素晴らしい第二夫人
コツコツという控えめなノックの音に、私は絨毯の上に光で描いていた魔法陣やら古代語やらを消して顔を上げた。
私はカトリーヌの部屋で、絨毯の上に直接座って魔人の魔法陣の考察をしていた。
けだものである獣人を訪ねてくる侍女や従僕は当然のごとくいない。カトリーヌは今、庭でクロードを相手に実母を交えて淑女のための勉強をしている。それを侍女たちが知らないわけがないのだが……。
コツコツ。
……私は、この部屋の主はカトリーヌであって扉をノックされてもカトリーヌの代わりに返事をしてはならない、と、クロードとハールトンに何度も言い含められている。つまり私は特に反応はしなくていいということだ。
万が一にも光の文字を見られるわけにはいかないので消したが、返事がなければ他を探しに行くだろう。さっさと諦めていただきたい。
しかし。
コツコツ。
三度目のそのノックの音に続いたのは――
「リネッタ?……いるのでしょう?」
まさかの、私の名前だった。
「えと、……はい。」
とりあえず私に用事があるようなので返事をしてみる。
こういうパターンは予想していなかったので多少焦ったが、まあ、この屋敷にいる人たちは誰であろうが私より目上なのは確かなので、名前を呼ばれて無視するのはよろしくない……はずである。今はこの屋敷にはいないそうだが、上級貴族のお屋敷では下級貴族の令嬢が侍女的なことをしていたりすることもあるらしい。
ギィともいわずに、スムーズに扉は開かれた。
最初にしずしずと部屋に入ってきたのは、カトリーヌ付きではないがこのお屋敷で使われているお仕着せを着た、くせのありそうな濃い茶色の髪を首のやや下で結んでいる年配の女性。眉をひそめ、むすっとしてこちらをねめつけている。まあ、いつもの侍女たちから向けられる顔なので特に気にならない。
問題は、次だ。年配の侍女の後ろから進み出てきたのは、かなりグラマラスな女性だった。
――誰?
艶めく黒髪は緩く巻かれて編み込まれアップにされている。少々きつめの印象のある切れ長の瞳は優し気に細められていた。着ているのはクリームイエローのすらっとしたシンプルなドレスで、胸元からハイネックまでがレースになっていて上品さが漂っている。つまり、“すごく高貴そうな人”だ。
カトリーヌにもクロードにも似ていない。しかし、絶対に侍女ではない。
かすかに感じる魔素にシルビアが反応しているのがわかる。しかしそれよりもはるかに濃い違和感に、私は思わず首をかしげてしまった。
「あら、はじめまして、可愛いらしい獣人さん。私はアイダよ。」
にこりと人のよさそうな笑みを浮かべるアイダに、私はとりあえずその場で立ち上がり、「はじめまして、リネッタです。」と答えて深く頭を下げる。
「礼儀正しいのね。傭兵だと聞いていたからもう少しガサツで体格も大きい娘かと思っていたのだけど、こんなに可愛らしいだなんて。カトリーヌ様が気に入るはずだわ。」
どう答えればいいのかさっぱりわからないので、曖昧にもう一度頭を下げた。
「緊張しなくてもいいのよ。今日はちょっとだけお話がしたくって、こっそり来たの。カトリーヌ様に知られると、怒られてしまいそうでしょう? だからこのことは、誰にも内緒でお願いね?
