炎の枷と
暗闇の中、遠くでゆらゆらと揺れるものがある。
あれは、炎だ。
体を焼き、心を焼き、命もろとも全てを黒く塗り潰し、崩していく、そういった類の炎。
忘れようと思えば忘れてしまえるのだろう。
全ては、成されたのだ。
しかし、その炎は戒めである。
喪ったものたち、炭化した記憶の依り代、それら全てを忘れてはならない。
確かに、それらは存在していた。
揺れていた炎が、這うように地を舐め広がる。
感じないはずのじりじりとした熱気が記憶の底から蘇り、心を炙る。
手から零れ落ちたいくつもの護りたかったものたち。
――すべてを燃やし尽くした炎を凌ぐほどの、怨嗟。
己の未熟さに対する、後悔。
――救われた生を賭けてでも復讐をするのだという、執念。
炎を、忘れてはならない。
たとえすべては成されたあとだとしても。
護れなかったものたちのために。
そして、復讐の犠牲になった全てのために。
この炎は戒めである。
この炎を忘れてはならない。
この炎は枷である。
この枷が外れたとき、この身体は本当に人ではなくなるのだ。
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「おじいちゃん、おじいちゃん、大丈夫?」
子ども特有の可愛らしい声が耳をくすぐり、その男は静かに目を覚ました。
まず視界に入ったのは、ここ1、2年ほどのうちにもう見慣れてしまった天井だ。“あの夢”を見たのだと、じんわりとなんともいえない虚しさがこみ上げるが、今はそんなことをしている場合ではない。
声のしたほうに視線を向けると、ふんわりとした栗色の髪をショートカットにしたボーイッシュな少女が心配そうに男を見ていた。
「ほっほっほ、大丈夫ですぞ。じいは健康だけが取り柄ですからな。」
よっこらしょおー、と、男――隠匿と呼ばれる魔人はベッドから起き上がると、人の良さそうな笑顔を少女たちに向けた。
彼の背はひょろりと高い。細身ではあるがしなりのある均整の取れた筋肉と長い手足に、ぴんと伸ばされた背筋、そして白髪の混じる長い黒髪を一つ結びで垂らしている目つきの鋭い老兵のようであるところの隠匿だが――相手が幼い女の子になると話は別である。
鋭い目つきはさらに細められ、なぜか目じりと口角の笑い皺が際立つようになり、俄かに好々爺の顔になるのだ。
「ははあ、申し訳ありません、寝坊してしまったようですな。どこかの紫のせいで運動不足ですから、体がなまっておるんですなあ。」
隠匿は、部屋の中にいる少女に順番に視線を向け、ニコニコと「すがすがしい朝ですな!」などと声をかけていく。ちなみにすでに太陽は高い位置にあり、食事が提供されるのならばブランチの時間帯である。
隠匿の部屋にいるのは、4人の少女たち。
栗色の髪をショートカットにした、やや日に焼けたボーイッシュな少女ダンデ、サラサラの薄桃色の髪をボブカットにした、気弱そうな少女リリー、少しふくよかな性徴を感じさせる体つきの、長い金髪をダウンツインテールにした少女ガーベラ、肌が濃い色をしているのに髪は透き通るような銀色の少女マリーだ。
少女たちは部屋の中で、本を読んだり談笑したりと思い思いのことをしている。
それを、ベッドの端に座った隠匿が満足そうに眺めている。
それだけを聞くと平和(?)そうに見えるこの光景だが、隠匿と少女たちの間には太く冷たい頑丈な金属の棒が格子状に組まれ、双方を隔てている。部屋から出ることのできる扉があるのは、少女たちのほうだけだ。
隠匿の部屋の天井には刻印封じのためだという魔法陣が淡い光を放っており、隠匿がこの部屋から逃げ出すことを阻んでいた。
――少女たちはみな、解体屋が用意した餌であった。
少女たちはこの目の前の爺が魔人だということを含め誰も真実を知らないのだろうが、髪色も肌色も違う彼女らは、隠匿の魔人としての枷のキーワードが少女であることしか知らない解体屋が用意した、さまざまなタイプの生餌である。少女たちはお互いのことも何も知らないようで、名前も偽名のようだった。
好々爺の様相を崩さないまま、隠匿は内心で解体屋の無知を嘲笑った。
未だ多くの魔人たちは枷に縛られていることにさえ気づかず、それがあたかも自らの生きがいかのように振る舞っている。それでは欲に忠実な魔獣とまったく変わらないというのに。
解体屋などはその典型的な例で、魔人化に失敗したときの魔獣化を醜いだのなんだのと罵っているが、己こそ枷に囚われ続けて魔獣と同じに成り果てていることに気づいてすらいない。
可愛らしい少女らを「眼福眼福。」と目を細めて眺めながら、隠匿は己の主を想った。
今は主従関係ではなく同位として接しろと言われているが、彼の中で主はいつまでも年下であるし、主人のままである。長年体と心に染みついたものは魔人になっても全く変わらず、変わろうとも思っていない。
しかし、ただの人だった以前とは違い、主とは通常の魔人の繋がりよりもはるかに強い絆で繋がっている。もう、主を見失うことはないのだ。
魔人の力を封じるという魔法陣の中にあっても細い繋がりの向こうに確かに主の存在を感じ、隠匿は今日も安堵した――はずだった。




