まっど☆うぃっち
沈黙は了承とみなされるのである。
アーヴィンが何やら考え込んでいて何の返事もないのをいいことに、私は小さな光の魔法陣で影縫いの魔法を描きアーヴィンの影に発動させた。
この魔法は名前の通り、その物体の影に掛けることで物体の動きを止める魔法である。しかし魔法抵抗の影響を強く受けてしまうので、相当魔素を込めて強力にしなければレフタルではただの獣であっても発動しないことがある最下級に属する魔法だ。
しかもこの影縫いの魔法は、本体の動きを止めるだけで痛くもかゆくもないし感覚を麻痺させたり意識を失わせることもない。動けなくなる以外は何の害もないのだ。どれくらい無害かといえば、レフタルでは魔法適性のある幼い子どもが魔法に触れるためにと安息の魔法と一緒にこの魔法を教えられ、鬼ごっこなどの遊びに取り入れていることもあるほどだ。もしくは怒れる母親が逃げる子どもを捕まえるときや、小屋から逃げた鶏などにも使われる。攻撃魔法とは名ばかりの生活魔法である。
ところ変われば、子どもの遊び程度の魔法でもこんなにも効果が高いとは。
私はアーヴィンがぴくりとも動かなくなったのを確認し、改めてレフタルとラフアルドの差を感じた。いや、世界の差というよりも魔法抵抗の有無の差だろうか。本当にこの世界の人々が普通に生活していることが信じられない。この世界の人々は、びりっとする魔法陣なんて踏んだら即死するのではないだろうか。
そんなことを考えながら、そっと背中の魔法陣に触れる。アーヴィンの体がぴくりと震え、背中を覆う毛が驚いた猫の尾のようにぶわりと逆立つ。毛は影縫いの魔法の範囲外らしい、と、わりとどうでもいいことが頭をよぎった。
「リ、ネ、た……クッ……な、に……を……。」
喋ることなどできないはずのアーヴィンから、言葉が漏れる。さすが魔人と言ったところだろうか、強制的に体を固定されても気力でそれくらいのことはできるようだ。体はぴくり程度しか動かないけれども。
「一応聞いたのだけれど、返事がなかったから。ね、OKってことかなって。」
そう応えつつも、“改変”を行う最終確認のために一番手前の魔法陣を直接触って魔素の流れなどを読み取っていく。魔法陣に触れ始めてから、アーヴィンの喉はくぐもった唸り声を漏らすだけで意味のある言葉を発することはなくなった。
アーヴィンは一番手前の魔法陣でその魔獣化した体の形を保っている。つまり、魔法陣の内容が変われば魔獣化を保つことは難しくなる。アーヴィンの体内魔素は不安定どころかめちゃくちゃに暴れていた。魔法陣を触っただけでこれなので、改変するときにはかなりの苦痛を伴うのだろうことは、想像に難くない。
しかし、魔獣化していなければ魔法陣は顕現しないのだ。気絶して魔獣化が解けて改変途中の魔法陣が消え、もし改変途中の魔法陣がそれで安定してしまえばアーヴィンは二度と魔獣化できなくなるかもしれない。最悪、魔人化も解けてただの魔獣になり下がる危険もあった。
つまり耐えてもらうしかないのである。身体強化の付与と継続回復の魔法を重ね掛けしながら、アーヴィンが意識を一瞬でも飛ばさないようにする。アーヴィンは荒い息遣いをしながらも、なんとか耐えられそうだった。
私は一番手前の魔法陣よりも少しだけ指を深く入れる。アーヴィンが動かないはずの体をびくんと大きく震わせ悲痛な悲鳴を上げたような気がするが、何もしなくても影縫いの魔法が切れるのは早くとも3日後だ。動いたのも悲鳴も気のせいだろう。
ぱきりと、魔法陣に設置していた私特製魔素クリスタルのうちのひとつが割れる。
思っていたよりも魔素の消費が早いようだ。
アーヴィンの背中にある3層からなる魔法陣は上から見れば重なり合っているが、わずかに前後の差がある。
一番最初に改変しなければならない魔法陣はその一番奥、最下層の“魔人化を定着させる魔法陣”である。
この魔法陣は常にアーヴィンから魔素を取り込んでいて、魔獣化していないときも常に発動してアーヴィンを魔人たらしめている。
この魔法陣のおかげでアーヴィンは(というか魔人は)食事も睡眠も必要ないようだ。まあ、アーヴィンは普通に食事も睡眠もしているらしいが。なんにしてもそれがこの魔法陣の一段回目の発動状態で、アーヴィンが魔人化してからずっと発動しっぱなしになっているようだった。
