それは誰に対しての暗雲なのか
いったい何が起ころうとしているのか。
自室に戻り腹心の侍女さえも部屋から遠ざけて、アイダは一人混乱の渦中にいた。
いつものようにカトリーヌがいない穏やかな夕食が終わり、食後のひととき。アイダの主である辺境伯フルグリットはそのリラックスタイムを基本的には自身の寝室で第一夫人のエレオノールと過ごしている。
しかし、何か重要な――例えばティリアトス家の家族間、なおかつ大人たちだけで共有すべき秘密などを話す際などは、その部屋にアイダも招かれることがあった。
そう、ついさきほどまでアイダはフルグリットの部屋に招かれていた。
そこで聞かされたのは、精霊様がこの領地を護ってくださっているかもしれない、という話であった。
カトリーヌが盗賊から生き延びて帰ってきたあと、カトリーヌが精霊様に愛されているかもしれないという話を“親バカが過ぎる”と鼻で笑いながら聞いていたアイダは、呆れを外に漏らさぬよう驚いた顔をしつつ、内心でため息を吐いた。
フルグリット曰く、カトリーヌはこの領地を護ってくださっているかもしれない精霊様の導きを受け取る者のひとりであり、そういった者たちがこの領地にほかにいるかもしれない、とのことだった。
もちろん、カトリーヌだけが精霊様に愛されているのかもしれないし、その場合はカトリーヌのことを王宮に連絡しなければならないだろう、とも言っていた。
「――ばかばかしいにもほどがあるわ。」
自室のアイダは毒づく。
この聖王国は、この世界のどこの土地よりも精霊様に愛されているのだ。しかしそれは汚らわしい獣人をできるだけ取り除いた土地、すなわち聖王都周辺だけ。よりにもよって獣人と共存しなければならないこの土地を精霊様が特別に愛されることは、天と地がひっくり返ってもあり得ない。
なにより、カトリーヌは獣人を屋敷にあげ、まるで友達か何かのように慕っている。しかも最近はクロードまでもがリネッタと親交をもち、視察にまでカトリーヌとリネッタを連れて行った。
……ここ数か月、カトリーヌが盗賊から逃げ延びて帰ってきたあたりから、アイダにとって悪い風向きになっているとは思っていた。
カトリーヌは生き残り、クロードは毒を与えているはずなのに体調が改善しはじめ、しかもクロードの部屋には防音の魔法陣がおかれているせいで情報がロクに入ってこない。
それを、辺境伯は(防音の魔法陣は別として)精霊様のお導きだと信じ込んでいるようだった。
しかしそんなことは繰り返すようだが……万が一にもあり得ないのだ。
アイダはこの土地を精霊様に愛していただくために、息子のアーロンを嫡子にしようとしているのだから。精霊様がアイダを邪魔するなど、獣人を容認どころか友達などと宣うカトリーヌを導くなど、あるはずがなかった。
つまり、精霊様ではないのだ。
この屋敷の誰かが、アイダの計画を邪魔しているのだ。
一番怪しいのが、部屋に防音の魔法陣を置いたクロード。そして、防音の魔法陣を用意したであろうハールトン。ついで、アイダを目の敵のようにしているカトリーヌ。最悪、3人が協力関係にある可能性も考えておかなければならない。
しかし、出入りの商人はすべて把握しているはずのアイダだが、クロードが新しい薬を手に入れたという話は聞いていなかった。近頃のクロードは部屋で一人で茶を飲んでいるものの、部屋のどこにも茶を捨てた形跡はない。もちろん窓から捨てているわけでもない。
何日かに一度の間隔で違う味に代えてみたりもしたが、そのつど侍女に味の感想を伝えていて飲み残しもなく、毒は全量飲んでいる様子であるとのことだった。
錬金術師は、特殊な毒で体に慣れることは絶対にないと言っていたが、さすがに十何年も飲ませていたから体が毒に慣れたという可能性が高い、と思った。錬金術師に手紙を書かなければならない。
「ふ、う……。」
うんざりとした思いでため息を吐き出す。
すべてはカトリーヌが帰ってきたあの日からだ。
カトリーヌが連れ帰ってきた獣人が、何か知っているかもしれない……。
そんなことを思いつき、アイダは無意識に嫌悪を滲ませた視線をさまよわせた。
まだ幼いので言いくるめれば何か口を滑らせるかもしれないし、何もなければ何もないで問題を起こすよう誘導して屋敷から追い出してもいい。
獣人はほぼ部屋から出していないようだが、それでも屋敷内が獣臭くなったようで、アイダはひどく不快な毎日を送っているのだ。それは娘のエイラも同じで、カトリーヌの部屋の前を通るだけで吐き気を催すのだとアイダの前ではうんざりした顔をしていた。
幸いカトリーヌは、たびたび獣人を部屋に置き去りにしている。クロードも、体力ができたからと言って屋敷を歩き回っているわけもないし、フルグリットとエレオノールは揃って外出することも少なくない。
その隙を見計らって侍女に人払いをさせて獣人と接触するなど、アイダには簡単すぎる仕事だった。




