アーヴィン 4 ※拷問注意(※拷問ではない)
「一番手前にあるのが、魔獣化するための魔法陣なのはわかっているの。その下の2層は……一番下のは……そう、思った通り、これが魔人化を定着させる魔法陣、で、効果は維持……維持?何を?魔素、を、吸収……して?……獣人みたい、に、でも、ふーん、ちゃんと……へえ……発動しっぱなしに……そうして?真ん中の貴方は?」
リネッタがぶつぶつと魔法陣との会話(?)を垂れ流しながらアーヴィンの背中を見ている。
アーヴィンはできるだけそれを聞き流すことに尽力しつつも、隠匿との繋がりが一時的だとしても途絶えたことに対しての自身の精神的ショックの大きさに驚いていた。
自分が考えていた以上に、己は隠匿との繋がりを心の支えにしていたのかもしれない、と、今更ながらに理解したのだ。
隠匿は、アーヴィンが人であった頃どころか産まれる前から彼に仕えていた家令である。彼はいわゆる家令一族の、家長であった。
代々その貴族に仕え続けるために存在しているという一族など、今でもどこかしらにあるだろう。子どもは男なら家主を支える執事長に、女なら女主人を補佐する侍女長になるために教育され、その貴族に子どもができれば乳母にはならないものの産まれた子どもにマナーやその他もろもろの教育をしたりする。乳母の子が同性ならば一緒に乳兄弟としての教育を施したりもする。――子どもが異性の場合は恋愛要素をできるだけ削ぐため、家令の子どもとして育て乳兄弟のように親しくさせたりはしないそうだが。
つまりアーヴィンの家でも、隠匿をはじめとした隠匿の家族らが常に仕えていた。一家は人柄がよく穏やかな人たちであったが、その実、アーヴィン一家の護衛でもあった。彼らは戦闘家令でもあったのである。
それを知ったのは、すべてが焼け落ちてからであったが。
全てが燃え尽きてアーヴィンが天涯孤独になったあの日、執事長であり家主の代わりに屋敷を任されていた隠匿が当時12歳だったアーヴィンを燃え盛る屋敷から救い出した。しかし、アーヴィンと隠匿の生存は、王家はもちろんかろうじて街に出ていて助かった隠匿の家族にすら隠されたままになった。
アーヴィンは国の裏側を知る訳ありの伯爵家の嫡男であり、たとえ彼の家の貴族籍がなくなったとしても生きていれば必ず刺客を差し向けられるだろうと隠匿が判断したからである。そしてそれは、その暗殺事件が内部犯の可能性が高く、どこから漏れるかわからない状況だった。
2人は領地を脱し、隣国に潜伏した。
アーヴィンは目を閉じる。今でも屋敷から吹き上がるあの炎の熱を、色を、今まさに目の前で起こっているかのように思い出すことができた。その炎は、アーヴィンという人の枷であった。
あの恐ろしい炎で、父と妹を失った。とりわけ仲が良いというわけではなかったが、唯一血のつながった家族であった。
救いは隠匿がアーヴィンとともにあったことだろう。
彼は全てにおいて、慣れていた。
もしアーヴィンだけが生き残ったとしたら、なにひとつうまくいくことはなかったはずだ。アーヴィンは当時剣を振るのは好きだったがそれは貴族のお坊ちゃんの趣味の範囲内であり、しかも得意なのは剣舞で実践経験など皆無であったから。独りでは傭兵になどなり得なかったし、もしなれていたとしてもすぐに無茶をして死んでしまっていただろう。
当時のアーヴィンは――ただの獣すら殺したことのなかった少年は、あの炎の夜から、復讐することだけを考えるようになっていた。
そして隠匿はその復讐を――是としていた。曰く、“元”主様への贖罪のために。
それからはアーヴィンにとって、怒涛の日々であった。
燃えるような髪を地味な茶色に染め、慣れない実戦用の剣を握って傭兵のまねごとをはじめたのだ。ランクが低いころは若い傭兵たちでパーティーを組んだこともあった。