そして、アーヴィンが魔獣化するときに、“魔人化を定着させる魔法陣”の二段階めが発動していた。つまり刻印を使うためには、二段階めの発動が必須なのだろう。
まずはそこを改変する。
改変内容はいたってシンプルだ。そもそもの魔素の流れを整え、無駄に吸収・排出してしまっている魔素をうまく回るように調節し、不必要な古代語は消去する。古代語を減らせば――つまり発動するまでに経由する文字が少なければ少ないほど、消費する魔素は減る。
“魔人化を定着させる魔法陣”は瞬く間にその文字量を3分の1ほどに減らしたが、ちゃんと安定した。減らそうと思えばもっと減らせるのだが、安定を考えるならこれくらいが妥当だろう。発動が不安定になっても困るし、あとあと何か問題が起きた時に近くに私がおらずメンテナンスできないということになりかねない。
ぱきんと魔素クリスタルが割れる音を聞きながら、真ん中の魔法陣の改変に移る。
これはちょっと難易度が高い魔法陣だ。なぜならばこの魔法陣はアーヴィンの魔人としての情報が刻まれているからだ。重要なところを変えてしまうと、3つある魔法陣全てに悪影響を及ぼす可能性が高い。
しかも、見えないだけでアーヴィンの体に(もしくは魔核や魂に)刻み込まれている“魔人化を定着させる魔法陣”と違って、この魔法陣は“魔人化を定着させる魔法陣”が二段階目の発動をしたときにまるで滲みだすように“生成”されていた。つまりアーヴィンから情報を抽出して作られている可能性があるので、変えようのない重要なところはそもそも変えることができないのだ。
ちなみにその生成された真ん中の魔法陣からさらに一番手前の魔法陣が生成されていた。すごい。
そのすごい真ん中の魔法陣には、でかでかと古代語で“アヴィエント・ガディ・ギアドード・ヴィソアート”と刻まれている。
アヴィエントはアーヴィンの真名だろう。もしかしたらギアドード・ヴィソアートのほうも。詠唱魔法では、自らの名前を詠唱に含む場合は実親から魂に名付けられた真名を使うのが定石なので、魔法陣でもそうなっているのではないだろうかという予想でしかないが。
真名は、親から子へと授けられる最初の贈り物だ。真名は魂に刻まれ、場合によって(例えば死霊魔法でゾンビにされたときとか)は死後も変わることはない。実親がいない場合は近しい肉親(例えば親の兄弟)など血縁であれば真名を授けることができるが、血筋が遠いほど真名の力は弱まるとされる。
一応他人でも真名を付けることは可能だが、その場合はたいてい神殿で真名を授けてもらうことになる。それはスラムの孤児でも無料で受けられる数少ない施しだが、これは、スラムの住民だとしても魔法使いの才能があれば真名を使うことで生きやすくなるからであった。
魔法で水を出すことができれば神殿に日雇いで雇ってもらえ、スラムの清掃の仕事を受けることができる。スラムが清潔であれば病気などが流行りづらくなるので、スラムで炊き出しなども行う神殿にも利点があるのだ。
魔法陣に刻まれているアーヴィンの真名(?)の間にある“ガディ”は魔人の象徴とされているであろう闇月のことだ。つまりこの長ったらしいのが、たぶん魔人としてのアーヴィンの名だろう。
そしてそれに続けて書かれているのは……とが、と、か、せ?……ああ、咎と枷か。咎が怒りで、枷が炎となっている。どちらも何を表しているのかは分からないが、魔人のことがよくわかっていない今はまだ名前と併せてここのあたりは触らないほうがいいだろう。
そういうわけで、真ん中の魔法陣の改変は、絶対に必要ないだろう古代語をちまちまと抜いていくだけだ。どうやら精神と強く結びついている魔法陣らしく、古代語を消すたびにアーヴィンが苦悶の声を漏らしている。まあ、耐えてもらうしかないのだけれど。私はアーヴィンに付与魔法をかけなおし、ダメ押しに覚醒の魔法もかけた。
覚醒の魔法は深層催眠の魔法など絶対に自然には起きない状態から強制的に目を覚まさせるときに使われる魔法だが、こういったどうしても気絶させたくないときとかにも使える。まあ、そういう使い方をする状況というのは、なんというか、大抵は拷問のときに気絶させないためとかではあるが。
アーヴィンの息遣いが荒く、絶え絶えになっていく。相当辛いようだ。頑張ってなるべく早く済ませるようにしよう。ここまできたら途中で止めるという選択肢は存在しないのだから。