カトリーヌ様が可愛らしい女の子を連れて帰って来たと聞いてから、会えるのを楽しみにしていたのよ。なかなか時間が取れなかったのだけれど……。」
アイダはややいたずらっ子のように目を細め、そっと右手を自らの頬にあてて上品に「ふふ。」と笑う。
「少し私とお話をしましょう?」
「……はい。」
たとえカトリーヌが雇い主だろうとも、それよりも偉いアイダが相手では、私に拒否権はない。
それにしても何を話しに来たのだろうか。アイダは笑顔を浮かべているが、後ろに控えている年配の侍女はずっとこちらを睨んでいるし、アイダが話していることも本心ではないだろう。
アイダから例の毒の気配があるが、それよりも濃い魔獣の気配が気になる。ここは話を合わせつつそれとなく探ってみたほうがいいかもしれない。
なとど思っていたのだが。
私は絨毯の上に横一列に並べられたそれらにくぎ付けになっていた。
目の前にアイダがいるとか、睨むを通り越して鬼の形相になっているアイダ付きの侍女がいるとかもうどうでも良くなっていた。
私の目の前に並べられているのは、お屋敷で使っているという魔道具のうちのいくつかだ。家令に内緒で持ってきてくれたらしい。
こぶし大の石のようなもの、丸い金属の板に刻まれたものなど形は様々だ。鞘に収まった短剣もあった。
「右から、煙が出る魔道具、音の鳴る魔道具、目くらましの魔道具、火を熾すときに使う魔道具……どれも実用的なものばかりだから、あまり新鮮味はないかもしれないわね。
……あとのひとつは、どういった魔道具なのかわからないの。ハールトンに聞いたのだけど、リネッタちゃんは魔法陣を研究しているのでしょう? 何の魔道具か分かれば教えてほしいのよ。」
「……。」
年配の侍女がこちらに批難めいた視線を向けていた。アイダはちらりと侍女のほうを見て目を細めて微笑む。
「大丈夫よ、この子は物を盗んだりするような娘ではないわ。それにそんなに高いものでもないでしょう。」
そんな声を聞き流しながら、私は魔法陣をしっかりと脳内に刻み込んでいく。
布に縫い付けられている煙が出る魔法陣は何回か使われたのか少し汚れている。こぶし大の石を平らに削って彫られている音の鳴る魔法陣は発動してから音が鳴るまで少し時間がかかりそうだが、何のために使うのだろうか?
目くらましの魔法は、強い光をさらに反射させるためにわざわざ金属の板に彫られているのだろうか?……火を熾す魔法陣は松明型ではなく大人のこぶしほどの大きさの平らな石で、火を継続させる効果もないので火打石のような感じで使うのかもしれない。少し煤がこびりついている。
そして。
その右側に置いてある、鞘に収まる短剣。
20センチ前後の鞘は実用品ではないのか儀式に使うような飾りがついていて、まるで模様のようにびっしりと魔法陣が彫ってある。
手に取ろうとして、ふと気が付いて私はアイダに視線を向けた。刃物だしさすがに許可が必要かと思ったのだ。
「触ってもよろしいでしょうか。」
「どうぞ。」
「――奥様!?」
アイダはさらりと許可したが、今度はさすがに侍女が慌てて声を上げた。まあ、気持ちは分からないでもない。しかし許可はもらえたので遠慮なく短剣を手に取った。
びくりと侍女が震えたのに対し、アイダは不動だった。
侍女がはっきりと何かを主張して喋っているような声が聞こえてくるが、それはまあアイダに任せればいいだろう。短剣の持ち主であり偉い人でもあるアイダが良いと言ったのだから、遠慮せずに鞘から短剣を引き抜く。
両刃のやや薄い刃で、やはり剣身にも魔法陣が彫ってある。
どちらの魔法陣にも彫られている太月は、“動”の太陽と対を成す“静”を司っている。そしてそれを補助するように描かれているのは、闇月。つまり停滞に偏った悪い効果を及ぼすものということだ。
鞘の魔法陣はたぶん睡眠の魔法陣。そして刀身は……麻痺の魔法陣、だろうか?