隠匿はまるでわが子に教えるかのように厳しく教え、時に助け導き、全てにおいて先を歩くことでアーヴィンの目標であり続けた。――結局魔人になるまでアーヴィンは一度も隠匿に勝つことはできなかったのだが。
そうして実力を高めて来たる復讐に備えていた2人に転機が訪れたのは、それから10余年がたちアーヴィンが28才になったあたりである。
そのころアーヴィンはすでにランクBの中でも名の知れた傭兵になっていた。魔獣が出れば必ず声がかかるほどにその実力も高められていた。ずっとソロで活動し固定パーティーを組むことはなかったが、元来のさばさばした明るい性格でどこのパーティーに助っ人で入っても問題を起こすことなく、その人気は引っ張りだこと言っていいほど高かった。
しかしその心の奥底では、復讐の炎が燻っていた。復讐相手も判明していた。しかし相手はどんなに名前が売れていようが一介の傭兵が謁見できるような立場ではなく、用心深く常に大人数の護衛を引き連れていたためどこかで襲うというのも厳しく、復讐の糸口が見つからない状況であったのだ。
そんなアーヴィンに声をかけてきたのは、当時アーヴィンが拠点にしていた傭兵ギルドの副マスターであり――魔人でもあった復讐者であった。
彼は自らの枷のため、傭兵ギルドに潜伏して表向きは普通の傭兵を演じている復讐者を探していた。そしてその目に留まったのは、アーヴィン、ではなく隠匿であった。
隠匿はその年齢で不審がられないよう、傭兵登録はしていなかった。代わりにアーヴィンの稽古を付けたり情報屋のようなことをしていたりと、アーヴィンの陰で動いていた。
アーヴィンがまだ駆け出し傭兵だったころ、2人の関係性を見た復讐者はすぐに隣国で起きた伯爵一家の暗殺事件を思い出したそうだ。どうやらアーヴィンの家の戦闘家令のことを、彼は知っていたらしい。
しかし、復讐者はアーヴィンらを見極めるのに10年の歳月をかけた。そうしてアーヴィンの復讐への想いを“熟成”させたのだと、本人からあとで聞いた。
2人を自身の執務室に呼び出した復讐者は開口一番にアーヴィンの出自に言及したあと、ひどく軽い調子で「復讐したければ、魔人になればいい。」と言った。
唖然とするアーヴィンと隠匿の前で、復讐者は肩をすくめて見せる。
「魔人になればそれだけで一騎当千だ。しかも元が強ければ強いほど、使う魔核が大きければ大きいほど、魔人化に耐えられて力の恩恵を受けることができる。俺が声をかけたのは、お前はこの10年で十分強くなったと判断したからだ。つまりお前は魔人化を耐える可能性がデカいってワケだ。
で、お前は相打ちになってもそいつを殺りたいって思ってるだろ? 俺はそういうのは、どんなに取り繕っててもわかるんだよ。んまあ何が言いたいかってえと、万が一失敗してお前がなりそこなっても、必ずお前の手でそいつを殺せるようにちゃんと俺が取り計らってやるってコトだ。俺はお前がどうなろうとどうでもいいが、復讐が成されないと俺の腹は満たされないんでね。
ああ、もちろん魔核のアテはある。Sランクのやべー奴だ。お前が倒さなきゃならねえが、悪い話じゃないはずだ。お前の生死は別として、復讐は絶対に失敗しない。今この時点で復讐がどうにもできない状況と比べれば、魔人化して暴れるほうがまだ現実味があるんじゃないか?」
正直、アーヴィンは復讐について行き詰っていた。それは否めない。そして復讐を遂げるために死ぬこともかまわない。しかし魔人化というのは、さすがに――
と。
ずぶりと背中から手を入れられて内臓を掴まれたような気がして、アーヴィンは総毛立った。
思わずその場から飛びのこうとして――ようやくそこで、アーヴィンは自らが全く動けないことに気が付いた。足を投げ出すように座って地面を見つめている姿のまま、指先すら動かせない。唯一動くのは、顔だけである。
「ッ!?」
