アーヴィンとリネッタ
は、と目覚める。
街の外壁のそばの木陰に、アーヴィンはうつぶせの状態で打ち捨てられていた。
一晩中悪夢にうなされていたかのようなひどい目ざめの悪さだった。
吐き気がするような気もするし、腹が減っているような気もする。すぐにでも傭兵ギルドの肉たっぷりの食事が食べられそうだが、ああ、頭が痛い、ような気もする、のに、なぜか思考はいたって……すっきりとしている。気分は最悪だ。
なんだこれは。
全てがちぐはぐで、混乱する。
ごろりと仰向けになり、日の出前なのか日暮れ後なのかもいまいちわからない明るさの気持ちの悪い空を、しばし呆然と見上げた。
「俺は……生き残ったンだな……」
万感の思いを込めて、吐き出す。
いや、そもそもリネッタはアーヴィンを殺そうとなどしていなかった……はずだ。意味もなく甚振るような拷問をしていたわけでもない、はずなのだ。
それなのに、昨晩のことを思い出して今が夜明け前だと気が付いたとき、アーヴィンの脳裏には、乗り越えた、生き残ったのだという思いだけが浮かんだ。
魔人化の試練に耐えたときと同じかそれ以上に悲惨な体験であることは間違いがなかったが、それをアーヴィンは耐え、見事生き残ったのである。いや、生き残ったというのはおかしい。死ぬような試練ではない……はずなのだ。たぶん。
よろよろと上半身を起こして壁に手をついて立ち上がり、壁に背を預けて息を吐く。今にも足ががくんと崩れ落ちそうではあったが、膝が震えるなどということはなく足はしっかりと立っていた。
関節がぎしぎしとしているような動きしかできないのに、恐ろしくスムーズに体が動く。リネッタが何か細工をしたのだろうか、頭と体に気持ちの悪い感覚のずれがあった。
「くッ……」
唐突に昨日の恐ろしい――内臓を撫でられるような感覚が甦り、びくりと体が震える。フラッシュバックである。なんともまあ酷い有様だ。思わず苦笑がにじむ。
腹が減っているような気がするし、眠気は全くないのだが……今は休みたい。眠れるかどうかではなく、ベッドの上で横になってじっとしていたい。
アーヴィンはのろのろと歩きだし、だいぶ顔見知りになっていた門番に心配されながら門が開いたばかりの街に入ってまっすぐ宿へと帰り、ベッドに倒れ伏して気を失うように眠りに落ちた。
次に目が覚めたのは、夜中であった。
ふと人の気配を感じたのだ。見ればベッドわきの木の椅子に、どこから侵入したのか10歳前後の獣人の可愛らしい少女が微笑みを浮かべて座っていた。部屋の鍵はかけたはずなのだが。
起き上がって、とりあえずベッドに座る。椅子は一つしかないのである。
「あら、起きたのね。」
「……アァ。」
今のアーヴィンからすれば、その可愛らしい笑顔も、その鈴を転がしたような声も、その年相応に見えるふわりとした白いワンピースも、ただただ空恐ろしいだけだ。外見で騙されてはならない。この少女の中身は未知のバケモノである。月明かりの入る窓を背にして無垢そうに微笑む表情に、うすら寒さすら感じる。
「今日は1日寝ていたようだったけれど……どこか調子の悪いところがあるのかしら?」
たしかにアーヴィンは1日ベッドの上にいたが……なんでそんなことを知っている?とは聞けなかった。
「……いや、ねェな。強いて言うなら快調すぎてひたすら不快だ。」
「ふむ?」
リネッタが少しだけ眉をひそめて小首をかしげると、ふわりと金の髪が揺れる。木の椅子の後ろからのびた長い茶色の尾がゆらゆらとゆっくり揺れている。
それから小さな口を開いて、リネッタは「繋がりは?」と聞いた。
「……わからねェ。」
「わからない?」
「じじいと繋がった感覚はあるンだが、弱い……いや、脆い……か? 以前は細かろうがしっかり繋がってたンだ。だが今は、前よりかは太いが不安定で千切れるンじゃねェかって感じだな。」
隠匿との繋がりは、目覚めた時点ですでに戻っていた。
しかし、以前はひどく細いが強い一本の鋼で出来た糸のようなものであったものが、今はやや太めではあるもののすぐに千切れる毛糸のような繋がりになっていた。
それを聞いたリネッタは、「ああ。」と納得顔で頷く。
「貴方の力が増して、向こう側とのバランスが取れなくなったのね。時間をかければ貴方の力がゆっくりと向こうにも届くだろうし、そうなれば今までよりもはるかに強く結びつくはずよ。体が動きやすすぎるというのも魔法陣を改変した結果だし、そのうち慣れるでしょう。慣れたら今でも魔獣化したあとでも以前より動きやすくなるわ。」
「……俺の体はどうなったンだ。」
わりと殺気を込めてじろりと睨んでも全く動じることなく、リネッタはからからと笑った。