3つめの魔素クリスタルが割れた。魔素クリスタルの残りは3つで……まあ何とかなるだろう。最悪、私の体内魔素を使えばいいのだ。
最後に一番手前の魔法陣に取り掛かろうとして、私は奇妙なことに気づいた。何もしていないのに、魔法陣が不安定になっていたのだ。どうやら真ん中の魔法陣を改変したことで、真ん中の魔法陣から生成される一番手前の魔法陣も改変されかかっているようだった。
しばらく観察していたところ、やはり余計な古代語が入るし、位置も自動生成のせいで微妙であった。つまり、最適化ではないのだ。時間があるのならばもうちょっと観察したい興味深い現象ではあったが、魔素クリスタルがもたなそうなので自己改変の完成を待たずに手を加えることにする。
一番手前の魔法陣にはアーヴィンの魔獣化を固定する記述がたくさんあったが、やはりというかなんというかここが一番改変が必要であった。改変というか、大幅削除である。
――古代語を抜き取り配置を変えるたびに苦悶の声を漏らすアーヴィンは、気づいているだろうか。
私に、己の体ごと改変されていることに。
かなり獣寄りであったアーヴィンだが、魔法陣を改変していくにつれ肘や膝から先の手足はごついままに体の幅がスリムになっていった。頭から伸びて背中から二の腕を覆うほどまで生えていた鮮やかな赤い獣毛は抜け落ち消えて、首の後ろから背筋辺りを覆うまでになった。猿のように曲がっていた背骨は、たぶんぴんと伸ばせるようになっているはずだ。
こめかみ辺りまでせりあがっていた耳は少し下がってレフタルの森の民のように横に長くなり、後ろから覗く限り口のサイズもやや小さくなった。牙は確認できないがそれはまあ生えたままだろう。もろもろが人に近づくなか、額の角はなぜか二回りほど大きくなった。
最終的にアーヴィンは、だいぶ猿味が薄れて人に近くなっていた。
やはりというかなんというか、元が人の形をしていただけに能力の上昇とともに自然と動きなれているであろう人の形を模していったようだ。これはもう猿というより、鬼である。まあ、魔人としての字名は“火鬼猿”なので全く問題ないだろう。……火はどこから来たのだろうか?
全ての魔法陣の改変作業が終わり、最後に各魔法陣の空いたところにいくつか古代語を足して、私は大満足で作業を終えた。時間としては、1時間ほどだっただろうか。消費した魔素クリスタルは5つ。結構ギリギリだった。
結局付与魔法はそれぞれ3回ほどかけなおし、覚醒の魔法も5分に1度くらいの感覚でかけてなんとかアーヴィンは気絶せずにもってくれたようだった。もってくれたというか、もたせたというか。
影縫いの魔法をといた瞬間怒り狂って襲ってくるかと思って多少身構えていたのだが、魔法をといた瞬間アーヴィンはどさりと前側に倒れこんで動かなくなった。息は荒いが、未だ付与魔法は効いているし覚醒の魔法で気絶もできないので意識はあるはずなのだが……謎である。
魔獣化したまま存在抹消の魔法陣を解除すると他の魔人に気づかれる可能性があったので、とりあえずアーヴィンは睡眠の魔法で強制的に眠らせて魔獣化を解除させる。それから安息の魔法と継続回復の魔法を重ね掛けして、ついでに魔人に効果があるかはわからないが特級回復の魔法もかけておいた。我ながら完璧な後処置である。
アーヴィンは問題なく眠り、私は存在抹消の魔法陣を消した。途端にひゅうと風が私のスカートを揺らし、あたりは虫やら小動物の気配にまみれた。
周囲1キロに怪しい人影はない。よし。
アーヴィンをこの場に置いていくわけにはいかないので、私は鞄からロープを取り出しアーヴィンをぐるぐる巻きにして、森の中で青鉤鳥を引きずったときのように防御壁の魔法の上に乗せた。
この時間、街門は閉まっているが、アーヴィンが気を失った時には捨て置く場所をあらかじめ決めていたので、そこまでずりずりと引きずっていく。そうして引きずっていった街の外壁わきの木陰にアーヴィンを置いて、私はそのまま屋敷に戻った。
睡眠の魔法はぐっすり寝た気がしない魔法だがごく弱めにかけたし、安息の魔法と継続回復の魔法をかけたので早朝には気分爽快で目覚めることだろう。
明日の夜も会いに行って、調子を聞かなければならない。




