閑話 そうして来たるそれぞれの岐路 6
「魔素クリスタルがない……?」
「説明は中で致します。とりあえず回復の魔法陣はまだありますので、できることをいたしましょう。」
そう言って司教は神殿の奥へと早足に歩き出した。
そこで初めてティガロは神殿内の空気が澱んでいることに気がついた。窓が開け放たれているというのに、血の匂いが残っている。見れば、神殿の床にも土のついた足跡や血痕らしきものがいくつもあった。
「今朝から、いえ、考えてみれば数日ほど前から、ここにはいつもより多くの傭兵たちが運び込まれるようになったのです。」
歩きながら、司教が静かに話し始めた。
「主に、各地で発生していた魔獣を討伐しに行っていた傭兵のみなさんでした。特に今日は、魔獣が自爆したとのことで大怪我を負った方が多くて……」
「自爆……?」
「もしや、その方も……?」
「……はい。」
トーラムがずっと黙ったまま何も言わないので、ティガロが答える。
「そう、ですか……。やはり何かが起こっているようですね。……さあ、彼をそこの台へと寝かしてください。」
治癒の魔法陣がある小部屋は、精霊神殿に入ってすぐある祈りの広間の奥にあった。やや狭い部屋の中央には石の台があり、その台から床にかけて大掛かりな魔法陣が彫りこまれていた。しかし、魔素クリスタルがない今、この魔法陣は使えない。
司祭が台に寝かされたサーディスに近寄り、傷を見る。
「……ああこれは……傷はもう……塞がって?」
「臨時で組んだパーティーメンバーの手持ちに、たまたま回復薬があったんです。」
「なるほど。しかし、それでは……回復の魔法陣を使ったとしてもこの状態では……」
言いよどむ司教とティガロが話すその隣で、トーラムは石の台の上のサーディスのそばに留まり、一度も意識が戻らず目を開かないサーディスの顔を見続けていた。
サーディスはぐったりとして苦しそうに浅い呼吸を続けている。噛みつかれた傷は塞がってはいるが、中身はそのままなのだ。脇腹の皮膚は酷い色になっているし、内臓に致命的な傷があるのは明らかだった。苦痛でにじむような汗が出ているのに、トーラムが触れたサーディスの手の先は驚くほど冷たかった。
「……サーディス。」
トーラムがサーディスを見下ろし、絞り出すように声を出す。
「一緒に……マウンズに帰らなきゃだめだよ、サーディス。」
ふらふらとその場にしゃがみ込み、トーラムがサーディスの乗った台の上に顔を伏せた。
ぐるぐると頭の中を回っていた言葉たちが、堰を切ったように、溢れる。
「目を、覚ましてくれよ……。いつもみたいに、俺が怪我して、それで、叱ってくれたら、よかったんだよ。なあ、サーディス……なんで、俺を庇ったりなんか、したんだよ……お前、が、いないと、俺……何もできないの、知ってるだろ……。」
トーラムの声に嗚咽が混じる。
まさか、こんなところで、なんて。それも、ランクAですらない、ただのワーウルフ型相手に。独りでマウンズに帰ることなど、トーラムにはできるはずがなかった。
「2人部屋だって、俺独りじゃ、広すぎるよ……サーディス。だめだよ、あの部屋は、ずっと……俺だけじゃ、だめだよ、一緒に、って……サーディス……。」
それをティガロは静かに見下ろしていた。傭兵でも兵士でも騎士でも、やることはやったがだめだったというのはよくあることだ。ティガロはソロだったためにそういった経験はないが、臨時パーティーを組んでいるとそういう場面に出くわすこともあった。回復薬や回復の魔法陣を所持しておらず、精霊神殿に間に合わないことだってままある。……経験する数が多ければ慣れるかといえば、そうではないが。
ティガロの隣では、司祭が祈りの言葉を紡いでいた。
「頼む……俺だけ置いて、いかないでくれよ……」
トーラムはそう懇願しながら、サーディスとの思い出をぐるぐると思い返しては、全てが涙になって溶けて消えていってしまうのを感じていた。
傭兵という仕事をしている以上、もちろん死を覚悟していなかったわけではない。マウンズでだって、何度も死にかけたことがあるのだ。しかしそういう時はいつだって怪我をするのはちょっと無茶をしてしまったトーラムで、慎重なサーディスはいつも怒る役だった。