「その説明も兼ねて、今日、ここに来たのよ。貴方の背中の魔法陣がどういったものなのか、私がどう改変したのか、そして、その結果をね。」
__________
魔法陣を改変したその次の夜、私はアーヴィンを訪ねていた。
なぜか“まるで人に慣れていない野生動物のような反応”を見せるアーヴィンに内心首を傾げつつ、いくつか質問する。
話を聞くに、魔法陣の改変によってさまざまな能力がいきなり上がった結果、それがまだ体になじんでいないようであった。
魔法陣の改変は成功しているようなので、とりあえず説明していこう。まずは、もともとのアーヴィンの魔法陣について。
「まず、貴方が魔獣化したとき、背中では3種類の魔法陣が発動していたの。一層目は、魔人という状態を固定する魔法陣。二層目は、貴方の魔人としての在り方を定めている魔法陣。三層目は魔獣化、つまり刻印を使ったあとの効果を固定する魔法陣ね。
それぞれの魔素効率は、一層目が“悪い”、二層目は“酷め”、三層目は“最悪”だったわ。これは予想なのだけれど、一層目の魔法陣が二層目の魔法陣を、二層目の魔法陣が三層目の魔法陣を自動で生成していたようだったから、人の手で修正が入れられないぶんどんどん出来が悪くなっていったのだと思うわ。」
アーヴィンは黙って聞いている。
次は、どう改変したかとその結果についてだ。
「一層目の魔法陣は、主に必要のない古代語を削除してちょっとだけ配置変更ね。ざっと3分の2くらいは消したかしら。魔素効率が向上して、魔人として生きていくうえで最低限必要な魔素が半分くらいになったはずよ。まあもともと食事も睡眠もとらなくていい体だったとは思うし、貴方の感覚的にはあまり変わらないかもしれないけれどね。ただ、魔獣化していない状態のときの体の動きが良くなったのは、たぶんこの魔法陣が改善されたからじゃないかしら。」
アーヴィンは黙って聞いている。
「二層目の魔法陣は、貴方の魔人としての在り方を変更するわけにはいかなかったから、変にいじらないように気を付けたわ。真名とか咎とか枷とかには手を付けてないから安心して。絶対に必要のないと分かる古代語だけはしっかり削除したけれど結局できることはそれしかなかったから、一層目と三層目の魔法陣と比べればほぼ手付かずと言ってもいいかもしれないわね。それでも古代語の量は3分の2くらいまで減ったけど。
三層目の魔法陣については、かなりの古代語の削除と併せて配置変更もたくさんしたわ。自動生成された魔法陣からさらに作られていたから、本当に魔素効率が最悪で古代語は無駄に多いし配置も変だしで改変には一番時間がかかったんじゃないかしら。けれど、かなり出来は良くなったと思うの。最終的に魔獣化したときの姿が猿というより人に近くなっていたわね。角は大きくなっていたけれど。」
アーヴィンは黙って聞いている。
「まあ、報告はこんなところね。何か質問はある?」
アーヴィンは黙って聞いている。
「……。」
「……。」
「……。」
「……。」
アーヴィンは――
「……聞いた俺が馬鹿だった。」
そうつぶやいて頭を抱えてしまった。
「なあに、それ。」
ふふと笑うと、アーヴィンは半眼でこちらをじろりと睨む。
「わけのわからねェことばっかり言いやがって……だが、そうだな、真名ッつーのと、咎と枷あたりの詳しい説明、あとは、俺の魔獣化した見た目が……変わったのか?」
「魔獣化したときの見た目は、そのうち自分で試してちょうだい。猿から人に近づいた、以外のことは説明し辛いわ。で、真名っていうのは産まれた時に親から付けられる“本当の名前”みたいに思っているのだけれど、聞いたことはない?」
「魔人になる前の名前ならあるが……」
「アヴィエント、ギアドード、あと、ヴィソアート。このどれかに聞き覚えは?」
「ッ……!?」
アーヴィンが目を見開いた。やはりこれは本来のアーヴィンの名前なのだろう。
真名を知られたくなかったのだろうか、かなり機嫌が悪くなった様子で舌打ちし、「……俺の、本来の名は、アヴィエント・ヴィソアートだ。」と吐き捨てる。
「そう。じゃあギアドードは……何かしら?」
そう続けて首をかしげると、アーヴィンは呻くように「そいつは、俺の魔人化に立ち会った別の魔人の名だ。」と言った。
「そんなことまで魔法陣に書いてあったのか……。」
「種族ごと変えてしまう魔法陣なのだから、真名くらい普通でしょう。むしろ情報が少ないくらいだわ。」
「……。」
アーヴィンはしばらく沈黙し、それから口を開く。
「で、咎と枷ッつーのは? 何か書いてあったのか?」