暗殺、誘拐など不穏な言葉が脳裏をよぎっていくが、それにしてはこの短剣は美しすぎた。持ち歩いていたら普通に目立つ。鞘に使っているものと同じ色の小ぶりな宝石が柄の握る部分にも嵌っているせいで、使いづらそうでもある。
もう少しシンプルな見た目ならば、女性が護身用に持っていそうな細身の短剣なのだが――と考え、そこでふとひらめいた。
「これは……」
顔を上げて、問う。
「アイダ様、これは、どなたのものでしょうか。」
「私がとある方に頂いたのだけれど……何かわかった?」
「これはたぶん、自決を助けるための魔道具ではないかと……。」
「なんてことをっ!!」
声を荒げたのは、さきほどまでアイダに宥められていた侍女であった。
「もう我慢ならないわ!いい加減なことを言うと承知しないよこの――」
「待ちなさい。」
ぴしりとアイダが侍女の言葉を遮った。
「私が、良いと言ったのよ。」
「も、申し訳ございません。」
「貴女は少し、外で待っていてちょうだい。」
「奥様それは……いえ、承知いたしました……。」
優しく諭すようなアイダに侍女はうなだれ、ぎろりと一瞬こちらに視線を向けたが特に口を開くこともなく静かに部屋から出ていった。
「ごめんなさいね。」
「慣れているので。」
「そう。……ところで、先ほどのお話だけれど、なぜそう思ったか聞いても?」
「はい。」
私は頷き、鞘と短剣を並べて見せる。
「実際に発動させていないので間違っているかもしれませんが、鞘には睡眠の魔法陣が、短剣のほうには麻痺の魔法陣が彫られていると思います。
それだけだと犯罪に使えそうに思いますが、暗器にしては鞘も柄も目立ちすぎますし魔法陣も隠されていないので……刀身に彫られている麻痺の魔法陣は刺した時の痛みを和らげるため、鞘の睡眠の魔法陣も長く苦しまないためのものだと推測しました。
見た目がとても女性らしい美しい意匠ですし、高貴な女性が自決するための短剣だと推測しました。」
アイダはそれをじっと聞いていた。それから目を閉じて、ゆっくりと瞼を上げる。つややかな唇が弧を描いた。
「すばらしいわ。これは私がこの伯爵家に嫁いだ時に私の父親からいただいた短剣なの。この国では、娘が嫁ぐときに父親からそういうための短剣を授かる風習があるのよ。私は魔術師ではないから魔道具としては使えないのだけど……そう、そういう効果があったのね。」
「大切なものを見せてくださって、ありがとうございます。」
私は短剣を鞘に戻し絨毯の上に置いて、私は深々と頭を下げた。
確かに毒の匂いもするし魔獣の気配も濃いが、魔法陣を見せてくれるのならば私にとってはいい人なのである。
「本当にわかってしまうなんて思わなかったわ。あなたは優秀なのね。」
「実際に発動させたわけではないので、間違っているかもしれませんが……」
「それでも、全くの見当違いというわけではないでしょう?」
「……たぶん。」
「ふふ、正直なのね。……ねえ、ずっと部屋に押し込められていて、退屈ではない?」
「えっ。」
私はぱっと顔を上げて、アイダを見た。
アイダは優し気な笑みでこちらを見下ろしている。
「起きていても寝ていてもずっとこの部屋の中にいるのは疲れてしまうのではない?
私から旦那様にもお話をしてあげるから、あなたからもカトリーヌ様にお願いしてみなさい。お屋敷やお庭は難しいけれど、町に出るくらいはお許しが出ると思うわ。
領都でお買い物とかはちょっと難しいかもしれないけれど、気晴らしにはなるでしょう。問題をおこしたりは、しないでしょう?」
魔道具も見せてくれた上に……外出も手伝ってくれる……!?
「それはとても……ありがたい、です、が……」
「もちろん、私から直接カトリーヌ様にお話しすることはないわ。もともと、ここに来たのも内緒だし、私はカトリーヌ様に嫌われてしまっているから……」
少し眉を下げ弱弱しい笑みを浮かべて哀愁を漂わせるアイダ。カトリーヌと仲良くしたいという思いがにじみ出てくるようなすごい……演技だった。
そう、演技である。どうみても本心のようだが、演技のはずだ。たぶん。きっと。毒の匂いもするし。
「ふふ、だからあなたも秘密にしてちょうだいね。」
「……わかりました。」
私はもう一度、感謝を込めて深々と頭を下げた。
諸事情で更新がとても不定期になります、すみません。