今回だって自分が怪我をして、サーディスにちくちくと嫌味を言われながらも最後には「なんとか生き残ったな!」と笑いあうのだと思っていた。でも、あの魔獣の自爆は異常だった。サーディスが庇わなければ、この台に寝かされていたのは自分だっただろう。最悪、自爆に巻き込まれた時点で死んでいたかもしれない。
周りを良く見ているサーディスは、きっとそれが分かった上で自分を庇ったのだ。爆発をもろに受ければ絶対に助からないと、理解ってしまったのだ。そうして、サーディスには庇う手立てがあった。だから、サーディスはらしくもない無茶をした。……させてしまった。自らの、見込みの甘さのせいで。
トーラムは自らの唇を強く噛んだ。忘れていたような思い出までが、溢れて、涙となって頬を伝っていく。これから一緒にしたいことも、まだまだあったはずだ。家族に何も言わず飛び出してからまだ一度も帰っていなかった生まれ故郷の村に、一緒に顔を出しに行こうと、話をしたばかりだった。
もう、どうしようもないのか。
もう、何もできないのか。
もう、サーディスは。
「サーディス……。」
――お礼です。
ふいに、鈴を転がすような声がトーラムの脳裏をかすめた。
それは1年半ほど前まで一緒にいた、獣人の少女の声だ。
――他に何も思い浮かばなくて。需要はあるはずなので、売ってよし使ってよしですよ。そうとは見えないんですけど、たぶん、3級くらいはじゅうぶんあると思います。
やや自信なさげなのに微妙に達観した微笑を浮かべた少女から渡された、それは。
「魔素、クリスタル……っ!!」
トーラムは、がばっと顔を上げた。
そしておもむろに台に横たわっているサーディスの腰のポーチを探る。リネッタがお礼と称して差し出してきた魔素クリスタルだというそれを、サーディスはお守りにと肌身離さず持っていたはずだ。本当に3級の魔素クリスタルならば、ひとつ割っただけで魔剣2本とクレイモアの魔法陣を一気に発動できるな、と笑いながら。
そしてトーラムは、それを見つけた。こすり合わせるときゅらきゅらと独特な音を立てる、透明で、美しい、その魔素クリスタルが入った布袋を。
震える手で紐をといて袋の口を開けると、久々に見るそれをサーディスの寝ている台の上にころころと出す。袋の中には透明な魔素クリスタルが――3個入っていた。
「――っ!?!???」
透明な魔素クリスタルを見たティガロが、あからさまに狼狽した様子で2歩ほど後ずさった。
それを横目で見つつ、司教がトーラムに訪ねる。
「それは?」
「魔素クリスタル、らしいんです。3級の。こ、これを使って、ください!」
「これが魔素クリスタル、ですか? いえ、もちろんいいのですが……その……。」
透明な魔素クリスタルに視線を向けながら、司教が言いよどむ。
トーラムはこの透明な石を魔素クリスタルだと思い込んでいるようだが、今、トーラムの精神状態は正常ではない。司教には、その表面が滑らかな水晶のような何かが魔素クリスタルには到底見えなかった。
しかも、もし本当に魔素クリスタルだとしても、サイズ的にもどんなに希望を持ったとしても4級程度でしかない。期待が大きければ大きいほど、落胆も大きくなるものだ。この石を割ったところで、結果は目に見えている。
司祭は困って、ティガロに視線を向けた。
ティガロは――ここにきていきなり現れたリネッタの気配に、ただただ狼狽えていた。いや、そんなことをしている場合ではないのだが、ティガロにとってそれはあまりにも不意打ちすぎた。
司祭が訝し気にこちらを見ている。トーラムも、不安そうな瞳を揺らしてこちらを見ている。しかしサーディスを救うために、ティガロは、それが何かを答えなければならなかった。
「……司祭様、それは……俺の知っているものと同じであるのならば、3級の魔素クリスタルで間違いないです。……いや、サイズ的に考えると……2級に近いかもしれませんが、まあ何にしてもそれを一つか二つ割れば、治癒の魔法陣は完全に発動します。……確実に。」
「ふむ……そうですか、貴方もそう言うのならば、試しましょう。さあさあ、お二人とも、魔法陣の上からどいてください。」
司教はまだ疑っていたようだったが、覚悟を決めたのかさっさとトーラムとティガロを魔法陣から離れさせて精霊王サシェストと子月フェルミーに祈りの言葉をささげながら、透明な魔素クリスタルをぱきぱきと2つ割った。それに一瞬遅れて、部屋が光で埋め尽くされた。