「そうね。咎は怒り、枷は炎。これは私にはよくわからなかったから、貴方に聞いてみたかったのだけれど、何か知ってる?」
「……咎は、わからねェ。枷は、魔人として生きるための糧とされている行為のことだ。」
「行為?」
「そう、行為だ。俺の枷はお前も知っている通り“炎”、命あるあらゆるものを燃やし尽くすことで、俺は魔人としての糧を得ることができる。」
「ありていに言えば、魔人化で力を得ることの代償みたいなものが、枷ということね。」
「そうだな。」
私は視線を床に落とし、うーん、と唸る。
力を得る代償に何かしらに縛られるというのは、レフタルでも聞く話だ。ただアーヴィンの場合、その縛られ方が“悪い行為”というのが意味不明であった。
そもそも力の代償とは、何かしらの力を得るときにどうしても付きまとうデメリットのことだ。命を代償にして体を構成する魔素を使っての決死の大魔法とか、力の代償の代表格だろう。
しかし、そのデメリットには絶対に理由があるのだ。アーヴィンの場合は、力の代償には当てはめられない。
力を与えてくれる何かしらに報酬として支払われるものを力の代償と呼ぶこともある。
例えば、人の言葉を流暢に話すほどの高位の魔獣は人と契約してくれることがあるが、契約しているあいだずっと体内魔素の何割かを代償として支払い続けなければならない、とか。
しかし、アーヴィンが行う悪い行為――ここでは、命あるものを燃やし尽くすとかなんとか――によってはたして誰が得をするというのか。
闇月?……そんな馬鹿な。神や精霊として信仰されていようと、アレに意志などはない。詠唱魔法や魔法陣を使うにあたってその名を使用することもあるが、それは発動するイメージを起こしやすいというだけで、実際に太陽や3つ月から魔法使いや魔法陣が力を得ているわけではないのだ。
では、アーヴィンの悪い行為は、代償ではないのだろうか。いったいぜんたい何のためにそんなことをさせられているのだろうか。そして、なぜそれをすることによって力を得ることができるのだろうか。謎しかない。
「……恐ろしく、ないのか?」
そんな言葉が聞こえてきたので、私は視線を上げてアーヴィンを見た。
「何が?」
「……。いや、なんでもねェ。」
失笑のようなあいまいな笑みを浮かべて、アーヴィンは小さく息を吐いた。疲れた顔をしているので、まだ体がつらいのかもしれない。
「改変された魔法陣にまだ体がついていけていないのだから、もう少し休んだほうがいいみたいね。」
「ああ、そーだな。」
私は立ちあがると、カラリと窓を開けた。
「それじゃあ、また。」
振り返って笑顔で挨拶すると、アーヴィンはなぜか一瞬のうちにうんざりした顔になっていた。解せぬ。
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魔人 復讐者(ギアドード)
【咎・?? 枷・復讐 刻印・??】
アーヴィンと隠匿、あとシーアも魔人化させたひと。現在は新たな復讐者を求めてフラフラ旅をしており、西大陸にはいないらしい。
魔人 シーア
【咎・?? 枷・?? 刻印・変身】
魔人としての能力は、顔や体つきを好きに変えることができるというもの。戦闘力は魔人の中でも最下位あたりだが、そもそも戦うことがまずない。
魔人 アーヴィン(アヴィエント・ヴィソアート)
【咎・怒り 枷・炎 刻印・魔装化】
火鬼猿と呼ばれる魔人だが、本人はその呼び名を嫌がっている。伯爵家の嫡男であったが父親の政敵に賊を仕向けられ、結果屋敷は焼失。そのときに遠方にいた父親含めてアーヴィン以外の血縁は全員殺される。家族を奪った相手に復讐を誓うもののなかなか進展せず、ギアドード(魔人であり復讐者と自称する男)に目を付けられて隠匿とともに魔人化の方法を授けられた。Sランクの魔獣を倒したら魔核が2個あり、どちらかが魔人になればいいだろうと2人仲良く魔人化を試したらみごと2人とも成功。復讐は滞りなく行われ、今に至る。
復讐が済んだらやることがなくなり、枷に縛られないため戦うことを控えて人のように振る舞っている。本来は必要のない食事をし、酔いはしないが酒も飲む。夜は寝る。寝たら夢も見る。リネッタに出逢ったのが運の尽きだったのか逆に運が向いてきたのかは本人すらわからないが、ひどい目に遭ったことは確か。
リネッタ
ねんがんのドイルをてにいれたぞ!(違)
カトリーヌのお陰で青鉤鳥を味わい、魔法陣研究はあまり進まないが最近は街にも降りて散歩することもできるようになり、しかも魔人の魔法陣を改変することに成功してだいぶ満足した生活を送っている。不満があるとすれば、庶民の食事のほうが口に合うことくらい。




