良いものではないと、何故分からない。」
とうとう“お前たち”と呼ばれ始め、ハールトンのこの屋敷での執事長時代を知っている古い使用人たちが震えあがる。その時、誰も何も言えない中、気の抜けたような声がサンルームに響いた。
「まあまあ、父さん。」
そう呼ばれ、ハールトンはじろりと声のしたほうへと視線を向ける。
サンルームの入り口。そこにいたのはハールトンの息子でありハールトンからこの屋敷の執事長を引き継いだ、スクレであった。緩い苦笑を浮かべながら、スクレは困ったように眉を下げている。
「……、……スクレ。」
ハールトンの低い声を受けても、スクレは灰色の瞳を細めて肩をすくめてみせただけだった。
「未遂なんだからそんな怒らなくても。大体、出す前にちゃんと俺が確認する予定だったよ。っていうか、俺の躾が悪かったなら俺が罰を受けるからさ。一部が早まっただけだし、関係ない子たちをそんな叱ってやらないでよ。のっけからそんなんじゃ、父さんがいる間この屋敷の使用人みーんな緊張しちゃって、カトリーヌ様相手でもまともに動けなくなるだろ。」
ぴしり、と空気が凍る。
使用人たちの“そこまで言うのかあの元執事長相手に!”という思いが重なった瞬間だった。
しかし。
「…………そう、ですね。」
折れたのは、ハールトンだった。
ハールトンは肩の力を抜くように大きくため息を吐いて、「老いたせいで怒りっぽくなってしまっているのかもしれませんね。」と軽く眉間をもむ。
「この屋敷を任されているのは貴方ですし、今回は大目に見ましょう。ですが次回はありませんよ。まあ……次回など、起こり得ないんでしょうが。」
そう言いながら先ほどまで恐ろしい空気を纏っていたはずのハールトンが苦笑を滲ませるので、スクレたち屋敷の使用人たちは目を丸くした。それらに視線を向けながら、ハールトンは続ける。
「アレは……今はカトリーヌ様に口を封じられてはいますが、私たちと同じ言葉を話します。耳も問題なく聞こえますし、獣なので私たちよりもはるかに鼻が良い。どこで教育を受けて来たのか、読み書きや複雑な計算もできます。その上で奴隷がどういったものかをきちんと理解していて、自分の幼い容姿をどう使えばいいかも熟知しており、カトリーヌ様のお気に入りだということもしっかり分かっている。そして――非常に狡猾です。いいですか、アレはカトリーヌ様の所有物で、カトリーヌ様の許可なく何かをすれば罰を受けるのは貴方たちだということも、ちゃんと知っています。
嫌がらせに関しては……食事に雑巾の絞り汁を一滴入れただけでも、アレは手を付けません。しかも隷属の魔装具のせいで嘘をつくことができず、どんなに脅そうがカトリーヌ様が“話しなさい”とおっしゃられたら最後、あなた方の嫌がらせは全てカトリーヌ様の知るところとなります。
……いいですか、私たち使用人は、アレに触れてはならないのです。貴方たちは、アレに近づいてはなりません。そうすればアレは無害なまま、地下で大人しくしていることでしょう。」