ぞわぞわとした怖気が体中を這いまわり、思わず声にならない悲鳴が漏れる。
「リ、ネ、た……クッ……な、に……を……。」
あまりにも強い不快な感覚に、苦労して声を出し、途切れ途切れになりながらもリネッタに問う。
“何を”も何もリネッタが魔法陣に手を突っ込んでいるのであろうことは予想がついたが、聞かずにはいられなかった。この娘はなぜ許可も取らずいきなり強行し始めたのか。しかも、アーヴィンを動けなくしてまで。
それに対してリネッタはこともなげに「一応聞いたのだけれど、返事がなかったから。ね、OKってことかなって。」と応えた。つまり、聞いていなかったお前が悪い、と。
「ぅ……ひ……ぐ……。」
アーヴィンは全身を襲う悍ましい感覚に、クソ、と悪態をつくこともままならない。
リネッタはアーヴィンが発言しようとしているなどお構いなしに、魔法陣をいじり続けているらしい。まるで内臓を撫でまわされ、掴まれ、ぐにぐにと配置を変えられるような感覚であった。息苦しいので大きく息を吸いたいのだが、呼吸は浅くしかできず、「ハッ、ハッ、ハッ。」と犬のような息継ぎしかできない。
痛みはないが、それにも勝る悪寒がアーヴィンを襲い続けていた。痛みのほうがマシかもしれない。体の内外を何かが這いまわっているようなぞわぞわとした感覚に、魔人になってから久しく感じていなかった脂汗が体から滲みだしてくるような気さえする。
声は出るが、もう言葉を紡ぐことはできそうになかった。口を開けば言葉ではなく喘ぐような音だけが漏れる気がして、アーヴィンは歯を食いしばった。
――まるで、魔人化の試練の再来かのようだった。
あの時と違うのは、痛みがないこと、そしてアーヴィンが暴れることができない状態であるということだ。
魔人化の試練では、痛みも、怖気も、不快なものは何もかもをとにかく外へ逃がすことができた。もちろん実際には全く変わらないのだろうが、痛いと泣き叫びながらのた打ち回ることである程度は気を紛らわせることができたのだ。
しかし今、アーヴィンの体は固定され、ただただいつまで続くかもわからない責め苦を与えられ続けている。全身を襲うぞわぞわとした戦慄も、体内をまさぐられる悍ましさも、アーヴィンにはじっと耐えるという選択しか与えられていない。
時折、心臓を掴まれたような濃密な死の気配に体がびくんと跳ねて最大限の拒否反応を起こすのだが、実際には体はぴくり程度にしか動いていないようであった。魔人になってから久しく流していなかった涙がぼろぼろと頬を伝って流れ落ちている。喉から悲鳴が出かかるのを、気力で押しとどめる。
頭の中では警鐘がリネッタにも聞こえるのではないかというほどに鳴り響いている。
内臓が詰め替えられているような吐き気に耐えきれず、言葉にならない悲鳴――正しく悲鳴だ――が喉の奥から漏れる。
リネッタは集中しているらしく、言葉を発することはない。
虫の鳴き声どころか風の音ひとつしない恐ろしく静かな空間に、アーヴィンのくぐもった声だけがやけに大きく響いていた。
拷問、という言葉がアーヴィンの脳裏によぎる。
痛くはないし、命の危険もないし、そもそも話すことすら許されていない。これは口を割らせるための拷問ではなく、ただただ精神を痛めつけるためだけに行われる拷問の類である。いや、これは拷問ではないはずなのだが……アーヴィンは、魔人ですら精神が破壊されるようなことがあるのだと、思い知らされた。
精神的な苦痛によって、アーヴィンの時間の感覚は引き延ばされていた。ゴリゴリと精神がすり潰され意識が朦朧としていくのに、絶対に気絶することができない。させてもらえない。逃げることが、できない。
少女が背中で何かを動かすたびに体がかき回されているような感覚に陥り、悲鳴が漏れる。それはリネッタが満足するまで波のようにアーヴィンを襲い続けた。
※拷問ではありません




